宗教とは 何を教えるものか

「宗教とは 何を教えるものか 」

宗教とは何を教えるのかという問題に付きましてお話をしてみたいと思います。先づその前に、我々はどこから来てどこえ行くのか、又何の目的でこの世え出て来たのかと、いう事からお話を進めてみたいと思います。
ある時、一人の青年が走って来まして「もしもし私の行く所どこでしようか」と尋ねる人がある、「ええ、あんた行く所って、そんならあんたどこからおいでたんですか」と聞くと「いやわたしどこから来たのかそれもわかりません」「そんならあんた何をしに来なさったのですか」と尋ねると「いや私何をしに来たのやらその日的も任務も知りません」と答えた人がもしあるとするならば、人は何と言いましょうか。あの人は気違いじゃ、どこから来たのかも知らず、何の任務で来たのやら、又どこえ行くのかも知らん、あの人はお気の毒じゃが気違じやと言うてお笑いになるでしょう。しかし、このお話のような方が案外多いのではないでしょうか、宗教とか信仰とかをなして、おいでんお力にこの問題からお話を進めていく事にいたします。
この我々人間はどこから来たかというお話をするには、順序として我々のご先祖の事から申し上げてみます。 今からだんだんと何千代何万代ずーと昔に遡りますと、最早我々のこの二本の足で歩く姿とはたしかに変っとる事は事実なんです。これは今日の動物学が証明しとる訳です。恐らく手はこうして前に出しとるのではありません、必ず四つにはうてお尻に長い物が生えとるところの姿になっとる、即ち四つんばいの動物という事はまぬがれないのです。
その四つんばいの動物でも、又それにはお父さんお母さんがある訳です。そうしてかくの如く何十万年何億万年と昔に遡り話すと、次第と簡単な手足の動物になる、お終にはどうなるか、もう殆んど肉眼では見えない所の少さな動物になって失う訳です。いわゆる今日の動物学者のいう単細胞動物、顕微鏡で見なければならぬ、千倍に見て米粒位の生き物になる訳です。即ちこれが我々の大ご先祖という事になる。即ちそこから我々が出てきとるんだ。
もう一つそれを遡って、そんならその単細胞動物は、今日の学者がアミーバと言うておりますが、その大ご先祖はどこから来たのかくこういう事にせんさんを及ぼしますと、また問題が違うてきまして、この天体という大きなものはさておいて、この小さい地球の生れる所からお話しせんならんにことになってきます。
元火の玉であったという事は、これは行うべからざるーーなんでございますが、その大変高い温度の火の玉の中には最H我々がいう所の生物は住む事は出来ない。所が火の上でも表面がそろそろ冷えます。そうして、その上完生物がいそが出来る温度と水分とが表面に出来まれ。それ小地なんです。そこえぽっんと始めて出て来た人が、いわゆる単細胞動物です。言い替えれば火の玉が生物になったという訳です。
その人の長たるや、今日では岩となり、土となり、水となり植物となり、動物となり、色々なものに変化して、我々が今居る訳です。そうすると人間は生じたんでないという事になってくる。この広い所の宇市上一体の物が人間と
なって仮に人間と自分で思うとる事になる。
もう一つこれを方面を替えてお話し申しますと、こういう事になる。その生物の心というものは砂つぶのにとるのであるから、その砂っぶいわゆる無機物の中に眠っとるのである。植物の上、即ち「木です。のちいかみえるんだ、動物になって初めて目覚めたんだ。こういう事が善い替えられるのです。
そうすると、世の中には座切れ一本も死んだものはないという事になる。総てにがあるのである
その霊は、宇川の霊がこもっとるのである。みんなが生物だ、こういう事になる訳です。そうすれば、生も馬も皆ご先祖が一所なんである。植物も、岩もご先祖が一所こういう事になる訳でございます。これが即ち我々の出!なんです。その出口で出れたんでないのであるから、滅びないというのは、わかるでしょう。不生のものには滅はない訳です。不滅のものなんです。いわゆる霊魂不滅というのは、ここから出来とる訳なんです。中田と行く先とがわかった訳です。
大体ではあるけれ共わかった。しからば何をこの世でするという事が忙務か、即ち任務のお話しになってきますが或る人」く、私はどうもそんな任務やかいはわかりません。生んでくれやいうてたのんでないのにお父さんお母さんがこしらえてくれたんだから任務やかいあっておりません。知りませんこういう答をする方があるかも知りませんが知らんという事と無いという事とは別物なんです。
例えてみますと、ここに一輪の花が咲いております。この花に、お前さん何しに咲いとるのならとこう言えばく、私知りませんと言うでしょう。併しそれ以上の我々の日から見ればその花は赤いのがあり、白いのがあり、黄色いのがありますけれ共、これは色々な混虫を呼び集めて自分の繁植をするお世話をしてもらう為に、はでな色をっけて咲いとる。そうして、風や色々な混虫にお世話になって子孫を結ぶ、即ち実を結ぶ。そうして自分の種族をずーと広げようとする任務をもって治るのが花であります。
かくの如く知らんという事とないという事とは別ものであって、人間には任務が一段と高い所から見るなればある訳です。そんなら、どんな任務があるのか、こういう事になりますが、ここで話を一寸変えましてお話申し上げます
が、人間というものは、どうも神様、仏様の如く、全智全能の働きが無いように見えておる。所が保い所の聖者と我我が違う所はどこにあるのなら、こういう事を考えてみますと、人間は自分という所の考が非常に強いのです自分と人、或は外の岩、彼我の区別が非常に強いのです。
例完てみますと、先づこの大平洋の水の中えです。一つの焼物の電を浮かします。そうしてその中え、砂糖水を入れと,と仮定します。そして蓋をして、外から水が入らないようにする。そうして大平洋の真中えそれを浮かしたならば何年たっても何百年たっても砂糖水は砂糖水、大平洋の塩水は塩水として何時迄もその区別はある訳ですが、こ
のの尻に一寸穴あけるのです。そうしますと何時のまにやら砂糖水が城の中え入る。塩が砂糖水の中え入る、交通しまして永くいきよる間には大平洋の水も、中の砂釉水も共に同じものになって失うという事は、あんた方お考えになったらわかるだろうと思います。大平洋の水お電の中の砂糖水も、るう区別がつかないようになってきます。
ところがもう一ツここにこういう事を考えてみましよう。所がその大平洋の広いところのものから比べると、っぽの中の水はわづかな少さいようなものでどざいますが、かりにその車の中えしゃくを突き込みます。そうして、その水を汲み出して投って失う。そうして大平洋の元え戻らないように出来たと仮定致しましたならば汲めども汲めども
大平洋の水のあらんかぎりこの館の中へ人って来る訳です。大平洋の水が無くなる迄入ってくる訳です。大平洋の水が一すいもなくなる迄かえる事が出来る訳です。この少さなっぽの中へ入ってきます。そうすると帯の大きさは即ち大平洋大のものである。こういう事が言える訳です。そこで俺の中のわづかな量のものと、大平洋という大きさのも
のがほとんど同じという事になってくる。言い替えれば、つぼの中え入っているものは大平洋大の力がある。こういう事が言える訳です。
そこでこの電というものを人間の私、我、僕、いわゆる我です。我というものだと考てみてごらんなさい。その我というものが厚ければ厚い丈、強ければ強い程外からの交通はありません。何時迄も、つぼの中のものは、館の中のの変化がありません。けれ共ここに人間のえらいお方になりますと、丁度その霊に穴があいとるのと一所で、外と
の交通が出来る。我というのが強くないのです。そこで聖人の口く自分というこの自分の心が清浄になるなれば、宇 出にみちみちておるのである。どこ迄でもとどくのである。こういう事がお経文の中にありますが、この宇宙にへんまんするという事は、とっぷの中え入れた水が、とっぶの中で一ぱいになったというような意味のへんまんとは違います。心のとどく所えどとえでも、そこが自分のものと同じものだというようなあり方のへんまんするという事にな る。それで偉い方が座して千里を知る。座っておって遠方の事でもおわかりになるという事は、ここから出来るので す。いわゆる千里眼、そういう方の心、我というものはすでにには沢山な穴があいとるのと同じ事なんです。いわ ゆる我がないのです。人と我との隔てがないのです。
人の事思う事我が身の如く思う。つまり慈悲にみちみちて居る。我を愛する如く人を愛する。つまり慈悲というの は非常に広大無偏であって、何如なるものにでも慈悲が行きゆいておる、こういう事と同じ事。先刻印した大平洋の 巾の少さな壺は即ち穴があいておりさえするならば、との徳利と地球の上におる所の人間のこの五尺の体というものと、この世界というものと同じものという事になる訳です。
もしこういう聖者ばっかりがこの土地の上に居るならば、今日の世界の人口は約二十億でどざいますが、その二十 億の一人一人がかくの如く、人を思う事、自分の如く思う、自分を愛するのと人を愛するのと同じだ、人と我との区 別がない、というような人ばかりであるならば今日の原子爆弾、水素爆弾恐るに足らず、あという殺罰の道具といえ共そういう方えは使わない。慈悲の方え使います。これをどうぞして、熱源に使う、或は動力の元に使う。こういうようになりますと、人間の幸福を益すという事になるのでございまして、この土地の上にある総ての何如なる今日迄こら危い、これは悪いという事でもすべてが人間の喜びに転化する事が出来る訳です。そういう世界が即ち極楽世界と言うて然るべきだと思います。もうそんな世界には議論もありません。損得もありません。無論鉄砲や刀は用事がありません。ですからみ仏の寄り合い世界と同じ事になる。これが即ち極楽世界。
それで我々はこの世に生れて来た所の任務は何かと申しますと、総てがこのえらい人のみ教に従うて行をして、すべてが仏になっていくなれば、この世界をして、西方みだ迄行かなく共、みだの浄土と行かなく共この世を即ち極楽世界に出来る。ですからこの世界を現実の極楽世界にするという為にここえ出てきとる任務があると言える訳です。
そこで三上会の宣誓文の中にも言うて居ります通りに、我々は極楽浄土建設の任務を持ってここへ生れてきた。こういう事になる訳です。-
以上申しましたような合に、出里も行先もわかった。いわゆる不生不滅だ任務は何だとのきたない所の土地、きたない所の空気それをしてそのま光明ある極楽世界にするという所の任務を持って生れとるんだと。こういう説明は宗教の方でなければ説明できないのです。宗教の何を教えるかという意味はここにある訳です。
そうなりますと、最早裁判所の用も無くなってくる。警察のお方もご苦労がなくなってくる。刑務所もいらない。
いたる所何一物として人が喜ばんものが無い事になります。極楽の絵を見ますと、立派な花が咲いて、きれいな実がみのって何如にも春らんまんの花の下で遊んでおるような気持のような絵巻を書いてありますが、実にそういうような事になろうかと私は思います。
扱、これで出里もあらかじめわかった。行く先もわかった。任務もわかった。そうなると最気違いでなし、先刻お話した所の青年とは違った所の気違いでない事がわかった。ところがこの二つはわかりましたが、そんならその仏になるところの方法どうすればええのか。その方法を書いたものが仏典であります。仏教の教であります。 それでこんどは仏になる方法論ということになってくる。どうすれば仏になれるか。仏になりますのには、あんた方が常にお称になっておるあの心経です。仏説般若波羅密多心経、あれは簡単に書いてありますが、仲にはどっかしい経文もあります。最も簡単に出来ておる経文はあれでございますが、その方法としては、どうしたらええかという事を書いてある。「く深般若波羅密多を行すればと書いてある。深いという字を上に響いてありますが、深いという子を除けといて、般若波羅密多と言うてもよろしい。般若波羅密多行をすれば仏になれるんだ。こういうのです。
しからば般若波羅密多」はどんな暴書いてあるのか。ところが般若波羅密多を述べますと、般若心経六巻の内にくわしく書いてありますが、これを大別しまして、お話申し上るとハッの方法だという事になってくる。
その方法を順に申しますと、第一番に六波羅密行、一番最初に布施行簡単に加して施行、施すという意味。施すと言いましても色々な種類がありまして、物を人に差上げるのも施しであります。口分の考えた事、向うさんが幸福になる事、こういう事を教えてあげる事も、これは目に見えませんけれ共これも施行であります。この二ツを比べたら
どちらが大きいのかという事をお経文の中にも書いてありますが、物をあげるところの物施というのは少さいのだ。
親切な心を、人にあげる事を法施と申しまして、これは大きな功徳になるんだと、こういうような事を書いてありますが、この施行というのは、一口で施行でありますが、仲々むづかしい行なんでございまして、お経文の中に誓を引きまして、こういう事を書いてあります。
お釈迦様がまだ王城にお生れにならん先です。前生のお話に出ておりますが、東方はるかに妙法蓮華経を構識しておる仏様がある。この経文を頂けば立派に成仏ができるそれが聞きたいものである。こう思うて釈尊が(釈尊の前生です)これを聞きとっておこしになりよった。ところが道で大きな角の生えた鬼が出て来た。「お前さんどこえ行きよる」「いや私はこの東方に妙法蓮華経をお説きになっているみ仏があるという事を聞いて、そのお教文を聞かして頂きたいと思うて参りよる」、「うんそれは仲々悲想な考へであるけれ共、それは行く道で色々な試験に合うんだからいけない」、「どういう試験がありますか」「それはこうなんじゃ、今わしはその使として、っかわされとるんじやが、ここにわしが持っとる三ツの密がある。この一ツの壺にはあなたの体の血を絞って皆入れる、中の壺には肉を人れる、終の壺には骨を入れる、そうして、それをみ仏に献上する。そしたらその施行のみ徳によって妙法蓮華経を援かる事が出来る」「そうでございますか、そうすると血も肉も骨も差上げる。そうすると今生で私は成仏出来ない事になる。生れ替らないかん。併し幾度生れ替ってもよろしい。この妙法蓮華経を頂いて世の中の人に喜んでもらおうという所の仕事をするという以上は覚悟いたします。どうぞご自由にして下さい」
そうしたら鬼は、そろそろ腰に持っていた砲丁を取り出して、しからば血を取ります。血の管をすっと切りさいてそしてにうつし込む。肉をそろそろ切りだした。いよいよ肉迄取って失うたら骨ばっかりになる。けれ共、いったん決心して自分という事を思うような事では、人を済度する事は出来ない。「どうぞ遠慮なく肉も取って下さい。 チッの壷に納めて立派にみ仏に献上いたします。」決心した時に今迄鬼と見ておったところのその姿は、見る見る首にようらくをかけた立派なみ仏になった。「出来ました、あんたはそれで妙法蓮華経を体得する事が中来るんだ。自分が鬼の姿をして、あなたを試してみたんだ。こんどはあなたは娑婆の世界え出て釈迦牟と号して大ぜいの者にしたわれて、人間の父としてあおがれる事になりますぞ。」こういう実績があるのです。
ですから一口に施行と申しましても、この位の大きな善を引いた施行もあるのでございますから、施行も少さな施行からこういう絶大なるこれ以上の大きな施行はないという位な施行をなさった人が、即ち釈迦牟仏という事になっておりますが、仲々我々の施行という事についても余程大きなものに比べると我々の施行は少さいものだという事に なる。まあこれが六波羅密行の一ツの施行。
それから忍行というのがあります。これは、こらえる、辛抱する、この行が六波羅密行の一つ。所が、わしはもう今迄に辛抱しよるんじゃが、堪忍袋の尾が切れた。ええいくそ、ええいくそと言いだしてくる。まだそして達者に生きて居る。生きてこの世で続く限りは辛抱せなならんのでございます。堪忍袋の尾細かったら切れます。そういう恐行では、忍行の内にならないのです。堪忍袋の尾やかい飛ばして失うて、そうして糸が続くかぎり辛抱する。辛抱や言う内は、辛抱でないのであって、何如なる苦難があろうともこれをつづける決心した以上どこ近でも辛抱するというのがこれがほんとうの忍行なんです。
あなた力が芝居でよくごらんになるでしょう、あの大石蔵之助という人が、主君のご恩に報いる為に、実にばりぞうごんせられた場面の芝居を見ても、ほんとうにお気の毒という所作があるでしょう。これが忍行の一つであって、或る武士に料理屋で、大石公が一所になって何か召し上っておった時分に、お隣の部屋に一人の青年の武士がいて、ぱっとふすまを、あけるなり入って来て、犬ざむらい、主人はうらみを呑んで、あれ程の最后をとげとるのに、その遊びようはなんだ。武上にあるまじき行為である。汝等如きは、これを食えというて、足の親指で、おさしみ皿の、さしみを、はさんで大石公の前え突き出した。大石公はにっこり笑うて、そのさしみをぺろりと、おいしげに食べて、親指に付いとる。そのさしみ醤油をなめた。その武士は怒ったま 、あんまり向うさんが、あわてないんじゃから、あほらしいて、あとが怒れないで席を立って、そこを退いたんですが、その後にあの十二月十四日の実に、忠勇義烈の働きをなさったという事を聞いて、その申訳に、墓前へ出て腹を切ったという烈士宮剣のお話しを、あんた方お聞きになった事あるでしょう。この忍行という事は讐えて話しますと、実に今必には何とも言えん所の忍行なさった方が沢山ありますが、こういう事が即ち六波羅密行の第二番目の忍行という事なんでございます。
その次成行というのがあります。これは、おきてを守るという事なんでございますが、約束した事を守る事も成行でどざいましょう、父行の上に五戒とか、八戒とか、或は二百五十城とか、こういう事をお守りになるのも成行でしよう。一国の法律を順法する事も戒行でしょう。皆が定めてあるところの一つのきめ事にとこ迄もそれに服従していく
こういうのが成行なんでございますが、この成行仕易いようで仲々しぬくいもので、これもつい堪忍袋の尾が切れ易いものでございます。余り窮屈な規律になりますと、もう辛抱できんというので戒法を破るという事も、ままの中にはありますが、この戒行が届きますと、又六波羅密行の一つが仕上るという事になる。
その次に精進行というのがありますが、今日精進精進と皆よく言いますが、お魚を食べん、肉類を食べん事を精進そういう事になっております。けれ共ほんとうの精進というのは、自分が精を出す、人の為、世の中の為に精を出すという事が、ほんとうの精進の意味でございます。お魚食べんのも精進の内でどざいますけれ共、そういう小さな事でなくして、ほんとうに世の中の為、この我々生物の為には無論の事、総ての点に精を出すという事がはんとうの精進の意味なんです。 これについて一寸面白い話がありますが、これは大乗仏教と申しまして、紙一重で落第しそうな問越でございます
が、讃岐の国でケーラ上人という、えらいぼうさんが支那からこられとった。このお方が精進を間違えとる行者を戒める為にその行者何時も前を通りますので、その時分にはどうもケーラ上人さんの回通るというと魚をあぶっとる也がする。ケーラ上人さん真にえらいと言うが、精進せんならん身分であるのに、時々門口にお魚をあぶっとる匂がする。一つあの「いがしとる時に、ぱっと飛込んでやろうと思うて考えとった。又ケーラ上人さんもその行者を教育する為に、わざわざはしくもない魚をあぶっておいでた。
ところが或る日、行者はんが、はあっと玄関開けて入って来た。ケーラ上人さん、脚を二匹網の上にのせて焼いとる。いきなり行著はんいく「ケーラさん、あんたはぼうさんの身分で物をあぶって、あんたそれ、どなになはるんで。」「いやこれは食べますんじゃ」「誰がな」「いや私が」「そら成法に触れませんのか」「あんまり触れんように思うておりますんじゃが、あんたであったらいきませんのか」「いきません。どうせそのあぶったものを生かす力があるのならそら余り罰にはなりませんと思いますが、あんたそれ生かせますか。わたし元の剛によう生しません」
それではいかん」「そんなら行者はんあんたは、とのあぶったさを生かせるんで」「ええ中米ますけれ共、私は剛食べません」「それ一つ見せて頂けませんか」「そらしよい事です」そうして何か口の中でぶつぶつ言うて印を結んで、あぶった飾を手洗に水を汲んできてもろうてイって善うたらその無が泳ぎだした。
ケーラ上人、それをじっとごらんになりよって、「あ~泳ぎだしました。 これはどうも、あんたのおで前には敬服しました。所が剛が言いますで、わしっかまえられて、水がほしいのに水をきられて火の上であぶられ(そして)元の鮒とはやっぱり痛い人損であった」「そら損でしょうけども、元の州になったら結構でしょう」「その位の事ならわたしもしかねないのでございますが、わたしはこの納を 出世さそうと思うとる」「生返るよりもっと出世ですか」「ええ私はこの節を出世さすが為に、今飾をあぶっとる所なんです。あなたの精進というのは、その細を食わない、肉を食わないというだけが精進のように思うておいでる。わたしは頂くけれ共、わたしがほしいて食べるんでないのであって、わたしが体をこしらえ、そうしてこの餌を立派に出世してもらおおと思うので、いたわっておるのでございます。そしたら鮒が身上りするのですから喜ぶのでございますが、あなたのはあぶられて損という事になりま す」「上人さん、あんたそんな事言うがそれ出来ますか」「そらまあごらん下さい。今からそろそろやります そう言うて、あぶった鰤をお皿え入れてお醤油かけて、そうしてご飯を入れて、お茶を掛けて、さばさばと食べて、さもおいしそうにあがってしもうた。三匹共ぺろりとあがってしもうて、「あくご馳走さま」「一人さんあんた、あがったのはよいけれ共、鮒はあんたのお腹の中え入った。それどうして出世ですか」「いや、そら今お見せします。ごらん下さいませ」そうして念ずると、金仏さんがすうーと口から出て来た。「まだあともう一人出ますぞ、又もう一人」行者はんびっくりしてしもうた。「あ~もったいないものでございますなあ」「ええそうなんです。あの軸が金仏になって空を飛びだした。これはみ仏がそう見せたんだが、私がこの肉をこしらえて、この体を乗わねば世の中には何にも人の喜ぶ事は出来ない。肉を作って世の中の人を喜ばせる。 この世の中を目覚める所の世界にする。その働きは、この私の体の力です。そうすれば先刻頂いたところの納は金仏となってご出世なしたでありませんか。これがほんとの精進でございまするぞ」なる福困って失うた。「私は今迄精進をあやまっておりました。無食わんと言うて喧嘩したり、理屈言うたりして、だましてお金取ったり、いや良くわかりましたというのでケーラ上人の前で行者さんが恐れ入ったという逸話があるのでごさいます。
それでこの精進という事は、お魚を食べんという事のみが精進になるのでないのです。しからば、お魚あがりよる 人は皆仏さんになれる訳ですね。そういう事はお案じにならんように、無益の殺生しない、そうしてお魚を頂くならば、そのこしらえた肉をして、人を喜ばし、世の中を幸福に導くという事ならば、即ちケ!ラ上人の言われた如く、その頂いた魚が、金仏となって空に飛び立ったのと同じ事になる訳でございます。こういう風に精進という事は、意味が間違い易いのでございますが、そういう風にご解釈を願いたい。
次に神行でございますが、細という事は一心行とも言います。一心に神様にお仕えする、神様のみ教仏のみ教に従うて、そうして自分の心が色々に飛んでいく事を、一心に集めると言いますか、一心行、色々な心が飛びまわりよるのを一所定留めると言いますか、こういう行を伸行というんです。ですから、禅行にはお参りも神行でございましよう。あなた方が、帰命天等は大月天というあのお称も禅行の一つ、又このみ仏の説かれたお経文を実に有難い事をお説き下さったものだと、自分の一生にあてはめて静かに考えにこり入る、こういう事西神行なんです。
奇妙に私もその一人ですが、帰命天等、或はご真言くりつつも永くしておると、その間に色々なものがでてくるのです。今日は天気がええので一つ魚つりに行こうか。一つ塔を打とうか。そんな色々な事が念じとる間に出てきやすいのです。そういうころころと、ころげる心を有難いみ仏の教に一すじに思い込む、とれも輝行。 人間の心というのは、今は心と言いますが、昔はころころと言いよったそうです。ころころやうたら一寸いぬ
くうて、あんたのころころと、わたしのころころとよう合いますねやったら、ころころばっかりになって話がしにくい。それはとろげ易い、昔はころころと言いよったそうです。まあころころとよう転げます心を、それを一すじに転げないように有難いところの、み仏に一心にそれを念じる、それが御行なんです。
そうしますと、ここに一番お終いに智恵、智行と言いますが、これは人間の学問の智恵、理屈の智恵というものと違いまして、仏の教の智忠なんです。神行に深く入れば、自然と心の内に湧き出てくる有難い所の智恵なんですどうすればこの人を助ける事が出来ようか。考えた時分に、人間の智恵ではとうてい助ける事がむっかしい事でも楽々と助ける所の智恵が自然と体の中え浮かんでくる。そういう、いわゆる仏智仏様の智恵、これが六波羅密行の一番おしまいの智恵で、くりかえして申しますと、先づ施行、その次が忍行、成行、精進行、禅行、智行、この六つを合せまして六波羅密行こうなるんです。
波羅密といいますのは、一所から一所え運ぶ、波羅密は運ぶという意味があるのでございまして、迷いの苦労の世界から、楽な真に喜ばしい世界え運ぶ、その運ぶところの六つのはしごと見てよろしい。
六波羅密行という事は、苦労の世界から楽な世界に運んでいくところの一つの道具、それが六波羅密行なんです。
この六波羅密行が出来ましたならば、即ち人間が仏になれるんです。先刻お話中しました、その話の焼物の壺に穴のあいこらんのを六波羅密行によって、穴があいてくる。ぐるりがチの巣のように穴があいてくる。そうしますと大平洋の真中え入れましたならば、そのは大平洋大の容積のあると語うて差支えない事になる。これを言い替えましたなれば五尺の体であるけれ共、この五尺の体は小天地である。天地に通うとるのである。こういう事が言える事になります。お前ほんな大きな事言うが、この五尺の体が大地と同じ大きさだ そらおかしいじゃないか、こうなりますと最人間の言葉ではお答がしにくい。そこに密教の煌々たる光があるのであります。
それはあなた方は既にご経験済と思いますが、重ねて申しますと私の師匠、そのお方の事はあなた方あど水知でどざいましょうが、今生きてござる所のその師庁のお弟子ち段々あります。この人はどういう事しよるか、これで今のお話申し上げますが、所だけ出し上げますが、川内の人です。その人のお名前火は遠慮さして頂きます。
或るお年寄りの方がお隣の人に、「おばさん、これ内のおぢいさん寝てから瓜とかしたようになって起きんのじゃが、沿医者はんはどなにしても直りにくい、一ぺんよう知っとる人があるというけん、いてみるでかい」「さあ内の子供も目くさになって、どなにしても直らんのでお医者はんが言うには、この日は内からきとるけん、仲々むっかし いって、ずい分お医者さんに通うたんじゃが、どう直らん!「ほな、いてみるでかい。 よう知っとるってな」「ええよう知っとる。あれ狐の骨か郷の骨か持っとるんじゃって言うでよ、ふところえ人れとったら少さい声で教えるんじゃってな一「何でもかまわん、直ったらええで、いかんかい」その二人が、ある日相談し合うて、私の師用の所へ行ったのです。
その師には、そのおばあさんの順番が来たので、「あおばあさん、あんたのまわりでよ」「ヘイヘイお願いしま ?」おばあさん二人一所にここい座りなさい。 治ばあさん上の羽織取るぜ」おばあさんけげんな激しとる。
「羽織取るぜ」と言うて羽織脱いでしもうた「おばさん帯解くぜ、着物脱ぐぜ、今度はじめばん脱ぐぜ、こんどばっち取るぜ」そう言うて裸になってしもうた。「おばあさん、これで収らんけどなあ、これで座るぞ。むはんこに 瓜こかしたようなおじいさんが居る。瓜ばっかりでない片方の足が痛いな、左の足が」「へえ片方の足が痛いんです 背薬張ったりしよるんです!「今ひざ棒と、太めると、ひざ膝の裏手と三ツ張っとる」「へえ、あれ今朝張って来ましたんです」(ようわかるんじゃなあって、お婆さんびっくりしとる)「さあこっちのお婆さん、お前さんは子供が 目が悪うてお医者に見てあろうたら、内からきとる、脳からきとるので仲々直りにくい、困っとるでないか。はねたぼに、ほくろがある子じゃ、下の歯が一本ねじれとる」これはその通り、ようわかるんじゃと思って二人が感心しとる。「おばあさん、あうあとは神様が日曜日、日曜日、もう見んぞ! 「先生、そのあとを直して頂く事を」「いや、 それはいかんのじゃ、神さんが日曜日外の人おがんでる、おまはんはおがまんのじゃ」「先生どうぞ」「いや、どうぞ言うてもいかん、おまはんは来る時にどじゃくわしの事言うた。だからわし裸になって見せてある。何も持っとれへんだろうが」「ええ先生、何も持っとれしまへん」「おまはん、何やら持っとると言ったでないかい。だから、わしはこの通りになって、裸でもわかるぞという事を示してある。 おまはんは家から道が一寸十里からある。わしの耳は兎の耳よりよう聞える。ちゃんと聞えとる」「いや、あんたの悪口何じゃ」「何じや悪口言えへんって、そんなら狐の骨、頸の骨って唯が言うたんなら」(ようわかるなおそろしいな)「二人うただろうが、先生に少さな声で教えるんじゃとなあ、だから神さん今日、日曜口しとるんじゃ、おまはん等だけ」恐れ入ったあげく「あ!はんに真に神様というのは有難いものじゃなあ、先生真に恐れ入ります」「あ~もう神様の怒り済んだ。これから話をする」そうして二人を助けたという実例をわたし月の前で見とるのです。
これでどうですか、六波羅密行が立派に出来た私の師匠。千里を知らす為にというのはこの事なんです。速い事も今も無いんです。時間空間の妨げがないんです。それを宗教の方では、そういうお心の働きのある人を大円鏡智の行が出来た人とこう言うんです。これで私が中しますところの、小さな苗を大平洋え入れても、その大平洋の大きさと
穴があいておったら壺の中と同じ大きさだという、これで論証が出来る訳です。少さなっぽでも、大平洋に偏満しとる。私の師院はわづかに丘八の体であるけれ共、この土地の上えずーと広がって失うとる。広がって失うとるったって一ぱいに広がっとるという訳ではないのであって、先生のお思いになる所え、そこは自分の感道なしにわかるという事なんです。それで、六波羅密行の仕行が出来ましたならば仏になれる。助けようと思うたならば、その助けるところの智恵はいくらでも出てくる。助けてあげょうと思うても、その智恵はますまい。どうすれば助かるかって、その智恵出ません。何如にも恐れ入った。こうする時にその二人の、いわゆる発菩提心真に、神様は尊いものであるなあという菩提心がそこで耳をふくのです。芽をふきますと、仕行が出来とらいでも発菩提心のお陰によりまして、加悩発菩提それから提の道に入りまして、そろそろと仕行しますと、その人も仏になれる。
かくの如くして神様、仏様は、その世界中の人を皆自分と同じように皆仏になってもらいたい。日本ばかりではない、外国も国境はない。この地球の上の二十億が若しお仏ばかりになるならば、いはゆる地球は仏様の世界、極楽の世界。そういう事になる訳で、そういう学文をする事が宗教であります。
宗教は何を教えるものかというお話はこれで置きます。
(昭和二十九年十月三十一日講話)