泉庄太郎先生と村木幸次郎先生との関係
一、 泉先生との初対面
村木幸次郎先生は、鳴門市大津町段関にお生れになり、幼年時代より常に経文をふところにされ、先人、偉人の 教えを学ばれ、長ずるに及んで、泉先生と仏縁での親子の縁が結ばれ、四年間教をうけられましたが、先生のご遺言に「村木さんよ、わしが教えることはもうすんだ、これからは、おまはんは大師 (弘法)が育てるぞ」といっているぜ、とのありがたいおことばがありました。 村木先生はそれ以後一切経を初めとしすべての経文を学ばれ、そして泉先生の、ご一生を経文にあてはめられ、六百か条のいきた経文を作られたのです。
今より生存中の関係を簡単に述べることにいたします。
初対面をしたのは大正三年六月、泉先生が五十三才、村木先生が二十七才でありました。その頃、村木先生は、左足の膝をいためて、歩行が困難でありました。それを友人が見て、「津田のえらい先生にみてもらえ。」とたって勧めたのです。 その友の熱心な勧めに、つい引かれて、生れて初めて、津田の泉先生のお宅へまいりました。
泉先生のお座敷には、沢山の人がまいっていました。 村木先生は、泉先生の右側に坐を占めていました時、よどみなくすらすらとおがみつづける先生のお口から、歌うような調子で先づ 「来たか、待ったぞ、三年ごしに」と出た。わかるか、わかったか、合点がいたかと、念を押された。 村木先生は、はじめはひやかし半分で坐っていましたが、その先生のことばに、全く心をうたれて、次第にうつむきいってしまった。
泉先生は、村木先生の過去のこと一切、先祖のこと、それから今思っていることなどを、そのまますっかり見透していることに全くおどろき、すばらしい人だ、不思議な人だ、これが世にいう生きた神様かな!と思いました。
その中「息子」よという親しさのこもる呼びかけに、心のへだたりは、さらりと取り去られて、唯「ハイハイ」 とうなづいていた。
二、 息子よ息子よとて、神に召された村木先生
泉先生からの息子よ、息子よの呼びかけは、先生のお口を通じて、大慈悲の大親である神仏からの呼びかけである。泉先生と村木先生とを、この初対面で、親子の縁に結んだのである。これは全く、神縁と申するので、つまり、神につながる神族、血のつながりの親族とは全く違ったものである。ただ一度あったきりで、世にも得がたく、有難き縁結びとなったのである。この瞬間から、村木先生は、神に召されて、「泉親様をつかって、世に現はされた 神仏のすばらしく、ありがたいお働きを、ありのまゝ、即ち見たまゝ、聞いたまゝ世に伝える息子にふさわしくなるように、育てられることとなったのである。
三、 来たかまったぞ三年ごしに
初対面の日、泉先生は、朝からつめかけている参詣の一同へ「サァけさいうておいた通り、阿波から息子が来た、 三年この方待っとったんじゃ、息子が来たら、みなさんに、すまんが帰ってもらう約束をしておいた、そこにいる、それが息子じゃ、どうぞみなさんひきとって下さい」といわれた。間もなく、拝みの座からおりられた先生は、四方山話に興ぜられ、村木先生も釣り込まれてすっかり時がたつのも忘れられた。
村木先生は「無上甚深微妙の法は百千万劫にも逢うこと難し、 我今見聞して受持することを得たり、願くば如来 の真実義を解したてまつらん」のお経のとおり、容易に逢うことができぬ世にもありがたいご縁につながれて、無上の感激にうたれ、このご縁にすがって、悟の道を授かり、縁によって人々へ、このありがたい道を伝えようとかたく我が心にいいきかせたのでした。
四、初対面で全く生れかわった村木先生
初対面で、先生は、生れかわったように神仏を敬い、祖先を重んじ、 泉先生のお心が、すらすらと心に通じて、いはず語らずの中にでも互によく通じあえるようになった。
五、世に二つとない曽祖母建立の光明真言一億万遍供養塔
「息子よ、お前の家に、世に二つとない宝があるのう。」それは、先祖代々の墓所で、蓮華座に乗ってござる、 お前のひいばばは、大した功徳を積んだ、私がお前を息子とよぶようになったのも、このひいばばのおかげじゃ」 泉先生は神縁による親子の由来を話されたのである。
以上泉先生と村木先生との関係の一端を述べたのであるが、その後泉先生とのご交際、ご教示を仰ぐこと四年に 及んだのである。その間の泉先生の神そのままの実生活の総てがかれたのがこの六百ヶ条である。