講話音声再生(596~600)
第五九六条 「慈悲は光明である。慈悲心のもえたった所には闇は消えてあかるくなる。慈悲が消えたなら、真に今までの光明世界も、くらやみとなり、魔の世界と一変し智恵も精進もたちまちにして、魔の道具と早がわりするものである。大切なのは慈悲の力である。 慈悲には我をふくんでは慈悲でない。我が含まれたらすぐに魔が働く。この我を含んで居らぬ慈悲を大慈悲という。」
第五九七条 「人に敬愛せられ楽々と世を渡る人と、またその反対に、いう事なす事ことごとく人の反対を受けて、面白くなしに世を渡る人とある。たとえ、反対せられた時にでも、我を正しいとして、人を悪くいう様では、いつまでたっても喜べる時は神が与へて呉れぬ。このような時には、わが身のこの世だけではわからぬ。 前の世から罪が払へておらぬ事に気を付けよ。もし人に敬せら れた時には、神のお陰、祖先の功徳と思え。これは遠慮した考えではない。真実それに違いない。」
第五九八条 「物がくされば酢が出来る。また出来た酢は物の腐るのを止める薬となる。すべてこの様に何事にでも善悪などの本性はないものである。人の心もその通りで、心清浄なればそれでよい。」
第五九九条 「世の中のすべてのありさまは、みなわが心の所現とみてよい。それであるから、心がいつも神仏の境界に居れば、何で身が凡夫の体でじっとおろうぞ、たちまち不思議があらわれて、金剛薩埵の身を現する。」
第六〇〇条 「神仏のみ徳は、ちょうど日の光のようなもので、光線は目で見て見えず、空なものであるが、空虚ではない。この光を分解すれば、七色になる七色かと思えば、そうでない。八万四千無数の色にわかれる。またこれを合わせれば、元の無色になる。そして、この光に照らされて、すべてのものは、それぞれの世界で生育する。この光でも七色のうち、どれか一色でも欠けていれば無色にとはならぬ。神仏もこの色のそろうているように、 功徳を円満に具足せられている。人にしても、これと同じように、み教えの通り、功徳が円満に具足すれば、たちまちにして人の境界をそのままに神仏の境界に入り、人我をはなれ、天地融通無礙不可思議の世界を実現する事うたがいなし。この人こそ、生き神生き仏というのである。