講話音声再生(584~595)

第五八四条 「願をかけるという事は信仰上大切な事である。しかし一旦願をかけた以上望みばかり考えていてはならぬ。その運びをつける事が肝要である。それなれば願はかけなければ、福をえられぬかというと、そうではなく願が無ければ、常に行うことに念力がたらぬようになるから願をかける方がよい。この願も、人のためにするなら尚更よくかなう。」

第五八五条 「人を喜ばせる事は大変よい事であるが、神仏のご恩を悟らして喜ばせるほど大きな功徳はない。」

第五八六条 「まけぎらいの心は、自分が人より優位におりたいという考えから生まれる。このような考えを持つ人は、必ず人からきらわれる。そして運がわるくなる。そうすると優位に居ろうとするには、自分に力が足らぬから人の方を弱らすより、外に方法がない。そこで人のよくなることをかなしみ、人の悪くなる事を喜ぶという鬼心に変わって来る。魔のつけるのは皆自分が神仏のすかぬ心がけを持つからである。」

第五八七条 「人間はえらい人で信仰心がなかったら、ちょうどよくきれる刀を無法者に持たせたようなもので、人を害し身をそこねるもととなる。」

第五八八条 「人間の心を水にたとえたら、聖人の心、水と凡夫の心、水とは質において同じものであるが、凡夫の胸の中には、迷いの風が吹きあれているから、これに従うて心水は静止する事がかなわず、あだ浪がたつ、そこで、ものの実相を写すことが出来ぬようになる。この魔の風がなぎさへすれば、そのままに写るはずである。そこで慈悲心をもって、人を助ける事が出来るようになる。凡夫がたちまち聖人でないか。この因縁を知って心の風をながす方法を真の信仰といえる。」

第五八九条 「理屈のかたい人は信仰の悟りは出来にくいものである。たとえば、食物の味をよくするのに、塩を使うと美味になる。そこで理屈をいう人は、この美味になった元を塩にあるか、ものにあるか、どちらかに付けたがる。いずれも迷いである。昔から偉い人が教えてある。『鐘がなるのか、しゅもくがなるか、鐘としゅもくのあいがなる。』」

第五九〇条 「人の苦をわけると二つになる。身苦と、心苦である。身苦は、偉い人でもまぬがれぬが、まことにわずかなものである。えらい人は、心苦はないものである。人間の苦の大部分は心苦である。この苦さえなければ大安楽である。」

第五九一条 「施行、忍行、戒行、精進行の四つは人間の行で、信仰にはなくてならぬ基礎である。智行なくして禅行に進めば、神仏に遠ざかる。この六つの行は、どれ一つとして落としてはならぬ。」

第五九二条 「物には陰があるように、心にも陰がある。心の陰を禍福というている。この陰に迷うて心をあせっている。陰を思うように動かそうと思えば、陰のさしている本元を動かせばよいではないか。このわけを知らずして、陰を本物と間違えていくら力を入れても何にもならぬ。物の陰なれば子供でもわかるが、心の陰には大人が迷うている。」

第五九三条 「鳥でさえ、仏法僧とあがめたたえるものがある。人と生まれて三宝の尊きを知らずしては、喜べるわけがない。聞いてなるほど、それでは自分はよろこびたいから、三宝を供敬しようでは本当のものではない。形や理屈はぬきにして、心の真底からお礼がわき出て来るような気持ちにならねばならぬ。」

第五九四条 「えらい人と、えらくない人とは、そんなに違いはないもので、えらくない人は、知恵をわが方ばかりに使うから、人の身の上に使うあまりがない。えらい人は知恵を人のために使うから、わが身の上に使うひまがない。ただ、これだけのちがいしかないのが天地のちがいを生み出すようになる。慈悲の力は人間の知恵ではわからぬ。」

第五九五条 「物の色というものは、その物の実の色ではない。光に照らされて、その光の一部を反射して居るのが色である。いいかえれば 光を分解すれば、多くの色となる。その多くの色の中から物自身がすきな色を吸収して、すかぬ色をはねかえしているのである。そのはねかえしている色を、その物の色というて居る事になる。これと同様に、物の声にしてもそうである。声というのは、物が動いて空気を動かせる。この震動する空気のかたち、そのかたちのとうりに、耳の機械を震動させる。この機械の震動するかたちが声である。それであるから、震動が起こっても 耳の機械が受けねば、声は起こらぬ。これであるから、耳の外からでなくして、内部から機械を震動させるような縁が出来たら、外の物は動いておらいでも、声は起こる。又物の味にしても同様に、舌の上の変化が味となるのであって、物そのものは一定の味はないものである。このようにすべてのものには、一定不変の自性はないものである。それを早がてんして、ものに 一定の自性あるもののように考えて、何ものにでも理屈と差別とを付けたがるのが、凡夫の根性である。そうなると、心の融通を欠いで、心の安静を失うようになる。これと反対に物には自性ないものすべて自心の変転なる事を覚り、円転融通無礙の生活に入る事が肝要である。これを大安楽金剛不空真実三昧という。」