講話音声再生(572~583)

第五七二条 「神仏にすかれる人は、神仏がすきでおれぬ人にかぎる。神仏をきらうたりする人は、神仏にすかれるわけがない。さわらぬ神にたたりなしというて、敬遠しては、お陰はない。」

第五七三条 「人にすかれようとするが、人をすきになろうと勉める人はない。もしすきになろうとしても、つとめてする間は人にすかれる事はむつかしい。すきというのは、心のしんから出た真の力でなければならぬ。」

第五七四条 「人間の運というものは、世の中のためになるか、害になるかの差別勘定のようなもので、天地の台帳に記録せられた大勘定と見てよい。」

第五七五条 「働きが喜んで出来ぬ心になったら、神にきらわれる身分になったと考えてよい。働きは人の喜ぶものを作り出す方法である。」

第五七六条 「神まいりするために、人のおつきあいの上で、人をつらがらす場合には神にお申しわけをして、人の方を先にするのがよい。 神は人の身の上の方を見てござるからである。」

第五七七条 「情と義理とが相反する場合には道理をつけ、情というものは、わが身のために起こる心のはたらきである。道理は、天の法則である。天に従うのが人の道。」

第五七八条 「礼儀というものは、本来相手方を尊ぶ方法であるから、向こうが喜ばぬ場合は、どんな立派なかたちをしても、本当の礼儀とはいへぬ。むしろ無礼になる。それであるから、礼儀は無形の心の働きが外に表われたものがよい。」

第五七九条 「『遠くなり近くなるみのしほひがた、なくねにしほのみちひきぞ知る』という歌がある。千鳥のなく声の遠い近いで、しほの遠い近いがわかるという歌であるが、信仰でもその通りで、その人の言い方で、神仏に遠いかがわかるものである。」

第五八〇条 「かの指先に立つ弥次郎兵衛を見よ。ゆれども、ゆれども、元にかえり、安定を失わず、見事指頭でするはなれわざ、ところが左右の重りになっている豆を一つ一つはなして考えると、この弥次郎兵衛を一方へ引き倒す力を入れて居る事がわかる。この力を左右平等に受けてこそ、身の安定を得るのである。人もすべてのものに応じて、進むべき道に進む事を教えられている。」

第五八一条 「もし人の尊敬を受ける事があったなら、これは功徳の光であって、全くわが身に受けるべきものではない。ちょうどたとえて 見ればぼろの着物を着て通ろうとして、通してくれなかった所を美しい立派な衣を着て行ったら、通してくれたようなもので わが身の力と考えぬのがよろしい。」

第五八二条 「信仰するのに、いろいろの行や戒はあるが、まず第一に、信ずる心が無ければ何もならぬ。」

第五八三条 「もし心に慾心が起こった時には、今すぐそこまでとらが追いかけて来ていると思うこともよい。悪念消散するであろう。ちょうど死刑囚が美食ものどに通らぬのと同じこと。」