講話音声再生(562~571)

第五六二条 「いかなる場合でも、自分を助ける為に、うそをいうてはならぬ。
このようなうそは、神仏のきらいな事、ありのままでよいではないか。これが人を愛する道、神をおしたいする道である。」

第五六三条 「神仏の慈悲深いお心が、何事か裏手にでも見え出したら結構である。これが真の信仰である。ちょうど子が、親のありがたみがわかったのと同じで、それから、真の孝行が出来るのである。 たとえば、やぶれたぞうりにも礼を言える人でなければ、神に通じぬようなものである。」

第五六四条 「己に勝つものは、よく敵にも勝てる。己に負けるのは、我慾が強いからである。敵に勝つどころか、神仏にも見すてられる。」

第五六五条 「王者といえども、ひざを屈せず、非人といえども、あなどらずというような人は大人物である。」

第五六七条 「『わがものと思えばかるし傘の雪』というように、何でもわが事と思うところに、慈悲心がわき出て来るもので、お大師様が 『一大四海是れわが有』といわれたお心をお察しして見よ。 頭がさがる。」

第五六八条 「益あるものでも、反面に害あり。益の方面ばかりさがしてもこのようなものは、神様が作ってない。水でも火でもその通りで、使い方が大切である。世の中すべてのものに自性あるものとてはない。使う者の用心次第で毒にも薬にもなる。」

第五六九条 「神まいりする時、身を清めるのは、神様にご無礼せぬためである。それであるのに御庭のちりが目につかぬようでは、まことが通わぬ。お棚の上のくものすにも心をくばれ。」

第五七〇条 「ある所に屋敷神さんに、新調のおのぼりをさし上げた。所が喜んでくれると思うた反対に、しかられた。そのわけは買い求めて来た白木綿の反物の中で、最初ふんどしを切り取って、その残りで、のぼりを作ったのであった。その人が恐れ入ったので 神様は喜んで受けた。罪はかたちにない、心にある。」

第五七一条 「信心というのは、人間の心や所作を、神仏の教えに合わせて行く事である。その中でも、自分の家業の仕事を教えに合わせて行けるようになった人は、まことにしあわせな人である。」