講話音声再生(551~560)

第五五一条 「人はいろいろの出来事に対し、自分が助かるために、心をいためて居る。聖人もまた、いろいろと心をいためておられる。よく似ているようであるが、聖人は自分のために、心をいためるのではない。人が、わが身が助かろうとて、心をいためて居るのを、あわれんで、その苦を抜いてやろうとて、心をいためて居られるので、ここがありがたいところである。」

第五五二条 「いかに修業を積んでも、心に信じなければ神仏に会えぬ。ちょうど光を受けずして、わが影をのけようとするようなものである。」

第五五三条 「世間の人は、福徳は望んでいるが、福因を植える事は好まぬ。ちょうど、たとえて見れば、魚をとりたいが、網やつりを持つのがいやというのと同じ事である。因果不二である。」

第五五四条 「人が悪くして来たり、または悪くいうても、にくしみを起こしてはならぬ。なぜなれば、もし慈悲心が強かったなら、心は動かぬもので、またほめられても、うちょうてんにはならぬ。なぜなれば、ほめられたのは、わが功徳であって、わが身がほめられたのではない事に気を付けねばならぬ。」

第五五五条 「修業が出来にくいとか、心の苦が除きがたいとあせるよりも、まず第一に考えねばならぬ事は、自分の生活の目的は、教えに合うて居るか、また教えに合うて居るとしても、日常の心がけと言語と身のあつかい方が、教えに合うて居るかという事に気を付けねばならぬ。これだけの事を続けて行くなら、必ず安楽の日は近い。」

第五五六条 「不立文字というのは、たとえて見れば、人が月を教えるために指さして、あれが月であるというた時に、月を見ずして、指を見たとしたら、あやまちであるごとく、言い表わした文字に心を留めて、その本当の意味を知らぬようなものである。仏の心境は、文字で書き表わせぬ、言葉でも言い表わせぬ。それを、 たとえで説いてあるから、心で読まねばわからん。これを不立文字という。」

第五五七条 「病と病気とは違う。病というのは、からだ自然のわずらいである。病気というのは心のわずらいが、身体をよわくしたのである。偉い人は、病はすることはあるが、病気はせぬものである。」

第五五八条 「人は各、いろいろ仕事で日を送って居るが、本業をわすれてはならぬ。本業は皆同じである。すなわち国を安泰にして、この世に極楽世界をつくるにある。」

第五五九条 「人がこの世を去るときに、遺言をするが、本当を言えば生存中日日の言葉が遺言、日日のつきあい、これが告別式と心得えたがよい。供養とは逝きし人の、意の通りつとめぬいてあげる。 これの上越す供養なし。」

第五六〇条 「幸福というものは、境遇や形にない心の中にあるものである。