講話音声再生(544~550)

第五四四条 「人は自分の身、口、意の働きが、世の中への響きが、どう響くかを知りつつする人と、そのような事には無関心でする人もある。よしあしを知りつつする人の中にも、わるいと知りつつも 意地強くせねば、おられん人と、わるいとも知らず、ただ損得だけ知ってする人とある。又知ってする中にも、後の善根になるからと思うてする人と、慈悲心が止められず、せねば居れぬ人という人もある。せねば居れんでする人は、世の中への響きなどは考えておらぬ。このように形が善い事でも、自分に求める所があればよくない。又、心清浄なれば、形はどうでもよいという場合もある。すなわち、ものには自性ないものである。 それであるから、心の実相を知らねばならぬ。心の実相は神仏の御光に照らされねば、明るくわかるものではない。」

第五四五条 「天地の間、何物によらず、自性はないものである。人の心にも真実をいえば自性はない。それが、我相にまどわされ、すべてのものに自性あるごとく見える。そこで益々迷いのふちに沈み執着して、信じ込み、一生をあやまるのである。我相をのけて 実相が信じられたら、神のかわい子である。わずかのちがいで 天地のちがいになる。これのように凡夫となり、迷い暮らすも聖人となり、喜び暮らすも、その間に髪の毛一本しかはいらぬ紙一枚のへだて、これを凡聖不二という。」

第五四六条 「信仰の不思議に会った時に人知で、分析判断するひまで喜んでお礼を言うのがよい。人間根性で判断出来ぬものである。ある人が泉聖天さんの道普請のお手伝いに出ておった時、国元から 子供の病気で、すぐ帰るように電信が来た。やみの夜であったが、さっ速自転車で飛んで帰る途中、この登り坂で天ぐに会うた。そして、自転車を先引きしてくれた。自転車は踏まんでもよいからかじだけとれという。その通りした。その早さおどろくばかり、途中でわかれたが、いつもの半分の時間であった。 この途中を普通の人が見たら、ただの自転車のりにしか見えぬが、神仏に通ずる人の目で見たら、不思議な姿が見えたであろう。このような事は人知で分析せぬのがよい。」

第五四七条 「理上成仏は地図によって、地理を学ぶ様なものである。事上成仏は旅行で地理を知る様なものである。理もすててならぬ。事は尚さら大切なものである。」

第五四八条 「自分の苦を救われんとして神仏にすがり、不思議を見て、物に執着して、我を悟らず、そのままを人にうつして得たりとなすべからず。不思議を見ても、それで喜べねば、何にもならぬ。 人の苦を抜き喜ばす事が出来ねば、神仏のありがたみを人に、施す事は出来ぬ。そこで、どうしても一切知を神仏よりいただかねば人が助からぬ事になる。このように慈悲心から、神仏の力を願う人を菩薩というのである。そして、この尊い仏智見を ゆるされた人を悟った人というのである。」

第五四九条 「慈悲心が心の中にわき起こったら、下に向いては、あわれみの心となり、上に向いては、絶対服従の姿となって表われるものである。この動き方が違うておったら、人間的の理屈がどうであっても、天道にはかなわぬ。」

第五五〇条 「世の中で、おそろしいものとては、我心である。とらや、おおかみは、こわいといっても、めったに人を害するとは、決まっておらぬが、わが身かわいやという、わが身を愛す心は、必ずわが身を害する。もし心に苦痛があれば、これは我心がある証拠と思うて、わが心を詮議して、見ねばならぬ。」