講話音声再生(521~530)

第五二一条「何事によらず、見方きき方が信心でなければならぬ。人間根性を中心とすれば、何を見ても聞いても功徳はない。たとえて見れば、あの芝居で有名な勘平の腹切場を信仰のない法律家が見て間違いで腹を切らせた罪は、あれは第何条かなど考えるなら 法律の勉強によかろうが功徳にはならん。」

第五二二条 「人を助ける功徳は大きいと一口にいうが、その中でも、神仏のご慈悲の広大無辺な事を理屈の上でなく、事実の上で悟らせて 喜ばせたなら、その功徳に越す功徳はない。」

第五二三条 「えらい人が人だすけをしているのを見ると、人間の知っている範囲でその人を喜ばせ、そしてその喜びを神仏に感謝し、こがれたら、心を植え付けて居られる。これを見ると人間は、ただ喜ばせてくれただけに満足せず、自分も神仏の力をかりてお礼返しに人の身を助けたいとつとめねばならん。ちょうどたとえて見たら、非人が物をもらって喜ぶばかりで満足せず、自分も働いて物を施す人になりたいと努める。これがほんとうの信仰である。」

第五二四条 「動あれば反動ありという事があるが、これは動ばかりでない。

第五二五条 「からだの病はだれにもよくわかるが、心の病は知らぬ。それもそのはずで心がわずろうて居るから見わける力がない。それであるから心をわが身を思わぬ他所に置けば、わが心のわづらいはわかる。よく人がいうて居る。わき目正目とはここである。」

第五二六条 「人を助けるには、その人の過去現在未来のすべてのことを知りぬかねばかなわぬ。このいっさいを知りぬく力こそ、神仏が大切にせられる。無上甚深微妙の法である。これさえあれば、人は自由自在に助けられるはずである。神仏は、この宝を人に授けるのをおしまれるのでない。しかしこれを授ける言辞はない そこで因縁と比ゆとをもって、この難解の法を説明せられて居 る。これをさとればよいのである。すなわち教えは、はしごを登る方法である。方法がわかったら実行である。所がわすれてならぬ事は、わが身を案じる心が少しでも含まれておったら、この宝は消えて目にかからぬようになる。慈悲の目より外に見当たらぬ不思議な宝である。」

第五二七条 「何事によらず自分の考えで判断がつかぬ事があったら、第一に心を清らかにして、今、教の親の前で教えを乞うて居る気持ちになり親のお顔が喜んで居られるか否かで大抵考えはつくものである。」

第五二八条 「達磨大師が支那へ行った時に、時の天子が大師に問われるには仏の為に塔を建てたらどんな功徳があるかと、大師は簡単に無功徳と答えて、日本へ来られて、禅宗を開かれたという。我に求める心あれば、功徳なしという所が大事ぞ」

第五二九条 「世界に満てた金銀を施しても、人一人迷いより救い出し神仏のみ恵みを心から喜ばし、そしてみ徳をしたり、心を生ぜしめた 功徳には、はるかに及ばぬ。」

第五三〇条 「日に千遍礼拝をする事を続けるよりも、一人の聖者を供養した方が神仏によく届く。ちょうど実生の木をそだてるよりも、つぎ木の方が早くみのるようなものである。」