講話音声再生(512~520)

第五一二条 「木セイの花の香は大変よいが、鼻をつきつけると、さほどによいとは思わぬが、風の吹きまわしなどには何ともいえぬ床しい 香のするものである。人も徳を積むと、常には偉い人の様には見えぬ。つきあいがしよい、懐かしい位にしか見えぬが、時にふれ、折にふれると偉い光が表われ、実に頭のさがるものである。あの大石公が事なき時には「ひるあんどん」と人にいわれたが事ある時のあの働きは千古の鏡である。」

第五一三条 「とげ魚という魚がある。岩などに卵を生みつけると、親はその附近を泳ぎ回り卵がかえるまで離れぬ。そして子が無事に生まれたら連れて遠方まで行くという。これを親の護念力という。 神仏も人にこの護念力を下さっているのである。知らずにおっては相済まぬ。」

第五一四条 「神仏に護念せられている人が、そのご恩を知らずして、わがまました時に神仏は益々力を入れて、どんな方法をしてでも助けねば止まぬが、人間であったら、陰から力を入れてかわいがっている人がそれを知らずして、その人にわがままな事を仕向けた時には、大抵怒る人が多い。ここが神仏のご慈悲と違う所である。」

第五一五条 「道理がよくわかっているのに、事にあたったら失敗して、後でしもたというのが人のくせで、わかっているのになぜ失敗したかというに、これは、常に練習が出来て居らぬと情という悪魔がつけるのである。常々神仏の教えの練習が出来ていると、この悪魔がつける余地がなくなるものである。」

第五一六条 「線香の火を丸く回したら丸い火の輪が出来る。しかしこれは、だれが考えてもわかっている通り、火の輪ではない。火は一点のもの、この一点が流れているのを見て、実物と思うて、実際の実物を知らぬのである。これが線香であるから、問題が簡単であるが、人間の身の上に起きる問題がすべてこの通りで、金剛石のようなかたい石でも、時に刻々変化して、一定不変のものでない。このきわまりなき無常の中に住み、不変を願うものが人間である。ところが、この不変を願うて暮らしているうちに、その願いがかなわずして、無常の風に吹かれて悲しむ。これを迷いというのである。又これを煩悩というのである。この無常の中に大きな目で見ると、一定不変の常住世界を見い出す。 これを悟りという。この悟りが出来ずして、泣き悲しんでいるものに、疑う事の出来ぬ証明をつけて、悟らすのが本当の人助けというのである。しかし煩悩というて、これをにくんではならぬ。この煩悩があるがために、神仏にすがる縁が出来るのである。そして助けられてしたうようになる。そして、したいぬいて神仏の心が、わが心にうつるようになる。そこで火輪の悟りが出来、遂に神仏のかわい子となって人を助ける。今火輪の事、すなわち目で見る事でいうたが、六根の働き皆同じである。 この働きの実物でない、影法師の続きを、心の相続といって、 大切な事である。」

第五一七条 「夜明けの明星念じては古聖を思い、よいの明星を拝しては恩師をしのび、しかもその明星が昔のそのままあると思えば、まのあたりお目にかかる気持ちになれる聖者も、明星を見て教えの親をしのばれたかと思えば、ひとしおありがたい。」

第五一八条 「神信仰するものは、身、口、意の三業をして清浄ならしめ、慈悲の心に住し、神仏の不思議な力を得て、人を助けんとすればそれで、荒行はするに及ばぬ。」

第五一九条 「人形芝居を見ると、えらい人とえらくない人とが、顔を見ればすぐ分るようにこしらえてあるから、芝居の状態が子供にでもよくわかる。人間の世界は、顔がよくにて居る上に、えらくない人がかえって風彩を立派にして居るから、わかりにくいが、 その目に見えぬ働きの力が大いに違う形であらわしたら、ちょうど人形芝居の人形のようなものであろう。」

第五二〇条 「迷うて居るものに助けられて居る者がある。たとえて見れば、あの猿まわしを見よ。猿は人を喜ばすとて居るのではない。おちんがほしいのか、しかられるのがこわいから芸をして居るのかである。この猿に養われて居るではないか。しかしこの猿まわしが人を喜ばす為に猿を使うて居るとすれば立派なものと言える。これがよしあしのわかれめである。」