講話音声再生(501~511)
第五〇一条 「人はいかに身を低くしても、人からは低くするものではない。
自分が高くとまると、人から低くひきおろす。これは神がそうさすのである。」
第五〇二条 「人の欲望はとめどもなく上へ上へと進むもので、わが身の慾をすて、人を助ける慾にかえたら楽である。事たらば足るにまかせて事足らず、足りて事たる身こそ安けれ。」
第五〇三条 「神仏の知恵は、人を助ける慈悲の道具である。人の知恵は、わが身の守り道具である。」
第五〇四条 「食ぜんに向かいての礼拝は、食物をつくりたる労にたいする感謝の意味もあるが、人間の身体をかたちつくり、そして種々のはたらきの分担をしてくれている、七十二兆の生霊にたいする供養をさし上げる礼式と心得よ。」
第五〇五条 「人の仕事は初めけいこの時代には、色々と心を使うてつとめているが、上達すると仕事している事さえも知らんで出来るようになる。信仰もその通りで、初めはなかなか努めねばならんが 慣れれば知らずして神仏の教えに合うようになる。これが大切な所である。」
第五〇六条 「人間の職業は千差萬別であるが、大きな目で見ると、お国を建てる為の手わけ仕事である。大家族の一員としての手わけ仕事である事を忘れたら、ちょうど人間の手足が手わけして人間のからだを建てているのと同じ事で、もし手や足がこんな役はつまらぬというて怠けたら、直ちに全身が弱くなり、手足自身も 苦難を受けて、細く弱くなる。共だおれになる。この点をよく理解して、その職分を尽くさねばならん。」
第五〇七条 「国のおきては守らねばならぬ。たとえそれが神のお心にそわぬと思うような事があっても、肉身をこの世でお世話になっている内は、反してはならぬ。これが神の教えに従う事になるのである。決して、神に反する事にはならぬ。これは泉様の身をもってのお教えである。」
第五〇八条 「泉様は、人を助けて、法難をお受けになり、獄屋に一月ほどお過ごしになった。この間、お食事を断たれて喜んでおられた。 そして出獄の時、おからだの目方が参百目も増しておられた。 お食事を断たれたのも、ご自分が断ったのではなく、不思議な人の目には見えぬお方が、毎晩お食を運ばれたので、獄屋のお食をもらう必要がなかったのである。」
第五〇九条 「仕事を始める時には、その仕事が世の中の為になるか、為にならぬかを第一に考え、為になると考えが付いた時には、第二に自分の力の範囲で、最悪の場合でも耐え得る見通しを付けてでなければ始めてはならぬ。」
第五一〇条 「人が加護を加えて作りあげた珍らしい草木は、枯れよう枯れようとして誠に弱いものである。これは草木自身が雨風や寒暑の苦労を積み重ねて、みがきあげた身体でないから、自然の力に負けるのである。人もこれを手本として、身体と心をみがきあげねばならぬ。」
第五一一条 「人間には煩悩というて、心の苦しみが百八つもある、誠に気の毒な苦しみである。しかしこの煩悩がある為に、この苦労からのがれたいという希望が出来、これが縁となって神仏に会えるようになる。それであるから、ただ煩悩を断っただけでは助からぬ。ここに神仏の知恵がいるのである。人間の知恵では助からぬ。」