講話音声再生(453~461)

第四五三条 「物を考えるのに二十年や三十年の短い歴史を考えてはならぬ。人間のはじめからいえば幾億万年の歴史がある。」

第四五四条 「神仏に好かれて来ると次第に人の力でわかる事のできぬ不思議な力が表われる。この力を人は、神通力というている。これはどうしてこのような力が表われたのかという事は、人間の言葉ではいい表わしようがない。けれどもたとえて見ればここに一つのビンがある。この中へ砂糖を入れて、沖の水の中へ入れるとする。ビンに穴があいとらねば、何年たっても外の海の水と砂糖とは別々で混じり込む事はない。けれどもビンに穴があいていれば、いつの間にか外の水と中の砂糖とは入れかわり、外も内も同じものになってしまう。ビンの中の水をくみ出せば、 いくらでも大洋の水のある限り尽きはせぬ。すなわちビンの中は、大洋大のものといえるであろう。 ここで一つのビンを人間の我という根性として見よ。この根性がぬけ目なしにかたまっていたら、ちょうどビンの穴のない完全なものに酒を入れて、大洋の中に入れてあるのと同様、外界との交通はないであろう。ところがこのビンに穴があいていると同様に我という根性がなくなり、外に向こうて慈悲心、言い換えたらわが身を思うように人を思う心ができたとしたら、外界と自分の心が不思議な交通をする。それで外と同じになる。 これが神にゆるされた力である。これが神通力である。これがなくては、人はほんとうに助からぬ。神の大切な宝物である。悟りとはこの事である。凡夫と聖人とはわずかこれだけの違いである。」

第四五五条 「人の五官は、神のかりもの、神様から人間に知らそうと思われたら、人間の五官をそのままに神様がお使いになる。この時に 人間から考えるといかにも不思議というているが、何も不思議はない。神の方から見ればあたりまえの事をなさっているのである。」

第四五六条 「人間に徳が積めて、神仏に種々の事を示していただけるようになったとして過去の事は教えてもらいよいが、先の事はよほど慈悲心に燃えておらぬと教えてもらいにくい。教えてもらいにくいというよりも神仏の方から見れば教えられぬのであろう。」

第四五七条 「人間の修業に大切なものが六つある。これをするのに命がけでせねばならぬというが、まだそれではいかん。生まれかわり、死にかわりしてでも、なしとげる勇気でないと、この世とあの世との連絡は届かぬ。」

第四五八条 「迷わして後でなければ救えぬ事が多い。迷わすという事はちょっと考えると慈悲心が少ないようにも見えるが、これが大慈悲の姿である。」

第四五九条 「暗に迷うというが、誠にくらかったら向こうが見えなかったら疑が起こる。疑が起こったらよい事を考えぬ。よい事を考えなかったら地獄へ落ちるのは当然である。これであるから、暗い所に燈明があれば、向こうが見えるように心の闇を光らせるには、悟りの光がいる。その光をともす法が信仰である。」

第四六〇条「いかに知恵のある人でも、我という考えを先に立て、物事を考えたら、目も耳も、その働きが間違わされて、物の実相が悟れず、自分が望んでいる方向と、反対の方向に進まねばならぬようになる。これを顛倒夢想というのである。そうして自分の仕方の間違っている事に気付かず、天をうらみ、人をにくむようになる。ところが我という考えをのけてしもうて、人の為、世の為を考える心になると神は、この人にまっすぐに見える目を貸す。顛倒夢想が起こるはずがない。」

第四六一条 「世の中の実相が見えるようになったら、自然に自分のなすべき事は決まって来る。これが本当のお陰である。」