講話音声再生(311~322)
第三一一条 「尊い方は言うに及ばず、自分より目上の人が使われた品とか道具とかは、自分が使ってはならない。又、自分が使う品は、その品より程度の低いものを求めるのがよい。この世の中でよくいう「位負け」がするということがあるが、これは位負けというよりも、上からのお慈悲がいただけぬようになるのである。」
第三一二条 「種々の因縁を知る眼をもらうと、人を助けることが出来るばかりでなく自分が腹がたたぬ、愚痴も出ぬから、自分がまず助かる。」
第三一三条 「自分のからだの片輪はよく知っているが、心の片輪を知る人は少ない。」
第三一四条 「人の苦悩は無明から来ると仏は教えてくれている。つまり、暗やみで向こうが見えぬから、疑い深くなるのである。疑い深ければ、必ず善く考えるものでない。何事も悪い方に考える。 そうすると人からその通り仕返しを受けねばならぬ。ところが わが事を知るほどの知恵が無いから、人を恨む。又は事をくやむようになる。だから向こうさえ見えれば、何も疑うことはない。従って心の光明は、わが身は助かり、人の身も助けるようになる。そうなれば、この大切な向こうをみすかす心の光は、 どこからくるかというと、これは神仏に差し上げた灯明からくるといってよい。」
第三一五条 「自分の好かぬ事を、人にむかってすると、人からは自分の好かぬ事をしかえしして来るのが普通である。自分から何も悪い事をしむけぬのに、人から悪い事を仕向けて来る場合もある。 これは自分の前の世で、人に悪い事を仕向けてある仕ほどきに違いない。よくよく考えてみよ。まちがいはない。このような 時は善いことでむくいねばならぬ。」
第三一六条 「自分の苦痛を逃れたいと土地をかわってみても、苦痛は身の外にないから、どこまで行っても安心する所は無い。それよりも 自分の心の掃除をすることがよい。これはよくわかっている事であるが、なかなかできない。」
第三一七条 「わが心の色ほど、恐ろしいものはない。世の中が、その心の色のとおりに見えるもので、その世の中の様がわが心の色から来ると知ればまちがわないが、人は、そのわけがわからぬから、まちがいをひきおこすもととなる。」
第三一八条 「肉眼の見えぬ人でも、心の目の見える人は、疑いもなければ、苦労もないが、たとえ肉眼が見えても、心の目が見えぬと肉眼が見える為に、かえって苦労を増す種を作る。」
第三一九条 「人の作ったものは、人の手でなおしやすいが、神によって造られたものは、神の手によらねばなおらぬ。」
第三二〇条 「人を助けんと思う慈悲の念願さえあれば、神はこの人に力を貸すことを惜しまない。」
第三二一条 「人は心のうちでいろいろな考えがおこる。この考えを肉の力に移して、はじめて善悪をわけるが、神は思うこと、ただちに善悪と知っておられる。それでいつも思うことと、することと、 くい違いのないように、心の内をそうじして置きたいものである。」
第三二二条 「お不動さんがこわいか、あのお顔がなつかしく見えるほどにならねば一人前でない。」