講話音声再生(102~112)
第一〇二条 「天は、人の五官外のもの。地は、人の五官内のもの、天地は二つでない一つである。」
第一〇三条「信心は、ただ一すじに、神の教えに通ずれば、それでよいのである。最もしやすい。それを理屈と、学問とで知ろうとするから一生しても神の有難みはわからん。」
第一〇四条 「神信心するということは、神の心を知って人界で行う事で、お宮まいりは信心の一部分。」
第一〇五条 「日日喜んでお礼を申すも信心、日日泣いて つらい事をお願いするのも信心、どちらがよいか、心一つの向けようで どちらにでもなる。」
第一〇六条 「人は生きて行くに、学問も金も力もいるが、なければならぬ神の恵を知らないでは一日も喜べぬ。本当の喜びは、ここより外にない。人間の喜びは裏があわれである。この尊い喜びの味を知れ。」
第一〇七条 「神の恵がわからぬのは、大平無事で、人間の楽しみに迷っているからである。生きるのに生きられぬ境遇を思い浮かべて見よ、この時でも神の恵に喜んで居れる力の偉大さに比べたら、人間の楽しみなどはすぐに飛んで、後に残るのは、愚痴ばかり、何と結構な宝があるではないか。」
第一〇八条 「神祭りをするに用いる品物は、皆神様のご馳走である。用意するにも、取かたずけにも、其の心して扱かえ。」
第一〇九条 「人の頭脳は、天地の事を生みだすものではない。天地間の出来事が魂に写って、その影が人の心に知れるのである。ものが写るのは魂の力で、それを知るのは人の力である。魂は、神の賜である。 魂を鏡にたとえたら 神の姿は、いつも人に写っているのであるが、自分の心がいつも転々流浪しておって気がつかぬのである。 わが身を忘れて専念せよ、不思議の世界は現われる。」
第一一〇条 「腹を立てる、うそをいう、人を憎む、などいうことは、皆自分の身は、自分が守るより外に道がないと思う心から生まれたので、それぞれ理由は充分であるが、そのたよりにする自分というものはどんなものかという事に気がついたら目がさめる。すなわち、自分というものは、他に勝って好きなようにして行きたいという独占排他の心に外ならぬ。ところが世の中の事は、自分の思うままにならぬもので、自然の力には、かないそうにもない。そこで自分というものは、たよりにならぬものである事は、明らかになるであろう。そこで神にすがる心ができるのである。そして恵まれてはじめて喜べるので、信ずる者の外は、恵まれぬのはいたしかたがない。恵まれる事は、信ずる者より外に、味わう事のできぬ宝物である。」
第一一一条 「風呂から出て、二度目に入ると湯がぬるい気がする。これは湯が冷えたのより、自分の体が変化したのに気をつけたがよい。すべて世の中の事もこの通り、まず自分を知らねば 間違いがおこりやすい。」
第一一二条 「算盤をするのに答を出す事に心配するよりも、今の運算に精を入れる事が肝要である。運算に間違いがなければ答はひとりでに正確に出る。人の一生の仕事も この通りである。」