観音経秘鍵講解

『世尊妙意観世音金銀座宝の蓮華は歴劫不思議の波立って心得の深きを顕はす。弘誓深海の船はこのかた傾かず 還著於本人の剣を以って呪咀諸毒薬の病を滅す。念彼観音の力を合せ諸欲害身の敵を滅す。
発大清浄願の滝の水は煩悩妄想の垢を雪ぐ我意如畧説の草木は、聞名及見身の種を成す。心念不空の風吹けば能滅諸有苦の雲晴れて念々勿生の月明に照す。
推落大火の雨降れは火坑の火も消滅す即従座起の金を以て和光垂述の利物を顕す。雲雷鼓掣電降雹樹大雨は皆是観世音の仏力なり。
唱え奉る福寿海無量閻浮檀金の家の内は、皆是れ法性の春以偈問日の華開き我今重問彼の秋の露は、世尊妙相具の草木宿ること疑いなし。 生死の病種々因縁の薬を給う。
慈眼視衆生福寿海無量是故応頂礼念彼観音力諸願成就皆令満足急々如律令』
このお経は 妙法蓮華経普門品第二十五の要点を偈として説かれたものである。
秘鍵と言うのは観音経の肝心の所を抜き取った経という意味である。世尊というのは釈迦牟尼仏の尊称である。妙意の妙は、人間の智慧ではわからぬということで、この場合は、釈尊が禅定に入られたお心を表わしている。 すなわち 釈尊が定に入られた時に観音様が出てこられて、無尽意菩薩を相手として、悟りの道を話されるのである。 その観音様の座して居られる蓮華には、無始の昔より不思議の波が立ってという事で、これは蓮華であるから、水中からはえているのにたとえて観音様のご神徳を賛美したのである。
弘誓深如海の船とは、世の中を海にたとえたのと 観音様の弘くお助けになるお心の広いことが海の様であることを兼ねた意味である。迷いの岸から悟りの岸へ衆生をのせて渡しておやりになる。 その船は、昔からあやまった事がないという広大無辺のご慈悲をたとえたものである。
還著於本人の剣というのは、人からじゅそすなわち「ノロイ」や毒薬をもって身を滅ぼそうとしても、かえってそのじゅそ毒薬は元の方へきゝめがあって、じゅそや毒薬は無効になる。 ちょうど剣でじゅそ毒薬を切り払うたら、還って本人へ著いてしまうという例えである。この様に観音様を念ずる力が加わって、身を滅ぼす。敵は皆滅んでしまう。
発大清浄願の滝の水というのは、大清浄の願をかけて行をすると、そのお陰は滝の水のごとく身に注ぐから、煩悩忘想の垢を流し、すすいでくれるという事である。
我意如畧説というのは、お釈迦様のお言葉であって自分の意を畧して説こうと言われた普門品の言葉をさすので、このお言葉を草木にたとえたのである。
その木に 聞名及見身という種が実るという意味で、この聞名及見身というのは 名は観音様と呼ぶ。 その名を呼ぶ声を聞かれたら、観音様はその前に身を現わして助けるということを言い表わしたので、この様な結構なる実が木になるとたとえたのである。
心念不空の風というのは、観音様を念ずれば観音様は聞き捨てにはなさらぬという事を 風にたとえて能く諸の有苦の雲を吹き飛ばしてしまうというようにたとえたのである。 雲が晴れると月が明らかに照らして来る。念々勿生というのは、これは念々勿生疑と云う疑の字が普門品にあるのを畧してあるので、疑う事は少しもない。
必ず観音様は、助けるのであるという心の月が晴れて来る事をたとえたのである。 推落大火の雨降ればというのは、人間が不運に会って困ってしまうた事を大きな火の坑に落ち込んだとたとえて見たら、 その時、南無観世音とすがる力が観音様のご慈悲に通うてたちまち火坑の火が消滅すると説かれたのである。
すなわち、困り入った事、火坑に落ち込んだ事で、雨が降るというのは、お陰が降って、来る事にあたるのである。
即従座起の金をもってというのは、観音経の始めに無尽意菩薩が座より立って釈迦牟尼仏に、観音様のお名前についてなぜ観音というかをお尋ね申した。
そうすると釈尊は、観音様のご慈悲の深い事を説かれた。すなわち世の中の種々に困った人が、観音様の名号をとなえると、その声をお聞きになって、直ちにその人、相応の姿で御身を現わして、救われる。 もしその時に観音様の尊いお姿そのまゝで出られては、人が驚いて親しまぬから、その念ずる人の身分に従うて同じ身分のお姿でお出ましになるから、念ずる人は安心してすがれるという、 おやさしいお心を和光というのであって、垂述というのは、仏であるが、人界に相手相応の姿でお出ましになることをいうのである。 そして、その人の望みをおかなえになるので、世の中の念ずる声をご覧になって救いの手を延べられるから、観世音というのであると、無尽菩薩にご説明になった事をいうのである。 利物を顕わすというのは、ご利益をお与えになることをいうのである。
雲雷鼓掣電降雹澍大雨というのは、雲が出ていなびかりがしたり、雷が鳴ったり、あられが降ったり、大雨が降ったりするのは、皆これ観世音の仏力であると、いう事である。 この様に念ずる事は、聞き届けられる事が疑いもないということになるとこの国の内の無量の福寿は念ずる人の家の内に集まり、ちょうどその家は、春の様な気持ちで暮らせる様になる。
閻浄檀金というのは、閻浄檀は、国の事で国の金という事になる。国で重宝な金という意味で白金の様なものをいうのである。この様に尊く光り輝く家の内になるという意味である。
法性と言うのは人が金をもうけてうれしいとか、出世したから 目出度いとかいう様な物質的な喜びでなく、神仏のお陰をいただき、心に曇りなく、苦労無き事を、法性の春とたとえたのである。 以偈問日の花開けというのは、無尽意菩薩がお釈迦様に偈をもってお尋ねした事で、そのお尋ねした事柄は、観音様のお悟りの事である。 このお尋ねしたことを、花にたとへて我今重問彼、すなわち先に釈尊に言葉でお尋ねして、観音様のご利益はよくわかったのであるが今重ねて偈をもってお尋ねした事を云うので 是の重ねてお尋ねした事を秋の露にたとえてお釈迦様のありがたいお姿を草木にたとえて、その草木に花が咲き秋の露が宿る事疑いなしというたのである。 この様に衆生の身の病であろうと心の病であろうと、その病の因縁に応じて妙薬を下されてお救い下さるのである。いつもご慈悲の目をもって、衆生をご覧下さるから実にその福寿海は無量のものである。 これゆえに頂礼すべきである。そうすると諸願は成就して、皆満足さして下さる事はすみやかで一つも間違いのなき事は、国の律令のごときものである。
以 上