第 一 章 序 説
摩訶般若波羅密多心経を略して、若波心経又は単に心経ともいう。
此のお経は仏教行事をする場合には、大抵読誦するほどに通俗的になっているが、なぜ多くの経の中でこのお経のみがこの様に読誦せられるかというに、
第一に、昔より高僧たちが読誦せられた事。第二には短い中に経全体の意味が含まれて居ること。第三には文字の数がわずかに二百七十二字であるから暗記しやすい事。
第四には信仰の原理が尽くされて居ること。第五には、口調がスラスラときわめてよく出来ていること。
第六には、口調がよいから、三密行の時にご利益が いただきやすい事、等である。
さてこのお経は、どうして出来たかというに、釈尊が鷲峰山中で入定せられた時、その定中に観音様が
現われて、舎利弗を相手として、観音様のお悟りの道を説かれたことをお経にしたのである。これを和訳すると、次の様に読む。
観自在菩薩深般若波羅密多を行せし時、五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を渡す。舎利子、色は空に異ならず、空は色に異ならず。色即ち是れ空。空即ち是れ色。
受想行識も亦復是の如し。舎利子。是の諸法空の相は、生せず、滅せず。垢ならず、浄ならず。増せず、滅せず。是の空の中には、色もなく。受想行識もなく。眼耳鼻舌身意も無く。色声香味触法も無く。
眼界も無く。乃至意識界も無く。無明もなく。亦無明尽も無く。乃至老死も無く。赤老死尽も無く。苦集滅道も無く。智も無く亦得も無く。無所を以ての故なり。菩提薩埵は般若波羅密多に依るが故に心の罣礙無く。
罣礙無きが故に。恐怖ある事なく。一切の顚倒夢想を遠離して。涅般を究竟せり。三世の諸仏は般若波羅密多に依るが故に。阿耨多羅三藐三菩提を得たまへり。故に知りぬ。
般若波羅密多は。是れ大神呪なり。是大明呪なり。是無上呪なり。是れ無等々呪なり。能く一切の苦を除くこと。真実にして虚ならず。故に般若波羅密多の呪を説く。即ち呪を説いて曰く。
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦
菩提薩婆訶般若心経
第 二 章 経題を訳す
摩訶般若波羅密多心経。
摩訶の二字は梵語で、その意味は、大とか、多とか、勝とかいう意味を含んで居るので、これを翻訳せぬのである。これを翻訳せぬわけは五つある。
第一、摩訶ととなえる事により、善を生ずるから、ことさら大とか、何とかいう要がない。第二、多くの善い意味を含んで居るから。第三、不思議な力を発揮するから言い換える要がない。
第四、古来から、聖人たちが訳せないのに別に訳する要はない。第五、日本語に適当な文字が無いから、この様なわけで翻訳せない。 これを五種不翻というのである。
般若は知恵である。猿知恵の様なので無く、人が苦がなくなり、楽しんで暮らして行ける様にするのには、どうしたらよいかという事が悟れる知恵である。
言い換えれば、仏様の知恵である。 知恵に三種ある。 実相般若。観照般若。文字般若である。
実相般若というのは、天地一貫の大真理を知る知恵である。観照般若とは、人間が皆もう想雑念の色めがねをかけて居るため、世界の真実の姿がわからぬ場合が多いが、
一たび仏光に照らされて万物を見る時には、一本の草にも、仏の慈悲の姿がこもって居る事がわかる。これを観照般若と言う。
次に、文字般若というのは、以上述べた、実相般若や観照般若などを、人間の知恵でわかる様に説明に用いた言語や文字をいうのである。
心経のごときは文字般若である。このお経によって実相がわかれば、実想般若を得たのである。このお経によって仏様のお心がわかれば、観照般若を得たのである。
波羅密多も、梵語であって、到彼岸と訳する。すなわち度するとか行くとかいう事に当たる。迷いの岸から悟りの岸へ渡すという意味である。
心経の心とは、肝心の意味で、肝心かなめの経のゆえに心経というのである。
経というのは、織物をする時のたて糸の事である。すなわちたて糸がなければ、織物が出来ぬ。これがあるから、横糸が織り込めるのである様に、
お経の真理を体得してこそ、人間生活が完全に出来るのであると云う意味から、聖人の教えを経というのである。
第 三 章 本文第一段
本文を区分して五段とする。 第一段、人法総通分。第二段、分別諸乗分。第三 段、行人益得分。第四段、総帰持明分。第五段、秘密真言分である。人法総通分。
「観自在菩薩行深般若波羅密多時」。
観自在菩薩とは、観音様の事であって観世音ともいう。すなわち、世の中の音声を観じて救いの手をたれられる。
あまねく世界の衆生を観察する事自由自在にして、一度南無観世音と念ずる所必ず救わずには置かぬ力を持っておられる方という意味である。
菩薩というのは悟れる人間といふ事である。深般若波羅密多の深の字は、深遠幽玄なることを表わす語である。波羅密多というのは、先にも言った通り、到彼岸の意味で六種ある。
施波羅密、忍波羅密、戒波羅密、精進波羅密、禅波羅密、般若波羅密である。
この六種の中の一つである般若破羅密の般若は、知恵であって、事の善悪邪正に対して、明らかに分別して誤る事なきはたらきをいう。
前の五つの波羅密は 第六の般若破羅密に導かれて、初めて正しきを得るわけで、六波羅密中羅針盤ともいうべき、大切な中心である。
この大切なる深般若破羅密多を行ぜられた時には、何を悟られたかといふ事が次に出て来る。
「照見五蘊皆空度一切若厄」。まず五薀の事を説くと色、受、想、行、織の五つを五薀という。この五つを大別すると物と心とからなる。すなわち、色は物質のこと、次の四つは皆心の働きである。
色薀とは、目を開けて見えるものすべて色薀である。受薀とは、人間の五官器に受け入れる心の働き、たとえば、目で外の物を見る、耳で音を聞くというごとき、外から受け入れる心の働きを受というのである。
想薀とは、人間の五官で外の物に接し、苦とか楽とか、好きとかきらいとかいう思いをいうのである。
次に行薀とは、前に述べた人間の五官により、外のものに対して、想が起こり その想から次に身の行にうつる、たとえば秋風が吹きはじめ、はぎの花を思い出し、それで山へ見に行くという様に身を動かすことなり。
これを行薀というて、次から次へと停止することがないものである。識薀というのは、以上述べた色受想行の四薀が寄り集まって、ここに何か分別を起こす心の働きである。
この五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度するというのであるが、元来は自分というものが真実にあると思うから、苦悩が生ずるのである。
はたして一定不変の自分というものがあるか、今吾人の身体についてその本性をつきとめて見たい。自分の身体が一秒でも不変にいるであろうか、決してそうでない。一秒一秒老人に変わっているのである。
一年は三百六十五日、一日は二十四時間、一時間は六十分、一分は六十秒、一秒は六十刹那の集合である。この理により人間は一刹那でも生命が止まっておらぬ。
一刹那でも同じ状態ではおらぬ。無常のものである。又、滝を見てもわかる。ちょうど白帯を掛けた様な美しい滝も、その水の流れは一秒も止まっておらぬ。
今見た滝の水は、目をひかぬ間に、早下に流れているのである。人は滝が落ちているというが、滝は寸時も無いので次から次へと異なった水が落ちているのである。
この様に地の間に何一つとして常態のものはない。次から次へと変わって、姿は空なものである。
この様に人間の身体が空なものなれば、その身体の中に含まれた五薀が、空なりと認めねばならぬ。
すなわち、身体の色薀が空なる以上、受想行識も皆空無相なること明らかなり。
かくて、空の上にいずれの所にか苦厄があろうか、すなわち五蘊皆空である。これが宇宙人生の大真理である。次章に実例をもってこれを明らかにする。
第 四 章 本文第二段
舎利子よ。色は空に異ならず、空は色に異ならず、色即ち是れ空、空すなわちこれ色なり。受想行識も亦復かくの如し。
舎利子とは釈尊のお弟子中、知恵第一といわれた。舎利弗尊者の事である。
この経の短い中に、釈尊が二度も舎利子よと呼びかけられた事からしても、聴講の代表者が舎利弗であって、その他の一切衆生に対して説かれた法門であるこ とがわかる。
「仏教の大海は、信を以て入り、智に依って度る」といわれてあるが、実にその通りである。 般若部のお経は、知恵の教えであるから、充分と考えなければわかりにくい。
このお経は釈尊が五十才から七十才前後でお説きになったので、お弟子も充分教えを理解し、行も充分出来た時のお経であるから、むつかしいのも当然である。
「色は空に異らず、空は色に異らず」といふ事は、色というのは、現象界すなわち、目で見えるもので、空というのは、本体界で、現象そのまゝが本体、
本体そのまゝが、現象となってあらわれているという意味なのである。
たとえば、ここに水が流れておって、波が立っておるとすれば、水そのまゝが波であり、波そのまゝが水であって、水波一体をいうのである。
人間の生命も同様で、生あって後に、死あるのでなく、生あるところ必ず死があるので、生死一如で、生と死とは、本来別物でない。
この境界を悟れば、死を見ることなを生のごときものあるに至るのである。
人間の生命のみならず、万象ことごとく、有るものは必ずなくなるものである。
云いかえれば、有るそのまゝが空無なのである。有ると思うのが迷いで、有るそのまゝが本来空なのである。
色とは、物質をいうのであって、目に見えるもの、耳に聞えるもの、鼻ににおうもの、舌に味わえるもの、身に触れるもの一切を、色法というので、それ等の法のことごとくが、本来空なのである。
それを反対の言い方をしたのが「空は色に異ならず」というたのである。
また、「色即ち是空、空即是色」の即は、「そのまゝ」という意味である。「あるそのまゝが空である。空は平等観で、色法は差別観である。
このようにいうと非常にむつかしいようであるが、聖者は、この理を実際問題では楽々と衆生の前に示しておられる。
どう言う事かというと、釈尊の前に出てお尋ねしたい事がある時に、釈尊は、すでにその人の今までにした事や思うている事を全部知 っておられて、その人に一々見ていられたごとくに話される。
その人は驚きの 目を見はり、釈尊は、何で自分のしたことをあの様に、詳しく知っておられるか、実に釈尊は生き神である、生き仏であると舌を巻いたものである。
釈尊のお目には、その人が、五官を通じてした事を、そのまま見られるのであって、釈尊の前で言われる問題は、その人からいえば、何も見えぬはずじゃのにと驚いている。
この間の現象をよく考えて見れば、色即是空、空即是色をそのまゝに演ぜられているのである。何もむつかしい論議はいらぬわけである。 ただ、教えの通り信じれば、よい。
言い換えれば教えの通りに信じぬき、教えの通りに行じぬけば、成仏出来る。 成仏すれば、このむつかしい問題も易々たるもので、説明を要せぬ事となる。
前に述べたごとく、観世音菩薩が釈尊の御入定中に影響ましまして、舎利弗を相手として、諸法の本体空にして、吾々の見ているそのまゝ耳に聞ゆる音や声のそのまゝが空であり、
又空そのまゝが現象世界となって、見られたり聞かれ たりしているわけを説かれたが、今更に、その空即是色の一切の諸法が生滅なきこと、増減なきこと及び浄くもなく不浄ないことを、
お説きになったことをお経では、「舎利子よ。 是の諸法空の相は、生ぜず、減せず、垢ならず。浄ならず、増せず、減ぜず、是の故に空中には、色もなく、受想行識もなく。」と教えられたのである。
おおよそ、我々は、月を見ても、花を見ても、あるいは太鼓の音を聞いても、そのものが実際にあると思うから、月に迷い音に迷うのである。
聖者の前に出てものをお尋ねした時に、聖者はその何たるを問わず、明らかにお心の内に知られている事も、色即是空の有様を、そのまゝ、尋ねた人の前に現わされているのである。
その時の現象なるものは、実際として、聖者の前に生じたものでもなければ、滅したものでもない。ただ尋ねた人の胸中の波が、聖者の胸中に写ったまでである。
此のように般若妙空の中には、六根が不思議な働きを起こすのである。 六根と 云えば、眼、耳、鼻、舌、身、意であるが、この六つが、六識の根源となり、人間生活の根本となる。
この六根の相手方となる色、声、香、味、触、法を六塵とし、六境ともいう。法塵というのは、意根の相手方となる法のことで、心にかわいいとか、憎いとか、うれしいとか感ずる分別をいうのである。
この六根と、六境とが入り合うところに、六識が生じて来て、そこに六根・六境・六識の三つが相応じて、始めて万物を認識するのであるから、単に根と境とが入り合うても、識が働かなければ、現象は起こらない。
そこで前に述べたように般若妙空の中には、色受想行識の五薀がないのであるから、従って、六根も六境もないことになる。その事をお経では、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法とお教えになっているのである。
この様に言うとむづかしい事に考えられるが、聖者が人助けをなさられるのを見れば、聖者の六根を超越して驚くべき不思議を現わされているのを見ても、お経の意味は察しられる。
次に「眼界もなく、乃至意識界もなし。」とお経にある。この眼界とは、眼根と色境とが、三和合して、眼を中心とする世界が三つ出来る。これを限界、色界、眼識界というのである。
耳を中心とする世界も、同様に三つ、鼻舌身意も皆三つづつの世界に分ける。全部で十八界になる。一番終りの意を中心とする世界は、意界・法界・意識となる。
この十八界のうち、眼界と意識界の二つを挙げて他を略したのである。
貪欲・瞋恚・愚痴などの心の作用は、皆意識界に属するので、共に、刹那刹那に消え去るので、本体空無にして、因縁によって、仮に存在するに過ぎぬ。
仮に存在するという事を、もっと詳しくいうと、無いけれども、因縁で現われる。現われるけれども、実体が無いという事で、いわゆる八不中道である。
「無明も無く、亦無明尽もなく、 乃至老死もなく、亦老死尽も無く、苦集滅道も無く、智もなく、得もなく、無所得を以ての故なり。」
今、人生を中心として考える時、三世にわたって、因縁関係で結ばれている。
これを十二因縁という。十二因縁は、無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・ 取・有・生・老死である。
これは釈尊が若行六年の後、菩提樹下で悟られた内容であるが、この十二の因縁が、相関連して生まれては死し、又生まれる事を繰り返して居るのが生死である。
この生死が何から始まるかと云へば、吾人の、迷いから出発する。水に波が起こるように、人間の生死も、煩悩という風から起こるものと、仏は悟られた。
この煩悩を十二因縁の第一に「無明」と名づけている。 第二に「行」とは過去 世の煩悩のために、色々の業を造ったところの、肉体と精神とを言いう。
第三に、「識」とは、過去世の煩悩と業とにより、この世に母の胎内に宿る最初の一念貪愛の心をいう。第四に「名色」とは、母胎に托した後、身体が出来るまでの四週間の総称。
第五 「六入」、托胎第五週より身体発育につれて、六根の完全に出来るまでをいう。
第六「触」、母胎より生まれ出て、二、三才までの簡単なる精神作用。第七 「受」 外界から色々の事を受入れる頃で、まず四、五才位から、十四、五才位まで。
第八「愛」 十四、五才位より、色々なものに愛欲を起す頃。 第九「取」二十四、五才から五十前後をいう。すべての欲の強盛な頃。
第十「有」これは、今までに積み重ねた業のために、未来の果報をもつという意味の時代。 第十一「生」、現世の業の結果として、未来に生まることをいう。
第十二 「老死」、老衰死滅をいう、すなわち過去の無明行を因として、現在の識名色六入触受となり、更に愛取有の三因が元となり、生老死の二果を招く。
一口に言えば、無明が根源をなして、老死をなしている。
無明をなくすれば、老死はない。しかるに、般若の空観は、元来五蘊皆空である。従って、無明もないから、これを断って、生死を除く事も無い。すなわち大空真理の内には、生もなく、死もないのである。
次に、「苦集滅道」と云うは、集を計るから、苦を生ずるが、この苦は、道によりて滅するという四締であるが、本来五薀を皆空と見る以上、四締の要の無き事明らかなり。
「智もなく、得もなし、無所得を以ての故なり。」というのは、人生は自性なき法である。生じたのでない。天地創造の昔、作られたものでもなし、生まれたものでもない。
ただ火の玉が冷えて、生きものになったというように、因縁によって、仮に生まれた形をしているのである。すなわち来る事もなし、去る事もないのである。
すなわち無所得のものであるから、智も得もあるはずがないという事を教えらたのである。
第 五 章 本文第三段
「菩提薩埵は、般若波羅密多に依るが故に、心に罣碍なく、罣碍なきが故に、恐怖あることなく、一切の顚倒夢想を遠離して、涅槃を究竟せり。
三世の諸仏は、般若波羅密多に依るがゆえに、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。」
菩提薩埵とは、菩薩のことである。この菩薩が大智の力に依って迷いの岸から悟りの岸へ渡られた、すなわち一切の諸法の皆空なる理を、決然悟られたのであるから、心は、直にほがらかで、何の障害もないのである。
金にも、物質にも、名誉にも、一歩進んで生命にも、とらわれる心がない。そうなると心にさわりがないのは、当然である。それであるから、恐れのないのも当然である。
我々の恐れるのは、身の内外における魔である。この魔を分類すると、天魔・死魔・煩悩魔・五薀魔の四種になる。天魔というのは、欲界第六天に住んでおって、人が善根功徳をするのを見て、これを妨げる悪魔である。
第二の死魔は 我々の身辺に常につきまとわって、殺さんとする悪魔である。第三の煩悩魔は 我々心中に煩悩をもって業に苦しめている悪魔。第四の五薀魔というのは、吾々の心内心外から、修業の妨害をする魔である。
これらの魔も般若の行者には妨害が出来ぬのである。
なぜなれば、般若の行者は、諸法皆空なりと、大悟するのであるから、魔もつけ入るすきがないのである。この様なわけであるから、従って恐れがなくなるわけである。
次に、顚倒夢想というのは、間違うた考えを正当なことと思う様な迷い心を指すので、四種類に分類出来る。第一、常顚倒というて、世の中に常住不変のものありと思う心である。
おおよそ世の中、何一物も永久不変のものはないので ある。第二の人生は、楽なりと考えるもの、人生、何一つとして楽なるものはない。第三に我顚倒というて我々の生活の中心たるわれというものがあると考える迷い心。
第四に、浄顚倒というのは、我々人間の肉体は、清浄なりというのである。この間違うている事は、明らかな様であるが、実際には不浄でもないものを、不浄と思い、このきたなき肉体を、
清浄なりと思う様な迷い方が相当にある。以上の四顚倒を離れると同時に、心の大安楽すなわち涅槃を得るに至るのである。
しかしこゝに念を入れて置く必要があるのは、小乗の教えでは、煩悩を断じて 初めて悟りを開くというが、大乗では、煩悩を一転するなれば、そのまゝ悟りである。
すなわち煩悩と菩提、迷いと悟りとが別物でない。その本体一つなりというのでなる。この天地の大道を悟る大知恵は、主として信仰によりてのみ得られる。これを般若波羅密多によって、得る知恵という。
過去の仏も、現在の仏も、未来の仏も、皆この大知恵によりて、大地の大道を悟られたのである。阿耨多羅とは、無上。三藐とは正等。三菩提とは正覚と釈する。
第 六 章 本文第四段
「故に知りぬ。般若波羅密多は、是れ、大神呪なり。是れ、大明呪なり。是れ無上呪なり。是れ無等々呪なり。能く一切の苦を除くこと、真実にして虚ならず。」
呪というのは、仏法がまだ支那へこない前に、呪禁というて、「まぢない」の法が、世間に行なわれて、その神験が信じられておった。
その後、密教が伝来して、陀羅尼を受持する人が、神道を得ておったのがちょうど呪禁に似ているのでその陀羅尼を呪ということになったのである。
それで、この般若波羅密多が、偉大なる神力を有する呪文であるという意味で、大神呪というたのである大明呪の明の意味は、般若心経が、よく衆生の迷いの闇を照らす光明となるということで、
すなわち我々が迷いを生じた時、この心経をとなえれば、直ちに迷いの闇が悟りの光明に一転するということである。
次に無上呪というのは、人間生活の本義を説き、天地の大道をあらわすこと、この経の上越すものは無いとほめたのである。
無等々呪というのは、等しきも の無き呪という意味で、他にこの心経に比較すべき呪文はないというたのである。
以上述べた様な功徳のある御経であるから、日夜仕事中でも、読じゅすれば、不思議に心の苦悩は除かれ、不時災難をまぬがれることは、真実であって、一つも虚がないとお説きになったのである。
第 七 章 本文第五段
「故に般若波羅密多の呪を説かん。即ち呪を説いて曰く。羯諦、羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。菩提薩婆訶。」以上のごとく、初め観自在菩薩より、真実不虚までの文を是を顕了般若といふ。
顕了般若と云うのは、此れ迄説明して来た様に、言語や文章で説き明すことの出来る般若である。しかるに、羯諦々々以下の十八字は、諸仏菩薩の秘呪であるから、本来解釈することが出来ない。
ただその通り読誦すれば、不思議に利益を授けられるというので、これを秘密般若という。今、この秘密般若は、一字一句に、沢山の道理が含まれているので、訳し得ぬ事になっている。
しかし、そうなると、なお知りたがるのが人情である。けれども、解けぬものを、無理に説いて、角をためて牛を殺すというような、間違いを生じない様にせねばならぬことを、心得え置く必要がある。
それから薩婆訶という文字が、一番終りについているけれども、これは一々の旬の下に付いているものとして解釈せねばならぬ文意である。
㈠ 羯諦「薩婆訶」。五蘊皆空とは知らず、この有為転変の人の世に、苦悩煩悶する迷の境遇から、悟りの岸へ到達し、天地の法則を了得せる、最尊の聖 者と尊敬する。
「薩婆訶」は、信頼、敬礼の意「菩提」は覚と釈する仏様の悟りである。
🉂 羯諦羯諦「薩姿訶」。同じ語を重ねてあるのは、至心信頼の強まりたる、自然発声の形を表わした、熱情のあらわれである。
🉁 波羅羯諦「薩婆訶」波羅は、悟りの岸の意で、その岸へ到達した人。すなわち一切の苦悩を離脱して、真の大悟へ達した尊き覚者へ「ソワカ」する。
㈣ 波羅僧羯諦 「薩婆訶」波羅僧とは「共に一緒に」の意味で、すなわち自覚 も出来、覚他も出来、円満悟達の出来た聖者へ「ソワカ」する。
以上