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第八二条へ 第八三条へ 第八四条へ 第八五条へ 第八六条へ 第八七条へ 第八八条へ 第八九条へ 第九十条へ第八一条 「餌を運ぶ親のなさけの羽音には、目もあかぬ子の口がみなあく。」
これは、つばめの巣に親が餌を運んで、子供を大きくする所の心ばえを歌ったものでありますが、この歌の意味は親が餌を運んで来るその親の情で、まだ目もあいとらん子が親が来るその羽音で、口を、はって親が来ているという事を、知っとるというような事を書いてあるものでございます。これは簡単な歌ですけれども、その意味は、慈悲の力というものは、そういうものであるという事をよんだものです。
私ところの酒屋の倉に、一ぺん燕が巣をかけた事があります。そうして子がかえっとるのです。親燕が虫をくわえて帰って来て、その羽の羽風で子供がピーピーと口をはっとるのです。それを若い者が見つけまして、大きな箕を持ってきて、子供のその巣をあおったのです。子供は親の羽風かと間違えて口をはるかと思うたら、なーにそうじゃないのです。中へすっこんで出てきません。これが箕であおった風には慈悲がこもっておりません。子供は目もまだあいとらん。見えないのですけれども、その風の状態で、これは親の羽風である。羽の風である。これはいたずらの風であるという事をちゃんと知っとるのです。若い者が感心しとりました。又時々あおいでおります。もうそういうかわいそうな事をするなと言うても、若い者は、おもしろいから、親の羽風と、みの風とを知っとるというのに時々あおぎよりましたが、これなどは別にその目が明いていないのですから、大きな物であおいだ風も、小さい親の羽風もそう変りないと思うのは人間の心でありまして、実際ああいう動物になりますと、親の慈悲というのを体に悟り受けるのです。その所を書いてあるのであって、親のこの慈悲という力の強いという事は、大変な、人のわからん力があるものであるという歌なのです。
魚にもこういう魚があります。刺魚という頭にも鰭にも尾に非常に鋭い針のようなけんが沢山はえとる魚があるのです。刺魚、この魚が岩に自分の卵を生みっけますと、その附近を泳いでいるのです。遠方へは行きません。その子を生みっけた附近の子の側で、あちらへ泳ぎ、こちらへ泳ぎして、自分がえを食べて子供の守をしているのですが、ついその魚が何かの都合で漁師に捕えられるといたしますと、不思議な事には、その卵はかえらないのです。これは昔からよく慈悲の力という事に例をとって話しする事でございますが、今日の動物学でも、これを感心しとるのでございます。何も卵がかえる為には、親がぬくめるのでもなければ、さわるのでもなし、何も世話するんじゃないのですが、この卵の附近を親が早くかえれ、早く孵れと念じつつ泳いでおる、その慈悲の力で子供はかえるのです。親がつられるか何かして捕われてしまうと、その卵はかえらんずくにすんでしまう。実に不思議な力があるものです。この親というものが、子に向いての慈悲というのは実に仏心なのです。子供の為には自分が命を差し出してもええ、身替りになってもええ、すなわち、お地蔵さんのような慈悲心で子供を育てとる。それを八十一条にといてあるのです。
(昭和三十四年四月三十日講話)
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第八二条 「われというその源をたずぬれば、食うと着るとの二つなりけり。」
人が自分自分、あるいはわしとか、私とかいうておるその我というものはどんなものか、これは皆さん考えてご覧なさい。自分というものがありますか、どこが自分です。もし財産が自分であるなら、財産がなしになるかというとなしになりません。あるいは名誉が自分か。それなら名誉を落してしまって全く名誉もなにもかもはく脱せられた囚人になりましても、やはり自分というのは変りありません。そんなら体が自分か。所が大東亜戦争で兵隊さんが手を失ない、あるいは足を失って、おけがをなさった方がありますが、それなら自分というものが、それだけ欠けとるかというと、欠けていない。そうすると、自分というものはどこにもないのです。生命財産すべてのもの、そういうものが決して自分ではないのです。自分というものに連絡はありますけれども、決して自分じゃない。こういう風に我というものをずーッと探していきますと、ついに見つからんようになるのです。
ところが、よくよく自分というものができた元を尋ねて見ると、なんでこんなものが出来たのかというと、ずーッと先祖の先祖の大ご先祖の昔の何億年昔の自分というものを考えてみると、ほとんど人間じゃなくして、動物になりしまいに虫になり、ついには、ずーッと大ご先祖になりますと、顕微鏡で見なければならん所の、小さい虫になってしまう。それでもやはり自分という観念があるのです。その証拠には、顕微鏡で見ますと植物が体へさわる、それを食べる。その所作を見ると手も足も、目も頭も何もない、単細胞動物でありましても、生きておる以上自分というのは知っとります。けれども、今日我々が、私とか自分とかいうような個人的な考えでいうのはありません。それが次第に食物の奪い合いをする。あるいは場所の争奪をするという風に、敵と自分という風に区別がついて来まして、食物の多い所へ行きたいとか、あるいはぬくい所の、暮しよい所へいきたいとかいうように、次第に欲ができてくるものです。そうして今日申す所の生存競争、生きていく上の競争という事が起こりまして、次第次第に自分という観念と、人が暮していく上の衣食住とが離すべからざる関係になりまして、そうして自分というものが次第と幸福になってきたのです。ですから我というものを探しつめて、源を尋ねて見るというと、食うと着るとの二つなりけり、という歌なのでございますが、こうなりますと、その自分というのは欲です、欲のかたまりが自分なんです。そうすると自分というものは、人を考えない。人とは決して一緒にいけない。自分がとったら、人のが減る。こういう風に、すべて競争的でなければ、自分というのはたたない事になるのです。結果自分と人とが仲が悪という元はここにあるのです。ですからこの自分というものをのけねば、人間の本当の値うちはわかりません。自分というものが強いほど人間は、たとえ知恵がありましても、それは人にいれられません。世の中のすたり者になる訳です。
(昭和三十四年四月三十日講話)
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第八三条 「日日に積もる心のちりを洗いのけて、ほんとうの我というものを見とどけよ。」
本当の自分というのは、どんなものかという事を見届けるには、どうしても日に日に積もる所の心のちり、すなわち欲です。食いたい、着たい、遊びたい、楽したい、出世したい、いやどうのこうのと人の心の中に望む所の、その欲の事を心の塵とたとえてあるのです。それを払いのけて、何も欲のない本当の一番最初できた大ご先祖のような心になってみたらどうな。そうしたら、自分というものの値うちがわかってくる。それを見届けようというのが八十三条。どうしたらそれが見つかるかという事は八四条に書いてあります。
(昭和三十四年四月三十日講話)
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第八四条 「神信心する者は 物断ちしたければ、まず第一に口舌をたてよ。」
本当の自分というものをみなそうとするならば、まずどうすればよいか、一番先にだれでも信仰するというと、私は酒を断ちます、あるいは火の物断ちをいたします。あるいは何々をいたしますという風に、物断ちをして、願をかける事をよういたしております、それも結構です。しかし第一に口舌を断たないかんというのです。どうですか、あなた方には、口舌はそう沢山おありになるとは、私は思いませんけれども、ないという人は恐らくないと思います。
どうです口舌。まあ口舌の種類は多うございます。生活の上の口舌というのは、私しやこの働かな、こんな苦労せな食えん所に生まれてきてつらい話でございますが、あるいは自分は体が生まれつき弱いので働きができんので困る。
これも口舌です。又いろいろいうでしょう、家族の間でも、どうも家の家族は楽したいものばかりで、仕事が私一人にふりかかってくる、なんというような事、これみな口舌でございますが、口舌には反対をしたらよいのです。
そんなら口舌の反対とはどんな事かといいますと、あの一燈園の西田天香という偉い人があります。あの人は今の滋賀県、近江の琵琶湖のそばの浜縮緬ができる所の大きな家に生まれた方です。あの方が何不自由ない家に生まれたのですけれども、さてお釈迦さんと一緒です。病気しとる人を見ると気の毒に思うし、死にひんする人を見ると気の毒に思うし、実にこの人間という者は苦労が多いものだと、私もそうなんだ。これどうしたらこの苦労が少なくなるだろうか。ちょうどお釈迦さんのようなお考えでいろいろ考えた結果、あの浜縮緬の製造工場を、わが兄弟に譲ってそれから親せき、家中の人に財産をそれぞれ適当におわけして、自分だけは、ほんの手と身で世の中へ離れて修業に出たわけなんです。そうして、どういう事をなさったかというと、人のきらう事を好んで引き受けてなさる。たとえば便所の掃除、今皆便所の掃除するでしょう、便所の掃除好きな人はありはしません。人と仕事を一緒にする時には苦しい方、きたない方へと回っていく。こういう風に、人がきらいな方へきらいな方へあのお方は回って、喜んで生活をしたわけです。いつの間にやら、非常に立派な徳が積めまして、人からは西田天香さんとして拝まれるような方になった。そうなりますと、人の一身上の事がよくわかるようになるのです。あの人、あまり拝みません。
あまり拝みませんが、そういう肉の体でもってお経文も実行したわけなのです。それでああいう立派な人ですから沢山の信者ができまして、日本中いたる所に一燈園の声を聞くわけでございます。
芝居なんかに「すわらじ劇団」という芝居がきまして、私も見せてもろうた事があります。その役者になる人でも、実に行儀正しいものです。芝居の始まる前には一同般若心経を唱え合掌して、今から芝居を始めますというご案内をして、無事に努めさしてもらいますという案内をしておいてでなければ幕をあけません。それから買い物があって町に出ましても、全部芝居がすんで休んでいる時でも、普通の役者さんと違います。きちっと服装をしてみだらな風もせず、その言葉づきが丁寧な事、行儀のよい事、こういう風に信者に至るまでもが、拝み合い助け合いというような事になっとります。これなどは口舌を断つという方です。一切口舌言わないのです。実にきれいです。あなたも、こちらへすわらじ劇団なんかきた時分には、あの役者の風を見てご覧なさい。外題は見なくとも一向差しつかえありません。芝居は、皆普通の芝居でございますけれども、その役者の暮し方を見てご覧なさい。帯一つだらしない帯をしとる人ありません。きちっとくくって誠に真じめな柄の着物を着て、風彩は実に感心するわけです。これなどは、すなわち口舌を言わずして暮しとれば結構だという事です。
(昭和三十四年四月三十日講話)
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第八五条 「修業するということは、えらい人のいうたことを いわしてもらい、したことをさせてもらい、思ったことを思わせてもらうことである」
修業の方法です。すなわち西田天香さんが、大きな家に生まれた裕福な恵まれた人でありますけれども、そういうものは人間の幸福じゃないというので、飛び離れて、お祖末な木綿の黒っぱの着物を着て、夏でも冬でもその着物です。木綿です。今あの方は国会議員ですが、その議員の議会に出るのでも同じ木綿の黒っぱです。羽織は、着とりますけれども、やっぱり木綿の羽織です。袴はいて議場に出るのです。所が、そのお弟子(信者)が芝居をするのでも派手な物着ません。お師匠さんのなさった事をさせてもらう、真似させてもらう。お師しょうさんが、いつも言葉つきは丁寧に言うておられますから、その信者の人は皆互いに拝み合い助け合いです。きれいなものです。
それから思う事を思わせてもらう。すなわち西田天香さんが、人間は決して財産や、地位や、名誉を得とるんが幸福でない、私はそういう家に生まれたけれども、努めて人のきらうことを修業させてもろうた。その真似を又信者がさせてもらうんです。本当の人間の幸福というのは、財産や着物や、食事などではない、心にあるんじゃ。こういう事を西田天香さんが思っておいでた事を、又信者が思わせてもらう。これが修業振りなんです。そうでしょう。
あなた方も今三宝会でいろいろな事をなさったり、言うたり、思ったり、しておられるでしょう。これは泉先生がなさった事、おっしゃった事、思いなさった事、それをあんた方が日常生活に、農家の人は農家の方で、商家の人は商家の方で皆、自分の家業にそれを折り込んで、そうして先生の真似をさせてもらう事が、信仰ということになっております。
(昭和三十四年四月三十日講話)
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第八六条 「我が身を捨てねば、人のことはわからぬ。」
西田天香さんは、人の事をよーく知っておいでるのです。拝まなくとも、ですから相当立派な家庭に生まれた若い者が西田天香さんのお力を授かりたいというので、沢山はいっておる。大学卒業生もはいっとります。どうしたのかといいますと、学問で人間は幸福になれないというので、西田天香さんにお仕えをして、する事、思う事、言う事を西田天香さんの通りに真似ていっきょるわけです。
「これはお経文にも書いてあります。「身口意。」の三業とあります。身と口と心ですから体は行ない、口は言語、言葉です、意は心ですから、思う事すなわち八十五条に書いてある通りに、偉い方がなさった事を自分の体でさせてもらう、偉い方が口でおっしゃっとる事を、自分も口で言わせてもらう。すなわちお唱えをしたり、泉先生の気持で人とお話したりするのがそれです。それから偉い方が思うた事を、自分も思わせてもらう。ということは、どういう事かというと、ただ金もうけにこった所で人間は幸福になれない。働かねばならぬけれども、この世の中でお互いに拝み合いをして、ここで極楽の世界をこしらえるというつもりならば、家族もきれいし、世界もきれいになるのに違いないのです。そういう事を思って行くという事です。
ところが信心といえば、妙に山の中へはいったり、お通夜したりしますがそんな事、しなくても、日常生活で朝起きて寝るまでの間、家の仕事をしながら、いつも神様に通う事ができるのです。どうして通うかと言いますと、八十六条に書いてある通りに、自分の身の欲を捨てるのです。望を捨てるのです。我が身を捨てて、そうして他の方と互いに拝み合い助けおうて、この世を終えるんだと言う心がけが神様に通うのです。そうするといつの間にやら、自分が考える事が拝んでおさし図受けたのと同様な考えになるのです。これが不思議なのです。西田天香さんを、人が皆拝んだりするのは、それなんです。
それから、高野山に無明の橋というのがあります。高野山には橋が三つありますが、一番奥の橋が燈明堂、お燈明堂の手前に川が流れています。それに掛けてある橋が無明の橋です。金仏さんが多く並んでおります。水かけ地蔵さんが並んでおります。あれにお水を掛けて、拝みますとご先祖へ届くというので、皆水をお祭りして、ご先祖を拝んでから、橋を渡っていますが、あの無明の橋、あの無明の橋の横に、こちらから行きますと、手前の右側に白い石で刻んだ大きなお地蔵さんが座っています。お地蔵さんや、お坊さんが座っています。あれは明遍上人という方ですが、あのお方が高野の紅葉谷という谷で小屋を建てまして、その小屋の中で朝も晩もお経文を読んで、お大師様をこがれたんです。お大師様のなさったそのなさり方を真似て暮らす。そうして、お大師様が、お読みになったお経文を口で読ましてもらって、そうしてお大師様はいつも、どういう事をお考えになっていたかという事を、お経文によりまして自分が悟ったのです。お大師さんのみ跡を慕うという事は、その事です。そうするとお大師さんがいつも、出ておいでるそうです。明遍上人は日に日に奥院をお参りして、橋を渡ってお燈明の本堂にお燈明を上げてのちに、裏へ回ってお大師さんを念じて、そうしてお帰りになるのですが、いつもお上人さんがあの橋を渡って後へ向いて、おじぎする時分に、お大師さんが現われて、送ってきて下さっとるのです。明遍上人がお大師さん、まことに有り難うございますけれども、私ごとき者にそうしてお送り下さるという事はもったいのうございます。どうぞ送って下さるのだけはご遠慮申し上ますと言うた所が、お大師さんがおっしゃるには、明遍上人に向いて「うん、それはもっともだ、しかしわしは決してお前さんだけを送っとるのではない。私の前へお詣りにきてくれた人を、ことごとくこの橋まで送り返しとるんだけれども、知っとる人と知らん人とがある。お前はわしが見える。だから、そんなに断わるんだ。わしは皆送っているのだから遠慮に及ばん」といって、お大師さんからお言葉があったので、明遍上人は「ああさようでございますか、有り難うございます」と橋のたもとで座って涙をこぼしたということです。
あの無明の橋を渡る手前の右を見てご覧なさい。明遍上人をお祭してございます。このように、ああいう偉い方を慕い抜いたらもう、それでお陰が受かるのです。
では慕い抜くというのはどんなにするのかといいますと、えらい方がなさったような事を真似て、させてもらう。
そうして、その方が常におっしゃっていたことを、自分も言わしてもらう。そうしてその偉い方が常にどういう事を思うていたか、自分に向いて、どういう事を思うて下さっていたかという事を自分も思う。思い返す。これがお慕いする事なのですから、この身と口と心、すなわち身、口、意の三つです。この三つが行なえれば、そんなにお参りにあっち、こっち走り回らなくても、家でおかげは受かるという事が明遍上人でよくおわかりになったと思います。
(昭和三十四年五月十五日講話)
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第八七条 「人を導くには、其の人の望を知らねばならぬ。これはほんとうの慈悲があれば神がわからす。」
今日世の中は、よほど文化が進みまして、人は賢くなりました。かしこくなりましたが、さて子孫の為に、幸福を残していっているかという事を考えて見ますと、全くそうとも言い兼ねるわけです。日にお日にも新聞面をご覧なさい。西洋では小さい戦争ができています。もし本当の武器を使うというような大戦争が起った時には、一日にして地球上は地獄と化してしまいます。ちょうど、ほうらくの中へ蟻でも入れて、それを下から火でたくというようなもので、生きる者がないようになるのです。これは何のお陰でそうなさったかと言いますと、すなわち文化が進んだ為に人間の知能で最も恐るべき所の武器を、編み出したという事になるわけです。これをもし人類の幸福の為にそれを使うならば、又今日まで使い憎れた所の化学の機械よりも、もう一つ便利なものが使える事になります。
だからもう世が進もうが、進むまいが 金ができようが、できまいが、ともかく一番大事なものは何かと言えば「あなた方は恐らく安心して子々孫々に致るまで喜んでいく世界を実現したいとお答えになるでしょう。」泉先生のお祭りの時に、仲須さんがお読み下さっているあの宣誓文、あれを見ましてもよくわかるように、ここへ極楽の世界を実現するという事が人間の一番幸福な事なんです。その実現するのにはどうやればよいかと言いますと、この泉先生のお教えのようなものが、世の中へずーっと広がって、一人残らず、あのような精神で生活するという事になりますとそれが極楽世界なのです。
弘法大師がおっしゃられた事、弘法大師がご生存当時と泉先生のご生存当時とは、違いますが、ほとんどの事柄が同じ有り難い事を見せて下さっとるのでございます。その意味で、何よりも一番大事なものは信仰でございます。
その信仰の中でも色々ありますが、泉さんの信仰は、本当に子々孫々まで幸福をもたらす元であると、いう事をご理解の上でお知り願いたいと思います。
(昭和三十四年六月十五日)
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第八八条 「人が悪いと思うな、心の向が違うておるぞ。神の方へ向けてあげれば、悪いことはできぬものである。」
「この人が悪い」「あの人が悪い」色々とよく聞くのでございますが、これは本当に向こうを見る力がないということを証明しとるわけでございます。本当に向うがわかりうるならば、悪い人はないわけです。心の向いとる方向が違うのです。人間の心を十にわけまして、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人道、天道、声門、縁覚、菩薩、如来と、こう十にわけておりますが一番悪いのは、地獄、餓鬼、畜生です。ところが、お釈迦様がどうおっしゃったかと言いますと、「人間はこの十階皆、持っとるのである。所が生活の状況や因縁の具合によって、その十の中でどれが一番よけい使いよるかという事が人間の値だ。」こうおっしゃっとります。人が悪い、あの人は人が悪い、こういうような事を言ったり思ったりしますけれども、これは裏手から考えると悪いという事は、悪い方に癖がついておるんだ。よい方はないのでない。沈んでいるんだと、いう事になるわけなのです。
お釈迦様は、四相観というお話をなさっとります。それはどういうのかと言いますと、以前にもお話し申しあげたのですが、あの谷の岩間を流れている青々とした谷水を、空を飛んでおる天女が眺めると、谷川の水と言わない。
あしこに瑠璃がある、ご承知のるりというのは、青い水色をしたきれいな玉がありましょう。女の方が帯どめにしたり、かんざしにしたり、色々飾りにするあのるりです。大きなるりがあしこにある。こう天女が言うのです。ところが餓鬼どもの人がそれを見ると、それが火に見える。火が流れとるという。又人は、人間、真人間は谷川に水が流れとるとこう言うのです。魚は又その中へ住んで水の世界を知らないのです。これはわしの世界だ。水という事を知らん。
こういう風に、一つの谷川の流れでも四つに見えるのです。るりに見る人があり、火に見る人があり、水という人があり、その中を我の住家として水を知らん人がある。こういう風に、すべての事が自分の日常生活に使いなれとる事に考えを使いまして、人間その人の値打ちという事になるわけでございますから、あの人が悪いとか、よう悪い事する人だとか、いう事はその一部のかどを言うておるのであって、すべて十階はもっている。十階は皆持っとるんじゃ。お釈迦さんでも、地獄、餓鬼、畜生、の心は持っておいでる。ただ使わんだけの事で、慈悲に燃えておるから、そんなの使えないようになるのです。そういうわけで八十八条に書いてあります事は、人が悪いと思うな、心の向きが違うんじゃ、この向きが違うた事を使いよるんじゃ。こういうことになる。
それを直すには、どうしたらよいか。自分で直そうとしたら どうしたらよいか。 こういう事になるのでございます。それがためには信仰が大事なんでございます。「おまはんこんな癖がある、悪い癖や」とこういう風に批評しますとついてきません。わかりませんから、その時分に、こうこうこういうわけじゃ、あなたはこういう因縁によって こういう事を使い慣れておいでる為に、これをこうなさると、こういう風にと、順序説きましたら、ひとりついてくるようになります。つまり心の向きを変えてあげるのです。ここにも書いてある通り、神の方へ向けたげれば悪い事はできんようになるわけです。そこで私は考えるのです。泉先生は、人を拝む時分にどういう風になさっておるかという事を私が横から拝見しますと、まったく八十八条に書いてある通りの事をなさっとるのです。浦辺のある漁師の家の人が、津田の先生の所へきまして「先生私とこは、どうも漁ができませいで、舟がぼろになっとるけれども、新しい舟も作れませず、日に日に主人がやかましく言うし、家の中はもうごたごたで誠に困るのでございます。先生こりゃどないいたしましたらよろしゅうございましょうか、」お尋ねしているのを、私はその横で聞いておりました。すると先生がおっしゃるのです。その時分です、この八十八条に書いてある、そこのご主人が悪いと思うなということになるでしょう。人が悪いと思うな、心の向きが違うんじゃ。それを向きかえてあげると悪い事をせんとこう書いてある。先生その通りお加持の時になさるのです。「おばさんよ、お前さん所、なんじゃなあ、浜辺の一軒家」「へえ一軒家でございます」
「そのお前さん所の西手に槙のかこいがある」「へえ、ございます」「片仮名のコの字を書いたような具合になって南の方が開いとんで」「へえそうでございます」「その槙がこいの中に石の頭が三つ四つ見えとる、芥で埋まっとんじゃが、あれおばさんわかるかい」「へえ先生あれは、私所の親父が舟の綱こっしゃえるといって、藁そぐった、しぶをああしてすてたのが風が吹き飛ばしたり、それが積ってきて、あんなになっているのです。先生あれは、お墓の頭が上へ出とるのでございます」「いやそうだろうな、石の頭が三つ四つ」「先生恐れ入りました」「おばさん、これは人間だったらどうだろうか、頭からしぶかぶせて、年中埋めといたら」「さあ先生喜びまへんな」「そうだろう 仏さんも喜ばんぞ、こないしたら、おまはん花あげるたってあげにいけんでないか、水あげるったって」「へえ、そうでございます」「で、おばさんなあ、これは、先祖は怒っておれへんけんどなあ、先祖を喜ばしてあげんと家の運はよくならんのだぜ」「はあっ、そうですか、そんなに先生におっしゃられたら恥ずかしいのです。すぐにかえったらすぐ直します。」「おまはんとこ、舟こっしゃえるといよんねえ」「へえへえ舟こっしゃえるといよります」 「金が足らんので」「へえ足りませんので」「この舟、おまはん横腹にひしの餅みたような板打ち付けてあるんでないかい」「へえ、先生、あれこの間、岩へかちつけて横腹に穴が開きましてない、あれ主人がひしの餅みたような、かっこうの板を打ってあります。」「そうじゃなあ、おばさんこの舟近いうちに、さらが出来るように金がもうかるぞ」「あーそうですかい」「それだから先を喜んでご先祖あいじゅうにしときなよ、そうしないと神仏が手伝ってくれんでよ」「そうしたら家の中が喜べるようになる。仏さんが喜ばんと皆が喜べんようになるんで」「ああ先生恐れ入りました。さっそくいんだらそうします」と言うて、おばさんは帰ったのでございますが、今度そのおばさんがきた時分には、もうにこにこしとるのです。「先生がおっしゃった通りほんとうに、仏さんて勿体ないもんでございますなあ」と言う。「おばさん、どうしたんでぇ」「どうしたんでって、先生あれからまあいんですぐに、あのしぶや芥のけまして、お墓をきれいにそうじして、花をお祭りしてお言いわけしました。そうした所が、その明くる日から漁が取れる取れるたって、手間がいるほど先生取ってもんてきます。そうして、にわかに金が先生できます。これはこの前、先生ところへおじゃましてから、まだ一月に足りまへんけど、船が一艘出来そうでございます。」
「そりゃおばさんお目出たい。仏さんていうのは、大分力があるもんじゃなあ」というて、先生がにこにこお笑いになっとる。これどうですか、人が悪かったと思うな、悪いと思うな、それをおばはんが、お父さんが悪いというて、理屈いうてご覧なさい。決しておっさん喜べへん。それを先生は心の向きを変えたげるというのです。信仰の方へ、ご先祖の信仰の方へ心の向きを変えてあげる。そうしたら、たちまち家の運が変わって、そういう風になって、益々仏さんを大事にする。被岸参りをする。ご主人大事にする。そうするとご主人は運が向いてくる。又子供や、おばさん大事にするという風になってくる。
ちょうど八十八条が、そういう事になっとります。泉さんはこういう力があるそうです。人を拝んで助けるのでも拝んだんではいかんのであって、心の向きを変えたげて、その人が本当に神仏にお使えが出来るようになったら、お陰がもらえるのです。拝んでお陰はくれるもんじゃないのです。その心の向きが変わるような力を持っておるという方は、お大師さんでも、泉先生という方は徳が高いのですから、どうぞお間違いのないように。拝んでもらえば、どこの、どんな人に拝んでもらっても、それでお陰になるとは思わんように。どうぞ自分が心の向きを改めて、そうして、神仏に好かれるような事に進める有り難いお加持でないというと、お陰は受からんのです。ここをお間違いのないようにして、いただきたいと思います。
南海丸という船が紀州の沖で沈みました。それからどこの会社でも船を作りますのに、傾いてもすぐに元の位置にかえってくるように船を作る事を、やかましく言い出したのです。これを復元力といいます。舟を傾むけて見て、くるっと元の位置にかえってくるのに時間の速さがあるのです。直ぐに、かえってくるほど、かやりにくいのです。
それが船のおもりが上の方にあると、傾いても、元へかえってくる時間が長うかかるのです。その内に後から波がファーと来ると傾むいとる上へきますから、沈んでしまうのです。そこを復元力といいまして、元の位置にもどる力というわけです。人間の心の方にも復元力というのがいるのです。
今お話ししました、この漁師の家です。これもどうかというと、家が食えんようになって、皆、朝から晩までにらみあいばかりしとる。これは船が傾むいたのと同じです。そうすると元の位置へもどってくるのに、なかなかもどれない。幸い先生のような偉いお方に会ったから、もどれたのでございます。その復元力は、おがむ人の力と自分自身の信仰心によるのです。おがむ人は、おどしたのではいけません。神さん仏さんになついて、あーというので、おっしゃる通りついていくというような拝み方でないと、おどしたんでは恐れの信心というので、これはお陰になりません。そういう風な事が、拝む人は拝まれる人に復元力をあげるのですから、気をつけなければなりません。
又、そのお陰をもらう人は、自分の心にさわりがある。自分の仕方にさわりがある。そういう風に自分の方が悪い為に、これ、家が傾むいたんだという事を知るのが、人間の復元力なのです。今日船をこしらえるのでも復元力、復元力というて傾むいても、そっと元へもどってくるのに、速い船を作るようになりましたが、私はこれを考えますに自分の一生の中に困ったという事は、どんな偉い人でも再々あるわけでございます。それで元へ、あーよかったという風に、元へもどってくる、復元力を持っていただきたいものです。
泉先生は、この復元力をつけるという事が、非常に卓越しとるお方でありました。お大師様もそうです。四国八十八カ所参りの道中で、色々奇蹟がおこったとかいいますが、何も寄蹟といっても珍らしいことじゃないのです。当り前の事なのです。その奇蹟に会って、元の位置にもどってくる復元力がついたわけなのです。復元力のことが、このお経文にも書けておるのです。あなた方は、観音経秘鍵をご覧になった事があるでしょう。私も一度お話し申し上げた事があると思います。あの観音経秘鍵にもこの船の事を書いてあります。
(昭和三十四年六月十五日講話)
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第八九条 「人を助けるということは、神の仕事の手伝をしたまでで、おかげはめいめいの心の向きようによるものである。」
人を助けると言えば簡単な事でございますけれども、神様の仕事は、人間の苦を抜いて楽しみを与える。むつかしく言いますと、抜苦与楽の行、こういう事になるのでございます。神様には、お休みがありません。お言葉がありません。普通目にかかりません。こういうわけでございますから、どうしても神様に通じた人が、神様と人間との間へはいって、抜苦与楽の仕事を人に伝えねばならん。こういう事になるわけです。ですから、人を助けるという事は、神の仕事をお手伝いする。こういう事になるわけです。ところが、この人助けという事については色々広い意味がありまして、単に拝んでお加持をする事も人助け、又そうでなくして、人の通うておる道路を直すとか、あるいは一燈園の西田天香さんの団体がなさっておるように、便所の掃じをするという事、これも神様のするお手伝いと見てよろしいのです。又、三宝会の方々がお休みの日を利用してお祭りてのない無縁のお墓さんをお掃じをする。こういう事も立派な神の仕事のお手伝いでございます。そのお手伝いをするという事につきまして、手伝った人は、そのお陰というものが、どういう風になるかと言いますと、決してそれは決まっているものじゃありません。神のお手伝いをした人のお身の上に、お陰があるわけでございまして、お陰という事が人毎に決まりませんが、心の向きによっては神様の方から人を喜ばせてくれる。こうなるという事を八十九条に書いてあるのでございます。さて、この人助けをする、人間には苦というものがございます。四苦八苦という苦がありますので、その苦を抜いて楽を与える。苦を抜いてあげる事も、これは人助け、尚その上にその人のお楽しみをあげる。お世話をするという事も大きな人助けで、抜苦与楽という事になるのでございます。これは私が今、ここで詳しいお話し申しあげなくてもあんた方は、既に泉先生のお助け振りを知っておいでる方もおありになるだろうし、色々神のお力を授かった人が、人を助けておるのをご覧になるでしょう。
ところがそれには、特に人間に苦がなければ、それをのがれるという都合ができません。言い換えると、苦を抜いて楽を与えるという事は、人に願があるという事です。お願がある。だれにもお願がある。もう一つ言い換えると、希望がある。その人間の希望をお手伝い申して、楽な方へ仕向けてあげるという事が言えるわけです。
その願いという中には、二つの種類がありまして、神さんにお願をかけて、私は、こうしていただきたい。あるいは病気をなおしていただきたい。あるいは自分の仕事を運よく進ましていただきたい。こういう風にお願いするのを有相の願といいまして、形のある願でございます。又、無相の願というのがあります。これは常々思いよるのです。別に神様にこうという特別な箇条でお願いするんじゃなくして、日常暮しておる、何にもお願をかけておいでなくても、望みがありましょう。たとえば、どうぞ皆の家族は息災に生きたいものである。あるいは子々孫々に至るまで生活は楽にさせてやりたいものである。この希望のないお方はただの一人もありません。そういう神仏に願をかけておらんけれども、心の中で願うとるというのを無相の願というのです。形のない願、これいずれも願でございます。両方願なのです。この人間には、知能がありまして、色々な事を考えたり、工夫したりいたします為に、有相の願というのがございますけれども、他の動物、牛とか、馬とか、あるいは猫とか、又小さな下等の動物になりましても、皆願があるのです。その願は大低無相の願です。神さん仏さんにお願いする願じゃなくして、心の中でこうありたいものである。こうして欲しいという願があるわけです。それを無相の願というのです。
たとえば「ごいさぎ」という鳥があります。朝晩に山でガァガァといって鳴いておるあの鳥、あれは夜の鳥でございます。この鳥が夜出ます為に体の毛がねずみ色です。これは他の強い鳥に見つけられると襲撃せられます。ねずみ色の毛がはえるとわかりません。よたかとか、みみずくとか、ああいうものに襲撃されますから、夜飛んでおってもわからないような色に変えております。ごいが、自分の体を敵に見つけられないような色あいのあの毛です。あれは願がかのうて、あんな色ができたのでございます。何もごいが自分でに製造したものでありません。つまり心の中で敵に見っけられんようにするには、自分の毛の色を変えねばならん。こんな知恵があってしたものではありません。敵に見つけられんようにしたいもんだという願が、かのうたわけなのでございます。これは無相の願がかなったのです。このようにして、すべて動物は保護色ができるし、あるいは警戒色ができるし、要するに自分の身が守れるように、守れるように、保護を加えられているわけです。これは、すなわち神様のそういう動物に苦労というものを抜いて楽を与えた。つまり抜苦与楽の仕事ができたという事になるのでございます。
所がそれは下等動物で、自然に守られておるのですけれども、人間となりますと知能があります。そこで自然に神さんがお助けになるものを、人間がお手伝いができるという事になるのです。どういうお手伝いかと言いますと、ここで一つ、助け振りという事についてお話をしてみましょう。人間は、どうも疑い深いのです。神さんにお願をかける。どうぞ私ただ今、こういう病気を持っております。ですが、お助けを願いたい。こういうような願をかけるといたしますか、所がこんなに頼むのに神さん、何も返事をしてくれない、そんな事が聞いてもらえるのかという疑いが、心が浅いと、あるのでございます。そこで神様のお陰をいただいた方が拝みます。そうすると、その人が拝んでもらいに来ていて、その拝む方の言葉を聞いとります。そうすると拝む人は「お前さんは夜、夜中に熱がでるか」「へえ、 さようでございます。夜中が来たら妙に熱が出るのです」「ああそうか、あなた家族に旅に出て大きな難苦に会うて生きておるんだか、死んでおるんだかわからんという人がありませんか」「いや先生ございますんじゃ」「その人、 今、仏壇に祭ってないな」「へえ、祭ってありません」「ところがもう十何年にもなるじゃないか」「へえ、そうでございます」「これはその人は、もはやこの世におらんのであるが、祭られとらん、つらいと迷うておると、いう事になるんですから、祭る、祭らんはともかくも、この人に対する慰安の為に、お祭りをしたげないかん。決まってからお位牌を祭るのは、よいけれども、又その神仏の所へいって無事を祈る。今まで無事を祈ってきたんだけれども、日がたつに随って祈らんようになる。この頃は、ほったらかしになっとる。」「先生もう初めは願いよったんですが、この頃にもうほったらかしになっとる」「ああそれでいかん。今晩から一つお祭りをして、お位牌祀らんでもええが そういう気持でその人の冥福を祈ってあげなさい。なおりますよ。」こういう事を言うたとしますか、これはたとえです。そうすると、その人がいかにも、ほんに十何年前に大きな台風におうて、その船が行くえがわからんようになって、その汽船に乗込んでいたのだが、初めは無事を祈っていたけれども、この頃はほったらかしになっとる。こりゃ相済まん事じゃと、そこで拝んでもろうた所が、不思議に拝んだ人が知るわけのない、その人がそこへ出てくる。 人間の知恵以外に恐るべき力という事を信じるようになるのです。あれには恐れいりました。
そこで疑いがなくなるのです。神さん聞いてくれるんかいな、くれんのかいな。そこに聞いてくれるに違いない。
その仏が聞いてくれるに違いないという確心ができるわけです。それが為にお陰がもらえるという、すなわち、その拝んだ人は神様仏様のお手伝いをしたという事になるのです。神、仏には言葉がないんじゃから、疑がう人には通じない。そこで、その間へ入って、それを通じさせてあげる。つまり神仏のお手伝いをした。こういう事になるわけです。そこで、その人はお陰をいただいて、その熱が出るという事もなくなるし、又健康になる。こういう事になるわ けです。
これは病気のお話をいたしましたが、病気ばかりでありません。心の方にでも色々苦労をしておる事でも、皆その通りに苦を抜いて楽を与えられるような事になるわけです。そのお手伝いする人が、すなわち今日拝む人という事になっております事はご承知と思います。そこで、その拝む人という事になりますと、この後々の事は、よくわかるのでございますが、これから先、すなわち未来に対する事になりますと、泉先生の如き、まことにみ徳を沢山お積みになった方、貪、瞋、痴のない方です。欲のない、欲もおっしゃらん。又、怒るという事もなさらん。すべての事を平等に悟りを開いておいでる方は愚痴をこぼしなさらん。こういう方になると先の事がわかるのです。泉先生等は私の身の上の事を四十年も前から言われとる事が、今日実現してきよります。
たとえば、日本の国は島々からできておる。その島々が、戦争の後で、金で結ばれるようになったならば、その時、お前さんに大きな運が回って来るぞ。こういうお話をしていただいております。なるほど、戦争は済みました。その後に離れ島、日本の国が離れ島になっとるから、それを金で結びつける時が来たならば、お前さん運がよいようになってくる 。すなわち九州と下関とをつないでおる所の、馬関海峡あれトンネルが出来ました。すなわち金で結んだのでございます。又、阪神地方と四国とを結ぶ所の鉄道ができかけております。こういう風に島と島とを結びつける。金で結ぶ、すなわち鉄橋がかかったり、トンネルが出来たりする事を先生がおっしゃった。それが、私が三十才の時に承わったんでございます。四十年の今日になってそれが実現しかけております。やがて又、青森県と北海道の函館とを結ぶでしょう。青函トンネルといいまして、ただ今測量をしております。こういう風に、日本の切れぎれになっとる島を鉄で結ぶ時がくる。先生おっしゃいました。なるほど、そうなってきよります。こういう風に何十年先でも一つもくるわないという事は、先生のお徳が高い証拠なんです。拝む人はすぎさった事がよくわかりますが、あんた方がご承知ですが、そういう風に、先の事が弘法大師や泉先生のように、お徳が高くないと、なかなかわかりにくいのです。
こういう風に、神様のお仕事を人間が間へ入って、神さんと困っている人との間へ入って、神様のなさる事を人間がして人を救済する。これを神の手伝いというのです。で、お手伝いする中にも、だんだん拝む人も多うございますが、徳島県など特に多いのですが、何千何万の人があります。これもいずれへ行きましても相当多いのでございます。
けれども、特に泉さんのごとき、ああいう飛び離れた方がお生まれになるとよくわかるのでございます。
この八十九条に書いてあります事はその事を書いてあるのです。
(昭和四十四年六月三十日講話)
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第九十条 「身の達者を願うのは働かせてもらいたいからである。達者であるから願いごとがないなどいうのは あやまりである。」
神さんに達者を願い、どうぞ息災にお願いしますとお拝みになって、達者になったなれば、これで願い事がない、わしゃ達者なけん願い事がない。こんな事おっしゃる人がありますけれども、泉先生はそうでないとおっしゃる。
働かせてもらいたいから、達者にして下さいと願うのである。その働くという上に、今度は知恵を貸してもらいたい、運を貸してもらいたい、いう事の願いがあるのであるから、働くという以上は願いがないという事はないはずである。こういう風に泉先生はおっしゃるのです。これが大事な事でございまして、達者であれば願う事ない。働かせてもらいたいから願うんだ。こういうような事を書いてあります。簡単でございますけれども、一つ例をあげて申しましたならば、よくおわかりになると思います。
ここに海老という動物がございます。これは、まことに用心深い動物でございまして、あの長いひげが生えとります。あのひげで前の方を探るのです。そうして頭にかぶとみたいなけんをもっております。自分の身があぶないと思うた時分には、あの扇子みたいに広がっている尾びれで、さっと胴を丸うにすると、水をけって後へとぶのです。つまり尾びれを広げてさぁっと体を縮めると、水をかいてすーっと後へとぶのです。これは実に達者なものです。しかしながら、この海老が神仏にすがっていない自分の武器がありますから、けんといい、触角といい、それからいかんと思う時、後へすーっと飛ぶ所のあの海老の胴の筋肉は、すなわち後へとぶ時の道具の筋肉です。あれを縮めると、すーっと後へとびます。こりゃ丈夫なものです。それでお正月の飾りに用心深いという事で、胴の丸む、丸うなるまで長生きするというのでお正月に、お鏡の上へ置いたりしてお祭りしたりするお家があります。なるほど海老は目出度い、いかにも用心深い、あのひげで探って、兜みたようなけんをはやした帽子をかぶって、あれで防いでおる。まさか違えば、後へとぶ。こういうのですが、その海老が神様にお願いせずして、自分の武器に頼っとります。わしは武器をもっとる。所がその武器の為にしくじるのです。ここが大事な所です。
それから又「とら」あるいはライオン、こういう動物は、自分が非常に強いというのを自分が知っとります。熊でもそうです。ですから敵を襲撃していくのです。あのとら、獅子は猟師が鉄胞を持っているのに、それを襲撃してきて四、五メートル位の所までくると、さあーッと飛びつくんじゃそうです。それで獅子をとったり、虎をとったりするところの人は、実弾をこんで、じいっとその方へ向けて立っとるのです。遠方から打つんじゃないそうです。とかく獅子や虎、それにあの熊などは大きな強い力を持っている。爪といえば鎌みたような爪です。きばはらんぐいのようなとがっとるきばを持っとります。体は強い。とびあがると四メートルもとび上るというような、びんしょうな体を持っている。その自分の武器にすがっております為に、なあにお前位なんなというので、ずーっとそばへ寄ってくるのです。で、猟師は動くと飛びつかれるから、じいっとにらんどるのじゃそうです。照準をきめて、あたるに違いない所でドンとやるとたおれる。これが為に獅子でも虎でもやられるのです。
あれは自分が強い、武器を持っていなかったならば、早く逃げて生命をまっとうするのです。あの熊のごときは、北海道の熊取る人の話を聞きますと、昔槍を持っていくんじゃそうです。そして穴の所で待っとると熊が出てきて、 そうして槍を持っとる人の方に向いて、ずーっと寄ってくる。槍を持っとる人は、よそ見したら飛びつかれるから、もうじいっとにらんどるのです。熊はそろそろと側へ寄ってくる。もうほとんど槍が届く所まで来ると、ああっと口をはる。その口の中へ槍を突き込む。そうすると、その槍を折る積りで、手で必らず押えつける。そうすると、ぐっと向うへ突っ込んでやると倒れるんじゃそうです。もっとも、そういうのをとる人には、大きな勇気はいりますけれども、向こうが後へよらない、自分の武器に頼って後へよらないという所を利用してとらえるのです。
こういう風に、その自分の体に強い所の武器を持っていると、神さんに頼らないのです。それでやられる。人間はそうでない。人間はあなた方武器ありますか。爪というたとて、かゆいところをかく位でしょう。芋を掘るったって この爪で掘れません。歯だって、そうです。芋に噛みつく位の力かないでしょう。とても人間の歯でかみあいしたって、こんなもので何にもならない。走ったって遅いです。まことに人間は、たいした武器を持っとりません。
ところが有り難い事には知恵というものをくれてありますので、どういう風な行をすれば、神さんに聞いてもらえるか、どういう心がけすれば、神さんに気に入られるかこういう知恵を持っておって、獅子や虎のような武器を持っていないから体の武器にたよりません。結局弱いから強いのです。こういうわけで、自分が達者であるから願いが無いという事を言うのは大きな損だと泉先生はおっしゃったのでございます。
(昭和三十四年六月三十日講話)
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