61~70条

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第六一条 「一飯をくれ 庭を掃くという者には、一飯も恵まれぬが、望まずして掃く者には一飯どころか、まだまだよく恵まれるものである。」


このことを泉先生が例をあげてお話しなさったわけですが、これをもう一つ信仰の方に変えて申しますと、神さんの前へいって、私の願はこれこれの願でございますが、これをおききとどけ下さるならば、のぼりをさしあげます。
あるいは金の鳥居をさしあげます。こういうものにあたるのでございますが、だいたい信仰で申すことと、人間でいうこととに区別をつけることはいけないので、信仰の方で、いかにもきれいだなあと感じることを、そのまま人間の世界の方へもってきて実行するということが泉先生のお心にかなうわけです。
このことにつきましては、あなた方も色々な御経験をもたれていると思いますが、この頃世の中が、物騒になりまして、色々な団体、すなわち鉄道の団体であるとか、あるいは郵便局の団体であるとか、ひどいのは学校団体であるとか、いうような団体の大勢の力で仕事をしておることが、ただいま申す六十一条のような仕事をしております。
これは私が申すまでもなく、あなた方はすでにお気付きの点と思いますが、どうも近頃物価が高いにかかわらず、給料がこれではやりきれない、もう少し増してもらわんといけないが、どうも増してくれそうにもない。そこで大勢の人がお話しをして、一ぺんに休もうじゃないかと、こういうことが新聞などによく出ていてご覧になることと思います。これは一人や二人がやめたんでは事業にさしつかえがない、首切られたらおしまいだ。ところが何万あるいは何十万という大勢の人が一時に連絡をとって休んだならば、その国の仕事はたちまちにして停とんします。
学校の試験時分でありましたが、諸国から東京方面へ沢山の受験生が集まっていっております。その時にちょうど鉄道のストライキがあったのです。汽車が動かない、ところが一方で学生さんは、この一生一代の大事な瀬戸ぎわに歩いて東京へ出るのではつまらん、中には、たくさんの費用をお使いになって、自動車で東京へかけつけた人もたくさんあったらしいのです。又そういう便の得られないところの山奥とか、あるいは辺ぴなところで車の通らないところから出身なさっとる学生さん達になったならば、実に御気の毒な状態です。それが為に、年に一回しかない検査が受からない。たちまち、一年延ばさねばならんというようなことが生じましたことはご承知のことと思います。
これはちょうど、この六十一条に書いてあることの通りでございまして、この六十一条に書いてあるのは飯一椀くれ、そうしたらあんたところの庭を掃く、こういう人には掃いてくれと頼む人がない。望まずしてここの庭をきれいにしようといって掃徐した。だれがここの庭をはいているのかな、こんど見つけねばならん。もし見つかると大変なお礼を受けるということもままあるわけなので、ここで私が考えますのは、泉さんが、信仰のお話をなさってある通りのことを社会でもししてくれるならば、ただ今お話したような、国民一般に迷惑をかけるというようなことはないはずです。六十一条というものを今日実行してくれるならば、世の中は、ストライキはありません。また穏当な方法でいくらでも話はできるものだと思います。わしの思いをかなえてくれるなれば、こうしてやるという肩書のついたようなことは、どうも国を衰微さすもとになると思います。
これにつきまして、明治維新のころでございましたが、だんだんと偉い人が明治になって、殿様が政治をなさっとったのが今度は政府ができまして、そしてお役人が政治をするということになりました時に、中央に偉い人を集めんならん。ところが陸奥宗光という人が明治維新にありました、ご承知でしょう、外務大臣をしていた人です。人物は偉いのですけれども、別に候補に立って自分が役所へ勤めさせてもらうということはあまり好まん人です。その時に伊藤公が政治をなさっておったのです。総理大臣です。その伊藤公が政治を上手になさる。それに感心したのが陸奥宗光さん、わしゃこういう偉い人間が日本を治めてくれるのに、遊んでおってはつまらん。伊藤公の玄関でも掃いたるというて、朝暗がりにやっていって、ほうきで掃いて知らない間にもどってきておる。
伊藤公の屋敷では、「誰がうちの玄関から屋敷をきれいに掃いているのか、いつか見て見よ」といわれるので気をつけておると、ついに見つかった。「それはこの向こうの森の附近に、ざっとした小屋みたようなところに住んでおるおっさんでございます。」「そうかな、あれは陸奥とかなんとか言ってたな。」「なんかそんなような名前のように聞いております。」そこでしらべたところが、わかったのです。そうして、陸奥さんのところへお使いをたてて、伊藤公から来てくれという添書をつけた。ところが陸奥さんは、そんなら今からいってくる。そうして玄関へはいったところが、下女が陸奥さんをみて、陸奥さんはその時草履をはいておったのですが、ほこりだらけなのです。
下女が足をすすぐ為に手だらいに水を入れて、足掃きをもってすぐきたのです。ところが、その雑布がぬれていたのです。陸奥さんは、気持が悪いから、その手だらいの中へ足を突っこんで、ガボガボとやって玄関へ上って、座布団があったから座布団ひっぱって、足をふいて「ご主人に陸奥が来たというてっかはれ。」取つぎが「ハイ」というて案内した。ところが陸奥さんはバッチはいて、しりからげて、しりだけはおろしてトコトコと通っていった。
それをみた伊藤公は、だいぶんこれはかわっておる。話をしてみると人物は偉い、別に言葉をたくみに使うて偉い人間だと思うてもらおうとしておりません。することがまるで祖野なのです。手だらいの中へ足突っこむし、雑布がぬれているからといって、乾いている座布団で足をふいた。まことに乱暴窮まるのですけれども、もしはねられればそれでよし、そんな所作で、わしの腹わたをよう見んようならば、こちらから仕へないというような 意気込なんです。つまり飯くれ庭をはいてやるというのと違います。お前政治が上手じゃからお前の門口おら掃いてやる。しかし出てこいというわしを試験するという、おれはざっとした人間なんだと、一つも求めていないのです。ついに陸奥宗光公は、時の政府の外務大臣をやってはがねをならしたという歴史が残っております。
泉先生はこういうふうに、決して、その形をいわない。この人の心がどこにあるか、神仏が好きだろうか、好かんだろうかというようなところへ、お目をつけておっしゃったことが、六十一条でございます。これをまた信仰の方からいいますと、神さん私の願を聞いて下さいな、聞いて下さったら何々をさしあげます。神さんを何かおちんでつるようなことになります。そういうことがいかないので神様には、どうぞこちらから是非お願い申し上げます。そうして神様にさしあげる物があるならば、聞いてくれるくれぬにかかわらず、神様に礼儀の一たんを現はす為にさしあげる、さしあげぬ場合もそれもよろしい。またほうきをかついでお庭を掃除することもよろしい。とにかく聞いてくれる、くれんということを掛け勝負につかわずして、おたのみする一しき、こちらからはお仕へする一しき、こういうふうに真心で仕へたならば聞いてくれるぞ、こういうことが先生の教へようとするところのお心ざしなんでございます。
こういうことは、ままあなたがたのお家にもあることと思いますが、人のおつき合いする上にも、この通りおちん で人をつってはならん。人に対しては尊敬のできるだけの真心で尊敬したら、それでよろしい。そしてお礼するのは別です。それは、しようとすまいと別問題ですが、先へくれたら働く、こんなのではいかんわけです。
もう一つこうこういうおもしろいことがあります。板東町で大麻はんの町に、わたしのところへきてくれておりました支那におった人があるのです。斎藤さんという人なんです。その方が、支那でご用なさっていた時分に一日お休になって、鉄砲かついで山へ狩りにでかけたのです。ところが、溝があるのを知らずして、その深い溝へ落ちたのです。それが切岸のようになっとりまして、すべってあがれません。三メートルの深さなのです。てがかりがないものですからあがれんので、だれか人が通りかかったら上げてもらおうと思って、みぞの下で待っていましたところが、支那人が通りかかった。「もし、もし」「ああ何かいな、おまはん落ち込んだんか。」「ええ落ち込んでこまっとるんじゃが上げてくれんか。」ところが「ああよろしい。」といって、溝の上からのぞきこんで、指で丸いもんしたのです。これこれというもんじゃから「それなんか。」と聞いたところが「お金なんぼくれるか。」というのです。「お金というても今猟に来たんでもっとらんのじゃが、これなんぼいっとるのか知らんけれども、これ皆あげる。」 「ほんならひっぱり上げたる。」というて斎藤はんは鉄砲をもっとる、向こうは鉄砲の先をつかんで上へひっぱり上げてくれた。斎藤はんは猟にでたんでございますから、たくさんの金は持っておりませんが財布ごとあげた。
まことにその日のこづかいせんしかはいっとりませんので、開けてみて大変ご気げんが悪かったそうです。
そんなことを私は、聞いたのでございますが、そういう人が落ち込んで困っとるのを上げたげるのに、チップなんぼくれるのか、まあ人間の性根としてはかまいませんが、これを信仰とするならば、そんなことは神に通いはしません。到底そういうことをいうような気持であるならば、神様の前は通してくれません。これはともかくも、自分の報酬ということを望まずして、人の困っている事をお世話申す。あるいは自分の手間が余っとるならば、この余っとる手間をこのお家のところへもっていって使いましょう。こういうことが、本当の信仰だろうと思います。これはあなた方が日常生活の上に折々ご覧にもなるし、又そういう機会も多いと思います。どうぞ泉先生がおっしゃったそのお言葉の意味、飯一碗くれたらおまはんくの庭を掃きにくるわという者には、掃いてくれとはたのまんけれども、だまって知らん間に掃いてくれている人には、もし見つかった場合には喜ばれる。こういうことの意味をどうぞご解釈願いたいと思います。
(昭和三十三年十一月三十日講話)
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第六二条 「今われ一人、天くだって来たと決心して、何事にも工夫をこらせ。」


今、天とうはんから天くだってきたんじゃ。だれもおらん、そういうつもりで自分で工夫せよと先生がおっしゃっとるのです。無論、天くだってきたからといって人は沢山おります。世界の人はたくさんおりますけれども、そういう意味じゃなくして、昔々の大昔に天から天くだってきた。その時にはこの下は荒野ヶ原で何一つもない。相談する人もなければ、何もかも自分がしなければならぬというようなつもりで、自分がすべての工夫をこらしていくようにという先生のお話で、これは簡単でございますけれども、こういうつもりでいくならば、一人として世の中に食いはずしはないはずだと私は思います。健康に恵まれさえするならば、今天下ってきて、人に相談する場合がないんだ。おれはここで働かないと仕方がない、という決心をした場合には必ず天が恵んでくれる、ということを先生が天の真理を説かれておるのです。
私は三十三才の年に撫養へはじめて出ていきました。私は三十才で先生にお別れしたのでございます。先生のいわれたのは、おしゃかさんは、天にも地にもおれ一人だというようなお考えで、すべてのことを自分中心で考え出して、そのでき上ったものを世の中へつこうてもらう。お布施をする。こういうお考えであたったらしい。
天上天下唯我独尊とおしゃかさんはおっしゃって、生まれた時すでにお歩きになった。生まれた時にお釈迦さんは お歩きになったかは知らないけれども、ご幼少の時から自分のことは自分でする。そうして人間のかなわぬところは 神仏にご助勢をたのむ。こういうようなお釈迦さんのお考えであったのです。村木さん考えとれよということを私が三十才の年に先生がおっしゃられております。それがために私はどれほど得をしたか、これは皆様にお話しすれば相当長いことになりますけれども、かいつまんでお話し申上げます。
たとえて申しますと、私が撫養へ出ていった時分には、精米機に摩擦精米機というものがありました。金剛砥がくるくる廻るのです。シャフトにベルトをかけとりますが、金剛砥がくるくる一分間に百五十回も回る。その摩擦で米が精白にできよるのです。ところがその機械を仲須さんの後を受けて私がしてみますと、小米が多くできてかなわんのです。よく調べてみますと、そのシャフトにメタルが通っとるのです。一尺位の包金のパイプをシャフトを通してあるのです。それをベルトでひっぱっとるのでございますから仰山にいえば、そのパイプが小判なりに摩滅してくるのです。ベルトが引ぱっとる方向へ小判なりに摩滅してくる。それへ米を込んで廻しますからガタガタ動くようになるのです。そこで私は泉先生のお蔭をいただいたのであります。これ待てよ、今精米機にメタルを入れてある。これ三、四百石ふんだら、こんなにガタガタになる。うちは千石からふまんならん。後の半分位というものは、ほとんど精白する力が精米機にない。コンコン叩く力に変わってきておる。こりゃ何とか一つ考えねばならぬと申すのは、私が一人天下ってきて、今精米機にへばりついて、この精米機を考えるとしたらどうなるかと、いうことを私は考えてみたのです。これシャフトに玉ずりが入っていると摩擦しない。これが良いかしらんというので探しまわって、とうとう神戸の外国貿易館でスイスからきておるボールベアリング、すなわち玉ぜりを買うてきたのです。あの時でお金が四十円いたしました。あの時の四十円と申しますとたいしたものです。玉ぜりだけがとても高い金だったのです。それをこちらの鉄工所で入れてもらいまして、回したところが音がしない。軽い。十馬力つかっていたのが五馬力でいけるようになってきたのです。そうして千石ふんでも玉ぜりでありますから、それを送り込んでいたらいつも中心で回っとりますからシャフトがたたくような動きかたをしませんから、小米ができなくなりました。これは泉先生のお陰を受けたわけです。
その時は玉ぜり、ボールベアリングを入れてある機械はなかったのです。すなわち先生のお教えによりまして、今わしは、高天が原から天くだってきて精米機で困っているんじゃ、どうすればよいかということは、先生のご教訓によって私が助かったわけです。
それから又でき上りました酒を火いれいたしますのでも、釜に油をひきまして十石から入る釜に下から石炭でたいたら焦げますから木でたくのです。大急ぎで冷たい酒をその中へ汲みこんで、その酒が百四十度の温度になった時に又大急ぎで今度おけの中へかい込むのです。その時なぜ大急ぎでするかといいますと、たいておる釜が焼けとりますから、ぐずぐずしよったら酒が焦げるのです。少なくなってくるので大急ぎでする。大急ぎでかい出すと、後へ冷たい酒をはねこむ。こういうわけで一日に七人かかって、朝から晩まで六十石しかできないのです。朝暗がりから、晩暗がりまで働いて、お酒六十石の火いれをしとります。
ところがおりには(ためおけ)をかついでこっつり(衝突)してひっくりかへすのです。ひっくりかえしたならばあれには一斗入っておりますから大変な金がとんでしまうのです。私の損はしれたことで、皆さんが寒い日も暑い日も、かん難苦労してこしらへあげたお米を庭へぱっと放ってしまうたら、それっきりひらえないような不都合なことを私がさすのでございますから、その罪は深いのです。皆さんにお申し訳がない。わしは今、高天原から一人天くだってきて、こんな場合どうするか。そこで私はこういうことを考えたのです。
水はいくら下からたいても百度か上らない。そんなら釜の中へ酒入れるのをやめて水を入れる。そうしてたきまくる。その中へ金のパイプを通して、それへ冷たい酒をずっと通したならば湯が沸いとるからして、すぐ火入れができる。そうして温度が上がりすぎると、酒をよけいに通したらよい。早くパイプを通すとよい。温度が低ければねじをしめて、ソロソロとパイプの中を通すとよい。と、こういうことを考えたのです。
こりゃおもしろいというので、早速私がブリキ屋さんを呼んできて、八十尺(二四メートル)のパイプをこしらへて釜の中へ入れたのです。そうしてやりましたところが、あにはからんや、とてもよい成積で、今まで六十石しかできなかったのが百二十石もできるのです。同じ方法で、しかも火のたき方を大事にせよというて、釜たきにやかましく言っていたのが、釜焚きせえでも焚いてほっといてもかまわないのです。
それからまだ驚くことには、釜のふたをあけっぱなしでたいておるのでございますから、仮にふたをしてあったところですきがありますから、その冷たい酒が今度ぶり百四十度にまであがるまでにアルコール分がとぶのです。 どれだけ飛ぶかというと、冷たい酒を火入れして桶の中へはりこむまでは百分の五、すなわち千石に五十石の酒がとぶのと同じことになるのです。アルコールですから、かさが少のうございます。はっきりとはわかりませんが、計算すれば五十石の酒になるだけのアルコール分がとぶわけです。ところがパイプでそれを助けますと、わずかに百分の一しかとばないのです。こりゃうまいことをしたというて、一ヶ年に千石の酒をつくった場合に少なくとも三、四十石の酒がすたるのを拾うたわけです。そうして仕事が倍できる。
こういうことになりますと、私はお陰で酒を安く売りましても、皆さんに喜んでもらえるというところの原因が、これからできたわけです。そういうふうに成績があがりますと、店中の人でも喜んでもらえる。お客さんにも喜んでもらえる。そうして、私は何にも水を入れて高う売ったのでもありません。天とうはんが捨てているものを拾うのですから、これは泉先生がお喜び下さったと思います。その原因はどこにあるかといいますと、六十二条に書いてあります。今われ一人天から天くだったと決心して、何事にも工夫をこらせよという、泉先生のお教えに基いたわけでございます。
それから私は農業のことをあまりしりませんが、私が病気する前に野崎の方へまいりまして、おりおり話しをいたしました。その時のことをご記憶の人もあろうと思いますが、今馬に鍬をつけてひっきょるが、ああやってひっかえしてしもうて、今度又それをコロでこなして畔を割りよるが、これは一寸工夫すると、もう一つ馬よりも動力を回して一ぺんにひっくりかえして、今度それが通ると後がこなれとるようなものにこしらえたい。それから溝をさらえて、先手ぐわで右左に分けていっているが、あんなことしなくても少し鍬の先にしゃっぱをきせて、そのしゃっぽが上手に土をみぎひだりに分けていって、くずれんような装置にしとけば、みぞを切らなくともよいじゃないか。そんなあだ手間いらん。こういうことを申し上げたことがありますが、ご記憶の人もあると思います。今日この耕運機でなさりよることを見ますと、私が野崎へまいっていた時に申したことがたちまち実現しとるではありませんか。その時には耕運機はありません。その当時そういうお話しをいたしました。しかし、これは私が先見の明があったのではありません。六十二条に書いてある、今我天より天くだってきたと決心して何事にも工夫をこらせ。こうして人間が楽に仕事をして楽にできて、体をいためないで、その楽な体を他の方へ喜んでつかうということにするならば極楽世界はここに生まれるじゃないかという先生のご意志に基いて、私が話したわけでございます。
こういうわけで、六十二条は簡単でございますけれども、そういう意味が含まれている。しかしながら物事は、こういうことを考えまして、もうけてやろうというんならばいけません。これは私確かに申しておきます。六十一条に書いてあることのように、一飯くれ庭を掃くとこういうのでも「これ考えたらもうかる、もうけできるように考えたら」これでは神様は力をかしません。はっきり申しときます。損得というんじゃなくて、世の中の人が苦労している。あるいは無駄に人間の使えるものを消してしまっている。これを何とか拾う方法はないか。もっと体力を浪費しないで、楽にできる仕事はないか。こういう慈悲の点から考えて、今我天より天くだってきた。人を助ける為に工夫するのであるというんならば信仰。すなわち三昧の仏智見がその中から生れてくるのであります。
こういうところへ信仰を生かすのでなくては、信仰はまことにおそまつな信仰になります。六十二条はそういう意味でございますから、どうぞあなた方が農業の上にでもご苦労なさっている、あるいは捨てているものが現にあると思います。その時分にご工夫なさったならば、それが泉先生のお教えを再現して、体でそれを証明するということになるのでこざいますから、もっとも立派な信仰ということになります。そういう意味で六十二条をご解釈願います。
(昭和三十三年十一月三十日講話)
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第六三条 「世の中で あの人はしっかりしているということをよく聞く。またそのしっかりしている人が運の悪いこともよくきく。このしっかりという力を わが身の自由にしたいという性根に、おもしをしっかりかけたら運の悪いはずがない。人にむいてしっかりしていると、強いようで 弱いものである。神様の味方がないからである。かんちがいをせぬように。」


皆様、本日は昭和三十三年の一番おしまいの日でございます。今晩十二時を過ぎますと、除夜の鐘が日本国中の有名なお寺でなります。百八つの鐘が鳴ると同時に、昭和三十四年のあけぼのが始まる訳でございます。まことに思い出の多い晩でございます。どなたも今晩は、昭和三十三年の事績、すなわち自分がしたところの仕事に対しての思い出をいろいろ考えて昭和三十四年には、なんとか一つ、世の中の為、人の為、ご先祖の為に力を入れてやりたいというようなことを、お考えになる晩でございます。
昔から運起ソバとか言うて、運の起きるようにソバを食べるという例も今晩でございます。なるほど、ソバを食べて運が強くなるというわけじゃないはずですが、ソバというものに事寄せて、過ぎしかたの思いやりと、今度迎えるところの新年の勇気をこしらえる。すなわち、運を起こすというところの晩の、お祝いとして、昔からよく運起ソバといって教えの中に入れてあります。まことに、お目出たい晩でございます。「世の中で、あの人はしっかりしているということをよく聞く。又、そのしっかりしている人が運の悪い事もよく聞く。このしっかりという力を、我が身の自由にしたいという性根に、重しをしっかりかけたら、運の悪いはずが無い。人に向かって、しっかりしていると、強いようでも弱いものである。神様の味方がないからである。勘違いをせぬように。」という教えが、六十三条でございます。
みなさんの中に親御というお立場になりまして、娘さん、あるいは息子さん、その子供の、よそへおしつけになったり、又、よそからおもらいになるところの、おきき合わせをなさった経験のある人が、多くおいでになると思いますが、このきき合わせに行きますと、「あすこのご両親はしっかりしていまっせえー。」とか、なんとかいうことをよく聞くのでございますが、さて、ききあわせに限りませんが、しっかりしておるということが誠にあいまいな言葉でございます。自分の家の生業にしっかりしているというのも、又、手がつんどる。出すことは出さないで、ひっぱり込むのが上手な、これもしっかりしているとよくいうのでございます。
又、それは経済のことですが、それでなくして、人の意見ということについても、自分の思うことを、しっかりと突き通して行きたい。人の方のことは、おしつけてやりたい、こういう人もしっかりという中へ入っとるのでございまして、あの人はしっかりしておるということは、まことにあいまいな言葉になって来るわけでございます。これはあんた方もおきき合わせにおい出になった方は、よくご経験のことと思います。
そこで、泉先生は、この「しっかり」しておるということは、よい事でもあり、悪い事でもあるとおっしゃるのです。すなわち、しっかりという言葉に自性は無いんだ。使い方によっては悪うなり、使い方によっては良くなると、こういうわけです。そこで、どういうふうにしっかりしておるということを使うたら、運がよいかと、こういう大事な所の教えです。この、しっかりということは、力強くということなんでございますが、力強くものを制するとか、おさえるとか、決めていくとかいうことが、しっかりなんでございますが、泉先生の教えは、この「しっかり」というものを、自分の方に使えとおっしゃるのです。何々がしたい、こういうふうに暮らしたい、ああしたい、という自分の望み、希望、欲、悪く言えば慾です。それを、おさえつけるということです。人に理屈を受けたときこれを、やさしく受けよいものを、勝ち抜かねばならぬというふうに使うたならば、それはしっかりはしっかりですけれども、運が悪いことになる。
世にしっかりしておるのに運が悪いという人を、よく聞くのでございますが、その人は誠におとなしい人だ。 真面目な人だといわれる人に、運の悪い人は少ないのです。しっかりしとるという人には、相当運の悪い人があるのです。これを泉先生が、お戒めになっている言葉でございます。
これにも書いてありますとうり、しっかりという力を我がの自由にしたい、という方に使ったならば、大変悪いので、自分の心のはねようとしておるのを、おさえつける為に、しっかりとその力を使うと、自分をおさえつける。
こういうふうに、しっかりと力を使う人が運がよいのだと、こういう教えです。そこで、その、自分の心をおしつける。すなわち、己に勝つというんじゃなくして、人の方に勝とうとする場合には、これが運が悪くなる。
なぜ、運が悪くなるかと言いますと、すべて、泉先生の教えというのは、なるべく人の欠点をおさえるなというのです。で、その、自分の身に受けた場合に、大変便利が悪いというような場合には、念じて、そうして、神様に向こうの非難事をおさえてもらえ。人間では、それに抵抗するな。とこういうのが泉先生の教えなのです。 お大師様もその通り、人の欠点を挙げるな、我が長所をいうな。こういう事を、おっしゃっています。人が言うてもそれに反抗するな。お頼みして、自分はよけておれ。そうすると、運がええんだ。ところが、それをしっかりということを表わして行きますと、向こうをおしつけねばならぬ。自分の言いまえを通してやろうという勝気な行いになって来るわけです。そこで、むこうに強くあたると神様の味方が無いようになる。神様にお頼みしなければならないものを、我ががやろうとするのでございますから、神様の方は、味方になってくれにくい。そこで運が悪いんだ、とこういうふうに、泉先生は、お考えになっているのでございます。しっかりしておるという力の使い方というのを、勘違いせんように使うてもらいたいと、こう書いてあります。
昔、偉い人が、こういうことを言うたそうです。「なかなか自由になりにくいものはなんぞ」と。「自分が勝ってやろうとするのに、勝ちにくいものはなんぞ」。それは、我が心だ、というた人があるのです。自分の心に勝つ。
人に勝とうとして理屈をいうのは、たやすいのですけれども、自分の心をおさえるということは、非常にしやすいようで、むずかしいのです。
人の名前に「克己さん」というのがあります。己れに勝つと書いてあるのです。これはよいお名前と思いますが、自分に勝つ。自分の言いたいまま、したいままの根性をおさえることの出来る方は、名前の通り、りっぱな人になれる。己に勝つ。人に勝ってはもう、いけないのです。
昔から、あんた方は学校で歴史をご覧になったでしょうが、この勝つということを、人に勝ってやろうとして滅びているえらい人がたくさんあります。これは有名な話になっておりますが、「不如帰」という句を、信長と、家康と秀吉との三人が読んだのがあります。これは果して、三人が読んだのか何か知りませんが、家康と、秀吉と、信長とこの三人の人格をよく表わしております。これはご承知だろうと思いますが、信長という人は非常に気が短い。 自分をおさえるということをしない人でした。ついに自分の家来の明智光秀の為に、京都の本能寺で最期をとげました。天下をとった人でありながら、自分の臣下に焼き打ちにせられております。信長公が詠んだのに「鳴かざれば、 殺してしまえ不如帰」とあります。鳴かぬのなら殺してしまおうか、と。 ほととぎすは、夜、空を飛ぶ鳥なんですが、鳴かないのなら殺してしまえというので、つまり勝つというところの心を、非常によく言い表わしております。
それから秀吉公の句があります。「不如帰」「鳴かざれば、鳴かしてみせよう不如帰」ほととぎすですが、待っても待っても鳴かないので、鳴かざれば鳴かせてみせよう不如帰、とこう秀吉は言うたらしいのです。これも随分向こう意気の強い話でしょう。しっかりしとる話です。ところが秀吉公は、お気の毒ながら大阪城の、あのりっぱな大阪城を築きあげて、二代目になりました秀頼で将軍職は滅びてしまいました。これも夏の陣冬の陣、二度戦をしたために、それでもう天下はひっくりかえったわけです。
家康公の句は、同じ不如帰でも、気が長い話です。「不如帰」という題で、「鳴かされば、鳴くまで待とう不如帰」これはどうですか、なんぽ待っても鳴かないのなら、鳴くまで待つわい、というています。これなら、必ず鳴く声が聞けるに違いないのです。つまり、鳴く迄待とうと、早く聞きたいという自分の性根をおしつけて、鳴かねば、鳴くまで待とう。これなら続きます。ついに、徳川の歴史をご覧なさい。十五代続いて、今に徳川家というのは続いております。こういう例は昔から歴史にたくさんございます。
すなわち、一口でいうならば、自分の心をおしつけて、その時の状況について行くというのです。自分のその境遇に一歩譲って、そうして自分の自由にしたい心をおしつけて境遇に応じて行く。誠に結構な結果になると思います。 泉先生は、そういう所へ、お目をつけて、世の中には気が短くて、何でもやりつけてやるといったような、しっかりの性根を持っている者があるが、それはまちがっているといましめられている。そのような性根をもった人は、せっかく才能を持って生まれた人でも、失敗をしておる。しっかり教えとかないかんというので、この六十三条をお話しなさったわけです。誠にありがたいお話と私は思います。
どうぞ、この昭和三十三年が暮れて、もう明日は、三十四年の新年の始まりの日でございますから、今年一年でも六十三条を一つやってみようとこういうお考えが出るならば、そのお方は、幸運に私はいけると思うのです。
どうぞ一つ、気長く、自分の心をしっかりとおしつける。しっかりという力を人の方へ使わないで、とお願いしたいと思います。
(昭和三十三年十二月三十一日講話)
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第六四条 「人道は、天道によりて生じ、天道は、人道に向かいて恵み、天人融合して、二つにして一つなり。」


こういうむつかしい題でございますが、これは「人間の道」というものは、人間だけが考えたのでは通れないというのです。天地の道というのがあるわけです。この天地の道に従ごうて、人間の道をつくったのでなくては成功出来ない。人道は、天道に従ごうてつくっていかなければいけない。又、そうなれば、天とうさんの力、すなわち天道は人間に向いてことごとくなすこと、することに、恵み深いように見えるようになって来るのです。一も二もなく、天とうさんの力が人間に向いて慈悲に変わって来るのです。そうしていきますと、天道と人道とが融和して、二つであるけれども一つになる。誠に、結構な話です。
これをもう一ついい換えますと、人間の道と神様の道とは、二つでないというのです。神様の教えの道を人間として、人間の生活にそれを使うのじゃなくては、人間は生い立っていけない。神様の教えを、人間の生活に織り込んでそのまま人間の生活に使こうていくと、神様と人間、すなわち神人合一の妙というのがここにあるのです。泉先生はこのことを上手にお教えになっております。
これも、ちょうど明日からお正月でございますが、この神様の前におしめをはります。あのおしめは、ご承知のとうり、なってありますが、両方の太さが同じでないと、片寄れになって、たいへんかっこうの悪いおしめになります。同じような太さでないますと、きれいなおしめが出来ます。これを泉先生は、片一方を人間の道とおくんだ。片一方のワラの方を、神様のお力とおくんだ。神様のお力、すなわち教えの力と、人間生活の力とが一つなわにより合わされたならば、その人間が、運が悪いはずがないんだ。これを心がけよ。これを有り難く拝まないかないというので、神様の前へおしめをはったのだと、こういうふうに泉さんは教えておいでます。
こういうお話をしますと、何か神様の教えの道というのを人間の道にするって、えらいむつかしい、わかるような、わからんようなことになりますが、もう一つ、これをわかりやすく申しますならば、こういうことになるのです。
仮に、今日の原子爆弾、あるいは水素爆弾。これは、わずかに少しの目方のものが破裂するならば、もう何十里四方という所の生物が、爆発で、すべて死んでしまわねばならんという大きな力を持ったものでございます。これは、決して人間が作ったんじゃないのです。昔からあります。昔からそういう力は天地にあるのです。それを今日の知恵のある人が、いろいろ学問の上から研究をして、その力を、人間の所作で工夫するということになったわけです。
ただ、天地自然にあるものを、人間が使うというだけのことなのです。すなわち、これは人道、人間の道を天の道によって造ったんでございます。ところが、なるほど天地の力というものを、人間が作ったんじゃなくして、今、初めて使うたのでございます。しかしながら、ここにその大事なことは、「人道は天道によりて生じる」のです。 「天道は人道に向いて恵み」というんでなかったら宗教にならないのです。
なぜならば、この水素爆弾、あるいは原子爆弾のような恐るべき力を持っているところのものを、もしも、あの国を一つやりつけてやろうというので、それを爆破させるとか、あるいは大砲の弾の中にこめて、それを打ち出すとか あるいは、今日のような大けな遠距離砲弾を打つとかいうようなことをすれば、これは天道じゃないのです。自分が人をやりつけたろうというところの、悪魔の力を使とうとるわけです。天道が人道を恵んだことになっとりません。
ここが大事なところです。人道は天道を使うて、こしらえるには違いないのです。けれども、人間の性根というのは、我がまま勝手な性根がありますから、天道が人道に向いて、恵みという使い方でなかったらいけないのです。
もし、今日のあの原子力を、人道に向いて恵みに使うたらどうなるか。こりゃ、今日の新聞でやかましい言っていますが、この原子力を平和に使うとこういうことになります。わずかな燃料で、船も車も走らせる。飛行機も飛ばせる。こういうことになりましたならば、世界を何回転するのでも、あるいは石炭積んだり、いろんなものを途中で補給せんでよろしい。このあいだも新聞に出ておりましたが、あの潜水艦、潜水艦は時々上に浮き上がって、いろんな用務をしませんというと、潜水艦の用をしない。ところが、この原子力によって潜水しましたならば、何十時間も海の底を、ずうっと何千里も海の底を走っているのです。こりゃ到底他の燃料では出来ないのです。こういうふうに、戦争に使わずして、その力を人間の平和、人間の幸福、世界の幸福の為に使うならば大変なことです。
今日、電気起こすのでも水力を使う。あるいは、火力を使うというようなことをしておりますが、火力といったところで、もう石炭があまりありませんから、やがて地球の上では石炭が使えない時代が来ます。木をたいていく。木をたくといったところで、地球の上にはえている木ぐらいは、すぐ使うてしまいます。水力、なるほど水力ということもありますけれども、水力に制限があります。けれども、この原子力というもので電気を起こすならば、とても大きな動力がわずかな燃料で起きるのでございますから、この上もない便利なことになると思います。かさが少なくて、仕事が大きいのでございますから、とても人間のこの世の中には影響が非常に多いことになります。
こういうふうに、人が天地自然の力を、天道によって使うのでございますけれども、この使うのは、人間が使うの ですから、その使い道を天道によって、人間に、人道に恵みがあるように使わねば、天人融合の妙味は、おきないのです。ここを泉先生は、人間は天とはんの力を借れ。借るのはいいが、その借りた力で人間を助ける。生き物が助かる幸福の道に使え。そうせんと、神様のお力を全部いただくということは出来ないんぞ、と、こうお教えになっているのです。なるほどそうです。恵みという、すなわち、慈悲という心でないと、強い力が出ないはずです。
ある偉い人が、世界中で一番強いものは何かとこういう質問をした時に、いろいろな答えが出ましたけれども、一番強いものというのは虎です。動物園におりますあの虎、あの虎が、赤ちゃんに乳を飲ましとるところの絵を描いたそうです。それが、世界中で一番強いんだ。なるほど、よう答えたと私は思います。この、母親が赤ちゃんに乳を飲ましているのは、もう子がかわいい、かわゆくてかなわないのです。もしそこへ他のものが来るならば、非常に母親は強い力で敵にあたっていきます。
私ところにこういうことがありました。小さな、黒い猫を飼うていたのです。その猫に「こまん」という名をつけとったのです。そのこまんさんが、箱の中で子を生んだのです。その箱を、雨縁の下へ置いてありました。ところが大きな犬がおりまして、土佐犬のような大きな犬がおりまして、そのこまんが子供を生んで、箱の中で寝とるところを土佐犬みたいな大きな犬がのぞいたのです。すると、その小さな黒いこまんさんが怒って、土佐犬の頭にさっとかなぐりついたのです。犬がびっくりして、もう大きな牛の子みたいな犬が、クワンクワンいうて逃げてしまいました。私は見ていたのですが、その時のその小さな黒猫の働きというのは、犬の頭へさっとかきついたと思ったら顔をかきむしる。まるで、犬の顔は血みどろになりました。わずか、そんな小さな猫でも、大きな牛の子みたような犬に勝てるのです。なぜ勝てるのか。慈悲の力です。子供がかわいいという力です。もし、子供生んで乳飲ましとらんのであったら、犬がそばへ来たらすぐ逃げます。その猫は、慈悲の力の為に非常な力が出来とるのです。
話は後へもどりますが、先刻お話しするその一番強いものいうてみいといったら、その一番強いのは、虎が赤ちゃんに乳飲ましている絵をかいたというのです。あの強い虎のお母さんが子育てしよるのでございますから、もうそのところへは、ししが来たって、象が来たって、そりゃ寄せつけません。こういうお話のような具合に、一番強いものというのは慈悲の力です。ことに、人間が天地の力を借りて物を作る。そうして、そのこしらえたものを、慈悲の力でこれを人界に使う。と、こうしたら、もうこれ以上のことはありません。すなわち、天人融合して二つにして一つなり。すなわち神様の仕事ということになるわけです。
こういうふうに、どうぞ六十四条に書いてあることは、天等はんの力を人間が借って、それを人間界でこれを使う。その使うには恵みの心、慈悲心でこれを使うというならば、この上にこしたことはないと、こういうふうに泉先生はお教えになっているのです。なかなか簡単に書いてありますけれども、味のある言葉です。天の力を借って、これを慈悲に使うたならば、たいしたもんだ。どうぞ、先刻も申すとうり、今度は昭和の年代が変りまして、三十四年度になるのでございますから、どうぞ一つ出来るだけ天等さんの力を借りて、そうして人界でこれを慈悲に使うという事を一つ、来年度おやりになるという事を、お考え願いたい。
(昭和三十三年十二月三十一日講話)
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第六五条 「人道は水車の如し。半ば水に着き、半ば水を離れて始めて力強し。」


観自在菩薩が深般若波羅密多の行をなさった時に、五蘊は皆空であると照見して、一切の苦厄を度したもう、舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち、これ空、空は即ちこれ色なり、受想行色も亦復かくの如し 舎利子よ、この諸法は空相にして、不生、不滅、不垢、不浄、不増、不減のものであるから、この故に、空中には、 色もなければ受想行識もなし、眼、耳、鼻、舌、身、意も無い。色、声、香、味、触、法もなし、眼界もなければ、乃至、意識界もない。無明もなし、無明を尽してしまうという事もない。乃至、老死もなければ、又老死を尽すという事もない事になる。従って苦集滅道も無ければ智も無く、得もない。無所得の故なり。菩提薩埵も、般若波羅密多によるが故に、心に罣礙無し、罣礙無きが故に恐怖ある事なし。一切の顛倒夢想を遠離して、涅槃を究竟す。三世の諸仏も般若波羅密多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得給う、故に知る。 般若波羅密多は、是大神呪なり、大神呪なり、無上呪なり、無等等呪なり、そうして一切の苦厄を度す。真実にして虚がない。故に般若波羅密多の呪を説く、呪を説いて曰く羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩波訶般若心経。これが訓読でございます。このよみ方によりまして、お考えになれば、般若心経の意味はわかる事になっています。なお、この般若心経の意味は一度お話した事がありますが、これは日を変えてお話する事に致します。
ただ今、私が読みましたのは、これは般若心経の訓読であります。日本読み、これだけを先にしまして、それから六十五条をお話致します。六十五条は「人道は水車の如し。半ば水に付き、半ば水を離れて初めて力強し」こう書いてあります。これは人間の道を水車にたとえたのです。水車が一番よく強く仕事をするのは、どういう風に構えたのがよいかといいますと、車の半分を水につけて半分を空におく、そして踏めば軽く多く水があがります。
これを信仰、人間の生活にたとえますと、水の中をまず人間世界のお付き合いとします。水から上を神様、仏様の世界で信仰の世界とします。車の羽根の半ば水に付けるというのは、神の教えを人間の世界に使うことをいいます。
人間の心を神様の方へばかり使うのは、車が全部空中にうかんだ姿でお蔭が多いように思われるでしょうが、いけないのです。なぜいけないかといいますと、神様の前でお仕えするのは僅かの間です。人が生活しているのは、大部分は人間界です。それは見るもきたない、哀れ、はかない根性を持っておる人間同志お互のお付き合する沙婆の時間が長いのですから、人間世界での信仰を捨ててはいけない。神仏の世界の信仰ばかりにすがっておって、人間の方に重きを置かなかったなら、年中いやだいやだという日が日にも日にも多くなるのです。信仰しながらも不運に終るというのはこれなのです。あなたがた、そういうお話をよく聞くと妙に思いませんか。神さん、仏さんにすがっているのに運が悪い。おかしいことだなあーと、お思いになるかも知りません。けれども、我々は人間でございますから、その人間の世界で幸福でなかったならば、いづくに幸福が求められますか。弘法大師曰く「真如外にあらず、身を棄てて何んか求めん」といわれておる。真如すなわち神様、仏様のお力というものは外にないんだ。この人間界というものをのけてどこにあるのか、と仰せられておる。これから考えても、信心気違いのように、何もかも信心信心と一生懸命に凝り固まって、人間の方に重きを置かない場合には、日に日にいやな風が吹きます。ふといやな顔をする。それが人間に映る。憎まれる。きらわれる。いやがられる。それがどうして幸福でしょう。信仰の世界ばかりでもだめです。神様、仏様に仕えるのは、ちょうど神様仏様の御教えを体につける勉強をすることです。
その教えをどこで使うのかといいますと、人界で使うのです。凡人の世界で使うのです。修養のできておらん不幸な人を導いてあげる。助けてあげる。人を救う為に、喜ばせてあげる。といった立場に立つ為に、神仏に仕えるけいこをするのです。ちょうど学校でけい古した事を世の中で使うというのとおなじであります。信仰で神仏の前で鍛えた心と体を使うて、人界で使うと、どうなるかというと、ああ、あの人は真に感心なという、いかにも生神、生仏とい ってもさしつかえないようなお方だ、人がなつくそこで不運な人、困っている人にお話しをして、共に手を引いて助け合いで導くことが出来ることになるわけです。
もし、つまり半ば水中にある水車の教えです。今の反対に、神さん仏さんは目にも見えんのじゃが、それより人間の方でうんと働きましょう。神さんを拝んでおる暇に、田圃の一つでもはった方が、すぐ金もうけになるというふうに、神様仏様をのけて、人間界の働きばかりになると、ちょうど水車の水の中に全部押し込めてしまって、踏むのとおなじことで、水は上りません。そのような人は、人界からも必ずきらわれます。
神仏のお教えというのは、真にきれいな頭の下がる立派な行ないであるにもかかわらず、人間の方ばかりに注意して、経済の話、ソロバンの話、そういう事ばかりしていくならば、その人はちょうど理屈詰めの人であって、ソロバンがたかくて人に一歩も譲らぬ、負けるかという気があって、どこからみてもソロバンの為の人になって来るのです。ちょうど水車を全部水の中に押し込んだのとおなじです。つまり人界のみの生活に終ることになります。車は動くだろうけれども、水は田圃の方へは上がりません。こういうわけでございます。ちょうど泉先生は、なかなかたとえかたがお上手なんです。人に教へる教え方が上手なんです。ちょうどこの神仰の道、人間の道というものが水車みたいなものである。半分は空に、半分は水の中に入れてそれで踏めば水は一番よく上がるんだという、こういう風に泉さんは教えておるのです。
すなわち、これを先刻からのお話を信仰に置きかえますと、神様の前で自分の心を修業してみ教えに従い、磨き、それを人間界で使うようにすると、真に都合よく、自分も喜び、人も喜ばせる。こういう事に使へるわけです。これをたとえたのが六十五条でございます。これはお話しするとそのようなものですけれども、実際世の中にそういうのがありはしませんか。
世にまっすぐな人じゃと、いわれている人で、神様仏様にすこしもご縁がない人があります。つきあってみると横着でもなければ、別に悪いこともしない。しかしご先祖や、神様や、仏様をほってある。そうして、経済的な事だけに力を入れておる。こういう人があります。こういう人は、弘法大師の説かれた十界(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人道、天道その上が声聞、縁覚、菩薩、仏陀)の中の縁覚に当る人です。縁がなければ覚れん人なのです。悪い人じゃないのです。縁が無ければ覚れんから、縁覚という名を付けておるのですが、お付き合の上にも、別に悪い人でもない。しかし、なぜかしらんがご先祖を尊ばず、神仏を無視して、人間心で何もかも判断する。こういう人であります。
結局その方は、どうしても信仰に入らねばならぬような事が出来てきます。何か知らんが困り詰めたら、手が合うものなのです。それがいかに無信心な人でも、舟に乗りまして、沖に出て行って、しけに合うのです。そうして舟がまさに転覆しようとした時には、南無金比羅はんと言わぬ人が無いそうです。これも既に生まれついとるのです。
ところが無事に行っていますと、神にも仏にも用事がない。こういう風になる場合があるのです。そういう方が縁が無ければ悟れない。縁が出来て悟れると言うので縁覚という名を弘法大師はお付けになっております。
この信仰というものは、なくてもかまわないように思うのです。それも、むりないことです。健康であり、物はあり何不自由なく、くらしておりますと、神様にたのむものが何も無いと思うからです。信仰とはそうじゃないのであって、その健康でありましても、又家に財産がありましても、その健康というものはどこから来たか。経済的に楽にいけるというのはどこから来たか。その根を正しますと、信仰のご縁が無くしてはできないのです。平穏無事な時にも 信仰ということは必要なことです。
十代も、十五代もの長い間続いておる家の状態を見てみますと、ある代は、神様、仏様にご縁が非常によくつながっておる。その神へのつながりは、その先代が必ず困っております。困ってつながり、楽になってはなれ、神様に縁が遠くなる。こういう風になっております。よくあなたがた考えてご覧なさい。現代の状態を見たのではわかりません。長い代です。あるいは三代も、五代もたっている家の代を、ずうっと見てご覧なさい。信仰に入る前には、必ず人々は悲観しています。つらい目にあっております。そうして後に信仰にはいるようになって、恵まれて幸福になり ます。幸福になると慣れて来て、しだいに人の心に慈悲が無いようになるのです。わがままになるのです。わがだけがよかったらよいようになるのです。そうすると、神仏のご縁が薄くなって、やがて困る事ができて来るのです。 こういう風になっておりますから、たとえ幸福でありましても、健康でありましても、神仏にご縁が薄くなりますと、あぶないですから、どうぞ、この泉さんの教えは、水車にたとえてあります通り、いつも半ばは、人との付き合い、半ばは神さんとの付き合い、この両方面にいつもながら信仰の教え、それを使うて生活するという事になりましたならば、家が何十代続こうと、うきしずみが無いはずです。こういう事を泉先生は我々が栄えて行くようにお言い残しになったのが六十五条です。
(昭和三十四年一月十五日講話)
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第六六条 「財産は私有するまでは罪無けれども、私用するに由って罪となる。」


財産は私有するまで罪は無いといいます。すなわち、ためただけは罪が無いというのです。でも、それをわが事だけに使うと、罪があるこういうのです。財産は、こしらえるのには罪が無いというのです。こしらえたのを、使う時に、わがだけに使うとよくないというのです。それが六十六条です。
財産といいますのは、もっとも働いて、食べた後に残ったのが財産でございますが、それは質素にしていけば、必ず残るはずです。病気して使うたり、あるいは不意のことがあって使うたりしなければ、必ずできて来るものです。
その財産を、その家族だけが、衣食住に使うて、世の中に出さない。となると罪がある。こういうのです。なるほど、信仰の方から考えますと、そうなんです。そうして、人間の道から考えると、罪が無いのです。人間の道からいけば、何んぼ分限者になって、それが一つもよそへぶらさなくても、人間の方には、罪がありません。裁判所から怒っては来ません。けれども、神様の方信仰の方からいうならば「我だけに使って、すこしも外に出さんということになりますと、罪じゃ」というのです。これについて、おもしろい話があるのです。
私の所へお年寄が来まして「困っていますので、今日は、どうしたらよいか教えてもらいにきました」「そうですか、どういうお困りですか」これは名前を言うたりするのは遠慮しておきます。実は遠方の人なのです。その人が申すには、私ところは、私で三代になりますが、ご先祖から皆健康で、始末で、働いて貯めて、今日の財産を造ったのでございます。もう私所の財産は、その近界には並ぶ人が無いというだけ財産ができました。ちょうど私が三代目でございます。私の子でございますが、四代目になるのが高等学校を出まして、一つも仕事をしません。家にいないと思うと遊びに行って酒を飲んで、踊ったり、舞うたり、歌ったりして時間をついやしたり、夜も昼も大方遊びに出とりまして、私ところへ帰ってくるのがごくまれでございます。親たちは、まあ自分の小使いであそんでいるのじゃから、いつぞ目がさめるわと、放ってありましたところが、びっくりしました。
それは、いつの間にやら、私の印鑑を盗んで、沢山の金を借りまして、あげく差し押さえがきました。一軒かと思ったら、あっちにも、こっちにも沢山のことありまして、私が聞いただけの金でも、お払いしてしまうと私とこ、ひょっとしたら、何にもなしになるやらわかりません。とういう話なのです。まことにお気の毒です。
そうして、「あなたのご子息は、健康なんですね」「ええ、健康なことはごく健康なんです」「そうして、そういう風にお遊びになって金をお使いになるのですが、世の中の為には、何もお使いになりませんか。」「ええ、世の中って、酒飲んで、夜も昼も馬鹿遊びをして、別に世の中たって、何やご先祖詣りにも行くんでなけりゃ、神さんとか仏さんとか口でいっぺんもいった事がない。」「あーそうですか。お気の毒ですね。」「これは、どんなにしたらなおりますぞいな」こういう私に質問がありましたので、私もお気の毒に思いました。 これをなおす方法と申しました所で、我々がお話を申しても、これは一気におわかりにならないと思いますが、「一応せっかくおこしになったのですから、三代目の間のご事情について、失礼をかえりみずお話しいたしますから その点はお許しを願いたい」と申しますと、「ええ、もうどうぞ、どんなにでも一つおっしゃってつかはれ」と言うものですから、失礼ながら、たとえで次のようにはなしました。 「何処の川にも、土手がぐるりにあって、そうして、ユル(井ぜきのこと)の戸が掛かっていますぞない」といいますと、相手方は曰く「ええかかっております」「私の近くの矢倉に、九ヶ村堰がございます」と、そのゆるは「外から潮が入らんように、あおり戸というものが付けてあって、内らから外へは水が行きますけれども、外から水が突いてきたらぱあっと蓋をするようになっておりますぞない。」あれは抜ける一方です。「ところが、谷筋の川に戸が掛かっているのは水が抜けるといけませんから、うちら側にあおり戸があります。それは内らがわに戸が掛かっておって外から水が入りますけれども、外へは出ないようになっている戸がありますぞない」「ええ、ございますぞない」とそのご主人が言うのです。土手にユルがあって、外からの水は入らんように、内らから抜ける一しきのあおり戸がある。あおり戸ってご承知でしょう。ユルの戸がぶらぶらしとって、外へ向いて開くけれども、內らの方へは閉るという、これが排水の方です。用水の方は外から入って来たら、出る時分にはちゃんと閉ってしまうて出ないようになっている。そういうユルの戸と、もう一つその野崎あたりにあるように、ずっーとネジで引っぱり上げていって、上へ上げて、又下へ降ろす。上下へ動く戸、こういう種類のユルの戸もあります。「あんたご承知だね」と言うと「ええ知っています。種類が三つございます」こう言うのです。ご主人が。
「あんた所の三代の間を仮にユルの戸にたとえたら用水の戸ですなあ、」外から入って来る事は入るが、 外へは出ないようになっている。ユルの戸だと思いますが、どうでしょうな。入る一しき、一つも外へ出さん。どうですか。」「あんたおわかりにならなければ、もうちょっと詳しく言いましょうか。初代の人のなさり方、二代の人のなさり方、あんたのなさり方」「いやもうようわかりました。恐れ入りました。もう出すことなら親を監獄所から出すのもしない。取ることっていうたら、お地蔵はんの胸ぐらでも取るって、人がなぶった位に、私の先代がやってきました。」「あゝ、私はそんな事は知らんのですけれども、私が考えるとどうもお宅のなはり方は、用水のユルの戸みたいで入るのは何ぼでも入り次第、出る時は一切水が出ない。さあそうなると水がつかえますなあー。大降りがなけりゃよろしゅうございますが、この間のあの三重県の大水のように一ヶ所へ五百ミリ降ったら、あんた戸は開かんわ、土手一ぱいになるわ。もう家が一ぱいブクブク屋根まで浮き出す。ちょうどどうですか、あんたとこ、それはもう四代目で降りつかえになって出んもんですから、この水がつかえて、命がもうあぶなくなっているようなものです」「もう恐れいりました。その通りでございます」「それで私は、あんたにお話し申します。もうこれ、お借りしとるものは精算する、出来るだけご融通願って精算する。それを払わなければ因縁が後へ残りますからお払いなさい。そうして整理しておしまいなさい。そうして分限者の小ばえで働こうではありませんか。余ったら今度ぶりはユルの戸を一つ大工さんに頼んでこしらえて、上へでも下へでも、上げ下げが出来るように、いらん時には抜かす、いる時は上から押え込む、自由な戸にお変えなはったらどうです。」「あゝ、今日はええ得しました。ようわかりました。もう今日から一つやります。」「今のはたとえ話でございますよ。ユルの戸をこしらえたとて、その抜きさしするのに、下手だったり間違ったら大変です。どういう心掛けがいるか、これは両手を合わして神様、仏様の前、ご先祖の前、諸神諸仏の前で念じつつ考えると間違いないという事だけお話し申しときます。あんた所は、今まで、お数珠も持たなければ、合掌もしておらないよ。線香も上げとらない。お灯明も無い。あんたのお家には、神様おまつりしてありながら、一ぺんも掃じなはらんのか知らん、下からごみが見えとる。とびらが一つはずれとるのがありますな。」「ええ、一つもさわりやしまへん。」「でわ、ユルの戸を開けそこないますから、きれいに掃じなさってから、 神さんにお頼みなさい。そうしたら、生きかえりが出来ますが。」と話を申したのです。
六十六条に財産は私有するまでは罪が無い、こしらえるまでは罪が無い、使う時分に、わがだけに使うたら罪が有る。これは、しかし法律上の罪でありませんから、罰せられるということはありません。罰金も来ませんけれども、神さんがユルの戸を付け替えなんだら、大水になりますからという話をしたのはここなんです。
この財産を守るという事も、ためるの結構、しかし世の中のために使わないお金なら、いくらためたってかちがないでありませんか。お金の番ばかりせねばならぬのでは。
六十五条と六十六条、この二つを上手に使いましたならば、人間の成功疑いなし。昭和三十四年は、この六十五条と六十六条と、この二つをやりぬくという決心であるならば、昭和三十四年には分限者になる訳です。
又このお話の前に申し上げた般若心経の意味をよくお考えになって、この六十五条六十六条と、日にも日にもの日課として折込みなさると、昭和三十四年だけでも大きな立派なお家の小ばえになる訳でございます。年頭にあたりまして、幸、こういうのがあたりましたのですから、どうぞ、お互に手を引き合って、拝み合って面白く本年を暮す事にいたしましょう。
(昭和三十四年一月十五日講話)
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第六七条 「奢侈は財産の私用、怠惰は労力の私用」


奢侈と申しますのは、奢るという方で、必要以外に無駄な財産を使う事が奢侈でございます。それは財産の私用である。怠惰、これは勤勉の反対で怠るという方です。なまけるという、怠惰は労力の私用である。そういう事を六十七条に書いてありますが、泉先生は非常に勤勉な方でありまして、いつも何かなさっておいでる。ご用がないときは神さん、仏様にご挨拶をなさる。そうして非常な質素なお方であって、いつも木綿の黒っぱに巻袖の着物を召しておられる。こういう質素なお方でありました為に、六十七条をお話なさったのです。
この奢侈という事の反対が質素という事なのです。この奢侈というのは、奢るということです。これは家でも、あるいは着物でも、物に対して奢るという、金をかけるという事が沢山世の中にありますが、その訳を掘り下げてお話いたしますと、不必要な所へ金を入れるという事です。それが奢侈です。それは財産の私用だ。財産を立派に使っているのじゃない、わがだけに使っているのである。こういうことです。
この奢侈というのは、もう一つそのお話をかえていいますと、お釈迦様が二十九才の時に山へお入りになって、三十五才で成道なさった。すなわち信仰を成し遂げなさった。その時分に、一番最初に五人にお説教したのです。その五人というのは、王城から悉達多太子のお体を守る為に父王がつかわしたつけびとです。ところがその五人はお釈迦様が体をきれいに川で洗うたり、乳を呑んだりして、よく太っておいでたので、これはもう仏教を捨てたんだと誤解して、山の奥へお入りになった。 その五人を一番先に助けてやらねばならぬというので、お説教なさったのが一番最初なんです。その時分どういうことをお釈迦さんがおっしゃったかといいますと、人間は五官器といいまして眼、耳、 鼻、口、体です。この五つの器材が人間の体に付いておるんだ。五官を好きにさせたならば人間は滅びる。こういうことをおっしゃった。五官器の好きにするという事が奢侈でございます。人間は仮に目で見ても、きたない家よりもきれいな家がいい。着物もきれいな着物がいい。重い着物よりも、軽い、暖かい着物がいい。そうして又、体の方の 感じも非常に柔らかなのがよい。と、こういう風に人間の眼、耳、鼻、口、体、この五つはとてもいつもよい物をよい物を、好きな物好きな物をえらぼうとしておるのです。その五官器の好きのままに生活しておると、奢侈の生活になるのです。すなわち、生きるに必要かくべからざるものの外へ、力を入れるということになってくるのです。しゃしという事は 詳しくいいますと、そういうことを奢侈というのです。
質素といいますのは、その反対でございまして、生きていく、健康を保つ、働く、こういうことにさしつかえのない範囲の物しか使わない。これが質素の定規です。泉先生は、ほとんどそういうことは、おかまいになっていないのです。お召物見ても、家を見ても、めしあがる物見ても、何一つとして先生は、奢侈ということが一つも含まれておりません。すなわち必要なだけ質素な生活をなさった。そうして、非常な健康なお方でありました。しゃしということを先生は、おきらいであったのです。なぜ先生がおきらいかというと、財産の私用だと、こうおっしゃる。
それから怠惰というのは、怠ける方でございます。先生は、いつも朝お起になりましたら、決まったように、おちょうず水を使って、一束線香に火を付けて、浜の金比羅参りに行きます。私たびたびお供をしましたが、すこしの時間も変りません。いつも、となり近所がまだ起きていない時刻にそういう事をきちっとなさって、そうしてお家の方のご用なさる。こういう風に非常に勤勉なお方でありました。
もう一つこれを掘り下げると、怠惰というのは、どんなのが怠惰というのか、勤勉とはどんなことをいうのかといいますと、勤勉というのは、自分より外の人の為になる仕事をする。これが勤勉なんです。自分の体にしなければならない用事は我がの用事です。けれども、自分の体以外、つまり家族の為、あるいは世の中の為、人の為、その為に使う所の用をする事が勤勉という事です。怠惰という事は、自分のする事さえも自分がしないのです。朝起きるにも召使いが起こす。顔洗う湯取って来る。自分が顔を洗うのに、冷たい水がいかんというて、お湯を人に取らして自分が顔を洗うのです。自分の体でなすべき事さえも、人にしてもらうという事が怠惰なんです。
ですから泉先生はおっしゃっておりました。人には上下があって、かねもちのおうちの人あるいは位の高い人、低い人、その日暮しの人、こういう風に人間的には身分で大変差があるけれども、神仏の目から見るなれば、いかに落ちぶれた、その日暮しの人でも、あるいは又、非常に出世なさった人、あるいは位の高いお方であっても変りはない。 神仏から見れば皆、子なんです。同じくかわいいのです。その神様にお仕えするということについては、自分の事は 自分でする。なるべく人のこと、世の中のことを手伝ってやるという風にするのが誠の信仰だと、先生はおっしゃったのです。今日の学校あたりでも道徳教えたり、あるいは社会で人の道を教えておりますけれども、泉先生の教え方は立派でしょう。身分には上下無いんだとおっしゃる。物があるからというて、財産があるにまかして、人を雇うて自分がなすべきことまでも人にさせて、自分が楽をしておるということは、これ信仰でないとおっしゃるのです。
まことにここが有り難いことではありませんか。どうぞ皆様も、泉先生をお慕いなさることは誠に結構なことでございますが、お慕いになれば、其の方が思っておいでること、なさること、それを自分が身に付けるということが、本当の信仰でございます。ですから私が、私のことを言うのはまことにご不礼ですけれども、私は、なるべく私の一身に関することは、自分がしております。余り人の手間をお借りするということは、泉先生のお気に召さないのです。お好きでないのです。ですから、なるべく私のことは、私がしてなお私の手間の余ったのを人の方へまわすという事が泉先生のお好きなところです。神仏のお好きなことをするということが信仰の本旨なんでございますから、この六十七条なんかは、大変泉先生のご性格を表わしております。「奢侈は財産の私用である。怠惰は労力の私用である」
ですから、この反対に勤勉にせよ又質素にせよこういう教えが六十七条です。これは泉先生のご性格其のままです。
(昭和三十四年一月十五日講話)
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第六八条 「食うために働く者は、食えれば働かず、ためるために 働く者は、溜まれば働かず、食べられても働け、溜まりても働け、天の道なり、 人の道なり。」


右のことばが先生のお心なんです。それで世の中には、一生懸命に物をためようと思って働いている人が沢山あります。働かなくとも食える。これだけ財産が出来たら、もうこの財産の金利だけでもいける。この元さえ失わねば、じっとしていける。と、いう風なことをなさっておる人もあるように見受けます。又、小さいことでいますと、日に日に食べるご飯が食べられたら楽なんじゃから、食べられるようになったら、働かなくともよい。こういうような気持の方も無いではないと思います。それではどうも人間としての道が立たないと先生はおっしゃるのです。
働くのは食えても働け、金ができても働け。働くのは食うために働くのでもなければ、金をためる為に働くのでもないのだ。天の道の為に働くのだ。人の道の為に働くのだと、いうのが泉先生のお考えなんです。
それでは、人間以外のことを見てみましょう。人間によく似た猿があります。あの猿は、人間によく似ておりますが、食うだけのことをしている。そうして、別に物をためておりません。お腹がおきたら長くなってひなたで寝ております。あるいは、木の上で遊んでおります。こういう風に見ていきますと、他の動物でもそうです。犬でも猫でも又、馬や牛は仕事をしておりますけれども、これは人間が使うから止むを得ずうごいているのであって、じっとほおっておいてご覧なさい、お腹が大きかったら遊びます。
人間は動物とどこが違うのかといいますと、人は何のために働くのか、それは天とう様、お神様の道である。又、人間に生れた任務であるということを知っていると、運がよくて金が出来ても働く。その自分の働いた所の仕事が、 世の中へ流れ出て行く。その流れ出た所の自分の余った力が世の中の助けになる。これが天の道であり、又、人の道である。ここが動物と違うところであって、決して動物に似た生活をしてならぬと泉先生がおっしゃったのです。
泉先生は左の手がよくききなさって、なかなかご器用でありました。チョイチョイとなさるのに、器用にこしらえます。時にはご自分でに針持って縫うたりなさるのです。ある日こんな事がありました。 村木さん、わしはなあー、こんな巻袖、筒袖をしとるけれども、これは生地をしまつしているので無いのでよ。これ見なはれよ、わしがこれ縫うたんじゃと言って、ほどきまして普通の袖にしました。まことに縫うのが又お上手でありました。こういう風に男であるから針を持たれんということはないのです。男であるから、台所で炊事がでけんというわけはないのです。自分の手に合うた事は何でもするのです。この頃学校で、男の子が裁縫やってみたり、あるいは割烹やってみたりしています。誠にこれは結構だと私は思います。 それから兵隊においでたお年寄の方は、経験なさっておわかりのことと思います。入営しますと筒のような糸巻と針をくれるのです。これは自分でほころびたものを縫えという事なんです。明治陛下が日清、日露の戦争の時、広島の大本営へおいでになっていた時のことであつたと思います。ポケットが何にかに引掛けて破れたんじゃそうです。するとお付きの方が、「陛下ポケットがお破れになって」「うんポケットが破れた」「急いでおつくろいします」 「いや、今は戦争状態、一兵卒に至るまで、木の根を枕に寝たり、針なんかは、自分で皆使っておる。決して専門家にそれをつくろわしておらん、その事を思うと、これは朕がつくろうから針と糸を借せとおっしゃって、ポケットを上手におつくろいになったという事を聞いたのですが、こういうことを考えますと、陛下のごときご身分の高いお方でも、やはり、ご自分のことはご自分でなさるということのお思召しがあったのです。こういうことが後の世まで 明治陛下として一般から慕われるところのみ徳の高いところでございます。
どうぞ、ものができても、立身出世しようとも、働くことを怠らぬよう。又物が無ければ、なおさらのこと働くよう努めて下さい。とも角も働くということは、物を造る為に働くということでなく、信仰の上から世の中を共に裕福にする便利にする為に働くのだ。こういう泉先生のお考えであったのですから、そのおつもりで毎日おいでになることがよいと思います。
これは一月二十四日の徳島新聞に出ておったことでございます。イギリス、すなわち英国です。その英国で、今度大変な物を発見しました。それは一つのバイ菌でありまして、名前をボツリヌス菌という、言いにくい名前の細菌です。その菌の培養がなかなかむずかしく、今まで菌があったという事は、わかっていたのですけれども、その菌の培養が出来なかったのです。十二時間したらこの菌は弱ってしまうのです。だから半日か強い力がないのです。だから バイ菌を培養するのは非常にむずかしい。又、非常に恐ろしい毒があるのですから危いのです。それを今度は英国で培養が立派に成功しました。どれ位の力があるかといいますと、僅かに水の露で、二粒か、三粒の菌を培養して、百万人殺せるというのです。水素爆弾より恐ろしいということを言っております。もしも、その理くつで行くならば、一ポンドあれば(一ボンドといますと薬屋で売っておりますあの二合半入りの瓶、あれに一パイ培養しただけの菌)全世界、地球上の全部の生物が殺せるという恐ろしい所の物を発見したのです。ところが培養いたしましても、十二時間しか力がないのです。十二時間以内に培養して、それをパアーと広げなくては効果が無いのです。そういう恐ろしいところの力のある物が発見されたということが新聞に出ておりました。この恐るべき大発見をいかに解釈すればよいかということです。
昔、お釈迦さんのお友達に維摩居士という偉い人があります。この維摩居士という人がいうておりますことを、書き残してあるのを見ますと、最も恐るべき物と、最も親しむべき物とは同じものである。こういう事を書いとるのです。又、善と悪とは素質が同じもので、二つでないというところの議論を述べとります。その説の通り、ただ今お話し申しました、このバイ菌が最も恐るべき力を持っているのです。(最も恐るべき力僅かに一ポンド、二合半の瓶一本あれば地球の上全体の生物を殺してしまうという、恐るべき力があるものを発見したのでございます。)
維摩居士の申しますのには、最も恐るべき力のある物は、最も親しむべき大事な力を持っておるというのです。
どういう力かといいますと、そういう事が一般に知れわたりまして、いずこの国でも、それが製造出来るとなりましたならば、やれ恐ろしや、こんな物が出来たからけんかせられんぞ、こいつを振りまかれたら、もう皆死ぬのじゃ こういうことになりますと、その恐るべき力で、今度は変りまして平和の風が吹いてくる。こういう恐ろしいものが出来ると、もうけんかできん。戦争は出きん、もうお互い、この世の中で面白く工夫していかねばならないことになります。そういう驚くべき力の物が出来た為に世の中に最も目出度いところのお話し合いが出来る。すなわち、お釈迦さんのお友達で維摩居士が言うた通り最も恐るべき物が出来たのを、世の中のみんなが、いかにもとわかる時代が来ましたならば、平和が来ると思うのです。
お釈迦様は「わしが涅槃に入って千年の間は正法、すなわち、わしが教えた通りの仏教が世の中に残っていく。その次の千年二千年目は像法というて形ばっかりの信仰が残る。その次の千年すなわち、三千年後になると、世の中は闘争の世の中となって危険な世の中になる。あぶない世となる。その哀れむべき人類を助ける為に、五十六億八千万年の後には弥勒菩薩が出て来て救済してくれるぞ。」こういうお釈迦さんの言い残しがあるのでございます。
今それを考えて見ますと、なるほどお釈迦様がおなくなりになりまして、二千五百年でございますが、千年位の間は、お釈迦様がご生存当時と同じ様に有り難い信仰、本当の信仰が残っとったでしょう。その後二千年位になりましたならば、形の信仰になったでしょう。ただ今は誠にそういう立派な信仰は、残っておりますけれども、世の中の情勢からいうならば、ほとんどけんかばかりです。
今日の内閣をご覧なさい。あの政党同士の争いを見ても、けんかでございましょう。国を治めるご相談というよりも内閣の倒し合いというけんかじゃありませんか。国を治めるところの法律をこしらえるのでも、やれこしらえるのこしらえんの、まるで戦争みたいなけんかをしております。これは、日本の国でございますが、世界を見ましても日に日に、鉄砲の弾丸が飛んでおります。血は流れております。そうして、ある国は、驚くべき機械を発明して、人殺しのけい古をする。又これに負けないように一方ではけんかの研究をする。こういうふうになっております為に、お釈迦様がご生存当時にいわれた通り三千年後には闘争の世、暗やみの世が来る。今まさに言われた通り暗やみがまいっていると言ってよろしいでしょう。そこで今度は弥勒菩薩が生まれてくるのです。五十六億八千万年と長いことをおっしゃっておりますけれども、これは我々がいう一年を一年と計算したのでは無いと私は思うのです。三千年もすれば世の中が暗やみになって皆があぶないことになる。その時分、これを救済する者が出て来る。すなわち、ただ今私がお話いたします、この英国で発見した所の驚くべきこのバイ菌、この発見も、あるいは水素爆弾も原子爆弾も こういう恐ろしい物がだんだんと出来ている為に、これではいかん。どうぞこの力を人間の喜べる方へ使ってお互いにもう戦争は止めて互いに人種のいかんを問はず、国境のいかんを問はず、互いに手を引き合って、喜び合って少しもあだをしないように喜びの方へ、これから努力しようという時代が来ると私は思うのです。今、私がお話し申上げたように、その恐るべきバイ菌等もこれはやがて平和の来る下地と私は思います。
そこで、その平和が来た時にはどうするのかと言いますと、六十七条六十八条に泉先生のお話がある通りのことを日々喜んで考えていくならば、極楽世界はきせずして、ここに出来ると、私は思うのです。極楽世界を築くのは、そんなにむずかしいことは無いと私は思います。どうぞ、泉先生のごとき方の言い残してある事は、実に極楽世界を建設するところの材料でござりますから、どうぞその意味で充分お味わいをお願い申したいと思います。
(昭和三十四年一月三十一日講話)
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第六九条 「忠や、孝は、恩が重大なからするのではない。もし それなれば、捨てられた子は親に反しても善きはずなれど、そうではない。 忠や孝は天に対する返礼の道である。」


旧歴のこれが始めてのお話ということになりますのでございますが、年が立替り色々世の中が変っていきますが、 この二、三年間位世の中が変ったことの、ひどいのはおそらく昔から少ないと思います。この明治元年、すなわち明治維新、この時分の変り方も相当大変な変り方をいたしております。ご承知の通りでございますが、この二、三年間の変り方と申しますのは実に人間の思想が変っております。自由思想という昔の様な堅い道徳、すなわち儒教が盛んであった時代が昔でございます。あれは道徳ですが、儒教が盛んな時代と、今日の自由民主の思想とは大変な違いでございます。学問の方からいいましても大変な進歩のしかたです。
戦争という事になりましても、昔の戦争とちがいまして、今日の戦争は一発で何十万の人をたおします。あるいは最もひどいのになりますと、一国が全滅するというような装置ができております。これは、空に、あるいは海に、実に驚くべき人を殺すところの方法ができております。幸にして、これを平和に使うということになりますれば、結構なことでございますけれども、一朝間違って戦端を開くということになりますと、実にみじめなことになります。
昔の戦争とは、全然違います。本当に兵隊さんも非戦闘員もありません。すべてのものが全滅ということになるのですから、実におそろしいところの世の中になっております。 また文化の方からいいましても、この二、三年間の進みかたというものは、実に驚嘆のほかありません。なるほど人間はこういう風に、時代の変化のために幸福になっているような一面も見えるのです。
たとえて見ますと、昔から人生わずか五十年といっておりますが、今日では人生は平均六十四、五才になっておるのでございます。ですから、七十、八十の人は沢山できて来ることになります。もっとも医学の進歩ということが貢献している事はよく分っておりますが。
しかし長く生きたから幸福だという事はいいかねるのであります。ここに本当の幸福という事は、世の中の皆さんが、喜んで生きていけるという道が開けていくという事です。ただ、金を沢山こしらえたのが幸福のように見えますけれども、これのみでは幸福とはいえません。また、長生きするということだけでは幸福とはいえません。どうしてもお互いに手をとり合い、おがみあって行く楽しい世の中でないと幸福とはいえないと思います。今日お話を申し上げる六十九条などは、よほど考え方が違うておると私は思うのでございます。
「忠や、孝は恩が重大なからするのでない。もしそれなれば、捨てられた子は親に反しても善きはずなれど、そうではない。忠や孝は天に対する返礼の道である。」お返しする道である。こういうことを泉さんがおっしゃっておるのです。それで、今までの世の中のならわしからいいますと、幼少から親に大変な面倒をかけているから、孝行せねばならぬと教へてきておりますが、ご恩になっておるから恩を返すということは、最も結構な事でございますけれども、そんな小さい事じゃないのです。
親は子を生めば、その子をかわいがるというのは、もうかわいがらねば、おれないのです。かわいがられたとの理由でする孝の如き小さい処の恩じゃなくて、天地のおかげで、親の身体をかりてここに出て来た自分である。この源の親を喜ばさねば自分の恩は立たないというところの大きな考え方からの孝でなければならないのです。世話なったから、返すという孝行は、小さいという事になる。泉先生は、大きな考え方から出ております。
これは親に世話なったから孝行せねばならぬというのでありますと、もし捨てられたら孝行しなくともよいことになります。
つぎのお話はまえにも一度申しましたことがありますが、あの高野の奥の院にお灯明をあげてありますが、その中の貧女の一灯は千百何十年の間、今に一日も消えたことがなく光を放っております。ある年の大しけに、あの万灯籠の屋根が倒れた杉の木のために穴があきました。外の灯明が皆消えたのです。けれども、貧女の一灯だけは消えずして燃え続けたというようなことで、まことにめでたいお灯明でございます。
この歴史を考えて見ますと、あの泉州に(泉の国というのがありますが)生まれたお照さんという子なんでございます。この親御は武士でございまして、何かの都合で若夫婦が、諸国を遍歴せねばならんことになりましたので、小さい子を育てていては、旅ができないというので、人知れず観音さんのえんの上へ、ふとんでまいて捨てたのでございます。若夫婦は誰かが拾うてくれるかと思って木影から見ていたところが、お年寄が喜んで、これは観音さんから授かった子であるというので喜んで連れて帰りました。それを見とどけた若夫婦は、やれやれと安心して旅に出たということになっておるのです。
それから、お照さんはおじいさん、おばあさんにかわいがられて、大きくなりましたが、六才の時にその育ての親二人はこの世を去ったのです。それでお照さん一人になった。ああ、これは、まことにお照さんにとっては悲しいできごとです。小さいお照さんは生前に何とかしてこのご恩を返そうと思っていましたが、ご恩返さずと別れてしまったのです。お照さんはかなしみのうちに、ふと高野の奥にまつられている弘法大師様にお灯明を差上げたら、生みの親、育ての親であられるお父さんや、お母さんのところへそれがとどいて、有り難い冥福がいただけるということを風のたよりにききました。そこでお照さんは、生みの親のお父さん、お母さんに、また育ての親の深いご恩に報いるためにお灯明をさしあげたいと考え、日々にお金をためて、路用をこしらえにかかったのですが、しかしお照さんは子供であるし、そのうえ山の奥で生活しているため金ができません。また路用と申しても、今であれば電車、汽車で走ればわけないことですが、昔のこととて、日を重ねての道中で、とめて頂だかねば行けなかったのですから、相当路用がいるわけです。お照さんは早く生みのお父さん、お母さん、育てのお父さん、お母さんに喜んでいただかねばならぬが、こう日にも日にもお金ができなくては困る、何とか一つお金の早く出来る方法はないかと考えておりましたところが、ちょう度そうしたとき、和歌山にデコの頭へ髪をうえるのを商売にしている人があるとのことを聞いて、お照さんは心ひそかによろこんで、そうだ、そこへ行って自分の髪を買ってもらう決心をし、そのお家を捜しあててお頼みしたところが、買ってあげようといわれたので、お照さんは縁の黒髪を、根元からプッツリと切って、どうぞとさし出しました。買う人も涙ながらに、ではいただきます、わけていただきますと、こういうわけで買うてもらったのです。その金が今日記録に残っているのが、六文・六厘と書いてあります。ようやくそのお金をもらって、やれうれしやと高野へ出かけたのですが、その当時は、女の人はあの女人堂からはいれません。それで女人堂まで行って、だれかお寺さんの方にお頼みし、お灯明をあげていただこうと思って、女人堂で一休みしておると、ご年輩の有り難そうなお坊さんが奥から出て来て、女人堂の方へおいでて、あちらこちらをご覧になさる。そうして、お照さんの方へ向いて、「お前さんは泉洲から来た、お照さんという方じゃないか。」「ハイ、そうでございます。」
お照さんびっくりした。私、始めて泉州の山奥からここへ来たのに、よく高野のお坊さんが私を知っておいでる。
どうしたわけだろうかと不思議に思っていると、その坊様は私に「お前さんは有難い弘法大師さんの前へ、お灯明をあげたさに黒髪を切って来たのではないのか。」とたずねました。お照さんは「ハイそうです。」と答えましたが、余りの不思議なおたずねであったのでお照さんは驚き、お坊様に「何とかお話を聞かしてください」と頼みました。 すると坊さんは、「それなら一度お話しするが、実は、昨夜、私は奥の院の勤めの番であって、奥の院へ参っておったところが、お大師様がお出ましになって『あすの朝女人堂へ泉洲のお照という十五、六の女の子が来る。そしてわしの前へ、なき父母、別れた父母の供養のために灯明をあげようとして、髪を切って来ているから受取ってやってくれ』こういう有り難い夢を見たので、さっそく今朝は早うから女人堂へ出て来たわけじゃ」という。
そのわけを聞いたお照さんは泣きくずれて、いかにも弘法大師様の有り難いお力におどろきました。お照さんは、「そうでございますか、何ともお礼の申し様がありません」というので、この六文のお金を坊さんにおことづけしました。ところが坊さんは「ああ、これで私も弘法大師様の有り難いお使いが出来たと、それで今日は早速奥の院にて お灯明を差し上げることにするが、いずれそのもようも、貴女に知らせて上げますので、今日は山を一たん下りて、そうして下のお大師様をおまつりしてあるところでお宿をもらって、待っていてくれないか。」こういうお話しでありましたので、お照さんは一たん山を下りることになり、坊さんはお山の奥の院へお帰りになった。
そうして、そのお灯明をあげて、そのあげた時分に有り難い不思議なことがあったことの数々を後からお照さんに知らせてあげたそうでございます。そのお照さんが、すそのお大師様でお宿をもらうたところが今にあるそうでございます。そこは、お照さんが一生お大師さんにお勤めなさったお寺だそうでございます。
こういうようなことが今有名になって、おりますのでこのたびは、高野の一、一五〇年すなわちこの昭和四十年が 一、一五〇年に当るそうです。それには、高野の山でお大師様のお勤めをするために、十億円からの予算をもっとります。これは大変なお祭りをなさるようです。ところが、そのお照さんが奥の院へ、そういう歴史を残したというわけで泉の国からは、うちの国からお照さんが出たのだというので、お照さんの講が出来まして、ばく大な金を集めてそうして高野へ差し上げて、奥の院の灯籠堂のごふしんの資金にしていただいたそうです。中へ千人もはいって座れ、そこから奥の院が拝めるようにするんだそうです。こういうような大変な改造が出来ることも、お照さんのこの歴史が、あるからでございます。
こういうことから考えますと、この孝行ということ、このお照さんの孝行でもお照さんは捨てられたんでしょう。これから考えましても、親に世話なったから、親を思うのが孝行であるというのではないということがはっきりわかるでしょう。泉さんがおっしゃるのは、忠義や孝行というのは、決して、お世話になったから、それでそれをお返しするのではないんだ。この世に生まれて、主人と縁を結んで、あるいは親子の縁を結んだということは、これは、天の道である、その天のご恩をお返しするのが忠義とか、孝行とかいうのじゃと、こう泉さんは教えているのです。
なるほど考えてみますと、そうでございます。泉さんのお考へは、なかなか大したもんだと私は思うのでございます。すなわち親に仕え、主人に仕えるということが信仰なんでございます。天にお返しする道ということは信仰なのです。決して、孝行は世話なったから返すという商売的なものではない。立派な信仰だと私は思います。
(昭和三十四年二月十五日講話)
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第七十条 「運というものは、目に見えぬところに蒔いた種が、目に見えるところに生えて来ることをいう。」


運というのは、日本の国では昔から易とか、うらないとかいうものがありまして、易見さんが運を見てあげると、そんなことをいっております。運とは生まれて来たらちゃんときまってしまって、のりづけになって動かないようなことをいうとりますが、泉先生は、そうおっしゃらないのです。「運というものは昔から人の知らない所へまいた種が、人の見える所へ生えて来たのを運というのじゃ」こういうのですから、全く因ねんです。つまり「因ねんを蒔いてあるから因ねんがはえて来るんだ」これを「運」というのです。ですからこの運ということは、そんなにのりづけ のように決まっておるのではなくて、動くものです。運は変るものです。
私は、こういうことがありました。これは私が経験したことでございますが、ある中年の人でございました。非常にご運が悪い人です。お暮らしむきもあまりらくでなく、家庭内も面白くいっておりません。ところが、一生懸命に泉さんにお仕えなしとるから、泉さんにご縁が出来たのです。私は感心しておったのです。
ところが不思議なことには、一年たち、二年たちしているうちに、その人の手のすじが変ってしまったんです。
私の手相は運が悪く出ていると、易者がいうんでございます。なるほど見て見ると手の中、しわだらけ、みだりに多くのすじがいっておった。それが、自分がうれしい生活をするようになって、手すじが変わりました。 こういう風に手のすじさえかわるものです。無論、人相も変わります。
こういう風に運というものは、変わるのでございますから、どうぞ皆さんは、そういうことはありますまいけれども、日本の習慣が悪いので、運というものが生まれつきに決っておってかわるものでないと思っているので勉強するのもばからしい何じゃなるようになるのだと、こんな考へをもっておる方もないではないのですから、そういうお考えは、全然おやめになって、泉さんがおっしゃるとおり、やはり功徳を積めば、必ずはえて来て、必ず運がかわってくるというようにお考えをかえてお暮しになるほうがよいと思います。
これはお話しすれば、沢山な例があります。運が変ったという例は、これは前にもお話しました、あの紀州の萩本という人ですが、これは山奥のキコリの息子なんです。易見てもらってどうも、三年のうちに死ぬといわれた。見てもらっていろいろなことが合っているものですから、いよいよ信じてしまいました。こりゃー、わしは三年の命しかない。親は木に打たれて死ぬし、自分一人になったものだから、三年して死ぬのであったら、妻ももらわずに、いっそ、家財売り払って諸国を方々お参りして、楽に行こうというので出かけた。それは、易見てもらってそんなことになったわけなんです。ほかのことがおうたものだから信じるのも無理ないのです。
それで、大阪でブラブラしているうちに、心斉橋を通りかかったのです。見たところが、夜中に橋のまんなかに泣き声が聞えてくる。これは、世の中には、つらい人もあるのだなあー、わしは方々よく遍歴して、ちょうど三年になるんだが、まだ財布に金はある。わしのじゅ命も易者のいったのでは三年めになる。金があまる。世の中につらい人はわしばかりではない。まあ一ツ聞いてみようというので、行って話を聞いたところが、二人は金につまって心中しようとのことでした。そこで「あんた方、お金に困っておいでるんなら金あげよう」というと、若い二人は、人がいないと思っていたのに、にわかにそんな声がしたものだから、びっくりしてとび上がって逃げようとする。
「いや、逃げなくてもよろしい。お金はただあげる。実は、私はこうこう、こういうわけで、もう明日にも死なねばならぬ運命です。私にはこの金は不用です。」といって、いくらか金を上げたのです。向こうが助かるだけ上げたのです。すると二人は「どうかところを聞かしてください。名前を聞かしてください。」と、いいましたが「イヤ、もう、所も、名前もいう人間でない、私は紀州の山奥で育った萩本というもんじゃ。もうろくなもんでごわへんのじゃ。さようなら」といってさっと、姿を消してしまいました。まあ、その二人はそれで助かったらしい。
ところが、その萩本さんは夜があけても死なない。腹でもいたむかと思ってもいたみません。何日たっても死なない。あの易は何もかも合いぬけであったので、わしも死ぬのも合うていると思うたが、命の易だけは合はない。そこで、財布調べて見るともう金がわずかしかない。これは何ぞしなければいけないと思い、残りの金で古手の人力車を買ったそうです。それで車引きになった。車引きの商売を始めている内に、ある日、立派な紳士がやってきて、たのむというものですから、紳士を乗せて大きな銀行の前を通って、その横の方の立派な家の玄関へ引きつける。お出迎への人の案内で、その立派な人が奥へはいってしまった。そこでドアーのすきまからのぞいて見ると、萩本という軸もんがかけておいて、ご神酒を供えてある。あらっ、萩本という神様があるのかと、不思議に思いながら立っていました。すると番頭はんが出て来て勘定をいただきました。 「一寸お尋ねしますが、萩本はんというお神様があるのでございますか。」「ええ、あれはうちのご主人がおがみよる神さんでごわす。そんなことあんた聞かなくても、関係のないことでありませんか。」「いや私萩本いう名字でごわすけん。萩本という神さんがあるんであったらもったいないと思うて聞いたんでごわす。」「あれは、うちにわけがあるんじゃ」と、そげなういわれたものだから萩本さんは玄関を出ていったのです。 そして車を引いて、ボツボツとかえりかけました。ところがその話を、かげで聞いていたご主人が、萩本というのは自分を助けてくれた恩人じゃというので、後をつけてわけをいうて調べたところが、それがほんとの萩本はんだったのです。その後萩本さんは死なんものだから、こいつ前の易者に会うたら、ぼろくそにいうてやろうと思っておったところが、ちょうど前の易者に会うたのです。「おまはん死ぬっていうたがピンピンしとるがな。こまってしもうて車引きしとるんじゃ。おまはんの易だめだっ」と、いうたところ、易者は「いや、もう一ぺん見せてくれ」といって、再び易を見たそうです。その時分に、「あんたは、運勢からいうなら一年後に死なんならんのじゃが、人の命三人助けとる。それで運が変ったのです。」「いや三人でない、二人は助けたんやが、一人は知らんがな。」「いや、三人と易にでておる。それで聞いて見ると、心中しようとした女の人が、子どもを身に持っていたので、それで三人です。こういうようなもので運というのはかわる。 人の見えないところへまいた種が、はえて来るのです。泉さんは、そうおっしゃる。なるほど、この萩本さんなどは、目に見えんところへまいた種が、目に目えるところへはえて来たわけです。すなわち、長生きをし、出世もできた。こういうことになっているので、泉さんのおっしゃることは、誠に立派なことをおっしゃっとるので、決っして運というものが、糊づけで一生涯定まっておるものではありません。どうぞこういう風な意味で、あなた方もご信仰なさるとよろしい。運というものが支配するのでない。運というのは、自分が運びをつけている。それが出て来るのだ。因縁が出て来るのだとこういう風にお考えになって、功徳をおつみになることが本当の信仰でございます。
(昭和三十四年二月十五日講話)
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