481~490条

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第四八一条 「世の中に義務のみ重きをおき、権利をわすれる時がきたら、楽土というてもよいのである。」


これはちょっとわかりにくい事でございますけれども、どういう事かといいますと、あなた方はこの義務、どういう義務があるかといいますと、国民は納税の義務がある。子弟を教育する義務がある。これらは義務である。国を治めるために税金をだして、政府に国を治めてもらう。それから義務がいろいろあります。国に法律をおいてあるこの法律には従わねばならない義務がある。こういうのが義務です。
ところが権利というのは、これは憲法で人間の権利というのが許されております。このごろは、権利ばっております。非常に権利が強いのです。これを反対に義務はどこまでもはたしていく。権利は忘れてもかまわん。こういう世の中がきたならば、極楽が近いと先生はおっしゃった。ちがいないのです。
たとえてみますと、ここに人間は、ものいう事は自由である。新聞でも書く事は自由である。というので、そういう権利が与えられとるのです。というて、このごろ政治ごらんなさい。言う事がもう人の悪口を根限り議場でやりとりしている。自分は人を批評する自由があるんだ。これがまちがいの基でございます。この間も新聞に出ておりましたが、あの浅沼という人が刺されましたね。議場で、ああいうような事が始まるのです。人の悪口いよるから、悪い人がやっていって、こいつ、いかしといたらどんならんと突き刺した。これ椎利を振り回したからこんなにした。又突き刺した人も、こんな者生かしといたら、どんならんというて突き刺した。泉先生は権利を忘れなはれ、人に負けておりなはれ。義務は忘れたらいかん。で、泉先生がおっしゃるのは義務、自分の義務はどこまでもしていくのがよい。
自分の身には利はあるけれども、その権利は使わないのがよい。そしたら極楽は近いと先生はおっしゃった。
なるほどよく考えてみますと、権利というのは、人をやりつける力を持たしてくれております。義務というのは、へいへいというて人に従うていくのが義務です。これは先生のおことばは、誠に結構なお教えだと思います。
ちょっと余談になりますけれども、お話したいと思いますのは、強いものは滅びるのです。弱いものが栄えるのです。と、世の中はそういう風になっとります。たとえてみますと、何万年も何十万年も昔に、大きなへびがおりまして、その大じゃが長さが二十メートルも三十メートルもある大きな胴体です。太さが四斗おけみたような大きなおけのような胴体。そうして、うさぎでも、馬でも牛でも、人間でも (人間は無論のこと)かんだりのんだりしていました。その大蛇、後には羽がはえて飛ぶ大じゃがありました。 は虫類時代といいまして、ヘビ類が非常に権利をふるうた時代があったのでございます。どうしてわかるかと言いますと、土地の中から出てきた化石が、それを証明しています。これは讃岐の長福寺というお寺の廊下に飾ってございますが、足の骨の太さが一尺あまるでございましょう。
石になっております。まわりが一尺あまる骨というと大きな物でございます。人間など細いものでございます。
恐らくああいう骨を備えておるものであったならば、どうせ体は何千キロもあったに違いないのです。そういう強い動物がおったわけです。は虫類時代、あるいは、象の時代というのがあった沢です。これは化石でわかるのです。
ところがその時代の我々のご先祖は、どんな恰好をしとるかといいますと、おそらく今のように着物は着ていないだろうと思います。お猿のような恰好しとったと思うのです。それで隠れまわっとったのです。そう強い所の象や大じゃが、もう今滅びております。土地の中から化石となって現われるくらい昔おったという証拠です。 今でもそれだから人間は、へびをみたら根かぎりおじますが、そういう 先祖から、そういうくせがついとるのです。は虫類時代が恐ろしい、そういう癖がついとると私は思うのでございます。まあ、化石からいいますと、歯一本の大きさが牛の角くらいある歯です。大きな歯でございます。それが石になっております。それから尾なども、長さが何メートルもありまして、その尾の先にちょうどこの頃使っているあのくわの歯、ああいうような物がついとりまして、さあっとそれでなぐられたらもう二つに切れてしまう。剣龍といいまして剣がはえておるのです。尾の先に、そういう恐ろしい物が世の中に飛んだり、走ったりしていたのです。これは、映画でごらんになった人があるでしょう。ゴジラとかいう映画でごらんになっただろうと思いますが、そういうものは、皆滅びとります。だから、強い物は滅びる。これが証拠です。
人間はそういう人を殺したり、かんだり、切ったりする道具をもっとりませんから、隠れまわっとる。かないません。そのかわり、知恵がありますから、弓をこしらえたり、毒を弓の矢にたきこみまして、その矢で打つというと、 向こうは体がしびれて死んでしまう。毒矢ですね。今でもアフリカあたりの土人が毒矢を打っとります。そうして大きな動物をやりつけるのです。そういう知恵があります。そういう風にして、逃げたり隠れたりする。けれども、知恵があるから、大きなやつをやりつけてしまった。まあ武力がないということが、最もこれは強い基になったわけです。人間はそういう武器をすててしまって、そうして争いをやめて、互いに団体をつくって、その力で敵に当たる。 家族も家庭をもっとります。また団体が力をあわせます。争いをやめて団体がなかよくして、そうして知恵をみがく。この三つが人間界を成功させたもとになっとるのでございます。
泉先生はそういう勉強なされず、お経文もお読みになったのとちがいますけれども、おっしゃることが、まったく偉いことをおっしゃるのです。義務を覚えとって権利を忘れてしまえ。そしたら極楽が来る。なるほどそうです。 自分の義務を覚えとって、権利を忘れたら、もう、そらきれいな仏さんになります。そういう事もおっしゃるし、強いものは、まけるぞとおっしゃった。まあ信仰しよる所の精神をみてごらんなさい。強いこと一つもしよりはしません。神様、仏様に向いて「助けてくれ助けてくれ」一点ばりです。助かる証拠です。知恵をみがきますから、そして慈悲の心をもって、人を弱い者を助けていけ、もう仏様のまねをするのです。
泉先生がそういう大きなお教えを残しておいでます事は、私は、これは実にありがたいことだ。又、お大師様のなさった事と先生がなさった事とはよう似とります。
(昭和三十九年三月十五日講話)
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第四八二条 「身体の悪い時には、すべてを神様にまかせ、自分はぐっすり寝るのがよい。そうすると人間の五官の働きは全く休んで全身の力が悪い所へ集まるから直りが早い。」


こういう事を先生がおっしゃっています。お医者さんのような事を先生がおっしゃっとる。これはよくご承知だろうと思いますが、心の内に心配事があっても寝られません。根限ぎりわがが心配しています。また体の中に悪い所がある。まあ胃が悪い。腸が悪いと、こういう悪い所がありますと、ねてもそこが苦痛でございますから、ねられません。寝る時間が短いです。そこで、先生はどうおっしゃったかというと、神様におたのみする。むろんお医者にかかりますけれども、どうなるのも、こうなるのも、神様にどうぞお助けなしてくださいと皆、任せてしまって、自分は心配せん。そうするといつのまにやら、体じゅうに起きておる所がないようになる。皆がねてしまう。それだから、人間の体全体がよく休むから、直るのが速い。こういう事を先生がおっしゃったのでございます。
これは、あんた方がおためしになって、わかるでございましょう。心配事があってごらんなさい。ねられません。
どんなに考えても。先生はそれを、私はこういう心配がございます。どうぞお助け下さいませというて、わがでに心配せんのです。助けてもらいたいという事ばかり考えて休んだら、はやくなおると、こういう事を先生がおっしゃいましたが、いかにもそうだと思います。昔から、あほう息災といいますが、こらあほうが息災なんじゃない。心配せんから息災なんじゃと私はそう思います。心配するほど力がないのです。 ところが今の人になってくると、衛生をやかましくいいます。衛生はよろしいのです。言うのはよいが心配はいかんのです。先生はいつもそうおっしゃったのです。心配放しなはれ、心配事があったら神様にたのみなはれ、わがでに心配する暇で、どうぞ助けてつかはれと神様に願うといて、助けてくれるものじゃと思いこんで、わがは寝とったらええんじゃ。そうしたら、いつのまにやら、なおるでよと、先生おっしゃったが、いかにも私は、先生にはお別れし て、もうはや五十年に近いのですが、考えてみますと、このごろ病院へいきますと、安静を要する、この病人は安静が必要だと、いうてなにもさせなく、ベットの上へ寝かして、病院で静養しておりますが、もう一つ考えると、からだを安静にしておっても心の安静がない。動いとるのと同じです。そこでお医者はどうするかといいますと、ねむり薬をのますのです。心までねさせてしまう。これをこのごろでは冬眠療法といいまして、へびやかえるが冬、眠っとるでしょう。ああいうような風に薬使うて、冬眠さすのです。何も知らんようにしてしまう。そのまに体が直っていく。これを冬眠療法とお医者さんはいうとりますが、ちょうど泉先生が、おっしゃるのといっしょです。何も考えなんだら、はよう直る。心配せんならん事は、神様にたのめと、あとの心配はするなと、ちょうどこのごろは薬でとう眠させております。とう眠がさめたら心配するのです。やはり信仰でなければいけません。
こういう事をちゃんと先生が知っておいでるのですから、誠にありがたい先生でありました。どうぞ、そういうふうに、心配事はすべて神様に、おたのみして、わがが、せんようになさいませ。必ず、達者でございます。
(昭和三十九年三月十五日講話)
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第四八三条 「内に向かいては忍辱精進、外に向いては抜苦与楽。」


これが大事であると先生がおっしゃったのでございますが、これをわかりやすくいいますと、まあ人が生活いたしますのには、自分の心の内と世の中へ向いてと、この二つの心の使いようがございます。その内らの方へ自分の方へ向いては、どういう心を考えとったらええかといいますと、忍辱精進、忍辱というのは、こらえる事です。精進というのは精を出すことです。まあ人が言ってる事を聞いたら腹の立つ事もあるし、うれしいこともあろうし、いろいろございます。ところがそれを聞いて、たいてい皆感情が動きます。わが心が動きます。悪口言われたら、腹が立つというような風に、心の内らに必ず何か煩もんが起こるものです。これを怒らん人はたいした偉さですけれども、たいていの人がおこります。人に悪ういわれたらおこります。そういう事実があってなくても、腹がたつこれは人情でございます。
そこで昔から、これをお月様にたとえまして、お月様が空に出ておる。まあ雲が出てきたらくもる。お月様は、今晩は、お月様おこもりだという。それを昔からいろいろ人の一身上の事にたとえまして、お月様と風とにたとえまして八風吹けども動ぜず、天辺の月。どういう事かといいますと、人にほめられたり、そしられたり、自分の身の上が出世したり、おとろえたり、そういう事にたいていが、感情を持つけれども、それは高いところのお月様からいうと、下で風が吹こうが、雨が降ろうが、雲が飛ぼうが、お月様の方へは関係ないのです。下の方で風が吹いたり、曇ったり、雨が降ったりしているのであって、お月様はもう、年中せいせい晴れとるものだ。これにたとえて、たとえどんな風が吹こうと、雨が降ろうと、あのお月様が高い所にひっかかっとるように、何も心にとめるなというのが、昔から、まあ偉い人のたとえになっとりますが、八風吹けども動ぜず天辺の月、これを考えとれという事でございますが なかなかそうは、修養せんとまいりません。そして、いつも、この聖者の教えというのは忍べとこらえと、こらえていけと、これが忍辱、こらえるという事です。それから精進というのは精を出せという事です。これが人間の心のうちで忍辱精進という事は、忘れてはならん事である。
それなら外へ向いてはどうかと言いますと、抜苦与楽といいます。外へむいては皆、自分と同じように苦労しとる人がある。その苦をぬいてあげるようにおつきあいしてあげ、そうしておもしろみをその人につけてあげて、楽を与えるのです。抜苦は苦を抜く、与楽は楽を与える。外へむいては、いつも自分と同じように苦労しとる人がよくあるんだから、おおかたの人が苦労しとるのだから、その人の苦をとってあげ、そうして楽しみをつけてあげる。こういう二つの働きをしとれば、大きな行になると先生がおっしゃいました。
もう一度くりかえしてみますと、心の内らには忍辱精進、せいいっぱいがまんする、そして何でも自分の体におうた事、心におうた事を精進する。そして外へむいては、世の中へ向いては、人の苦を慰めてあげる。そうしてその人の面白い、楽しみなように楽をあげる。この二つの道を考えとれば、誤ちがないと先生がおっしゃいました。
(昭和三十九年三月三十一日講話)
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第四八四条 「不足をいう人は、たいていわが行ないなど考えず、ただ報酬だけを考える人である。ちょうどたとえてみたら、仕事をせずと給料だけをもらおうと考えているようである。」


こういう事を先生は、おっしゃったのでございますが今、世の中をみますと、まあ明治、大正のころは、そうでもありませんが、ただ今の空気になりますと、あすこにストライキがおこった。ここにもストライキがおこったと、よくお聞きになるでございましょう。たとえば自動車が休んでおる。そうすると学校へいく生徒さんまでが、困ってしまうような事がはじまる。それは、もとは何でそんなにして休むのならといいますと、給料あげてくれと、つづめたら そういう事になるのです。それから船が休みましたり、また郵便物が滞るのですが、これは困る。ちょうど、そいつを節季にかけて郵便さんが休む、そうするともう郵便局には、年賀はがきの山ができるそうです。まあそういう事よくあるが、それは考えものだと先生がおっしゃった。これをおっしゃった時は、そんなことは、あまりなかったのです。これは、今から四十五年前でございますから、大正時代です。その時にはや先生が、こういう事をおっしゃっとるのです。ちょうど今、それが世の中の風習になっております。
それなら、その時どうしたらええのかというと、先生のお考えを私が想像してみますと、世の中の人を困らして、自分がもうけようというんだから、こまらさんように報酬もあげてもらいたいんなら、あげてもらいたいという交渉をする。で、もしそれでいけんのならば、いける方法を考えて、大ぜいの人を困らせないようにせないかんという事を先生がおっしゃいました。ちょうど今日そういう事がよくございます。お聞きになるでございましょう。
そのストライキしている人に聞いてみますと、理由はないではない。あるようでございます。たとえば物価が上がって、家内が五人あるとすると今まで月一万円足らずで生活できておったのが、どんなにしても二万円近くもいる。こらあげてもらわないと、やっていけない。こういう訳ですから、なるほど理由もあるようにこうきこえるのでございますけれども、皆が相談して、いっぺんに休まんか、そしたら困るだろうとこういう相談をすることが悪い。それはいかんと先生がおっしゃったのですが、実に先生の目はよくみえたものでございます。四十何年前の今日、それがあらわれてきとります。
(昭和三十九年三月三十一日講話)
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第四八五条 「神様へ水をお祭りするのは、水に大きな徳をそなえているからその意味を祭るのである。
一、常に自ら活動して他を動かしむる。
二、常に己の進路を求めて止まず。
三、障害に会えば、益々精力を増す。
四、自ら清らかにして他の汚れを洗う。
五、洋々として大洋を成し、発して蒸気となり、雪となり、雨となり、雲と変じ、あられと化し、凝りてはれいろうたる流のごとくなり、しかもその本性を失わず。
人も水のような心になりましょう。お守りを願いますと神にお祭りするのである。」


どういう徳が備わっているのならというと、水には、いろいろな人間の手本になる事があります。たとえると水というのは、もうじっとおらん。まあびんに入れとりやじっとおりますけれども、そのびんに少しひびきがいっとった ら、はやそのひびきから外へ漏れ出てきます。また川の水のように年中動いておる。一つも休んでおらん。水蒸気になって空を飛んでも、これ水でございます。冷えて、それが下へ落ちて雨になる。それが谷川になる。流れて大きな川になって、お百姓の人が物を作る。そこにうるおいをながしていく。こういう年中動いておる、活動しておるという徳をそなえておる。なるほど、水はじっとおりません。活動しとります。じっとおる水はくさります。それから、いつも水というものは、わが動くばかりでなしに、ほかを動かす。あの水の上を汽船が走るのも、これ皆水のお陰を借りとる。自分の力で世の中を動かしておる。これ大きな仕事を水はしとります。
それからその次には、水という物は邪魔しても、その邪魔がこたえん。たとえば、あなた方が、ほりをかえる時分にせきをなさる。そしてかえるのでございますが、下が、水が少のうなるごとに、せきはこちらへおされてきます。すると水が高うなる。せきすればするほど水がもちあがってくる。たとえば、あの谷が流れをせきします。いっぱいになる。いくらせいても水は上へ上へあがってきて、おす。で、障害にあうというと、邪魔者にあうと益々力が強くなる。人間は障害におうたら弱ったなあ、これもう弱ったと、すぐに棒なげますけれども、水はなかなか邪魔があれば あるほど力をましてくるという徳をそなえております。
それからまた物を洗うのに水がなかったら困ります。洗たく物を水はいつもきれいにします。自ら清らかであって人のよごれをあらう。清浄にしてあげるという。自分が清らかであって、他を清めるという所の力をもっとります。 もし、水がなかったとしたらどうでしょう。ほんとにもう作物もできない、洗たくできん。ほんとうに困ってしまうに違いないけれども、水のおかげで楽々と清らかな生活ができるという事になっとります。
それから水そのものが時と所に応じて姿をかえとります。寒ければ雪になる。また川の水でも、寒い時にはガラスのようになって氷になっとる。また霜柱というて、あんな土地をもちあげる力もこれ皆水の力です。そうしてまた、あの船で、何時間もわたる大きな大洋、これも水。実に千変万化の形をしておりますけれども、どれも水という性質を変えとりません。
人間はそうじゃないのであって、高い所へ出世するというと、ごう慢になります。性質が変わってくる。なかなかおじぎしたって、頭でおじぎして、腰かがめやしません。威張ったおじぎの仕方する。また落ちぶれるというと、まことにひがみ根性というのができまして、人を恨んだり、悪い事したり、実に人間は境遇ごとに変わります。矢張り食足りて礼を知ると昔から言いますが、暮らしが豊かになって来るほど人が落ついてくる。おう揚になってくる。
こういう風に人間は、時と場所と自分の身の上とによって、大いに変わってくるけれども、水は変わらない。場合によれば、鏡のような水になってみたり、あられのようなものになってみたり、雪になったり、また谷川のきれいな流れの水になったりするけれども、水というだけの性質は一つもかわっとらん。
それで人間もこういうふうに、たとえ出世しようが、落ちぶれようが、人間としての価値は絶体変えてはならんという、水にそういう徳をそなえとるから、それをまねせねばいかんというので、こういう立派な性質をもっとるのが水じゃ。それでどうぞ、このまねをさせていただきますというて、神様に水をまつるのがよろしいと、先生のお言葉なのです。実に大きな教育です。先生はもう日に日に水をおまつりするのですが、水にはええ徳があるなあって私、先生のお話きいた事があります。
これは実に人間の生活に、この水がなかったら、もう大変でございます。ご飯もたけません。お茶も飲めん。そして花も咲きません。実にあわれな事になってしまうでしょう。こういう有り難い水を、神様の前へお供えしてお礼を言う。そのおかげをうける。こういう事にすると信仰になるぜって先生がおっしゃった。実に大きな教訓でございます。まあ、先生は、そういうお話をなさる。教典の講義とか、むずかしい講義などはなさりませんけれども、お説教はなさりませんけれども、まあ村木さんよ。この水というのは考えるほど、ありがたいなあというて、日に日におまつりなさっていました。小さなびんでね。それで皆さんもやはり神様のお花をいけたならば、このお花の水入れを、 おかえになってせいせいとしたお水を、神様におそなえするという事は、ええ事じゃと私は思います。私も、先生のそのお話を聞いて、もう何十年も続けておりますが、実に気持のええものでございます。おそなえしてあるものいただいても、おかげはいただけますし、これは、なさると朝の用事が清浄な用事が私はできると思います。これをお供えしよる間には悪い事思いません。ありがたい事思うても、いやな事思いません。どうぞ、そういう風になさったら ええと思います。
(昭和三十九年三月三十一日講話)
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第四八六条 「人間の体には六根というて、六つの働きがある。眼、耳、鼻、舌、身、意の六つがそれである。この六つの働きを清浄にいたしますというしるしに、おそなえ物をする。 眼には花とお光。 耳には音楽。 鼻にはお香や線香。 舌ではご真言やおとなえ。 身にはおじゅずをかけ印を結ぶ。 心では神仏をおしたいする。 このように六根を清浄にして神のみ教えに従いますというお誓 いである。」


これも先生のお話があったのでございますが、神様の前へ供えるものがだんだんございます。たとえばお花、水、それから、よくなる鐘の音とか、鈴の音とか、それからお香だとか線香、それに皆、訳があるとおっしゃって、先生のお話しがありました。まあ、いろいろなわけがございますけれども、まあ先生がお話しなさった主なものをお話ししてみますと、このお花を生ける。お花をいけるというと、花というのは きたない花は ございません。何の花でもきれいです。菜の花でも無論黄の花はきれいですが、何の花でもきれいです。このきれいな花のような心になりたい というので、お祭りする。それから、おろうそくをあげる。あるいはお燈明をあげる。これは、もしそれがなかったら、夜は暗がり、まっくらである。それでこの暗いところを明るうにするのは、お光の力である。ちょうど人間に信仰心がなかったら、心の中が暗がりみたようなものじゃ。どうぞ私の心の中をてらしていただきますというて、お燈明あげる。それがお燈明のはじまりじゃ。と先生はおっしゃいました。 それから、このおリンですが、あるいはこの鐘の音、まことにこれを聞いて、いやなという音ありません。それは、お寺はんあたりでも、俗人の家でも、実におリンのおとというのは、かわいらしいものです。祭りには、太鼓や笛がありますが、これ皆人間の楽しみです。心がせいせいするというので、心持ちをいつもきれいに、ほがらかにするというために、音楽をまあこれあげる。神様の音楽です。それをするんじゃ、と先生がおっしゃった。いかにもそう思います。
それから又このにおいです。末香のにおい、線香のにおい、これ皆よろしゅうございます。実にあのお祭りした時分に、お堂の内らでええお香をたいておるのは、実に神々しい物です。有り難く感じます。そのありがたいという気持ちのええ感じ、それがお香の力というか、それを神様の前でお香をもって自分が喜ぶ。又、自分の人格を高めて、人柄をよくいたしますと人さんにおつき合いする時分に、ああ、あの人は気持のよい感じがするなあという風に、ちょうどお香をたいて喜ばすように、自分の心持ちを人にお伝えして、感じよくさせるという、それをどうぞ、さして下さいませと、神様にお願いするんじゃ。と先生はおっしゃいましたが、いかにもそうだと思います。なんだか朗らかな人に会いますと、心の中がなんとなしに、せいせいするようでございます。そのように、どうぞ信仰して、心持ちを朗らかに、きれいにしたならば、人が喜ぶ。そして、これはそうするのがええんじゃと、先生はおっしゃいましたが、実にそういうように思います。
それから、自分の口にお経を唱えると、ご真言くると、これは先生がおっしゃるのは、これはお経文でも、ご真言でもありがたいことを書いてあるんじゃから、わけがわかっても、わからいでもかまわん。これは神様のお喜びになる文句じゃ、その文句を自分が唱えて、お供えするんじゃ、それでご言などでも、訳がわからいでもよろしい。
神様がお好きなんじゃから、それを神様の前でくるというと、自分が、気持がよくなる。こういうことを先生がおっしゃいましたが、なるほどこれもその通りでございます。
それからまた、今度は体です。自分の体、これをどういう風に使いよるかと言いますと、手に(数珠)持っていま す。これは自分の心の中に、あの数珠の玉の数くらい悪い事をする。性根がある。百八煩悩と言いまして、百八つ悪い癖がある。それを糸で通して、散らばらんように糸で通して、それを手にまいて、神様の前へ持って行って、どうぞ、私の心の中の煩悩を清らかにしていただきますという。煩悩のしるしのお数珠を手にまとめて、あるいはそれを持って、お加持をして、困っておる人を百八煩悩の数珠で撫でて、苦労を除いてあげる。こういう風に使うのじゃと、これは体の方でございます。
それからまた有り難い人、それからまた、有り難い人が印を結ぶ。その印の種類には、いろいろの蓮花の印とか、なんとかいって、その形がいろいろございますが、泉先生は、印形は余りおっしゃいませんでしたけれども、先生がなさったのは、たいたい(手を重ねて物をもらう恰好)です。あれも印の内です。先生はたいたいしておがむ。それは神様から、有り難い物をいただきますと、いうので手で受けておるんじゃ、そう先生がおっしゃいましたが、これも印の内でございます。神様から下さるものを自分の手の中へいただく。その形を印という。先生のあれは印でございます。そういう風に先生が神様を拝む、神様の前でもおがみなさる心持ちでも、こういう風に目、耳、鼻、口、それから体、心と、これをことごとく神様にささげておるように先生がなさっておりますので、どうぞ皆さんも、このお花なども神様の前へお供えするという事はよい事でございます。それから、お荒神様まつっておいでんお家はないと思いますが、どうぞ、このお花も生き生きとした、きれいな物になさる事が、おかげが厚いと私は思うのでございます。それから、お線香はお使いになりますね。それからお仏壇などへは、鐘もりんという風にたたいておいでるようにたいていのお家はなさっています。それからおじゅずは、皆もっておいでますね。こういう風になさるその気持ちを、どういう訳でこういう風にしたかという気持を、先生がなさった様に、我々がまねすることが一番ええと思います。
それから、この先生はよく、清浄という事をよくおっしゃったのでございますが、これは先生のお父さんが、石槌さんの、お先だちでございましたために、六根清浄六根清浄と言いまして、お山へ登る時分にお父さんなどは、そういう風におっしゃったらしいのです。それで先生は、その教えを受けておいでますから、清浄という事を、よくおっしゃいました。心を清浄にするという事を先生はよくおっしゃいましたが、それならどういうのが物の清浄というのかといいますと、人が見ても気持が良い。これが清浄なんじゃと先生がおっしゃいました。
それから心でもそうです。わずかな物をお遍路さんにあげてもです。そりゃ、やるわというように打ちつけるようにしたんでは清浄でございません。差し上げるのじゃ、やはり神様に差し上げるように、はい差し上げますというて気持ちよくあげる事が、心が清浄なと先生がおっしゃった。これをよく皆さんがまねなさるんが私良いと思います。
それから朝のあいさつでもです。人に会って「今日は」というし、「お早う」というし、このあいさつでも人から聞いて、ああ気持の良いあいさつをする、あの人は。はれやかなあいさつをする。「こんにちは」といっても、あいそらしいにいうのと、重くれたようにいうのとはだいぶ違います。先生は朝昼のあいさつでも、清浄なあいさつせないかんとおっしゃいました。この清浄という意味は、人が見たり聞いたりした時分に、気持ちの良いということが清浄なんじゃと先生がおっしゃりましたから、どうぞ、これみな、しよい事でございますから、あいさつするのでも、あいきょうをもってあいさつするという事は、人を清浄に思わすんでごさいますから、ええことじゃと思います。
どうぞ先生は、そういうお気持ちであったという事をまねるようにお願いします。
(昭和三十九年三月三十一日講話)
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第四八七条 「心の持ちようは無色透明でなければならぬ。自分の心に何かわだかまりがあると、外の事が真っ直ぐにみえぬもので、人に悪い感じを与える。人の苦を抜き楽を与えるなど思いもよらず、 かえってわが身に苦難がふりかかり。人にも難儀をかける事になるのであるから神信心するものは第一に、自分の心を無色透明にして、世を渡らねばならぬ。」


こういう事を先生がおっしゃったのですが、先生は無色透明って、ようおっしゃらんのです。いろのないようにせないかん、とおっしゃったのをわたし覚えていますが、これはどういう事かといいますと、ちょっとこうわかりにくいようですが、たとえてみましたら、あんたが青い色のめがね(眼鏡)をかけて外を歩いてごらんなさい。すべてのものが青くみえます。赤いめがねをかけて歩けば、すべてが赤くみえます。子供が、よう、あのガラスの徳利のめげ(破片) を目にあてて、きれいだなあというておることがあるでしょう。あのとおり、世の中がすべて、まるで変わってみえるのです。けれども、これは我々が言う事でありまして、もうなりきっておる人には、それはわがでにわからんのです。
お遍路になりきって、橋の下で暮らすようになって来ると、外を通っている人の心が、わからんようになっています。それで、まあ、自分が太平というような考えでおるわけでございます。子供なんかが無理を言っていると、「おどれ、無理いよったら、よその子にやるぞ」とこういうように子供しかりよるそうですが、やはり自分がええように思うてなりきっとるのです。
そういうわけで、自分の目をまっすぐにみようと思うならば、やはり色めがねをはずさないけません。それは後に その方法がでてきますから、今ここでいうの略しましょう。とにかく色めがねをかけんと外を見よと、先生がそういう事をおっしゃったのです。いかにもそのとおりで、私は感心しとるのです。
あの兵隊さんにおいでて、戦争して、帰ってきた人のお話しを承りますと、水がのうても、えらい不自由いわないのです。乃木大将なんかコップに一杯の水があったら、あらえるといわれる。目だけ洗っといたら大丈夫じゃとおっしゃった事があるそうです。ところが、それは兵隊にいって、不自由すべき物じゃと考えとるから、そうなるのですが、家におるというと、わがままになってしまって、どうもそういうような事いわんようになります。こまかい顔洗うのに、たらいに一ぱいも水使うような事になります。泉先生はいつも欠乏した時におうとると思うとれと、いつも節季と思うとれ、自分の心一つで自分のめがねがはずせるんじゃと、貧乏人じゃと思うて、つらいなあと思うたら、またその根性になってしまう。ぶげん者で、こりゃ楽じゃなあと思うたら、その根性になる。いつも自分は無色透明で、何にも心に色をつけんとおれよ、という事を、弟子たちに先生が教えたんですが、今に私が考えてみますと、ああなるほどなあ、色めがねやかけとんは自分で知らんのやと、それがわかるようになりたいものじゃなあと、私は思います。
(昭和三十九年四月十五日講話)
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第四八八条 「人はわが事のよしあしはわかりにくいが、人の事はよくわかるものである、もし人がよくないしむけをしてきた時には、自分にはあのようなくせはないかと省みて、何事によらず人をとがめず、自分が神仏のみ教えに従うて行けば、人の悪行を見ても 我が身の修行になる。決してにくんではならぬ。」


これは、誠にしよいようですけれども、なかなかむずかしい事です。人の事はようわかると目玉が前へむいていますから、腹の中へ目玉がむいていませんから、わがの腹は見えんのです。人の事がようわかる。泉先生はこうおっしゃったのです。我がの事知らん癖に、人の事をよう言うといいますが、わがの事を知らん人が、よく人の事をいうのです。人の事をよういう人は、わがの事がわからんとしたものです。ちょうど棒にしたら一荷です。人の事をよういう人は、わが事わかりやしません。それでその時にどういうふうにしたらええかと、先生がお教えくださったのですが、それは、ああ、いやらしいことするなあと思うた時分には、私にそんな癖ないかいなあと、わがの腹の方を考えていく。それを手本において、けいこしていけと先生がおっしゃった。いかにも、そうです。考えてみるとそうです。
人の事、ようわかります。我々は、わが事がわからんくせに、人の事ようわかるものです。その時分に、あああんな癖、わしにないかいなあ、と思うて反省してみたら、しだいとあがるんじゃと先生がおっしゃった。なるほど、先生の教え方はしよいように、しよいように教えてくださっています。あんな事わしにないかいなあと考えたら、これ手本になる訳です。
ところが、そうせずして、世の人は、どうしよるかというと、あいつ、いやらしいというて憎むのです。憎むと、 その連れになるわけです。先生が憎むな、憎むなとおっしゃったのはそこです。ああ、かわいそうになあ、あれがわがでにわからんのや、わしはせんようにせなならんと思えよと、これ先生自ら、私に教えてくれたことばです。
(昭和三十九年四月十五日講話)
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第四八九条 「人の心は知りやすいが、自分の本当の心を自分でに知るという事は、なかなかむずかしい。この自分の心が、ほんとうにわかるなれば修養するのもしよい事で、人はあまりうぬぼれるくせがあるからよく考えるべきである。」


それは、まず、さあ、なんとたとえたらよろしゅうございましょうか。世の中にこうつられるとか、登るとかいう事いいますが、法華経には増、上、慢と書いてございます。わかっとらんのを、わかったげに思うとるのです。自分でに、そうして、かえって人を下に置くのです。お経文で人をたたく。お経文でたたくっておかしいけれども、宗教上の教えは、聞いてはおる。聞いておるけれども、わがの事に使わずして、人の事に使う。「おまはん先生の教えにこんな人あるでないか、それなんという事するぞ。」とこういう。そこで、それできとるかというと、わがはできていないのです。できとらんのに、お経文で人の頭をたたく。これはようようお考えになってごらんなさい。まあ、こういう事申すと、はなはだ失礼ですが、年よったお方が、その人の子や孫に言っている事を聞いてみるとわかります。
また自分の事は、自分の子などに言っている事をじっと、もし、わしが子であったらと考えてごらんなさい。ずい分、道理のわかっとる事いうても、親は無理しとります。私らも自分ながら無理言っています。
この間も面白い事がございました。これは親子でなくして、おかみです。つまり官庁です。その方と私との間の問題が起こったのでございますが、「村木さん、おまはん、これちっと金がたらんぜ、納める金が。」というのです。 「そうでごわすかいな。」そうして「どういうわけで足りまへんかいなっていうて、私は待ってつかはれというてあるので、すぐにお納めしたんですが。」すると、そのお方が記帳するのわすれとるのです。私の納めた事を、そして ご自分のノートに書いておって、それがおくれとるとおっしゃる。そこで「私には私の証拠がございますから、お見せいたしましょうか。」というて、私、理屈いやしません。どうぞお調べ願いますというと、ご自分のノート調べて、 「ああわかった、村木さんわかった。わかったけんどな、これ日がすぎ去っとるんじゃけん、どないぞ納めてつかはれ。」とこういう向こうの話がありましたから、「へい承知しました。」それで私は理屈には勝つんでございますけれども、勝ったらどうなるか、その結果、そのあつこうた人が自分で、自腹きらんならんのです。もう、そういう手は法律できまっていますから、その出所がないのです。「村木さん、あんたのいう事ようわかったけんな、どうぞ、おさめてつかはれ」、それで私は納めることにいたしました。
これはあんた方にいう話でないんであって、何でもない事でございますけれども、世の中に理屈というのがあります。権利ばかりを言うのです。まあ今日の私ちょっとこういうたらいいすぎるかしりませんが、ある政党の方が演説なさるのを聞くというと、なるほどほんまらしいにいよるけれども、それは憲法で国民に与えられた権利を主張しているのです。それがために国はおとろえます。
こないだも学校の受験の生徒が東京へいった。そらなかなか何万の人が東京へつめかけるのでございますから、その時に汽車がストをやったのです。非常に困ってしもうて受験生が、それでその地方の官庁の証明書をとって、こういう訳でおくれたという事をとって、そして学校へもっていって、まあ学校の方で納得してもろうた事をききましたが、このように自分が権利をふるうという事は、たとえそれが憲法で許されておろうが、民法で許されておろうが、その法律という物は、人を楽にしてやるためにこしらえてある法律でございます。人を困らす法律じゃありませんけれども、ご自分は給料あげてくれんから、こんなに物価が高いのにいけるかと、一度休んでやらんかというのでストをやる。これなどが権利をはって、人を困らすというものです。
それで私は泉先生から教えられておりますが、私には先刻の話には、大いに理由はあるのです。ありますけれども 勝ったら、その人が自腹切らんならんという事を考えてみますと、ああ、これは負けるわというんで、私は負けましたが、どうぞ、私がこういう事を言うと皆さんは、どういう風にお思召すか知りませんが、たとえそれが上へ向いてでも、下へ向いても、権利というのは与えられております。与えられておりますけれども、権利を忘れてしまうて、義務だけを覚えておる人間が私は信仰家だと思います。
どうでしょうか、ちょっと言いすぎるかしれませんけれども、義務という物は大きな義務が人間にあるのです。
憲法上では、納税の義務、税金をお納めなならん という義務があります。国できめられた 義務には、たちまち、 そりゃ応じるのがよろしい。従うのがよろしい。権利を与えられております。どういう権利かといいますと、歌唄うとっても、もの言うても、それは自由である。自由に言えと、これは憲法で許されとるのです。それだから新聞社は相当な事を言うでしょう。大臣の事でも、天皇陛下のことでもいうでしょう。ああいう自由の発表を許されておるのです。それは権利ですけれども、その権利を忘れて義務だけするのは、ええぞと、泉先生がおしえてくれたのはここです。どうぞ、そういう風に、このほんとうの自分というものは、どんなものであるかということを知ろうと思えば、私は義務は結構しよるかいなと、権利は、いばって使いよれへんかいなあとこう考えてみたら、人が見えるようになるというのです。と同時に、自分の無理が見えるようになる、これは先生がおっしゃいましたから、私書いたのでございますが、どうぞ、泉先生の教えというのは、そんなに有り難い神様、仏様のことはあまりおっしゃいませんけれども、人間として、世の中に仕えていく事を教えておいでるのですから、これがほんとうの信仰だと思います。
もし、あなた方想像してごらんなさい。世の中で義務だけ履行して権利を忘れとる人があったら、ほんとうにきれいだと私は思います。どうぞ、これだけでも外の教えとちがいますから、四八九条に書いておる事はほんとうの自分ということがわかるのでございますから、どうぞ、そういうふうにしていただきたいと思います。
(昭和三十九年四月十五日講話)
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第四九〇条 「自分の事を人にいうてもらえる人はよほど徳が積めている人である。なかなか自分の癖は人に言うてもらえぬ。これはもしいうたらおこると人が思うていってくれぬので、この大きな親切が受けられる人はそのような人は、前の世の功徳がつめているからである。」


こう先生がおっしゃったのでございますが、どうですか、人から自分の癖を言うてもらえる人というのは、なかなかむずかしいのです。親から子には教えよります。「おまはん、ほない、よこなでしなさんな、かっ好がわるいぜ」と、鼻じるが出とるので、よこなでしますね。それをもし人がみたって、おまはんよこなでしなさんなって、なかなか言うてくれません。それが言うてもらえる人は幸福じゃと先生がおっしゃったのです。
こういう事があるのです。ある私の友達に、あるくのに、げたはいて歩くと、ぺたん、ぺたんと二つ音がするのです。
見ていると、げたをぺたっと後へはねあげるから、それが足の裏へあたると、土地踏んだ音がする。ぺたん、ぺたんというて四人が歩いているような音がするのです。ところが、だれもそれを言うてくれんのです。その人は、なかなか気まえのええ人で、私がこう言うたのです。「おまはん、ここ歩いてみない。おまはんの足音よう聞いてみなよ。」
「どうぞい。」「土地踏む音と、それともう一つげたの裏へわたしの足があたる音と二つ音しよりますな。」というから、「そうじゃ、それはおまはん、やめなよ。あんまりええことないでよ。」と、わし言うた事があった。その人が喜んだ。二人が別に、よぶんの人が歩っきょるような音がするのです。これはもし雨がふっておったら頭のさきまでしりうちします。その歩き方は、まあかまわないけれども、人からみて、非常にていさいが悪いのです。そんな事がありました。
それからこういう信仰の席で、あんた方にお話するのは、誠に私はどうかと思いますけれども、遠慮なしに申します。ふんどしをしとって、ふんどしを長うにひっぱる癖の人、こういう人があるのです。それでわたくし言うたのです。「おまはん、朝おきて、ふんどしするのどないしてするんぞい。まあとけてしもうたら、かっこう悪いでないかって。」ある日、その人、「だんなはん、言うてくれたんは、ほんとうにうれしい。私ある時に車ひっぱっていっきよって、さあどこでほどけたやしらん。黒崎のかどまがる時に、人にふまれて飛びあがって転がったことがございます。ふんどしふまれて目がさめました。ちがいございません。」と、言うた人がございました。これは一つのほんとうの話でございます。
そういう風に自分の癖というのは、わがにはわからんものです。それを人に言うてもらえるのは、まあ自分の人がらが、人に許されとるええ人じゃから、言うてくれるのです。もしその人が、そんなこというとおこるだろうやいうのであったら、言うてくれやしません。なんでも言うてもらうようになれと先生がおっしゃった。
先生は、左ぎっちょで、先生がなかなかおもしろいです。仕事なさるのが、それで先生の左ぎっちょ知らん人が多いのです。上手になさるから、「先生あんた左使いなさるなあ。」「ええ」って、先生の左をだんだんこういえるのです。言うても先生がひいひい、いうて笑いもって、うれしそうに答えなさる。そこで先生が、わたしにおっしゃったわけです。「村木さんよ、これわしゃ、くせがようけあったんが、だいぶん直った。いうてくれるんで、その時分に言うたらおこるだろうやいう人だったら、なかなか言うてくれへん。人に、わがのあらを言うてもらえるのは功徳が積めとんじゃ、かげで陰徳が積めとるんじゃ。」という事、先生がおっしゃいましたが、どうですか、あんた方この事をおききになって、どんなに思いますか、そうとう癖があっても、なかなかいえんでしょう。ご自分のご家内や、ご主人にむいても、そのくせはいえるものじゃないそうです。それがいえるのは、よほど向こうを信用しとらなんだら、いえぬものです。それを言うてもらえるように徳をつめと先生がおっしゃるのです。
こういう教え方は、ほかの人と違います。こういう事を覚えて先生は あんなに、偉くなれたんで ございますからどうぞこういう事も、ああほんに、功徳を積んだら人にいうてもらえるんじゃなあ、ひとりでに偉うなれるなあというように解釈を願いたいと思います。
(昭和三十九年四月十五日講話)
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