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第四一二条へ 第四一三条へ 第四一四条へ 第四一五条へ 第四一六条へ 第四一七条へ 第四一八条へ 第四一九条へ 第四二〇条へ第四一一条 「健康のはかり(秤)というものが三つある。一、うまくたべられる。 一、よくねられる。 一、日々きもちよく通じがある。 この三つの事がそろうと、からだはよい。」
健康のはかり(秤)というのは、からだが達者であるか、弱いかというのを、はかるさおばかり(俗にちぎという) や、台ばかり(かんかん)です。目安です。健康かどうかをはかるはかりは三つある。その三つは何かというと、先生はニコニコお笑いになって、おっしゃいました。「まず、食べものがうまい。よけいとか、少ないとかというのではない。食べるものの味がおいしい。これがひとつ。次は、よく眠れる。夢も見ず、ぐっすり寝る。横になると何も知らず、よく眠る。これが二番目。その次には」と笑いながら先生が、「おかしいけれど、話すがなあ。」とおっしゃって、「日に日に便所へ行く、お便所で日に日に、気もちように、通じがあるかないか。この三つがそろったら、健康なからだじゃ。そのうち、どれかが欠げたら、どこかに故障がある。手入れせんといかん。」と先生がおっしゃった。
どうですか、あなた方、食べものは、おいしいですか。味がおいしく食べられる。よくねむれる。ねるということでも、間なしに目がさめてね、あまりねられん方がある。もう、とりとめもないこと思い出してねられん。そういうことをよくおっしゃった。赤ん坊は、よう、ねます。年をとるほど、眠る時間が少くなります。それはずっと大年寄りになりますと、からだがちびませんから、つまり、くたびれが少ないから、ねられんのじゃ、とこうお医者さんはいうたりします。けれども、私は、私のこというのおかしいけれども、私は、老人でございますけれども、よくねます。 夜寝て、ころげてまくらしたら、はや、知らんのですなあ、よく寝ます。お参りにいっても、山の中で、しばの中でころげても、ぐうぐういうて、ねてしまうのです。何も考えておりません。まあ、大体、私の経験では、六時間ねましたら十分でございます。これから、少ないといけませんし、又八時間も十時間も寝なければ、ねむたいというのではいけません。よく寝られるということが、健康のはかりでございます。あなた方、よくためしてご覧なさい。ねむれるということは、からだがええという証拠です。
それから、これは、きたない話しいたしますけれども、お便所へいって、お便所で気持ちように、その日その日出る、三日も五日も、なさらん人がありますね。あれは、ごくいけないことです。頭が悪うになります。食は日に日に食べ なければならないのでございますから、日に日に、ふんべんはしなければいかんのです。それが、三日も四日も、でないということはよくないのです。東海道の汽車が通れんようになって、レールが故障してご覧なさい。お客さんは困りますよ。この三つです。健康のはかりというものは、ざっとしたものです。と泉先生は、笑いつつおっしゃったものです。食べるのがおいしい、よくねられる、便通が気もちよくある、この三つを欠いだら、どこかに故障があるのですから、気をつけな、いけないのです。
どうぞ、この健康のはかりにかけ、もし、どれかに故障がありましたら、注意なさるのがよろしい。
(昭和三十八年七月三十一日講話)
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第四一二条 「百尺の大木の木の先まで、水を揚げるのに、木は楽々と揚げている。もし、人がこの水を押し揚げるには、大変な力がいる。 これをみても、天の力の大きなことがわかる。」
百尺の大木というのは、随分高い。それでも、このごろのように照りましても、先の先まで水が揚がっとるのです。ところが、あの百尺の上まで、あの細い糸すじのような、細い水のみちをとおして、ずっと水を揚げるのでしたら、なかなか人げんのポンプどころの力やでは、あがるものではありません。それを、らくらくと、木の根で水を吸うて、 百尺の先まで吸いあげて、芽がしおれんという力は、大したものです。これは、天道はんの力です。 こういう風に、木の芽がしおれんというのを見ても、ああ、有り難いなあ、と先生はおっしゃったのです。これは、先生が、何事にも、有り難い、有り難い、とおっしゃるのは、そのわけをいうのです。
水をいくら使っても、自然にできてくる。これを科学者がいうと、酸素と水素という二つのガスを電気の放電で、 パッとまぜあわせると水ができます。これは学校で実験しますね。水ができるのは、わかっていますが、何もしなくとも、天とうは、水が少のうなったとか、あるいは、人間が多すぎる、とかいうことなしに、この地球の上には、いるだけの水は、いつでもございます。日照りつづきで水が少ないという、ある地方で水が少ないということはありますけれども、地球全体から考えましたなら、水は、ふえも減りもしません。いるだけは必ずあります。有りがたいものじゃなあ と先生はおっしゃる。これは、何事も、有り難いと思う心がおかげのもとじゃ、と先生がおっしゃったのです。 どうですか、あなた方が、この土地の上で、有りがたいものじゃなあとお思いになることが、いくらございますか。
この数が多いほどよいと先生がおっしゃったのです。大阪などの都市へ行きますと、空気が煙でよごれております。 奈良あたりの山の上から、大阪を見てみると、綿で包んだように見えます。煙で巻かれている。ところが、風というものがございまして、その煙を吹き飛ばす、すると、煙が山とか野原へ飛んでゆく。青い葉のあるところには、煙がいるのです。炭酸ガスを吸って、草木の葉から酸素を出します。そうして、空気を新鮮にする。天とうは、水もこしらえれば、空気もこしらえる。空気なども、人間がこれを造るとなると大変でございます。炭酸ガスが沢山できれば、草木がそれを吸うて、新しい空気にする。これで、もうほんとうに、般若心経に有りますとおり、ふえも減りも、よごれも きれいにもできん。ちょうど、ええように、自然に天の力でそれができていく。
泉先生は、お山へお参りして、岩にでも腰かけて、一服なさっている時には、「ああ、この木が空気を新しくしてくれよるんか、有りがたいものやなあ」というお気もちで、木をながめられる。ただ風が吹いても、それを有りがたいものじゃなあと先生はおっしゃる。思うておいでる。ほんとに有りがたい。何が有りがたいのやらわからんのに、 有りがたいというのと違います。先生は、有りがたいというわけをちゃんと知ってござる。
それで、お釈迦さんが、こういうことをおっしゃったことがあるのです。「法を知っとるものでなければ、仏さんには会いにくいぞ。」と。どういうことかといいますと、「法を知っとるものは、仏に会える」というのは、法というものは、水ができるとか、あるいは、空気ができるとか、そういう出来具合、すなわち、そのでき方です。それを法というのです。それを知って、ああ、有りがたい、有りがたいといっているものには、神さん、仏さんが通じるのです。それを、お釈迦さんが、法を知らんものは、仏に会いにくいということをおっしゃったのです。 どうぞ、あなた方が田んぼなさるのでも、こういう有りがたいことが、ちゃんとあるのでございます。たとえば、土地がある。そこへ種子をまく。そうすると、その種子が根をおろし立派に育っていく。そうして、それを大きくする。土地が大きくする。有りがたいものじゃなあというので、祭ったのが地神さんでございます。ああ、ほんに、土地の力というものは、有りがたいものじゃなあ、ということを知らなければ、地神さんには、会えんぞとおっしゃるのと 一しょです。それで、ものには、それ相当のわけがございますから、田んぼ一つしても、ほんとに有りがたいなあというのがわかることが大切じゃと先生がおっしゃいました。
これは、簡単なことではございますけれども、先生の日常を現わすのには、まことによい例でございます。先生は、何でも有りがたいという生活を、なさっていられたのです。先生のお生まれになった津田は、海のはたです。それに山の方から水が押しとるのです。地下水が土地の下には、押しとるのです。海岸ですが、実によい水が先生のお内には出ていました。非常にうまい水です。あなた方も飲まれた方もあるでしょう。真水のきれいな水が山から押しとります。これで、生きものが助かるのです。真水のきれいな水が海岸でも出る。有りがたいものじゃなあと先生はおっしゃる。
こういう風に、人間の助かるもとがちゃんとある。先生はありがたい、ありがたいとおっしゃったのです。これを 見ても、先生のご信仰が進んでゆくというわけがよくわかるのです。小さなものを、拾うていって、大きく集められたのが先生でございます。どうぞ、信仰なさるのでも、そういう風に、日に日に考えなさること、見るもの聞くものが、有りがたいなあと思えるように、なさらんというと、先生のお気に添わんというわけで、田んぼなさっても、草をとっても、本を見ても、水の流れをみても、皆、そういう風に、きまっとるものでございます。 四相観と言いまして、これは、お釈迦さんのおっしゃった言葉でございますが、谷の水が青くきれいに流れているのです。それを天人が見るのです。天人というのは、空を飛んで土地へ降りんといいます。空を飛びなさる神さんです。その天人が川の流れを見ると、るりと見るのです。るりというのは、青い焼きものです。下へ降りませんから、るりと見える。るりという石もございます。ひすいというのがございます。青いきれいな石です。あれに見えるというのです。
それから又、餓鬼道です。人間の根性が悪うて、物惜しみをして、わががよかったらええ、という人は、がき道におちる。餓鬼が何か食べ物が欲しい、水が欲しいと思うて、手ですくって、飲みかけると、ぽっと火になって燃えるというのです。これは仏教では、よく言うのでございます。それだから、きれいな谷川の水が流れておっても、餓鬼がそれを見ると、火に見えるというのです。あそこに火が流れとると。
それから又、そのきれいな水の流れを人間が見ると、ああ水じゃ。一ぱい飲もうか、人間は、それを水というとる。ところが、さかなはその水の中に住んでいるから、水の世界を知らんのです。さかなは、水の中に住んでいるから、 谷川のきれいな水じゃということ、谷川が流れとるやいうこと知りません。こういう風に、一つの川の流れを見ても 天人はるり、餓鬼は火、人は谷川の水、さかなは水の世界を知らない。
こういう風に、一つの谷川の流れを見ても、見ようが四つになって来る。これを四相観といいまして、お釈迦さんが、見様によっては、こんなに見えるものじゃ、それでございますから、泉先生は、そこをおっしゃるのです。 水一つ見ても、ああ水ができるのは、天道はんが、こういう具合にこしらえる。もう有りすぎるように、又足らんやなど、いうことないように、まあ、結構じゃなあ、風が吹いても、この風というものが無かったら、大阪のように煙に巻かれとる ところであったら、人がちっ息してしまう。よく風が運んで、方々の木や草のところへ配っていくと、草木がそれを吸うて、酸素というものを、葉から出して、人が助かるようにしてくれる。有りがたいものじゃなあ。
こういう風に、同じ風を見ても、同じ水を見ても、有りがたいと見るのが、泉先生です。何でもが、四相観といいまして、見方がいろいろあるものがございますから、有りがたい、有りがたい、と見えるような、けいこをせよと、先生がおっしゃったのです。これが信仰上大事な、神さん仏さんのお陰を受けるもとじゃと、おっしゃったんです。どうぞ、そういう風にご承知願います。
(昭和三十八年七月三十一日講話)
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第四一三条 「人はつねに最悪の場合を標準として、暮らしてゆくなれば、いかなる問題にあっても安心してゆけるはずである。」
これは昔から、心掛のええ人は、よく言うとるのでございまして、一例をいって見ますと、侍が戸の口を出る時は、 決して右足から出ないというのです。左足から出る。左足を先へしきいの外へ出す。もしその時分に左足を出した時分に、敵が刀で切ってきたと仮定した場合には、左足を引くのです。左足を後へ引くと、右の足が前へ出ていますから、それが刀を持つ姿勢になっとるのじゃそうです。この人間はどうも、右手を使うのが上手な癖があります。右手を使う場合に左足が出ておると、使えんのじゃそうです。それで左を引いて右足を出していると、刀を使う時分に、右が前へ出ておったら非常に楽に便利にからだが使える。こういうことをいうのでございますが、これは侍の話ですけれども、戸の口を出るのでも、敵が切ってきても、その場合は、足を一歩後へ引くと構えが出来る。こういうことを考えとるのでございます。これなども、最悪の場合を予想して日に日に暮らしとるということです。
その他、侍でなくても、普通の人でも、やはりいろいろな考えがいるわけでございます。そういう、突然の出来事ばかりではありませずして、心掛けの上に、日ごろ、われわれが暮らしておりましても、まず一日の収入は、これだけ入る。日に電燈料はこれだけいる。又、水道料はこれだけいる。食料はこれだけいる。燃料はこれだけいる。こういう風に大体きまっとります。ところが場合によりますと、病気をする、そうすると、その病気の保養のために、つねには考えていない費用がいる。こういうことがあるために、最悪の場合に心をつかう必要があると思います。
ただ、信仰をするから、心配ない、という出たら目の暮らしはいけませんのでありまして、やはり、そういう悪い場合でも困らないというだけの、つねづねの考えを先生がおっしゃったのです。それを最悪の場合を考えて暮らせよ。 そういうことを先生がおっしゃいました。
それから、先生が、お若い時に、大阪でおけを製造なさっていたのです。その時分に、おけのくれをつく大きなかんながあります。あれをせんといいます。普通のかんなと違って、手で持たずしてつくのです。おけ屋さんが使っているせんを、先生がお若い時分にお使いになったのを、ちゃんと油を引いて、いつでも使えるようにして、先生が寝られる二階へ、ちゃんと保存してあります。私が「先生、あれをお使いなはりよるのですか、えらい、きちょうめんにおいておありなさいますね。」と聞いてみますと、先生がおっしゃるのには「村木さんよ、人間は時と場合とによって、いろいろ生計が違うてくるのじゃ。その時分に、昔はこういうことで、こういう風に考えていたという思い出になって、 ええから、その機械にお世話なったんじゃから、わしは大事においといて、昔のことを思い出す。そうして、お礼をいう心で今をよろこんでゆくということにしとるのじゃ。」こういうお話がありましたのですが、私は非常に感心しました。お若い時の経験を、おもい出して、今後の参考にする、あるいは又、お礼いう心で日に日に暮らす。こういうことが必要と思います。先生は、そういうきちょうめんなお方でありました。
あなた方でも、よく考えてご覧なさい。この若い時分に、いろいろ問題に合いまして、それを無事に切り抜けたということは、後になりまして、非常に参考になるものでございます。又愉快なものですから、それを皆、ほうぐにしてしまうということはよくないので、それが、悪い時に遭遇した時分にこうであった、ああやったというところのおもいでになって、非常に参考になるものです。 先生はそういうわけで、この四一三条というのは、いつも先生は、最悪の場合、困ったという時をつねに忘れないということを、私はよくおそわったのでございますが、誠に先生は用意十分、つねの時から、用意をなさるところの先生のご気分でありました。これは、われわれ日常生活する上に、大変結構なことじゃと私は思います。
(昭和三十八年八月十五日講話)
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第四一四条 「人は自分を知るということは大切なことであるが、妙なことには自分の長所のみをよく知って、短所にはあまり心を掛けぬくせがある。これと反対に人の方へ向いて短所をよく探るようである。 人の短所があれば、これをあわれんで救い、わが短所は人に迷惑をかけぬよう直ちに改めねばならぬ。」
人には、わがの長所を自慢する。こういう癖のあるもので、先生は、これを非常にお考えになって、自分の短所は考えて、人の迷惑にならぬようにするのがよいと、こういうお話しがあったのでございます。これはまことに結構なお話しでございまして、皆さんが一つお考えを願いたいと思います。自分の長所は何であるか、長所はすぐに言います。
自分は何々がじょうずである。手しごとがじょうずだ。あるいは走るのがじょうずだ。あるいは体力が強いから、体力を使うのがじょうずだ、など自分の長所は知っとるものです。あるいは、字をよう書くとか、自分は才能がようもとるとか、そんなことは知っとるものですが、自分の短所を聞いて見ると、どこが短所かということは、割合知らぬものです。おこりっぽい、気が短いとか。つねにはわからんけれども、まさかという時に、非常にそろばん家になってみたり、あるいは又、何事でも理屈をつめていかな好かんという生まれ性があります。必ず理屈つけるのです。理屈つけるのもよろしいけれども、ことごとに理屈をつけるのです。そういう短所があることを、つまり理屈がましい、といいます。そういうような、人のたちがあることを自分は知らない。こういうことを、自分が知らなかった場合には、どういう損があるか、 運が悪い、といいますと、得てして自分の長所、それを自慢いうのです。妙に自慢をいいたがるものです。あなた方が日頃の生活でごらんになったらわかります。世の中に自分の自慢いう話くらい、きたないものはありません。いやなものです。感じの悪いものです。それを知らず知らずのうちに、自分の長所、人にすぐれておるところ、こういうたのがある、というようなことをいうのです。そのくせ、自分の短所は知らんものです。
私は、こういう癖があって困るというようなことは知らずして、自分のことをたなに上げといて、人の短所はよく知っとるものです。あの人は、誠に理屈いうのが好きだとか、けんかするのがすきだとか、人のあげ足を取るのがじょうずだとか、もう人の短所を必ずよく知っとるものです。わがの短所を知らん人は、人の短所を知っとるものです。 ためしてごらんなさい。自分の短所を、ああ、わしは、どうもこういう短所がある。こりゃ大いに注意せないかん、というて、自分の短所を、日頃、直そう、直そうと考えておいでる人は、妙に人の短所は言いません。これは妙です。わが短所を反省する人は、人の短所はあまり言わないものです。自分の短所を知らん人は、もう無茶苦茶に人の短所ばかり拾うものです。それがひいてどうなるかといいますと、自分の運にかかるのです。何事も運悪く運んでゆきます。どうぞこういうことを先生がおっしゃったのは、誠に結構な話と思います。なかなか自分の心を知るということは、非常にむつかしいものでして、しよいようでも、むつかしいのです。
ある所の神さまに、おさい銭箱の向こうに、鏡を置いてある神さまがありました。今でも、ぼつぼつあります。あれは、どういうことを数えとるかといいますと、鏡の前へ行ったら、自分が目をむいたら、向こうへ映っとるのが目むいとります。自分がおじぎしたら、向こうがおじぎしています。というように、鏡が前にあるとゆうと、自分のしていることがよくわかるのです。これは何を教えとるかといいますと、自分を知れ、そしたら運がええぞということを教えとるのです。
撫養の四軒屋のあれは小さい神さんですが、おいべっさんのお堂の向こうに丸い鏡がかかっています。お通りになったら見てごらんなさい。ちょうど鏡を置いてあるかのように、ご自分が家庭でおいでる時に、人から何とかいわれるのです。その時分にすぐに感情をもって、理くついう。それに刃向かうてゆく。それは人間のくせです。そうせずして、あまり、人がいうのは、わたしにそういう癖があるんじゃ。これは、わたしが悪いんじゃ、こう考えた場合にはその癖が直ってゆくのです。自分のくせを知るということは、大変運がええぞと、これ先生が教えて下さったことです。このことだけでも助かります。なかなか皆さん、ご承知だろうと思いますけれども、癖のある人に限り、わがのくせというものは知らぬものです。知らぬから、その癖を、人がいうとおこる。もし悪いくせを知っとったなら、おこりません。ああ違いない、わたしが悪いんじゃ。知らんからおこるんです。どうぞ、自分の長所ばかりを知るのじゃなくして、自分の短所、悪いくせを知るように、これが、運がよくなるもとぞ、と先生が教えたのでございます。
あの泉先生が、どちらから見ても、人ざわりがよろしい。どんな人でも、泉先生とおつきあいしたならば、泉先生は尊いお方であると、皆おじぎします。これは先生に癖がない証拠です。どうぞ、そういう風に、泉先生のように、どちらへ向いても、癖のないようにしていくことが運をよくするもとでございます。
(昭和三十八年八月十五日講話)
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第四一五条 「足らぬものは余る、余るものは足らぬ、ということわざがあるがこれは我々日常の少しばかりの心掛けが積もって、大きな結果を 生み出すという結構な教えである。」
このことは、あなた方もお聞きになったことがあると思います。足らんものは余る。余るものは足らん。こういうことを昔からよくいいますが、そのわけはどこにあるかといいますと、もし、これは足らんと思うた時分、足らんというので、これを心掛けて節約してゆく。そうすると、足らんと思ったものが、余ってくるわけです。これと反対に、余る、余るというと大ざっぱに扱います。大ざっぱにあつかいよると、余ると思うたものが足らんようになってくる。このことを教えたのでございまして、これは単に余るものは足らんという、数や量のことでなくして、人げんの心掛けです。 日ごろの心掛けでも、わしは足らんと思うたのは、余るということになるでしょう。わしは偉いと思うたら、今度ぶりは、隙ができてくるのです。わしは足らんのである。わしは寿命が足らん、大いに気をつけんならん、という人は、それは余る。人より立派な成績があがって運がええ、こういうことになるのでございますから、どうぞ日頃の生活の上の数や、ます目のことは、余るとか、足らんということは、よくわかりますけれども、心の上の所作は、なかなか余るとか足らんとかいうことは、わかりにくいものです。
日ごろのおつきあいでも、いい詰めたらいかんのです。泉先生がよくおっしゃいました。腹八合に医者いらずと、 言うが、そりゃ食事のことを言うんじゃが、もの言うのでも、言いつめてしもうたら、きたないぞ。足らんものは余る。余るのは足らんということを先生は、それ位いろいろにお使いになるのです。
先生におつきあいなさった方は、よくご承知と思いますが、先生は、非常に始末なお方です。いらんものは、お使いになりません。つねづね、もめんの黒い着物に、もめんの帯をしめて、まことにお粗末な風でございます。それで大阪へでも、どこへでもお参りにお出掛けになるのです。そうすれば、生計費がいりません。それだけ仕末なんですから、人よりもお金が残るのです。それを先生は、ためるんじゃないから尊いでしょう。ためても構いませんけれども、先生は、貧しい足らん人にあげるのです。 ご自分が手をつめて、そうして足らんところへあげる。あるいは又、道ばたのお地蔵さんのお堂がこわれとりましたら、どうぞ、これでお堂をなおすのに足りにして下さいと、世話人のところへ行ってお金を贈るのです。そして「あなたどなたですか。」「いやもう、名前や書かいでよろしいから、わたくしようお参りにきますので、神さまご承知ですから」といって先生は名前をおっしゃらん。言うても構いませんけれども、 寄付板なんか、先生、そんなの考えていないのです。つねづね、しまつなさるというのは、そういうところへ使おうとて、 先生はしまつなさるのですから、尊といことでしょう。いつも先生は、そういうことをなさるために、つねにしまつなさっとるのです。しまつして、きたなくするんじゃありません。いらんものは、使わないということです。 この四一五条のことは、先生のご人格がよくあらわれております。先生のご生存中におつきあいなさった人は、おわかりになるでしょう。そのころは、人々は皆、帽子を召しておりましたが、先生は、めったに召しませんが、もし召すようなことがありましても、鳥打帽子をちょっと召しとるのです。そういう簡単な生活をなさる。実に先生は生活の上にもお手本にする点が沢山ございます。
(昭和三十八年八月十五日講話)
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第四一六条 「れんぎで腹切る、といえば、だれでも笑うであろう。しかし人間は無理なことをして、ちょうどれんぎで腹を切るようなことをしている。」
ある日、先生が浜の金比羅さんへお参りにお出でた時、お堂の中で拝んですんだ後で「村木さん、もういぬか。」「はい帰ります。」その時に先生がお話しなさるのには、「村木さん、昔からなあ、れんぎで腹切る滅相もん、ということが、いろは歌にもあるが、れんぎというのは、先が丸いちびとるものじゃが、あれを腹へ突っこんだら、あれで腹切れん。それで腹を切るという滅相もんがあるということを昔からいうが、ほんとにこれは面白いいい方じゃ。」
「人げんが、人と約束するのに、安受けあいする、ああよっしゃ、分った、分った、というて安うけあいして、それが出来んのに出けそうにいうのです。そして、結局、出来んので、うそを言わんならん。出けんっ、て言わんならんことになる。はじめからようわかっとる。そういうわかっておるものは、初めから考えて、お約束せんのがええ。」すべて、暮らしの上でも、ああいうことしたら、いけんのわかっとるというのに、無理なくらしをする。かっこうばかりいって。先生は人の批評はなさらんのです。決して、その悪い行いをしている人の批評はなさいません。ああいうまねをせんように、どうぞ、日に日に、面白うに、気安うにいけるよう、村木さん、するのがええぞ、これは金比羅はんの帰り先生に承ったのですが、ここに書いてあります。「れんぎで腹切るめっそうもん。」先生面白い人でね、先生のお話は、ひいひいいうて、笑いながら、なさるのです。「村木さん、れんぎで腹切ったらいたいわのう」それを思い出します。
どうぞ、そういうことのないように、よく考えた楽な生活をするのがええと思います。
(昭和三十八年八月十五日講話)
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第四一七条 「お達者な人と人にほめられた時に、少年のものはよろこぶ。中年のものはよろこばん。大老の人はよろこぶ。このように異なるのは その人の心持が違うているからで、すべて言葉はうつり変わりに気をつけねばならぬ。」
「あんた、お達者ですね。」と人が言う。よくあることです。達者な、と人にほめられた時には、どういう感じがするか、人ごとに違うのです。若い年のいかん人に、ああわしゃからだがええけん、あんなにほめてくれるんじゃなあ、お達者ですねといえば、喜ぶというのです。こんど、もう中年位になってきた時分に、「あんたお達者じゃな。」といっても人は喜ばず、当たり前と思っているのです。別に感じないものです。ずっとお年寄りになると、つえついて、 腰でも曲っとるような年寄りに、「あんたお達者じゃな。」というと気に入らんのです。もうおいぼれになったというように人が思うのかなあ。こういう風に、同じ達者ですなあ、と人にあいさつを受けても、このように違うのです。
これについて面白い話がございます。お釈迦さんが信者に「一つの事でも人によって、大きに考えが違うぞ。人と話しする時分は、いつも向こうさんをよく知って、向うさんが、気がついて喜ぶように、向こうさん本位で話しをしたげないかん。わがの腹で話しをしていると、向こうさんの気に入らんこと言うたり、えらい大変なことをするから、いつも気をつけて、話しせえよ」とお釈迦さんが弟子に教えた。その例として、こういうことを、おっしゃった。きれいな谷川の青い水が流れとる。あちらへうねり、こちらへうねりして、きれいなものです。谷川の水というものは、そうすると、そこへ空より、天人が飛んでくる。天人という のは、ご承知のとおり土地へ降りんのじゃそうです。きれいな着物を着て、空を飛ぶ絵にかいてあります。あの天人は土地へ降りずして空を飛んで、その川を見ますと、るりを敷いてあるとこう思うのです。川ということを知らずしてきれいなあの青い石です。女の人が帯どめにしたり、指輪に入れたりする。あの翡翠という青い石があります。あの石をしいてあると天人は見るのです。
こんど又人によって、この世でまことに、けちんぼうの暮らしをしておって、死ぬというと餓飢道におちる。もう食べるものが食べられんのです。祭ってくれんから。そしてのどが乾いておって、水を手にすくうて、飲もうと思っていたら、ぼっと火になって燃える。そういう苦労しとる人じゃからして、川の水が流れていても、火が流れている、 あれは火じゃ。餓飢道は、水を火と見る。人げんは、ああ、この水はきれいとか、きたないとか、あるいは、たんぼへ入れられるとか、あるいは、この水は、毒が入っとるからどうじゃ、こうじゃと、人げんは水じゃと見る。ところがその水の中で、さかなの子は卵がかえって、その水の中で泳いで大きくなってゆく。水ということを知りません。わしの世界じゃというとる。こういう風に、同じ水の流れでも、天人が見るのと、餓飢道が見るのと、人間が見るのと、又さかなが見るのとは、同じ水でも名がちがう、るりと見る天人があり、火と見る人があり、こりゃ水じゃという人があり、こりゃわしの世界じゃといって水を知らんものがあり、こういう風に見ようによって物は、変わってくるものじゃ。
どうぞ、心を一ところにちぢめずして、伸びのびとした、朗らかな心で、人につき合ったならば、こういう間違うた見ようはせんぞ、こういうお釈迦はんのお説教があるのです。
これ、あなた方、お考えになってごらんなさい。よくあります。物事を見るのに、人によって違う。大変違うた見ようをします。どうぞ、そういう風にならんように、信心もして、気をおおきく持っとったならば、そういう間違いは起こらん。とういうことを先生がおっしゃった。それをここへ書いたのです。どうぞ、そのつもりでごらん願います。
(昭和三十八年八月十五日講話)
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第四一八条 「どんな暗いやみの夜でも、きっと明るい朝が来る。人間も先を楽しんで働け。」
これは泉先生が、もう何度も何度もおっしゃった言葉でございまして、なるほど違いありません。いかなるやみ夜でも、朝は必ずくるので、その間は辛抱だという先生のお話しでございます。これは、どんなやみ夜でも、朝がくるのには違いありませんが、自分が難儀に合うというと、それを思えないものです。難儀の事ばかりを考えて、そうして、朝日が出てくるというような、明るいことはあまり考えないものでございます。そこで泉先生は、くらいのはもうなんぼう考えても、くらいんでございますから、それでも朝は必ずくるんだということを心に思うとれ、これが耐え忍ぶということの最も強い力である。こういうことをおっしゃったのでございますが、だれでも耐え忍ぶ、忍耐をするということは、よくいうのでございますが、たえしのぶということは、先の明るみを考えるので耐えられるのでございまして、もし先ほど暗いというのでありましたならば、耐えられんのでございます。そこで魔がつけるのです。こういう時に魔がつけるのです。耐え忍んで、先の明るいことを考える時は、魔がつきませんが、先が暗いというようなことになりますと、必ず魔がつけるのです。これは魔のことにつきましては、別にお話しいたしましたが、実に驚くべき力があるものでお釈迦さまさえも、お行なさっている時に、随分ご苦労をされました。
そこでお釈迦さんに、功徳を積まさんように邪魔をする天魔というのが現われまして、そうして、大変お釈迦さまの行を邪魔しました。お釈迦様は、いつもこう考えておいでる。「われ今、ここで行をしておる。この行ができあがったならば、いかなることでも、人を救うことが出来るのだ。もしこの世でできなければ、生まれ代わり、死に代わり、 この場を立たない。こういう決心をなさっておいでるために、ついに波旬(ハジュン)という天魔は、もうこれはかなわんというので逃げてしまった。ということが残っておりますが、こりゃお釈迦さまに限りません。いかなる人でも、先に楽しみを持った場合は、必ず悪魔は消えるとしたものです。その先に明るみをもつということは、非常にむつかしいことで、もしそれが思いにくい場合にはどうしたらよいか、その時がご真言です。自分が、先がつらいつらいと思う時に、どうしても楽しみがあると思いにくいことがある場合があると思います。その時分には、ご真言を繰れ、ご真言繰りますというと、いつの間にか心が開けてくるのです。
これはお大師さまがご真言は不思議なり、これを誦すれば、無明を除くということをお書きになっとりますが、無明というのは、暗がりということです。心につらい、先が暗いというようなことを無明というのです。明るみがない、その無明が消えて、光がさしてくるということをお大師さまがおっしゃっておいでますが、もしも、先にうれしいことが考えられん場合には、必ずご真言をくれと、これはお大師さまの教えでございます。
泉先生も、どんな暗いときでも必ず朝がくるんじゃ。いつまでもやみ夜でない。と思えとおっしゃった。やはり、 これはえらい人が言うことと、よく似とるものでございます。
(昭和三十八年八月三十一日講話)
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第四一九条 「人がせめたくなったら、どうしたら許せるか、その工夫を考え出せ、人がそしりたくなると、どうしたら、その人のようにならんと済むか工夫して見よ、心は安らかになる。」
人がそしりたかったら、その人のようにならんように、自分が工夫するということを考えることが大事じゃ。これも日常生活に、非常に大事なことでございまして、大抵、自分の欠点はさておいて人を責めるものです。
まあ、手っ取り早い話をいたしますと、汽車に乗る場合、あるいは降りる場合に、人のこんでいるところでは、つい人の足を踏むものです。そういう時に、自分の足を出しとって踏まれたこともあると思います。でも、踏まれた時は人が必ず悪いとおこっとります。目をむいておこっとります。ようご覧になるだろうと思います。そういう時に、人が責めとうなったら、もし人が憎うなってきたら、どういう風にしたら、その人をこらえてあげられるだろうかということを考えてごらんなさい。時によると足を踏まれても、その人が、足が来るところへ自分が持っていとった場合もあります。どちらが悪いかといえば、それはどちらが悪いといえません。人が許せることを考えるようにする。
どんなにしたら、自分が腹が立たんようになるだろうか。その時分に泉先生がおっしゃったのは、ちょうど汽車が踏切を通る時分に、一ぺん止まれというのです。汽車がこないでも、通りかかった時分には、一ぺん手前で止まれ、そして右左を見て乗り切れということをいわれました。又泉先生がおっしゃるのには、腹が立って、理屈をいうてやろうという腹ができた時には、必ず言うまえに、ご真言をくれというのです。あるいはありがたいお聖天さんのことを思う。あるいは何でもええから、ありがたいことを思え、そうすると汽車の前で、ストップしたのと一緒で、右左見たら、人と衝突するものではない。いつの間にやら、人をおこるのが、やまるというのです。もし人がそしりをうけたら、 その人のように、そしるような人にならんようにする。どうしたらよいかを考えて見よと泉先生は、おっしゃいました。これはええことです。
大抵人の悪口を言う時分には、あの人はこういうこというた、あるいはこういうことをした。こういうのです。その時分には、どうしたらそれが止まるか。これは、泉先生が経験なした事じゃと思います。ああいうことをいうた。こういうことした。あれをせんようにせんならん。自分の身に引き受けて、それをせんようにせんならんと思うたら 止まるというのです。これも先にお話した汽車の通る迄で、ストップするのと一緒です、泉先生はこのようにして、ああいう偉大なご人格を築いたのです。
これはあんた方でも、日頃、人を責めたいことがあるでしょう。人の悪いのを見て、あいつ、理屈一ぺんいうてやろう。そんなことあると思います。あるいは又、人の悪口というと妙ですけれども、人をそしりたい、人の悪いことをしているのを見るとその人のこと、友達同志が話をしてみたい。そんなことあると思います。その時分には、泉先生はいつも、ああいうことをわしであったら、どうしたらせんようになろうか、こういう風にお考えになったに違いないのです。この二つのことは、いつも先生がおっしゃっていました。
こういう風に、日頃先生は、人と人との間ですることでお考えになっとるのです。これが大きな信心になるわけで、人と人との間で考えたことが神様の前へとおるほど結構なことはないのです。
(昭和三十八年八月三十一日講話)
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第四二〇条 「求めることがあったら、神仏にご縁ができたのである。ご縁が濃くなって来ると、求めなくてもよかったのだということがわかる。 けれども、はじめに求めることが得られなかったら、不足が出るに違いない。そうするとご縁ができなかったであろう。ここが大事なところである。求めずして、かわいがられる道がある。」
求めるというのは、神さまに、こうして下さい、ああして下さいといって、お願かけるのです。そこで、この求めるということ、健康なら健康が欲しい、あるいは運のええのが欲しい。この欲しいということがあるからして、神仏に縁ができるのです。であるから、その縁が濃うなって来る。神さまのお庭へさいさい通いよる。縁が濃うなってくると、求めいでも、よかったんじゃということがわかってくるのです。神さまにそんなに、へんじゃら金剛いわなくても、きたらええのじゃ、おつきあいを認められたらええんじゃ、ということがわかって来る。けれども、その求めるということがもしなかったら、ご縁ができとらんということです。
そこで泉先生がおっしゃるのは、人げんが、こうなって欲しい、ああなって欲しい、もう一つ、たとえていいますと、 貧の世帯が楽になって欲しい。今苦しいけれども、どうにかして楽に行けるようにしたい、欲しいなあ、あるいは自分のからだが弱い、これどんなにかして強いからだになりたい、これ求めずして心からいいますと、それはひとつの煩悩です。自分の迷いです。けれども、そればかり思うていたら、迷いでございますけれども、そこで神さまにご縁がついて、神さまにお頼みしよう。ご縁がつくと、その煩悩が菩提になるのです。これをお大師さまは、煩悩即菩提とおっしゃって、迷うということは大事だぞ、いつまでも迷うとったら、神仏のご縁ができんけれども、迷いというので ごえんが出来るのじゃから、しっかり迷いなさいというのです。それから又、迷うておる人を、悪ういうたらいかんというのです。迷うておる人が迷うていればこそ、神仏に縁ができるのじゃから、さそうてあげなさい。こういう泉先生のお説でございます。
(昭和三十八年八月三十一日講話)
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