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第三三二条へ 第三三三条へ 第三三四条へ 第三三五条へ 第三三六条へ 第三三七条へ 第三三八条へ 第三三九条へ 第三四十条へ第三三一条 「暑い時に凉しくする為に、寒暖計に水をかけると笑うであろうが、そのような間違いをしている人は沢山ある。」
あの暑い暑い土用の日に、こんなに暑かったらしようがないというて、柱にかけてある寒暖計に水をかけたら寒暖計のめもりは下がります。しかしそれでは涼しくならないのです。「暑いからといって、寒暖計に水かけたら笑うだろう。しかし、そんなことしよるぜ。」と泉先生がおっしゃりました。私たちはそんなことしてはいませんか。
どうです、そういうこと、ひとつお考えになったらどうですか。困ることができたら、困った、困ったと言うて苦労します。お医者さんにも頼む。神さん、仏さんにも頼む。そうして、一方では、人間がすべきことをしたらよいのです。
これは、例えば、暑い時には、うちわであおぐとか、扇風機かけるとかいうことになるのでございます。ところが、 「せこいなあ、これまあ、けたくそが悪い。まなしにわずろうて、けがして、もうまあ、うちはうんが悪いわ。けたくそが悪いわ。」そんなこといったとて、それはなんにもならんことで寒暖計に水をかけるようなものです。そういえばまぎれるのか、知りませんけれども、何も効果はない。かえって悪くなっていくのです。いくら暑い日でも、 寒暖計に、水をかける人は笑われるでしょう。あの人、あんなことしたって、涼しくはならない。それは、まちがいということは、どなたもおわかりになることじゃと思います。それから、こんなことがあります。 「わし、どういうわけかなんにもこちらは悪いことをしないのに、人に憎まれて、どうやこうや人に言われる。」こう言うて、怒る人があります。これは、どうですか、仮に世の中の人に嫌われるからというて怒ったら、寒暖計に水をかけているのと同じことではございませんか。「あっ、あの人が私の方へ向って、私がこなにいうたというた。」 「はてな、私はこんなふうにうけとられたのを知らなかったのだ。そんなに根性悪いこと考えていなかった。」 しかし、聞く人が、そういう風に聞こえたのだったら、どこかに私に天地に合わんところがあるのにちがいない。
これは大いに改良せないかん。改良とは、どうするかというと、人を喜ばすこと、人の気ざからいにならんことを、言うたり、したりすること、年中笑顔で暮らせということになっておる。「ああ、そういうてみると、私はなにかにつけ、理屈いって人の批評をして、人のことをわるくいっていた。あっ、ほんにわるかった。今まで知らなかった。」
こういうふうに、自分の方を考えて、そうして直していく人は、まことの信心の人です。けれど「人がなんとかいう、このようにいう。」というて理屈いう人は、暑い時に寒暖計に水をかけたら、下がってすずしくなるように思うとる人と同じことです。皆さん、ここは味のあるところでございます。ただ暑いから寒暖計に水をかけるというたら 笑うと先生がおっしゃったのです。これは、泉先生の言葉です。簡単なことではございますけれども、あなた方、日に日にそんなことありやしませんか。あんたのお付き合いの間柄に、好きな人ばかりございますまい、いやな人があるでしょう。いやな人とうまくしませんから、悪くする。いやな人がなお怒る。これは、寒暖計に水をかけるのと一緒でございます。この三三一条というのは、泉先生が力を入れておっしゃったのでございます。もう人は生まれながらにしてくせが、こげついとるのでございます。
たとえてみますと、きゅうりがなりますが、あのきゅうりというのは、はえてきますと、自分の力で立つことはできません。それだから、あんたがた、支柱を立てるでしょう。そうして、上へ登らせて実をならしていきますでしょう。
あのきゅうりが、まくいついとるのを見ると、右に巻いとるのです。左巻に巻くものではありません。それくらい、むこうは、きちんと生まれ性をそのまま、押し通しとるのでございます。
こういうふうに、人にでも生まれ性によりまして、理屈いわねばすまん人があるのです。これは親とか、じいとか、ばあとか、古い歴史の中に、かたい、かたくるしい理屈ばかりいうた人があったので、それが実になってはえてくるのです。ただ今、きゅうりの話をしましたが、そのように、わがは知らんけれども、そういう性質を、もって生まれてくるのです。これを本能といいます。それを自分で悟ったならば、あんなにいうのは、こうだろうと、人を憎まずに、わが身を顧みて、直していく。これが信心じゃと、泉先生がおっしゃった。これ、力の入ったところでございます。
三三一条のように、皆さんが気をつけるなら、ほんとにこの世の中は、極楽世界になってしまいます。互いにおがみ合いで、どちらむいても、にこにこして助け合い、おがみ合い、世話を仕合いさえすれば、ほんとに極楽世界が実現すると思います。これは簡単に書いてございます。暑い時に、涼しくする為に、寒暖計に水をかける人はありませんけれども、それと同じことを、している人があるということを、どうぞ力を入れて考えていただきたいのでございます。泉先生は、これを繰り返して「村木さんよ、これはよう気をつけよ。」と言われたので書いたのでございます。
(昭和三十七年九月十五日講話)
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第三三二条 「世の中の何物でも定まった性があると思っている人がある。たとえてみると、こぶしで打たれると痛いというが、そのこぶしでゆるく押さえられると痛くない。そうすると、そのこぶしで打たれたのが痛いのでなく、その速力が痛いのである。 これと同じように風はものをこわす力がないと考えると大変である。「爆風」はものをこなごなにこわす力がある。いずれも風ではないか、これも速さが違うからである。このように何ものにでも定まった性というものは、ないものである。」
泉先生が「手を出してみい。」というので、私は手を出したのです。そうすると、泉先生がげんこつの真似をしてその手の上へ当てて「痛いか。」というから「痛くありません。」今度「こうやったらどうぞい」というて、コツンときたのです。「そりゃ先生痛い。」そうしたら「そりゃ、にぎりこぶしが痛いんではないだろな。」「ええ、そりゃ、握りこぶしが痛いんじゃありません。」「何が違うんぞ。」「飛んでくる速さがちがうのです。」げんこつをゆっくり当てたら痛くありません。押しつけても痛くありません。けれども、軽くてもパンチというたら痛いです。これは速さが違うんじゃと先生がおっしゃった。これが、わかりにくいところです。
それから、あの破裂する煙硝です。あれは火がついたら急激に燃えるのです。燃え方がボーともえたりするんじゃないのです。一瞬間にぱっと燃えるのです。その燃える速さがひどいから、大きな音がするのです。物には定まった性がないのであって、一ぺんに破裂するから、こわいんぞと泉先生がおっしゃりました。あの煙硝を土地においときまして、それに火をつけますとボーと燃えるのです。ところが、あれを筒に入れて、そうして、ぱっと火をつけると、ドーンというのです。あのドーンというのは、どうしてかというと、急激に燃えるからです。ソロソロえたら、ボーと燃えるのです。いかなる煙硝でも、広っぱへおいて火をつけたら、ボーと燃えるのです。ためしてごらんなさい。
ところが堅う巻いといて、火をつけたらドーンというのです。これは、どこが違うかといいますと、速さがちがうのです。そういうことを、泉先生が教えてくれました。
これは、簡単なことのようでございますけれども、なかなか意味のあることでございまして、ものには遅い速いが、あるんだ。遅かったら、なんともないが、速かったら、まるで変った結果がおこる。こういうことを、先生がおっしゃいましたが、これはよく考えないかんことでございます。ものの速さということは、実に大きな力ができるのです。
あの草かるのに、ソロソロかまをうごかしたら、草が切れましょうか、切れんでしょう。それも、せっせと速くかまを動かせていくと、ちょうどそったように草が刈れます。これはかまの動く速さが違うんでしょう。かまがよう切れるから、それたんじゃという人があります。なるほど、よくといでおけば、切れますけれども、いくらよくといであっても、ソロソロやってご覧なさい。草は切れるもんじゃございません。スッと速く動かせたら、草がスッと切れてしまうのです。そしたら、後がきれいにそったようになるのです。速くいきますと、それくらいの力ができてくるのです。遅くいけば、その力がにぶる。こういうことでございますから、何事でも緩急次第、すなわち速さ、遅さ、そういうことを考えませんと、だめだと泉先生がおっしゃった。まことにおもしろいことです。
このごろ、水中翼船というものがございます。船の底にとりつけてあるプロペラがまいますと船が走り出します。
走ると、スーとその船が水の上へうかびあがって走ります。船でありながら、半分飛行機のようになりながら、水の上を走ります。遅く走ったら上れへんのです。ボートの競走をみると、船が後部だけしか水についとらんでしょう。
へさきがもちあがっているでしょう。あれは、速いから飛び上がるのです。あれに羽根がついとったら、空を飛ぶようになるのです。
泉先生は、ああいう信心なさる人ですけれども、ごく巧者なお方でして、機械など、上手にこしらえるのです。そういうお方ですから、ものの速さというのが、大事だということをよくおっしゃったのです。それから、「セン」といいまして、「カンナ」の大きなようなものがあります。「スーッ」と突いたら木でも、きれいに削れますが、あれもソロソロやりますと、木の面にだんだんができて、ショウジキが合わんのです。先生は、おけをこしらえたら上手ですが、そのおけをこしらえるのに「セン」で、すーとつくとショウジキができる。それを合わしましたら、水が漏らんようになる。先生はとても上手で、大阪では、おけをこしらえなさっていた人が多勢いたけれども、先生にかなう人は 一人もなかった。「村木さんよ、これでも、ソロソロ突いたら、こういう具合じゃ。見てみいよ。」と、ソロソロついたら、だんだんになるのです。仰山にいうたら、切口が水にそわんのです。速くチュッ、チュッとつくと、うまく合うのです。こういうことを先生は、ちゃんと考えておいでるのです。普通のお方と大分違います。
(昭和三十七年九月十五日講話)
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第三三三条 「船が波にゆられて傾いても、又もとの姿にかえる。これは船の底に重みをつけてあるからである。上の方に重みがすぎると、 波にゆられるとかえってしまう。人もこれと同様に苦難に会うた時心の底に信ずる力がなかったら、たちまち心の安定を失って人生をあやまる。」
あんたがた、船に乗っておいでるさいによくおわかりになるだろうと思います。ゆれましても、又もとへもどってきます。傾いても、又もとへもどってきます。あれは船の底が重い証拠です。荷を上へ積みすぎると、船が返ります。
あれは、重みが上にあるからです。先生は笑いながら「人間もなあ、少しえらいと思うて、上の方に性根が上がっとったら、あかんぞ。すぐにかやるぞ。」とおっしゃった。私は皆さんのお陰でくらしているので、何も知らんのでございますと、いうふうに自分が遠慮して、心を腹の底へ落着けておると、船の重みを底に入れてあるようなもので、ゆれても、なかなか、かやるということがない。こう先生がおっしゃったのですが、皆さんどうですか、わかりますか。
船でも底に重みがついていたら、ゆれても又すぐにもとへもどります。上の方が重かったら、ひっくりかえってしまいます。
それにたとえて「人間は、上調子にならんように、いつも人よりもへりくだって、低く低くしておることが大事じゃ。偉かったら人が差し上げてくれる。自分から偉そうに自慢話するのは、船であったら、上の方へ重みをつけてあるのと、いっしょじゃ。」こういうことを先生がおっしゃったのですが、どうです。よくお考えなさい。そうだから、自分では、自慢は言わんこと。自分では偉いとは思わんこと。「自分は何も知らんのじゃ。皆さんのお陰で喜んでいける。」そういう風に言う人は、船であったら底に重みがある人です。泉先生は、そういうことにおいて妙です。 「私は、出ほうだいの、こけどっくりをいうたんじゃ。何じゃ、知らん人間じゃのに」といつもいうておられた。 それで皆さんが、ありがたいありがたいとおっしゃったのです。どうですか、この先生を見習いたいものでございます。どうぞ、いつも船にたとえて、人は心の重みは腹の下へ沈めて、上の方へ重みをかけないように、へりくだって一生、にこにことしてわたろうではございませんか。
(昭和三十七年九月十五日講話)
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第三三四条 「いずれの地へいっても、朝起きると身を清め、諸神諸仏を始めとし、ご先祖の方角に向かって礼拝をすることを忘れてはならない。この礼拝のところを、八方台とでも名をつけるとよいでしょう。これを忘れるようになると、もはやその日の事は意味がない。」
八方台というのは、八方を拝むということです。泉先生と私は、ともにおまいりしたことは、再々ございますが、朝、宿屋でおきましたら、先生が顔洗いなさる。そして外へお出ましになるのです。四方が見えるところへいって、そうして八栗山はどの方向、生駒さんはどの方向、ご先祖はどの方向、象頭山金比羅さんはどの方向といい、それぞれの方へ向いておまいりしておるつもりで「ただ今起きましてございます。」というあいさつするのです。八方を拝むから、その場を八方台とおっしゃっておりました。これは皆さんが、季候がよくなりますと、おまいりもよくおい出になるでしょう。ご自分の家におる時には、神仏やご先祖を拝みなさいましょうが、よそへいった時には、それができていません。それで先生は、「これをしなはれよ。」とおっしゃって、それを私が聞いたのでございます。それを私書いとります。
まことに先生は、その日その日、一刻一刻、目がさめて、おやすみになるまでの間というものは、ほとんど信仰でもちきっているのです。これはなかなか、まねのしにくいことでございます。拝むとか、お参りとかのまねはしやすいのです。けれども心持が、いつも神の前におるということは、なかなかむずかしいのでございます。お大師さまの四国八十八ヶ所でも、同行二人と書いてあります。それは、どこへ行ってもお大師さまと二人づれという意味です。 何人おっても、一人一人が同行二人です。三人だの四人だの書いてありません。人間の同行というのは、五人がそろっていっておれば、同行五人ですけれども、信仰上でいうところの同行二人というのは、自分が、もう帰命頂来しているところの偉い人と、いつも二人づれ、という意味です。だからどこへ行っても、二人がそこにおるというような意味ですから、すべてが信仰へ入っとるという意味です。これを先生はよくおっしゃりました。どうぞ、そういう意味でおいでになれば、信仰はとどきやすいのですから、先生のまねを、いたしたいものだと思います。
(昭和三十七年九月三十日講話)
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第三三五条 「わが事ばかりに思い込む人には、神が力をかさないで、悪魔がすぐつけ込む。そして、不思議な魔力をうえこんで人を脳ます。ところがこの人でも間違いを悟って、人の為、世の為を考えるようになると、今まで悪魔と見えたその姿は、たちまち慈悲の姿と変わり喜びの世界へ導いてくれる。」
これは。やさしく書いてありますが、非常に深遠な意味を含んでおるものなのです。今日まで悪魔であったものが、 たちまち慈悲の姿の仏と変わるということは、非常に意味深いことでございます。これはよくございます。あなたがたは、日に日にお暮らしになる間に、神仏の方へ、ずい分お参りにおいでるし、なかなか熱心な信者のように見えるけれども、その人の信仰心の中心が「我が為ばかりを」と、思うとるのであったら、悪魔がつけ込んでくるというのです。妙でしょう。せっかく信心しながら、そのいただいたところのお陰が、悪魔の仕事をするのです。不思議でございましょう。これが、先生が力を入れておっしゃったところなのです。それを、先生は、魔力というておいでます。不思議に魔がつけ込んで、そうして、その人の心に魔力をうえこむ。だから、信心しながらも、いろいろと間違うた難儀がふりかかってくる。こういうことを先生が、おっしゃったのでございます。これはまことに意味深いことでございます。
ところが、それまでまちがっていても、人のことを思って、こういうことをしたら、神様が喜ぶだろうか、おきらいになるだろうかと、人のことを考えるようになったならば、今まで悪魔であったその悪魔が、たちまち、着物を脱ぎ変えて、慈悲の姿の仏にかわってくる。これは先生が、ご経験なさったことです。簡単に書きましたことですけれども、先生がご経験なさったことでございます。わがことを思うて、がいに力を入れても、不思議はおこるというのです。神様はああせよ、こうせよと教えてくれるが、その時の神様は悪魔に姿をかえて、その人にうえ込んでいるのです。これがこわいのです。だから自分のことを思わずして、「あっ、あの人の病気ほんによくなればよいが。こういうことしたら、世の中の為にならん、神様お嫌いになるだろう。」こういう風に考えている人は、わりあいに神様のお陰がまっすぐにさずかるというのです。これは、先生がおっしゃったことです。
どうぞ皆さんも、わがのことばかり思わんと、世の中のこと、人のことを思うて、そうして神様にご奉公しなさい。 こう先生がお教えしてくれたのです。
いつも世の為、人の為に、はげんだら自分の運のよいことは、はっきりしていると、先生こうおっしゃいましたから、どうぞそのようにご注意願います。
(昭和三十七年九月三十日講話)
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第三三六条 「怒ることは、いかなる理由があっても、良い事ではないが、あやまることは、理由なしでもよろしい。通り道に人が立っていて、これをよけるとて倒れたとしても、怒ってはならない。 又これと反対に、自分が道の邪魔にあまりならぬところに立っている時に、人が倒れるとあやまってよろしい。」
わかりやすくいいますと、どんな理由があっても、又、自分の方にぶがあっても、怒ってはならぬ。自分の方が真っすぐだという場合でも、怒ってはいかんというのです。人が間違っておっても、怒ったらいかんというのです。けれども 「自分が悪くなくても、人との間柄の問題で、自分がその荷をおうてあやまってもかまわん、その方がよろしい。」 と先生がおっしゃったのです。
たとえてみると、細い道の真ん中に人が立っておる。自分がよけなかったら通れない。それでよけていて、自分が倒れた。そのとき、あの人が立っておらなければ、倒れないのにと怒るといかんというのです。それと反対に、今度は邪魔にならんところに自分が立っておって、人が倒れたら、自分が邪魔してこかしたんではないけれども、「ごめんなさいよ。」というのはかまわんというのです。これは、ぼつぼつ日頃の問題にありましょう。別に関係がのうても「済みませんでした。」というのはまことにきれいです。ところが、理由があるからというて、理屈をいうのです。
これはまことに悪いことです。
泉先生がおっしゃるのには、人間の理屈の堅い人、又怒りやすい人は神様がよける。神様がよけるということばは、いいかえたら、お陰がないということです。神様によけられるんじゃから、具合が悪い。どうぞ、責任は、自分が背負うて、あやまりなさいというのです。先生は、そういうふうにおっしゃるのです。あやまらないでもいいのに、「どうも済みません。」というて、あやまられると、その人に対してこちらが頭が下がります。そんな人があります。
そんな人は、神様にすかれる人です。泉先生は、いつもご自分のお心がけから、人に害をあたえてなくても「ご免なさい」といいます。
それからもう一ツ、こういうことがあるのです。これは、皆さんがなさっていると思いますが、お四国の同志が、あいさつなさっているのをごらんになった事があるでしょう。まるで知らん人どうしが行き合うと、互いにこう片方の手を出して、拝むようなかっこうで頭を下げています。これが、先生がおっしゃられることなのです。お四国へ行っている時は、なさっているけれども、お四国すんでかえってきたら、そうしないでしょう。すぐに理屈言うでしょう。 泉先生は、それをおっしゃるのです。どうぞ、理由があってもなくても、人にはあやまって通れ。つまり、拝んで通れということです。お四国まいりなさっているでしょう。これ、まことにお陰を受ける一番。拝み合いというので、ええ礼式です。泉先生は、こういうことを教えておいでるのです。まことに親切にお教えになっとります。
昔から、韓信の股くぐりとよくいいますが、あの韓信というのは支那の偉い人です。韓信が若い時分から、よく出来たのです。学校の勉強でも、なんでもよくできる。そうすると悪い友達が、「あの韓信、いつぞ、おじぎさしてやらんか。なんでも、あいつ人に反対せんと、悪かった悪かったというている。一ツ韓信が向こうからきよるから、困らしてやらんか。」といって、悪い友達が道に、とうせんぼして通さない。韓信は怒りもせんと「そんなんせんと、どうぞ通してつかはれ」とたのむ。それでは、ここ通れといって三人がつづいて股張った。「ハイハイ」といって、はって向こうへ通って、ありがとうと礼をいうたというのです。すると、悪者どもが「とうとう、おじぎをさしてやったなあ。」というて、三人は喜んでどこかへ行ってしまいました。ところが、韓信はやがて勉強しました。そして、支那の役人になるための試験、それを登龍科挙と言い、日本の従来の高等文官試験(今の国家公務員試験)に当たるむずかしいものでございまして、官史になるには、かならずその試験に通らなければ役人として出世することができないのです。丁度、滝の下へ鯉がざあっと飛んできて、その滝を登ったら、出世して龍になるという、たとえで、その滝をのぼるというようなことに例えて登龍門と支那ではよくいうのでございますが、その韓信が勉強して試験を受けた時分に、立派にとおった、そして陛下のお側の偉い役人になった。その時分に、その股くぐりさした人が恥ずかしくて、韓信の前で、あやまったということが歴史に残っている。今でも韓信の股くぐりと、あなた方よくおっしゃるのはそのことです。泉先生は、三三六条にそのことを教えとるのです。 どんなに理由があっても怒ったらいかん。自分からあやまって、とおっていくのがよい。どうですか。韓信の股くぐりでも、先生は非常に賛成しとるというのです。もしそういうふうにしたならば、敵はありませんでしょう。先生は、そういうお考えでありましたのですから、そういうことにお願いしたいと思います。
(昭和三十七年九月三十日講話)
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第三三七条 「人間の食物としては、できるだけ人間に縁の遠いものを食べるのが、すべての点から見てよろしい。胎生よりも卵生、卵生よりも植物というように。」
生きものには、胎生というて、体そのままで生まれてくるものと、卵生というて、卵から生まれてくるもの、それから植物などは種子から生まれてくるものなど、いろいろありますが、食物としては人間に縁の遠いものがよろしい。
人間に近いほど気の毒な、と先生おっしゃった。先生が余り肉食なさらなかったということは、ここにあるのです。
私が、先生のお供をして方々へ旅行いたしまして、先生とならんで食事をともにさせていただきましたが、先生は、宿屋のお料理の中であがらんものがありました。私がよそみしておる間に先生が、それを私の中にひょっとほりこんどるのです。そうしてニコニコ笑うておいでる。そんなことがありましたが、先生は、人間に近いものほど、あがらなんだのです。そのわけは、お互は、先祖をたずねたら、昔一緒であったのじゃから、人間に近いものは遠慮した方がよい、という先生のお考えであった。ただ今でも、肉食はせられんとか、魚は食べられんとか、皆いいますけれども、それは食べられんのではございません。あがってもさしつかえないんです。けれども、先生のありがたいお考えとしては、人間に遠いものほど、なるべく食べるのがよいとしていました。食べたらいけないというのではありません。信心の心がけとして、そういうふうに考えていたらよろしい。あがっても、よろしいけれども、そういうふうな心がけは、必要だというわけです。先生が、」あがらなんだのはそういうわけです。
(昭和三十七年九月三十日講話)
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第三三八条 「一心にこりかたまれば、不思議はあらわれる。その時に気をつけねばならぬのは、もともと慈悲に満ち満ちて一心になったとすれば、その不思議は、ありがたいお陰の不思議であるが、もとの出発が私慾か邪心であれば、表われた不思議も、外道の不思議であって、迷いの夢はさめぬものである。」
これは講堂にかけてあります図面に書いてありますが、慈悲心をもって信仰した場合は、神仏まで近よっていけるのです。けれども、慾心のために信仰した者は、次第次第に、外道に近よっていくのです。外道というのは悪魔です。
悪魔の方へ近よっていく。こういうことを、講堂の額に書いてありますが、そのことを先生がおっしゃるのです。これは、まことに簡単に書いておりますけれども、実際の問題は、実に不思議なことが起こるのです。
たとえてみますと、この自分の欲の為に一生懸命になって行をする。そうすると不思議が起きるのです。不思議がおこりますけれども、その不思議というのは、もともと慈悲心、仏心で信心したのでないのに起きたのであって、ひょっとすると、間違ったことをおこします。反対のことになることがあるのでございます。信仰するのにも、行するのにも、いろいろ種類がございまして、もともと理くつで考えたり、うたがい心で考えたり、欲から出ておった場合は、よろしくないのです。慈悲心、仏心で信心する。慈悲にかられて、信心に入るということになりますと、これはまことの信心でございまして、まことに結構だということを先生がおっしゃったのです。
例をあげましていうと、いろいろございますが、皆さんが、日に日にご信仰なさっていて、世間でいろいろ問題がおこっております。それをごらんになったらわかります。神を信心するのに、欲をかけてしますと、ひょっとしたら悪魔がつけます。ところが、それでも、不思議はおこります。その不思議に乗っていっきょると、大変な困ったことができんとも限りません。どうぞ、わが身の欲を考えて、信仰なさらんように。ご先祖大事、世の中の人大事、家族大事こういう慈悲から出発なさっていきますと、不思議がおこっても、それは外道不思議ではありません。外道ではありません。悪魔ではありません。まことの仏の力をもらえるのです。
あんた方お知りになっとるだろうと思いますが、この三宝会にも金山穆照という高野山の管長さんが書かれた光明真言の軸物があります。この金山穆照という方は、小さい時からご信心で、とうとう独身で一生おすごしなした偉い坊さんでございます。このお方が私の方へ向いて、手帳を見せて下さいましたが、そのお書きになってあることは、経文によって行をした場合に、不思議がおこってくる。そうして人間の六根を通じて、まことによいことを感じることがある。その時に、注意しなければいけないのは、何の為に行したかということです。「行がもしも、わが身の欲から出ておったら、当てにならんぞ。仏の教えに合うた真っすぐなことで、一心になった場合には、これは、まこと のお陰が受かるから、この点をよく注意せよ。」と。こういうことを、金山管長さんがおっしゃってくれましたことがございましたが、まことに金山さんがおっしゃる通り、泉先生がおっしゃる通り、もし信仰の目標の中に「我」というのがありましたなら、ひょっとしたらやりくじるのです。やりくじりは、いろいろございますが、経済上でやりくじる場合、あるいは病気でやりくじる場合、ともかくも、我欲の為に信仰に力を入れた場合は、悪魔がつけますから、きをつけよと、泉先生は教えています。金山さんも教えています。弘法大師はこの点に、がいに力を入れて、後々我が弟子になる者は、この点によく気をつけて、一般のお方に相談していけよというご遺言を残しております。
どうぞ、欲心をかけずして、神仏がこうしたら喜んでくれるだろう、こうしたらおきらいになるだろう、そのおきらいになることをしないように、お喜びになることをしていくようになして下さい。こうしたら、わしゃ損じゃ、こうしたらわしゃ得じゃ、損得はいわずして、神仏にまかしとくのがよろしい。どうぞ、この点だけは、泉先生が力を入れて教えて下さったのですから、おまちがいのないようにお願いしたいと思います。
この泉先生は、我欲は、すこしももっておりません。かって、泉先生が、こういうことをおっしゃった。それは、泉先生がおがんでいましたら、神さん、仏さんの言葉として「坊ず、坊ず(坊ず坊ずというのは先生を呼んでおるのです。) 、お前、わしの前にすわっておがんでおるが、暇だったら漁にいけよ。人助けのあいまで暇だったら漁にいけよ。そして わしの前へずっとすわっていて、金がなくなり、食えなんだら、八つ足こぶって生きとれ。」こうおっしゃった。 八つ足こぶって生きとれ、ということは、金に目をかけるなということです。泉先生は、その神仏のおっしゃっていただいたことばをきいてよろこんでおいでました。先生の我欲のないことは、これでよくわかるのです。
どうぞ、先生の信仰のまねをなさって、損得をかけた信仰などはなさらん方がよいと私は思います。
(昭和三十七年九月三十日講話)
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第三三九条 「ありがたいお方を拝むのは、力をもらいたいと思う気持ではいけない。ただそのお方を慕いぬき、いつもおそばにいて、何事でもお指図通りするという気持になれると、それでよいのである。知らず、知らずの内に近寄らしてくれているものである。」
この教えは、信仰する上での、人々の気持を教えたものでございまして、ああいうわかる力がほしいとか、偉い力がほしいとかいう、その欲望というものはなんであるか、そう尋ねてみると、皆その人の望みからきておるのでございまして、慈悲からきておるのではありません。それですから、どういう心がけが必要かといいますと、ああいう泉先生のような方のそばにいつもおって、あのやわらかいお話を聞きたいという、先生を慕う心でおればそれでよいので、先生に似てくるわけです。拝む力がもらいたいとか何とかいうことは、自分ということに属するのでございますから、それは修業の上においては損じゃと先生がおっしゃったのでございます。
それで、私は、たくさんのおでしさんが先生についておるのをよく見ましたが、中には沖へとび込んで体を清めて、そうして一生懸命に念じておる人があります。それもよろしい。悪くはありませんが、せっかく、先生のそばへついて、おでしになっとるのですから、先生のお言葉、それから一挙手一投足、先生のなさること、そういうことをじっと拝見して、ほんに先生は、こういうところが人と違う、こういうところが違うと思って先生をお慕いしたら、それでよろしいのです。もしも、そんなに行をしたい。海へとびこんだり、身を清めたりするんならば、それは無理に先生につかえなくとも、勝手にしておってもよいわけでございます。そのようなことを先生がおっしゃりましたが、なるほど、先生がいつも生駒さんをしたっておりました。生駒の聖天さんを開いた淡海和尚は、どういう人であったかと申しますと、あの方は、年四十にしてあの生駒の山の上へ登って、そうして般若の岩屋という岩屋へおこもりになって、いつも朝から晩までご真言を繰っておいでた。四十年の間、山をお降りにならなかった方です。
この淡海和尚のことをお聞きになって、先生は、いつもその淡海和尚を慕いなさるという気持がありましたために、あの偉大なる泉先生を仕上げたわけでございます。その話を門弟たちの方へ向かってしているが、おでしさんの方では、先生のあの力をもらいたいということに熱心で、それも悪いことはない、よいのですけれども、せっかく先生のあの尊いお姿を目の前にみるのですから、そのお方を慕うてこそ、始めて先生が移るのでございます。それを先生が教えたことが三三九条に書いてあるのでございます。
(昭和三十七年十月十五日講話)
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第三四〇条 「何事でも精を入れるということは良いことであるが、その精を入れる心が、常に念じているお方とかけはなれたらよくない。今精を入れてしていることを、そのそばでにこにこ笑って喜んで見て下さっているという事を、心から喜べるようにならねばならない。」
この精を入れるということは、仕事に精を入れる、あるいは拝むのに精を入れる、何事でも自分の力一パイ働くということでございます。その精を入れても、自分の念じておる、えらいお方が、そばで見ていて下さっとると考えませんと、何にもならんことでございます。これはお四国の道でよくわかるのでございます。お四国のお札には、同行二人と書いてあります。あのことです。精を入れて、ご真言繰るのもよろしい。又道を歩くのもよろしい。
その精を入れるということは結構ですけれども、お大師さんが側においでる、お大師さんが見てござる、という心がもしなかったら、これは人間が力を入れておるだけでございまして、まことの信仰とはなりません。精を入れたことになりません。精を入れるということは、田んぼをするのでも一くわ、一くわ力を入れて掘るということは、家業に一心になっているということなんです。ところが、心の方からいうならば、こういうふうに精を入れて、少しでも多く取って、そうして国の産物を増したら、国が豊かになる。こういう考えで、国ということを思いつつ、掘ることは、精進波羅密ということがつくのです。ただ力を入れるというのではありません。
つまり精進波羅密といいますと、仕事をしよることが、ある地点からある地点へのびていくということを波羅密というのです。進んでいくということです。ただ仕事に精を入れて、くわで、はりまくるというのは、これは仕事をよくする人というだけのことになるわけです。精進波羅密とは、言えないのでございます。ここを泉先生は、よくおっしゃったものです。これはまことに尊いお言葉です。
精を入れるということは結構だ。悪いことではないけれども、信仰の上の心で精を入れるというのは、いつも泉先生に見ていただいていると考える、お大師さんに見ていただいているということ、同行二人ということ、それが信仰なんです。精を入れるということが生きてくるのです。それが欠けたら、力を入れとるということだけであって、お陰がうすいということなのです。泉先生は、お経文をけいこなさっていないけれども、この六波羅密行をちゃんと知っておいでるのです。精進ということと、精進波羅密とは違います。 皆さんは、食物のことでなまぐさが入っておらんのを精進とおっしゃっておりますが、これ精進に違いありません。食物の方に苦情を言わないということは、精進でございますけれども、これはそういう意味の精進でありまして精進波羅密の精進ではありません。精進波羅密というほうは、お粗末のものを食べてでも、自分はこの体を世の為、人の為、皆様の為に使って働いて、そうして家を豊かにする、国を豊かにする、そうして、わが日本の国を堅固にするというようなことを考えたならば、これは精進波羅密になるのです。精進ということと、精進波羅密とは似ておりますけれども、違います。心が違います。これ、こうやって根限りやっておいたら、なんぼもうかる、私の財布がなんぽふくれてくる。こう考えたらそりゃ精進波羅密ではありません。信仰じゃありません。かけひきです。名は精進とつけてよろしいけれども、精進波羅密ではありません。いつも仕事をしても、又偉いお方のいうた事を実行していく上でも、今見ていただきよるというような気持でおつかえするならば、これは立派に信心ということになっとるわけなんです。それを先生がおっしゃったことです。
(昭和三十七年十月十五日講話)
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