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第三二二条へ 第三二三条へ 第三二四条へ 第三二五条へ 第三二六条へ 第三二七条へ 第三二八条へ 第三二九条へ 第三三〇条へ第三二一条 「人は心のうちでいろいろな考えがおこる。この考えを肉の力に移して、はじめて善悪をわけるが、神は思うこと、ただちに善悪と知っておられる。それでいつも思うことと、することと、 くい違いのないように、心の内をそうじして置きたいものである。」
こういうと、非常にむつかしい、いいかたですけれども、わかりやすく話をしてみますと、こうです。今日、人間が悪いことをすると、警察で調べられて裁判になります。しかしその証拠が現われなければ、その人を罪にしてないでしょう。ところが、神様はそうでないのです。思うたら、すぐに善悪がきまっとるというのです。「あいつを殺せば」と思っただけで、殺したのと同じ罪になるのだと、神様はおっしゃるのです。そこで、人間のきめとることと、神様のきめとることとくいちがいができてきましょう。人間の裁判は、証拠がなかったら罰することはできません。けれども、神様は、「思うたことで」善悪をきめてしまうのです。そうでございましょう。悪いことを思った時には、もはや、犯罪が成立しとるのです。ですから、泉先生がおっしゃったのは「どうぞ、思うことを大事に考えて、よいことを思いなさい。
裁判では、証拠がなかったら罪にならぬけれども、神様は、ちゃんと知っておいでるから、罪はすぐきまるぜ。」ということです。いかにも、その通りでございます。それで、お陰というのは、よいこと思っている人に、よいお陰がある。悪いこと思っている人には、悪いお陰があるということになるわけです。
こういうふうに考えてみますと、信仰ということは、人間の日に日にの行動と離すことが 出来ないようになります。だから、道徳的に立派な人は、信仰のことにも立派だといえるわけです。先生は、常に信仰する者は、よいことを思わねばならぬ、とおっしゃっていました。私、はじめ、これがわかりませんでした。思うということと、行なうことと、そんなに関係があるものかなあと思いましたが、ここに書いてあります通り、人は、心のうちでいろいろ考えるが、これを肉の力に移してはじめて善悪が決まる。肉の力、いいかえると行動に変える。もう一ツ言いかえると、実行してはじめて罪が出来る。人間はこういうことをいうのです。肉の力に移して、はじめて善悪を分けるというのは、実行してはじめて、善か悪かわかってくるということです。けれども神様は、思うことをすぐに善と悪にわけられるとおっしゃったのです。その通りでございます。信仰の方では思うだけでよいのです。
なぜそういうかといいますと、一ツの例をおいてみましょう。養老の滝というて、孝行息子がおとうさんに滝の水を、ひょうたんにくんで帰って、飲ませたところが、お酒になっておって、酔ったということがあります。その芝居を、私は生駒さんにお参りにいって帰りに、船の時間がまだ二時間もありましたので、あの千日前の角座へ見物にはいったのです。昭和の養老の滝を実演すると書いてあるのです。私は、これは、おもしろいと思いまして、入ったのです。ちょうどそのときは催眠術の先生が出てきまして、テーブルの前に立って、皆に話をしとるところでした。
お客さんは五、六百もはいっとったでございましょう。その催眠術の先生は、年は四十四、五、五十にならん位の人でした。先生はこういうのです。養老年間に孝行息子があって、日に日に山へ行って、しばを刈り、それを売った金でおとうさんにお酒を飲ましてあげたいと思っていたが、なかなかお金ができぬ。ところがある日、白髪のおじいさんが「お前さん、日に日に山へしば刈りにきているが、おとうさんに酒飲ましたいんじゃな。」「ハイハイ。私は、 おとうさんが、お酒が好きでございますから、それを買うて差しあげたいんでございます。しかし、なかなかお金ができません。」おじいさんがいうことには「あしたな、ひょうたん持っておいで。それに酒入れてあげる。ひょうたん洗うて持っておいで。」子供はなにげなく「はい、ありがとうございます。」というて、その日は別れました。
あくる日に、しばを刈りに行く時に、ひょうたんを洗って腰につっていきました。その日しばが刈れて、荷物が出来ました。帰ろうとすると、おじいさんがでてきて、「ひょうたん持ってきたか。」 「ハイハイ持ってきました。」 「じゃ、こちらへおいで。」その子供はしばを置いて、おじいさんについて山の奥へ行きますと、滝がある。その滝の水を、おじいさんがひょうたんで受けて「持ってお帰り。いぬまでに酒になっとる。」と言うてくれました。
そうして、帰って、おとうさんに飲ましてみたところ、とてもおいしい酒になったという昔の話でございますが、私は、今日ここで、その養老の滝の通りに、水を入れて、酒にして、皆様にお目にかけます。」こういうのです。これはおもしろいと思うて、私は見ておりましたが、その先生のいうには「ここにガラスの茶びんがあります。中がすきとおっているのです。これに、どうぞ水道の水をくんできて下さい。私がくみますというと、水をくみましても、あなたの方で『ありゃ酒が入っとったんじゃ。』というて、お疑いになったら困りますから、私はこれにさわりません。あなた方の方で、どなたでもよろしいから、この茶びんの中へ水道の水を入れてきて下さい。」さあお客さんが、だれがええ、かれがええといっていましたが、又、先生が出て来ていいますのには「その中でえらんでいただいたところで、選挙なさる方が、もし私の知り合いであって、水のかわりに酒を汲んできてくれとたのんであっては大変でございますから、そういうおうたがいのないように、どうぞ私とは、見ず知らずの人がおいで下さい。」四、五人えらびまして、先生に関係ない人に水を汲んできてもろうたのです。そうして先生に渡した。ところが、その催眠術の先生が「今この通り水をくんできてくれました。ガラスですから、中がよくすけとるのでございます。それでもまだ、これがひょっとしたら酒やらわかりませんから、どなたでもよろしい、これ水であるか酒であるか、味をきいてくれ。」といって、ちょくに入れて持って来る。まったくの水でございます。これは試験をしていただいたのでまったくの水という事がわかりました。それで今度は、この水を飲んでいただく人をえらんで下さい。余りのお年寄りや女の方だったらお酒に酔うといけませんから、まあまあ、なるべく中学校位の生徒で、しっかりした人があがって下さい。これも、私の知らん人をえらんでもらいます。」という、て、五人の生徒さんが上へ上ってゆきました。すると、先生が今上ってきたこの五人の方に「このびんに入っとる水を飲んでもらいます。そうしたら、すぐに養老の滝の水と一緒にお酒になって酔います。さあ皆さん見て下さい。すぐに顔色が赤くなって、ひょろ、ひょろしますから。」というて、一人一人に、その水を飲ましたところが、見る間にひょろひょろしまして、五人の人が、もう立っておれんわというて、そこへ座りこんでしまいました。中には寝るのがございます。何にせよ不思議だ、もう皆がびっくりしてしまいました。
「それでは酔うたということおわかりになったでしょう。それでは、今度もうすぐに酔いをさましてお話を聞いてもらうことにします。」といって一人、一人、おつむをなでたところが、すっとなおってしもうて、真っ赤になっておったところの色がさめてしまいました。そうして今度は、先生がその酔うていた人にお尋ねするのです。 「どんな味がしましたか。」「まあ、かろうてかろうて、もうすぐ酔うてしもうた。しょうちゅうみたような酒であった。」又一方の人に「お前さんはどうか。」「おいしかったな。みりんのようであった。」とにかく五人の人が、からいと甘いの違いはありますけれども、皆が酒であったということに論証をつけました。この通りに思うということ が、はやもう水でも酒になるのです。それが催眠術です。しかし、酔うておる事は事実でございます。 人間は証拠がなかったら罪にならんけれども、神様の方は思うたら罪ができておるんだとこういうことを、先生がおっしゃいましたのを私が例をあげてお話ししたのです。今その水を飲んだ人は、催眠術の先生が酔うといったから 酔うかもわからないと思うているのです。あんのじょう酔うてしまったのです。
こういうふうに、人間は思い込んだ場合は、体の方へそれが通うというところの力があるのです。それを催眠というのです。信仰は、催眠術よりもう一ツ強い力がございます。心で思うことが体の方へかようということは同じことであります。私は例においたのでございますが三二一条に書いてあることは、そのことを書いてあるのです。
心で思うことが、その人の運にもなるし、又薬にもなるし、毒にもなるし、何にでもなるのでございます。これが信仰の原理でございます。一番大事な事でございます。これを先生がおっしゃいましたから、私が書いたのでございます。どうぞ泉先生がおっしゃるように悪い事思わんようにして、怒ったり、腹を立てたり、にくんだりしないように、いつもほがらかに、おもしろく、ありがたいようなことを考えておるような人はよい、というようなことになるのでございます。
(昭和三十七年七月三十一日講話)
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第三二二条 「お不動さんがこわいか、あのお顔がなつかしく見えるほどにならねば一人前でない。」
お不動さんというのは、どのお不動さんでも、笑いよるお不動さんはありません。むつかしそうに、おこっている容相をし、刀を抜いて、そうして片方では縄を持っているのです。あのお不動さんが、恐ろしいように見えるのでは、いけない。 お不動さんが、なつかしいようにならないと一人前じゃないぞと、おっしゃったことを私が書いたのです。というのは、お不動さんは、心のうちで非常にやさしく人を助けよう、助けようとなさっている。けれども、助けよう、助けようとしていると、人がなついてきて甘えてくるから、外側は怒っている。という姿をあらわしたのがお不動さんです。お不動さんは、心のうちでは、おやさしい。人を助けようとなさるのですけれども、表面は、怒って人をよせつけんようにしている。こういう姿がお不動さんなのです。お不動さんのことを、内面は慈悲である。外はふんぬの力とこういう風にお経文には書いてあります。そこを泉さんは「お不動さんこわがるな。お不動さんありがたいんじゃぞ。」とお教え下さっております。
親が子供を教育する時分に、子供をしかっとるでしょう。父が子供をしかるとき、そばにいあわせたおかあさんは「まあおとうさん、そんなにお怒りなさらんと、こらえてやんなさい。」というと、父は「こらえてやると、くせになる。」というて、目玉をむいて怒る場合がありましょう。これは、おかあさんがなだめよる心も、よい子になってもらいたい。利口な子になってもらいたいという慈悲心からです。お父さんが、怒って目をむいておるのも、よい子供になってもらいたい。よい子供になってもらいたいと願っている為に怒って見せとるのです。だから、表面怒っとるけれども、腹の中ではかわいそうにと思っている。あれはお不動さんの怒りです。ところが、心のうちでかわいそうに、 かわいい、かわいいと。かわいいから怒るんだといいながら、つい、まちごうて、しまいに憎んだりしがちですから、憎まないように、慈悲心で怒ってみせるのはよろしいけれども、ほんまに怒って、にくんだらいけません。親子の間柄だったら、ほんとに怒るということはありません。ほんとに怒っていても、心の中には慈悲の心をもっとります。
親が子をしかるようにしからなければならない場合があっても、腹のうちでは怒ってはいけませんぞと先生がお教え下さったのでございます。それで、泉先生のことをしきりに私は申しますが、泉先生が拝みなさる時に、ほめられる人は、ほとんどありません。みてごらんなさい。 「お前さんいつ、いつこんな事したか。」「へえ、いたしました」 「そりゃいかんでないか。お前さん神さん、仏さん喜んでおらんで。」こういうふうに神さん仏さんのかわりに、先生がごきげん悪うにいうて、そうして「ああ悪いのがわかったら助けたげるぞ、もうこの病気心配ない、いつ、いつがきたらなおるからなあ。」と、こういう風になさっているでしょう。先生はほんとの怒りかたはいたしません。
したことの悪いことを、とがめなさって、そうして後で助ける。こういうふうに先生なさっておりました。あれは不動の怒りです。お不動さんの怒り方、人間の怒るのは、ほんとに怒って、目をむいて憎んどるのです。これはいけません。泉先生が拝んで、怒りなさるのは、慈悲の怒り、お不動さんの怒りです。かわいいから怒る。こういうふうになります。お不動さんは、あの顔しかめて、おこって剣を抜いておこっとるのは、決して怒っとるのではありません。「いうこと聞かなければしばるぞ。」また「きかなんだら、この剣で切るぞ。」と、いうふうに、おどしつけてよい方へ向けようとするやさしい心でなさっとるのですから、「お不動さんは怒っとると思われんぞ。」と先生は、おっしゃったのです。
それと同時に皆様に「お不動さんのような、怒り方をするのはかまわんけれども、腹の底からおこられんぞ。」と泉先生がおっしゃいました。まことにありがたいお言葉でございます。どうぞそのように怒るときでも、腹の底から怒るということがないようにしていただきたいものでございます。
(昭和三十七年七月三十一日講話)
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第三二三条 「人に明るい人と、暗い人とがある。明るい人は、神にほめられておる笑顔の表われで、暗い人は神にしかられておる泣き顔であると見てもよい。」
人間の心というものは、一ツのように思いますけれども、いわゆる仏性という奥底に神仏に通ずる、実にまっすぐな性根、一般の人はこれを良心とか言っています。それともう一つは個性とよばれる、自分という性質、親ゆずりの性質とのニツがあります。人は、普通、心と、いっておりますけれども、詳しくいいますと、仏性と個性のニツになるのです。人の中に明るい人と、自然になんだか暗いような気持の人がある。仏性とは、本来人間の本質なのです。
個性というのは、後からつけた「クセ」ですから、本来の性質に、個性が照らされておる。
もう一ツたとえて言いかえますと、ここにお燈明がついている。その前に立ったとき陰が映る。すると明るい部分と暗い部分にわかれてうつる。こういうことなのです。本質は仏性といい、実に強い力をもっているものです。仏性を詳しく説明しますと、なかなか長いお話になりますから、簡単に仏性というておきましょう。その仏性に個性が照らされるとき、明るい個性をもっている人は、常に明るく見えるのです。徳ですね。そういう人は。ところが何か暗い個性をもっている人は、仏性は照らされると、その陰が暗く見える。これは損です。つらくないのに、つらく見えるのです,
これを簡単に明るいと暗いとの現れといっておりますけれども、もう一ツそれにメスを入れてみると、その歴史の中に、いろいろ種類ができてくるのです。明るいという人は、大抵あの六波羅密に合っとる人です。前生に、恵み深いとか、しんぼうづよいとか、決めたことを狂わさないとか、信心なというようなよい性格を持っている人があって、そしてその人の性格をもって、この世に生まれてきているのです。生まれながらにして明るいのです。この間もお話し申しましたが、六波羅密というのは、人間になくてはならぬところのものです。六波羅密を生まれながらにして、持っている人が明るいんだ。暗い人は過去において暗い思いこと、所作などの歴史を持っている人なのです。即ち暗い因縁を持っているのです。だから、生まれながらにして、なんとなく暗いのです。
ちょっと、話が変りますけれども、京都の大学の教授をしておりました福来友吉という人から聞いたのですが、暗い性質の人をつかまえて、そして仏性を強く出させるのです。方法として催眠に落とし入れるのです。そして「あんたの人中へ出されぬことを一ツ話ししてみろ。」と言うのです。そうしたらしゃべり出すのです。催眠しているから 恥ずかしいとか、つらいということなしに、人の前で、公然と語るのです。その語る話たるや、実に気の毒なことがでてくるのです」と、福来さんがいっていました。暗いという性質には、必ず潜んでおるところの現れていない、人前に出せんものがあるとこういうのです。
泉先生は、そういう学門的なことお知りにならんけれども、例えたら明るい人は、神にほめられておるようなもので、その笑い顔とみてよい。暗い人は神にしかられておる涙のあらわれだとみていいと、先生はそうおっしゃった。
だが神にしかられるとか、ほめられるとか先生がおっしゃったけれども、今日の科学でいいますと仏性です。仏性に合うておるところの性質をもっている人は、明るい。合わない性質をもっている人は暗い。こう見てよろしい。
だからして、私はここに、こういうこと何故書いたかというと、人は誰でも明るい人になりたいのです。その明るい人になりたければ、ぜひ六波羅密をしなさいと、おすすめしたいのです。そしてその人はすぐに明るい人になれるのです。六波羅密は、施行、忍行、戒行、精進行、禅行、智行、この六ツです。これが六波羅密行といいますが、それを常にやるのです。行いができると自然明るくなってくる。そうすると、今度その人の子とか、孫とかになってくると、生まれながらにして明るい。そういうことになりやすいのです。だから我々としては、どういうことを心がけねばならないかといえば、常に六波羅密をして、常に明るい心になることをおすすめしたいと、こう申したいのです。
(昭和三十七年八月十五日講話)
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第三二四条 「土なべで飯をたく時、米に水を多く入れても、火のたきようがきつくても、ぬるくても飯はおいしくでき上がる。見かけは誠にお粗末でも、人を喜ばす力は大変大きい。これを人の身の上にたとえたら、立派なものではないか。」
土鍋は、見かけは、まことにお粗末などろでこしらえたものですけれども、大変便利なものだ。こういうことを書いとるのですが、ちょうど人間に土なべのような人があります。土なべというのは、からつよりも、もう一ツ泥に近いのです。たたいても余り音がしません。ポタン、ポタンいうくらいのものです。それで飯をたきますと、水が多く入り過ぎても、又、火がきつくても、ぬるい火でたいても、できあがったご飯がおいしいのです。ためしてごらんなさい。それは、実に金属のはがま、今のアルミのはがまなどでたいたものより、はるかに味が上です。というのは、時間を長く、ソロソロと熱が加わっていきますから、米がじゅうぶんふくれるのです。しかもその熱が急にこたえずして、ゆるゆるとこたえていきますから、米の膚がよく締まるのです。締まって水を吸うているから、柔らかく、ほっこらとできる。
人にもこういう人があります。見かけは別に飾りもなし、平々凡々の人のように見えるけれども、お付き合いすればするほど親しくなって頭が下がる。そういう人があります。泉先生は、どろなべのようになれとおっしゃった。その意味は、ここにあるのです。たたいてみると音がしません。ところが近時、人間は悪意をもって他人を見る人が多くなってきた。鋭い。さわったら、すぐ怒ってくるか、道を歩いても大道狭しと歩いておる。まあ、ちょっと、ものいうても、なんだか理屈がましくいうてくる。それでは、どろなべでないのであって、金のなべだ。どろなべは、たたいて音がせず、投げるとこわれますから、まことにお粗末であるけれども、飯をたいてみるとうまいと、いうふうに、ちょっと、みかけの上は立派な人に見えず、普通の人のように見える。ところが、付き合えば、付き合うほど、偉さが現われてくる。しまいには、恐れ入って、その人格のために頭が下る。そういう人がありましょう。泉先生は、まことに学問こそないけれど、人間界によく達しておるお方ですから、土なべにたとえて人間を教育しとるのです。
どうぞ、みかけは立派な金属のおなべのような人になるなというのです。それを赤がねとか、金とかにしますと、 熱が早く伝わるのです。焦げつくのです。言い換えると、ご飯がうまくない。人間ならば、すぐに理屈が出る。目が三角になってくるという方です。それはいけない。ここにその味があるのでしょう。
土鍋のように、きやすうにあつかえる。そして意味が深い。お付き合いがしよい。すこしも腹を立てない。つき合いが楽にできる。こういう人があります。私が考えますが、人間は、土鍋でご飯をたくように、静かなのがよいと思います。ちょっとのものの言いようで、青筋立てて怒るようなのではいけません。ぼんやりして感じないというような、知らん顔しとるというような、おつき合いがしよいようなのがよろしいのです。泉先生は土鍋にたとえて、そういうお話をなさいました。
私が、どろはがまって言いますと、まだおわかりにならんでしょうが、戦争時分に、鉄が少なくなり、金属製のなべが少なくなった時、どろのなべがでておりました。ご承知の人もあると思います。明治時代の昔は、金のなべは少なかった。鉄のなべです。それから土なべ、この頃でいいますとユキヒラというものがあります。これでたいたものは、うまいのです。これカラツですから、どろに近いんです。これでたくとほんとうにおいしい。お茶たきましても、これは、お茶をあがる方だったら、ご承知でしょうが、鉄びんで沸かした湯はうまいんですが、カラツで沸かしたら、なおうまいのです。真ちゅうやアルミニュウムで沸かした湯はうまくないということおっしゃいます。
こういう風に、人には、いろいろ性質があって、差はございますけれども、どうぞ、そういう人にならんように。私がこういうお話をすると、あなた方は、おわかりになった方も、おわかりにくい方もあるかもしれませんが、もう一ツたとえてお話ししてみますと、ちょっと見て、この人はなに屋さんだかとわかる人がありましょう。この人巡査だ。 官吏だな。あれは、呉服屋のおっさんだなあと、その人にもう商売がかみついている人があります。そりゃ、あまり感心しないのです。ちょっと見たところ、何やらわからんというのがよろしいのです。つまり個性がはっきり表われていない、こういう人がお付き合いしよいのです。まあ、そういう風に、たとえれば、いろいろお話はありますけれども、平凡であって、何をしておる人か余り見わけがつかない、やさしい、柔和な、こういうのがいいと思います。
泉先生は、そういうことを、人生を、土なべにたとえてお話しなさったのです。あんた方も、ものを知るというのはよろしいのですが、知った為に偉もんになってはいけませんから、そういう風に考えて下さい。
(昭和三十七年八月十五日講話)
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第三二五条 「口を開けば人を歓ばし、手が動けば福を授けるというような人は神のかわい子である。」
そういうことを先生がおっしゃったのです。なるほど、私は多くの人と交際いたして思いますに、泉先生のおっしゃることは、一口おっしゃっても、それが参考になるのです。実に意味深い言葉をおっしゃっております。すなわち、それは、口を開けば、人が助かる、歓ばすということになります。
たとえてみますと、私がはじめて、泉先生にお目にかかったのが大正三年でございますが、そのとき、今の大坂山の道路を車が通れるように改造しよりました。その際でありました。私は泉先生の尊いお名前を聞いて、そしてはるばると、阿波から讃岐の津田へ、あの道を通っていっていましたところが、道路がいきつまりになって、道がないようになりました。その当時、工事をしよりまして、「ここまで出来とるんじゃなあ。」というたものの、道がありませんから、谷間へ降りていったのです。そうしたら上から大きな石がころがってきて、危い目にあって、工事しよる所から急いで松の林の中へ走り込んで石をよけたことがございます。そして向こう側の讃岐の国の山のきわへ降りて、それから引田の方へ出て、津田へ行き、先生のところへ参りました。「あんた阿波からおいでたんな。」こうおっしゃるので す。讃岐言葉で、お話しなさるのです。「まあおかけなさいな。」という言葉で、古くからお付き合いしていたような感じがおこるのです。私は内心「お徳の高い人ってこんなもんかいなあ。」と思いました。しばらくして、皆拝んで、今度私の番になりました。そうすると先生が、こういうことおっしゃるのです。「皆さん、まだ後に残っとる人がありますが、前から私が申しておりました。私の子が来た時は休ましてもらうといってあったが、今日は、そのわが子が来たので拝むのだけご免こうむる。」と先生はおっしゃいました。私座敷へ上っていきましたら「あんたなにというか。」「村木と言います。」「ああ村木さん、おつれは。」「山形です。」「山形さん、そうかい、二人がおいでたんやな。」先生そういうやさしい言葉で、「今日山の上であぶなかったなあ。」早ちゃんとあぶなかったことを見よったようにおっしゃるのです。何も、先生は津田で人を拝んでおったんであって、私らが大坂山を越えていくところの道で危険があったということを知ろう筈がない。口を開けば、人を歓ばすというのは、ここなんです。「あぶなかったね、今日は。」「先生あぶのうございました。」「ああ大きな石がころがってきよったな。」見よったようにおっしゃるのです。「ええ先生、上から石がころがってあぶなかった。」「松林へ走り込んでよかった。」まるでちょうど現場で見ていたかのようにお話しなさるのです。それをきいて私は、しんしんとしてしまいました。「この人の話は ちょっとちがうなあ。」私の体にこたえた。それもこたえるはずじゃ、如実のようにいわれるもんだから。口を開けば、人を喜ばすというのはそれなんです。
つぎに手を動かせば、福をさづけるということをお話ししてみましょう。「村木さん、今日あんたは、わざわざ私をたずねてきてくれたんじゃが、別にお前さん信仰でないなあ。」というのです。もっとも今こそ、神、仏におじぎしますけれども、その時は学生上がりで、年が二十七の頃ですから、信仰など考えていないのです。鉄砲うっていたのです。それで先生がおっしゃることには、「村木さん、あんたとこに西の方に、体の青い手が六本生えとる人がおるか。」そうおっしゃるのです。「ああ体が青い、手が六本生えとるというと、先生こりゃ人間でごわへんな。」「ええ 庚申さんか。」ああなるほど、私は幼いときに私の母におんぶしてもらって、お寺へお参りにいったとき、その庚申さんに、さるを三びきおまつりしてあるのを知りました。私はそれがほしいといって、庚申さんへよくお参りにつれていってもらいました。その庚申さんのことを先生が話すのです。「この人が、おまはんを守ったげるというとる。」 「ああ、ありがとうございます。」「おまはんとこに、はすの花れんげの上にすわっているお地蔵さんがありますかね。」というのです。「ああ、あります。それは一億万べんの供養塔です。」「その一億万べん、ご真言をくったおばあさんがあんたのおばあさんやなあ。この人が、おまはんにがいに力を入れて守ってくれよるということをお話ししたげる。あんたは明治二十一年に生れとる。おばあさんは、明治二十二年に死んでおる。その一ツに足らん子が、おばあさんよく知っとるのをおまはん覚えがあるか。」とういうのです。「先生、恐れ入りました、よく知っとります。」 普通なれば知るはずがないのです。私は、明治二十一年生れ、おばあさんは、明治二十二年に国替えしとるから知るわけがない。それに、私はおばあさんの顔も、寝る時に着ていた布団の柄まで知っているのです。それを先生がいうのに「知るはずがないけれども、このおばあさんが一生涯かかって信心し、お大師さまに願をかけて、一億万べんおがんだ功力を、おまはんにあげるといって出てきとるぜ。」そうおっしゃられると、現になるほど、思い出すことがあるのです。私とこの墓地の、一億万べん供養塔に二代目宇平衛妻と書いてある。その二代目宇平衛妻というおばあさんが、私のひいばあです。先生、ちゃんと知っとる、すなわち口を開けば、人を喜ばして福を授けるというのはそれです。
私は信心も何もない人間ですけれども、「なるほどなあ、ひいばあさんが一億万べんも光明真言を繰ったという、その功徳をわたしにくれた、ありがたいものやなあ。」しんしんとして感心してしまった。三二五条に書いてある、 それです。「口を開けば、人を喜ばす。手を動かせば、人に福を授ける。」こういうふうな人が真に尊い人だと先生がおっしゃった。
そのことは先生にあてはまることでありまして、ほんとうに「私はああ偉いなあ。」と感じ自然に頭が下がりました。しかも、私は信心で行ったのではないのです。偉い人があるというから、見に行ったのです。見にいって、先生の言葉を聞いて、頭がおのずと下ってしまいました。こういうふうに先生は、決して、自分はおっしゃらんのです。人のことのようにおっしゃる。その徳の高いのに感じて、おのずと頭が下るのです。ほんとに、偉いお方でございます。
世の中に、時間がたつのも忘れるくらいにおもしろい話をする人があるかと思うと、愚痴の話をして、もう聞くのがいやになってしまうようなことを、話しする人もあります。先生が口をあけたら人を喜ばす。すなわち人が喜んで話を聞いてくれるというような話をする人は、ありがたい人だとおっしゃったことは、ここにあるのです。
この三二五条はこういう意味でございます。あなた方が、お友達と大ぜいのお付き合いをなさる上に、言わねばならぬ場合もありますけれども、どうぞ、話をしたら人が喜ぶようなおもしろいような、ほがらかなことをお話するのがよいと先生がおっしゃったことは、ここにあるのです。妙に愚痴を言いまして、ぐちの話というのは、人は聞きたくないのです。けんか話とか、どくれ話とか、ぐちの話は聞きたくないのです。おもしろい、喜ぶようなこと聞きたいの ですから、なるべく人が喜ぶようにお付き合いするのがよろしい。と、こうおっしゃったのは、ありがたいことでございます。
(昭和三十七年八月十五日講話)
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第三二六条 「習わぬ経は読めぬと昔からいうが、なるほど人は常から神仏の教えの通り身に「くせ」をつけておくことが肝要である。」
信仰する場合に、ことがわかっておっても、常々それを練習しておらんと、使えないということです。覚えておる、知っておるということは、身についていなければ使えません。まことに、これは大事な事でございまして、偉い人の書いたお経文なんかは、身につけることを書いてあるのですから、いかにちゅうで知っておっても、偉い人にはなれないのです。
たとえてみますと、これはえらい卑近な例ですが、便所へ入ります。便所のにおいがします。でもしばらく便所のなかにおりますと、においがわからんようになります。これは、すなわち慣れた為に感じないということです。又、よいにおいを体につけます。つけておいて、しばらくすると又においがわからないようになります。こういう風に人間には始終体についておると、余り感じないというふうなくせがあるのです。この「くせ」を自分の身に付けなければいけないのです。
たとえば、どんな小さなよいことでも、よいことは捨てないでやっていく。小さなものを積んでいけば、それで大きな仕事が出来るんだ。先生は始終おっしゃっていました。泉先生の言われることは、まことに尊いことが多いのです。大きな善事をしよう、よいことをしようと思っても、その大きなことはめったにあるもんじゃないのです。小さいことは、常にあります。朝、昼、晩と、その間には必ずよいことが出来る機会があるわけです。それで皆さんは、機会さえあればすぐそれを行なう。これを積んでいくと、いつの間にやら、自分の人格が高くなっておる。「どんな小さいことでも悪いことはするな。どんな小さいことでもよいことは捨てるな。」というのが泉先生の教えです。そういうくせをつけておくと、知らず知らずのうちに交際するうえで、それがでるのです。つまりそれがくせになる。すると、そのくせというものが人格になる。それで極端にいえば、お釈迦さんなどは、よいことはできるが、悪いことはできないというくせがついているのです。これはおかしいたとえですが、弘法大師にしろ、釈尊にしろ、よいことは、知らず知らずのうちにするけれども、悪いことはようしないという膚なんです。そういうお心得なんです。これを我々はまねないかんというのです。「このちょっとくらいかまわん。」というて、ちょい、ちょい悪いことをしたがるものでございます。けれども、「小さいことといっても、悪いことはするな。どんな小さいことでも、よいことは捨てるな。」こういうのが先生の教えでございます。
ここに、習わん経は読めぬと書いてありますが、その通りに一ぺんおぼえて、そいつをもう始終口にしておれば、飛び出てきます。それはおかしいものです。真言宗の坊さんは、仏さんの前である理趣経を長いことおがんでいますが 仲々あれだけ覚えられんのです。私は、一節ぐらいはいうけれども、なかなかあの理趣経の十七段の長い経はいえません。しかしお坊さんは、ちゅうでとなえています。これなども、くせになっているからでるのです。ですから、いつも、いかにむづかしいことでも、やろうとすればやれるのですから、これくらいのことっていうんで、ほうってみたり、これくらいのことというて、やめたりすることはいけません。 これについて、おもしろい「くせ」があります。私ところの家に先祖の教えがあるのです。それは、わら切れとか、なわ切れとかいうのは、火の中へくべるなという教えです。なるほど、ちっと長いなわ切だったら用をします。これは、ほんによいことを教えてくれてあるなあと思います。よいことを後世にのこしておきますと、いろいろ役に立つことがあります。そういうことですから、ここに書いてある通りに、一たんよいことを聞いたら、それを身につけるということが大事だと思います。
(昭和三十七年八月三十一日講話)
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第三二七条 「向こうから道一ぱいになって、威張って来る人があるとする。この時、道を譲って悪く思わず、心のうちで会釈をして通れ、この会釈こそ、生きた経文である。むずかしい文字の経文ばかりがお経でない、たちまちこれで人が助かるではありませんか。」
時折り、道の向こうから威張って、広い道を自分の道のようにして、そりかえって、通っている人を見かけることがあります。入墨を入れたり、お酒に酔うたりして、道狭しと歩いておる人に、ひょっと出っくわすことがあります。
泉先生は、その時分には、道を譲って、道のはたの方を通って、そうして心の内で会釈して通れとおっしゃるのです。
おじぎせよというのではありません。心のうちで会釈をして通れ、そうすると無事に通れるが、えてして、そういう人は、けんかしかけてくる場合があります。こちらの方で、なんじゃなまいきな、だれでも天下の公道を通るのに、遠慮いるか、というんで、真ん中をこい、というようなちょうしで行くと、ついそういう人は、けんかがしたいんですから、なんかいいよってくる場合がございます。泉先生は、おじぎせえ、というんではありません。ほんにかわいそうなというような心で、その人に会釈して通る。そうしたら、向こうはとくとくとして、喜んで威張った顔をしてずっと通っていきます。昔こういうことがよくあったのです。刀をさしておって、さや当てといいまして、通りかわしに刀のさやをさっとひねったら、コチンと当たるのです。そうすると、その威張り屋さんは「おれの刀にかち当ててどうするんだ。よけない、お前はなんという人間なら。」と、言うて、けんかをしかけるのです。そうですね、小説に書いてあります。今日、刀はさしていませんけれども、そういうふうな理由で、なにかひっかかりがあったら、やってやろうというような人が通っていますから、泉先生は道を譲って、心のうちで会釈をして通れとおっしゃる。このことは、先生、余ほどお考えになっておることです。向こうは威張りたいのです。威張る人間には、威張らしておいたらよいのだという意味です。それを押さえつけるようにすると、つまらんところでけがしたり、人をいためたりすることができてくる。そんなことは、よろしくない。
昔話がございます。韓信の股くぐりというのがあるでしょう。これは支那のことです。韓信という偉い人の若い時分の話で、威張り屋の先生が「あいつ一ツいじめたらんか。おい韓信、おれの股くぐれ。」韓信は「ハイハイ。」というて、その人の股をくぐり、おじぎして向こうへ行ったそうです。そうすると、威張っておる人が「どうだ、おれは韓信に股くぐらしてやった。」という。ところが韓信という人が勉強ができて、立派な人になった時に、股をくぐらした人が恥ずかしかったというようなことを、私が小学校の時分、先生におそわったことがございます。なにも韓信に限らず、だれでも人に譲って、そうして争わないのがよい、ということを泉先生が教えとります。これは皆がそういうような気合でございましたら、別に問題はおきません。
これは新聞で折々あるのでございますが、なんでもあれは徳島でしたか、にぎわいのあった晩に、包丁で「あんまり威張っとったので」突き刺された人がございました。なにも恨みはないのにね。そういうことをしたがる人もあるのです。泉先生は「そんな、つまらんけがはするな。争い心はよろしくない。いつも人に対しては譲って、そうして心の内で会釈をして通りかわしていけ。」と、こういうことをお教え下さっています。今日の、この荒くれた空気の世の中のことを見ますと、ぼつぼつ新聞の種にそんなこと書いてあります。まあほんに、泉先生の教えを行うとったら、災難などはないんだと、私は折々考えます。
どうぞ皆さんも、何も負けるんじゃないんです。人に譲るということは負けるということと違います。心で人に譲って、そんな難所をつくらないように、泉先生は、よく教えておられます。まことに結構なお話だと思います。
(昭和三十七年八月三十一日講話)
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第三二八条 「神や仏の慈悲の手にいだかれておることを知って居る人には、いかなることがない。よく考えてみなさい。つらいなど思うはずがないではありませんか。」
雨が降っても風が吹いても、どんなことがあっても、人間は保護せられておるのであって、神仏のお慈悲、すなわち神仏の手にいだかれて、日々暮らしておるという風に考えるのです。先生はそうであったのです。ところが、台風が吹く、雨が降る、場合によったら水も出ます。「こんなことがあるのに神様にだかれておるというたって、つまらん話じゃなあ。」というような人があるかもわかりませんが、その根本を考えてみましたならば、水が流れなかったら大変でございます。これがあるので、生きものが育つのです。又、風というものも、もしなかったら、大変なことが起きてきます。陸地の五倍もあるところの、広い海の上では、いつも水蒸気が上へ上がっております。その水分が上へ上がるのを、風が運びますから、どんな高い山の上でも、又山の奥へでも、その雲が運ばれて雨となって落ちる。いかなる山のおくでも、しめりを運んでくれておる。こういうふうに考えてみるならば、風というものはありがたいものです。時折り大きな風が吹いて困ることがございますけれども、それは害のある一面がみえるのでございまして、徳のある方を見ないきません。
いつも人間は、そういうふうに、とても人間の手で及ばないところの、水とか、風とかいうものによって自分の作物をいためられますから、こんなものなくても、よいとかいいますが、それは、ものの間違いです。風というものが もしなかったら、しめっておる土地は、こんかぎりしめっとる。乾いておる土地は、いつまでも乾いておると、こんなことになります。風というものほど、結構なものはありません。又この風というものがなかったら、大阪あたりどうなりましょうか。あの大阪の天地は、年中煙につつまれておるのです。あれ、風というものがなかったら、大阪もまるで人間が生活ができません。遠方の奈良の方の山の上から大阪を見ますと、大阪は綿かなんかでつつまれておるように見えます。それは煙なんです。風というものがあるが為に、いかに煙が積み重なっておっても、風がそれを運んでしまう。そういうことになっているのです。それで又、運ばれたところの炭酸ガスは、山や野原の草木がそれを吸うて生育する。そうして草木の葉からは、結構な酸素という、生き物にはなくてならんところのものが出るのです。
そうして、それを 風が運んでいくので、もし風というものがないなら、大変なことが起きるのです。風に限りません。雨でもその通り、すべて生き物が暮らしていく上で、色々天地の上にものがありますが、それを喜べと先生はいうのです。それに愚痴をこぼすようではいけない。もし害があるのなら、その害を防げるように工夫しろというのです。そうして天地の間の出来事は、すべて神仏の慈悲の手によって、我々の助けになるようにしてくださっているの でありますから、もし害があるのなら工夫しろ。これがなかったら、大変だという風に、先生はお考えになっておって、なんでもかんでもありがたい、もったいない、ああこういうことがあるから助かるんだというので、いつも喜んでおいでるくせでありました。これはおつき合いなさった人は、わかるだろうと思います。
先生は、絶対愚痴はおっしゃらなかった方です。もし害があるからというて愚痴いうのであったら、先生は、海の上に浮いとった方ですから、最初は船に乗って、その愚痴をいえます。「水というものは船をひっくり返す。流してしまう。大勢を殺す。こんなもんどんならん。」と。しかし、そういうならば、交通ということができんようになります。漁業もできんようになります。「害があるのならば、ないように工夫していけ。そして人界を賑わすように、工夫していけ。」こういうふうに先生はお考えになっておりますから、水は水でありがたい、火は火でありがたい、風は風でありがたいと、すべて生き物が助かる方面のみを先生は、喜んでおいでるのです。そしてこういうことをお話になるのです。これが神仏の慈悲です。「その神仏の慈悲の手にいだかれておるということを知っておるものは、結構だ。つらいということはない。どんな場合でも、喜べる。」こういうふうに先生はお考えになっております。
生き物が死なんのでありましたならば、土地の上はもう生き物ばかりで、とうてい交通もできません。生まれもしません。死なんのですから。死があるが故に生まれるということがあるのです。こういうふうに考えてみますと、つぎつぎと新しい、いきおいのよいものを出してきて、古びたものは元の土地へおさめてしまう。いつも新しく、新しいものを作っていきよる。こういうふうにみるならば、命そのものも結構です。もし、死なぬのであらば大変です。 これは私、始終言うのでございますが、「わし死なんのじゃから、もうめんどくさい。仕事も、もうけをやめよう。もう食べない。食べなくても死なんのだから仕事をせん。又着物もいらんわい。家もいらんわ。」そういう風になりますと、もはや人間という位をおりて、動物になります。下等動物になります。次第と貧弱な体になって、ついに、人間という資格を失うことになります。死というものがあるからこそ、ありがたい。泉先生は、こういうふうにお考えになるのです。死さえもありがたいのです。
なるほど、聞いてみると、もし生きものに死というものがないのであれば大変でございます。死そのものがありがたい。こういうふうに先生は死と生とを一緒にしているのです。よくこのところをお考えになってもらいたいと思います。死さえも先生は喜んでおいでるのですから、他のことは何でも喜べるはずでございます。死なんのでございますから、強い者勝になります。いくらどうあっても、死なんのですから、鉄砲打ったとて死にません。だから人を困らすような工夫ができたものが、世界の大将になって、占領する。占領するのはええけれども、その人も死なんのでございますから、こいつも困ったものです。こういうふうに生き物が生育し、喜んで世界を建設するということは、死あって、はじめてできる、こういう理論が成り立つのであります。
どうぞ泉先生のお心を悟って、一切愚痴をいわないようにしようじゃありませんか。愚痴いわずに済むはずでございます。愚痴いうのは、一部分しか知らないからです。全体を知ると、愚痴いわないはずです。
(昭和三十七年八月三十一日講話)
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第三二九条 「わが身大事から割り出した事はどんなことでも迷いの種である。人の身を思ってしたことは、みな慈悲心であって、悟りの根である。」
わが身大事からわり出すことは、「わしの損じゃ。」「わしの得じゃ。」という考えからすることですから、その人には相手がないようになります。「わが身息災。」ということで、人が相手にしてくれんことになります。だれしもが、我を大事と思っているのですから、その人の好きなことをしてあげたら、その人、必ず喜ぶのです。しかし、人をよろこばさないで、我身大事という心だけで、世の中に交わっていきますと、悪人になります。まず考えてごらんなさい。今、徳島市の前川の刑務所にたくさんの人がおいでますが、この人らは、色々の原因で中へ入っております。「人のものとった。」 あるいは「人をなぐった。」とか「人をだました。」とかいうふうで、 皆、わがしたいことばかりを考えて、人のことを考えなかった人が入っとるわけです。その人も気の毒であって、時のはずみで、そういう事が悪いと知りつつ、それをとめるプレーキがきかなんだのです。
泉先生がおっしゃるのは、「自分がよいということを、人はどう思うかと考えて、敵をこしらえないようにしていけ。」と。これは泉先生の世の中を渡る術です。先生は、お付き合いしよりますと、実に頭が下るようなお方です。 もの言うても、大へん柔らかです。今ここに、三二九条に書いてあるように、自分から割り出して、これは得じゃからする。損じゃけんしないということは、先生の場合、絶対になかったのです。損得ということを考えません。相手方が、助かって喜ぶようにということを考えてなさったのです。それでああいう大きな人格をこしらえられたのです。
先生のは、もう人格でなくて神格と申してもよろしい。神様にまつられるところの先生のお心は、損とか得とかを考えられなかったのです。これをすれば、あの人が喜ぶだろう。運がようなるだろう。こりゃ世の中がようなるだろう。ご自分の他の事を考えて、すべてのことをなさっておった為に、先生は神とあおがれる人になったのです。
ところが、前にもお話し申しましたが、あるところに王様とおきさきと二人が、お庭の縁に腰掛けておいでた。
その王さんがおきさきに「お前さんは、世の中で何が一番好きか、遠慮なしに言うてみよ。」というたところ、おきさきがおっしゃるには、「私でございます。」それで、王様は感心したのです。王様は、おきさきが「王様」が好きでございますというと思うたら、「私が世界で一番好きでございます。」といったのです。王様は、感心してしまって「ちがいない。あなたが死んでも、わしは、あなたについていけない。なるほどなあ。わしは、わしの体を大事にし とる。おまえさんも、おまえさんの体を大事にしとる。仏教ではそんなこといいのか悪いのか知らん。お釈迦さんにいって聞いてみよう。」といって二人が馬車に乗ってお釈迦さんのところへ、いったのです。そうして、お釈迦さんに聞いたところが、「ああよう聞きにきた。人間は、誰でもわがを大事にするんだ。一人として、わがを大事にせん人はないぞ。それであるから、皆がそうであるから、大事にしよる人をかわいがってあげたら、わが運がようなるんじゃ。」とおしゃかさんは答えとります。いかにも、そうです。皆がそう考えているのじゃから、人に向いては喜ぶようにしてあげたら、自分の運がようになる。なるほど、その通り、大事なところです。
三二九条は、そういう、反対のようなことですけれども、みなが、わが身を大事にするのです。だから、その人を大事にしてあげたら、わがの運がよくなるのはまちがいないのです。そういうことをお釈迦さんがお二人に、話をしたところが、喜んでお帰って、その国がよく治まった。立派な国になったということが、お経文の中に書いてあるのです。どうぞそのように一ツ三二九条をごらん願います。
(昭和三十七年八月三十一日講話)
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第三三〇条 「神、信心を理屈で進んでいこうとすると、理屈に合わぬことは信ずることができぬようになる。そうすると、何事にも恩を受けていると思えぬようになる。おしまいには、親や先祖に向かっても、親しみとありがたみとが心に感じぬようになる。 このような人がどうして、神のありがたみが悟れるようになれるでしょう。」
これはあなた方が日頃よくお感じになることでございまして、お陰というのは、理屈で悟らなければ、お陰でないという人があります。これはまあ、無理からぬ話でございますけれども、このお陰というのは思いがけなく、幸運に進む。あるいは又、反対に思いがけなく悪く進む。そうなっているのでございます。理屈をいえばいろいろございます。けれども、理屈に合わなければ得心ができんという人であるならば、お陰ということが、なかなか、わからんようになるのです。それから、そういうふうになってくると、おしまいには、おかしいものでございまして、親と子が結ばれておるのはどうしたんだろうか。こう理屈いうようになってくるのです。子は子で、わしがたのんでないのに、こしらえてくれて、わしゃ苦労しよる。何もありがたいことない。そして、仕事せえの、朝起きんのと苦説ばかりいう。こういうふうに理屈からいきますと、親さえ親しみがなくなってくるのです。ましてや目に見えない神や仏の方へむいては、なおのことでございます。泉先生は常に「理屈はやめようぞい。理屈はやめようぞい。」とよくおっしゃいました。理屈はさておいて、そうしてお礼ばかりいうのが、信心とみてよいのです。 今日、水とか火とか空気とかいうものは、非常に大事なものでございます。これは三宝荒神さんとして、おまつりなさりよるそれでございます。お荒神さんまつっていないお家はないでしょう。水や火や風や、そういう自然の人間の助かるところのものを、ありがとうございますというて、祭ったのが、三宝荒神さんです。ところが理屈からいきますと、「水やなんじゃ。出過ぎたら困るし、水の為めに、困らされることが多くある。台風だってこまる。」こういうふうに、いうていきますと、理屈でございます。台風から害を受ける事は、年に一度でございますけれども、その水というものがなく、風というものがなかったならば、どうするのでございますか。ほんとに人間は少しの間も、水とはなれて暮らすことは出きんのでございましょう。まことに、ありがたいのは水だ。ああ火、ありがたい。風もありがたい。こういうて、何事でもありがたいことばかり考えておりますのが、信心なのです。
理屈からいいましたら「火やかい拝んで何すりゃ。火事になったら、なんじゃあとへ残れへんでないか。」こんなこというのは理屈でございます。水にしても、火にしても、なかったら大変でございます。今日あなた方に火がなかったら、どうですか。夜は真っ暗、又ご飯もたけません。おかずもたけん。冬がきても、コタツもあたれません。
こういうふうに、火というものがなかったならば、どれくらい不自由か。こまってしまうでしょう。又、水もその通り。多過ぎたら大変でございますけれども、これはかきしたらとまります。水というものが、なかったならば、人間は非常に困るのです。こういうふうに、自然のものそのものを、有りがたい、有りがたい、人間の一生にどれくらいありがたいか、わけがわからんというふうに、ありがたい方面のみに、お礼を言うていくのが、これが信心でございます。理屈いうのは一生がい損でございます。ふつうの人は、損しているのを知らんのです。
泉先生は、始終何事をおっしゃっても、正直招来とおっしゃったのです。正直に必ずええものがついてくる。それを招きよせる正直招来。いつも、泉先生はにこにこなしとります。「笑う門には福来たる。」と昔からいいます。顔しかめて、日に日に怒ることばかりしとってごらんなさい。その人は、きらわれて相手がないようになります。どうぞ泉先生のみ教は、ここに書いてあります通り、神信心するものは「理屈をいうな」ということになっとるのです。
理屈をいうて、その理屈にあわなんだら、得心が出来んというような人は、きちょうめんなのかしりませんが、そうすると、お陰というものが無いようになってきます。親がありがたくないようになります。こういうふうになりましたら、人生まことに冷たい。食うて、生きて、死ぬとだけのことになってしまいます。そういうあわれなことをするなと、泉先生は教えてくれたのでございます。
この三三〇条「理屈を抜きにして暮らせ。」というのです。「喜んで暮らせ。」「お礼いうて暮らせ。」こういうことなのです。先生は、いつもこういうことをおっしゃっていました。神様や仏様と人間は、日に日に取引しよるようなもんじゃ。お陰がなくともありがたい、ありがたいというたら、神様が借ったようなことになる。ところが、その反対に神様にこんかぎりおたのみして、助かったら知らん顔しているのは、これは神様に借ったのでございます。
金を沢山借って払わなんだら、差し押さえをくうて、えらい目に合いますが、仏様に借ったのは、ほおっておいても、取りにもこにゃ、さし押さえにもきませんけれども、ちょうど差し押えせられて、運を取られるのと同じになります。見てごらんなさい。日に日に喜んで、お陰じゃ、お陰じゃというたら、神様が気の毒がって、あんなにたよるのに、そのままにしておけないということになるらしゅうございます。泉さんは、正直招来と常におっしゃったのは、これなんです。まあ、あんた方がそんなことあるかいなあと思うのであれば、だまされたと思って何でも喜んでごらんなさい。ほんとに、日に日にありがたい、おもしろい暮らしができるんでございます。運のよい暮らしができます。
それを理屈をいうていてごらんなさい。もう相手がないようになりますから。これは論より証拠でございます。どうぞ、そういうふうに進んでいただきたいものでございます。
(昭和三十七年九月十五日講話)
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