TOP
第二五二条へ 第二五三条へ 第二五四条へ 第二五五条へ 第二五六条へ 第二五七条へ 第二五八条へ 第二五九条へ 第二六〇条へ第二五一条 「人はたいてい自分のことよりも、人の事をよく調べるが、そろばんとなると、人の事よりも自分の事をよくはかる。これを反対に用いたら神の道にかなう。」
大抵世の中の人のお話を聞いておりますと、人の方へ向けては批評する心でおる。あの人はこういう事をする、ああいう事をする。人を批評する様な態度、人の事をよく知っとるのです。それにかかわらず、自分の事はあまり知らないのです。これを昔から、たとえ事で、一寸きたない言葉ですが、たとえ事に言っているでしょう。「わが糞はわからん」て、そういう言葉が昔から残っていますが、わがの欠点はあまり知らない。人の事はよく言うのです。これは泉先生がきろうたのでございます。ところが、そろばんになると、損得のそろばんになるというと、自分の方の損得の事になると一生懸命によく知っとるのです。人の事は無頓着でおるのです。まるっきり反対でございましょう。
何でもないおつきあいの上では、わが事は知らんと、人の事ばかり言う。それにそろばん関係の事になって来ると、わが事はよう知っていて、人の事は無頓着でおる。正反対になっとりやしませんか。泉先生は、こういうところに目をおつけになるのです。これはあなた方が日常生活でよくご覧になっとるところなんです。
それはおかしいもので、自分という者はもう癖になっておりますから、生まれて癖になっておりますから、自分の事はなかなかわからんのです。人の事はすぐに、あの人はあんな精神をもっとる。こういう事をする。どういう風にしたら自分の事がわかるかというと、ここが大事なところです。わが事わからんのが人の癖でございますけれども、それならどんなに考えていたら、わが事がわかる様になるか、ここです。泉先生、そういうところへ力をおいれになった。それは、何でもない。自分に人がどうふるまいをするかという事を見るのです。人から自分にしてくる事が喜べるか、気にいらんかというのでわかる。人から気にいらん事をしてくる時分には、自分の方に悪い事があるんじゃないかという事を知れというのです。
神様の前に、こちらの氏神様には置いてありませんが、四軒家のお蛭子さんのお堂の中に、大きな鏡を真正面に置いてあります。それ何かといいますと、お前の姿写してみいというのです。いいかえると、鏡というのは向こうの事を写しとるでしょう。自分が写っているのではない。鏡が向こう向いたら、向こうの人が写るでしょう。その様に自分に人から、どないしてくれよるか、人からきらわれるか、きらわれたら、あの人、人にいやな事をするとこういうじゃないのです。私にいやな事をする、こっちにいやな事があるんじゃ、向こうの人から見たら私がいやなんだ。こりや考えないかん。こういう風にせんと直らんぞ、と先生がおっしゃったのです。こりゃ大事な事です。人に、こちらの気持のええ事してくれた時分に、有り難うとお礼いうとったらええんじゃ、気にいらん事があったら、こら直さなんだらいかん。こういう風に考えていけと、泉先生がおっしゃいました。
ところが、まあこれは日頃つきあいの上で申すことでありまして、こんどはそろばんですね。損得のそろばんになると、こっちの方の損得ばかり考えるのです。取引に相手の方が損しようが、得しようが、そんなのかまいません。自分さえ損しなかったらええという、我がの方ばかり守っていくところの癖があるのです。人間はそうでしょう、あんた方よくご存じだろうと思います。泉先生がおっしゃるのは、損得の時には、いつもこっちが損してもかまわん。 人に損かけんように、心がけよというのです。反対でしょう。普通世の中の一般のしきたりからいいますと、まあわが損せんように先に考えて、自分が損せんのには、人どうなってもかんまん、自分が損せんということは人があまり得する方でありません、どっちぞが損するんですから、こっちは損してもかまわん、人を困らせない様にというのが、先生のお教え振りなんです。大分違うとりましょう。この二百五十一条は、二つの見方がありまして、常々のおつきあいには、自分という者をよく考えて、人をさからわん様にせよと、人のしよる事を見て批評するなということなんです。
お大師様もそうおっしゃっています。人の欠点を言うな、わがの自慢はするな、そう教えています。それと似とるのです。常々のおつきあいには、自分が人にどう映っとるか、自分のことをよく考えて、おつきあいせい、人にいやな事みせんようにおつきあいしていけ、こんどは取引という事になって来たら、自分が損せんようにと一番先に考えたらいかん。向こうに損かけん様に、相手方にそんかけん様に、その事を第一におけと、もし自分に損がいく様であったとて仕方がない。人に損かけない様に考えて行くのが、ほんとうの人間の世渡りぞと、そういう事を先生が教えたのを私が書いたのでございます。ちょうど世の中でしている事が反対の様に見えます。
しかしこの反対の様に見える事が、これがほんとうに運のええ生き方というのです。世の中を見てご覧なさい。
あそこは、世の人々に思われて、そして家は隆盛な、家の勢が強いな、そういう家のなさり方を横からジィッと見てご覧なさい。第三者になって、関係なく、よそから、じいっと見てご覧なさい。大抵そういうお内に限り、この二百五十一条に書いてあるように自分の悪い事は先にこっちが悪いのでないのかな、あんなにするのは、わが事先に考えておいでる。損得の問題になったら、人に損かけん様に先に考えとる。そうでしょう。それだから、その家の運はええ、こうなっているのです。見てご覧なさい。これは 泉先生の教えの中では、泉先生が力を入れた 大事なことでございます。だれしも、この世の中で運よく家の勢強く、生きたくない人は一人もありません。子や孫に至るまでも、家は運強くいきたいと思うておるにかかわらず、する事がこの二百五十一条に反対している様ではいける訳がないのです。 二百五十一条は大事なことですから、どうぞ、そういう意味でご覧を願いたいのです。
(昭和三十六年九月三十日講話)
TOPへ
第二五二条 「人の生きるには心によって肉を働かせておる。それであるから心が天地に通うておらぬと、肉は変則に働きだす。これを病という。心を正して肉を守る。これを真の生きる道という。」
これは、どういうのかといいますと、自分の心の使い方と体との関係を書いているのでございます。人は生きて行くのに先ず考えるという事です。日に日にの仕事は、心の中で考えてしております。そうして考えがつくと、こんどぶり体を考えの通りに動かしていきます。もしその時分に、心が天地に通っておらんというと、肉がでたらめに動き出す。もうひとつ言い換えてみますと、神さんのすかん事をしたならば、体が妙になって来ると言うことです。それを病気という。心を正しくして、教えの道の通りにして、自分の体を使うて行く。これが本当の生きる道で、運よく生きられる。こういう事です。
ここでひとつ私は、話を転じてお話ししてみたいというのは、これはだんだん世の中にあることでございますが、ある人が私ところへお出でになりまして、「私どうも頭が悪うて、そうして気がイライラして、お医者にみてもらうと、『これは体の病気でない、それをあんたは、体の病気と思い、体が悪いと思い込んでいる』と言うのです。」まあ お医者さんは、ノイローゼと言うてみたり、あるいはバセドーと言ってみたり、色々に名はつけるが、「おまえさんひと所でない。どこでも悪いんでないんで」「ええ、私はどこが悪うなって行くかわからん。」というお方が、ありましたのでございますが、私は医者でありませんので、何々という病気の名は知りませんが、そういう病気を起こした原因はわかっています。「おまえさん、どうしても怒らなおれんのかい。」「ええ、私は一寸したことでも、ほんまにこう、頭にのぼしてくる位、腹が立つのです。」「ああそうだろうな。お気の毒じゃ、あんた、わがでにわかりますか。」「わかっています。そして苦しくなる。私、どうして、こんなに私のとこへ、腹の立つような事を人がしてくるんかいな、と思います。」さあそこです。私言うたんです。「あんたの言うのは無理ない。あんたから考えたら、ちょうど人が、あんたを怒らしているように見える。それであんた怒る。あんたが怒るのは無理もない。人が悪い事せんのにあんた怒る訳がない。そこをよく考えてご覧なさいよ。人間ですから、ことごとく、あんたの気にいるような事はようしやせん。言葉使いでも、行動でも、あんた、それを調べ抜いて、気に入らなんだら、パリパリと怒るのに違いない。」「先生そうでございます。腹が立っておれんのじゃ」「あんた、お医者が見たら『病気でない』と言うてみたり、『この病気は薬の盛りようがない』と言われるらしいが、あんたなおりたいだろう。」「もう治りとうて治りとうて、願っておるが、治りません。」「私しゃ、治ると思う。」「治りますか。」「ええ、治る、治る様に思う。治すにはなかなか骨が折れるぜ。病気の中で、すぐになおり易い病気と、なかなか治りにくい病気があるんじゃが、あんたのは、治りにくい方じゃ、しかし、あんたがいよいよ生きたいのであったら、楽に生きたい。体が楽に、苦しさがない様になりたいと思うのであったら、すぐに出来るんじゃ。」「あら、ほない、すぐに、出来るのですか。」「すぐ出来るけれども、これくらい、むつかしいのないんじゃ、あんたが怒りとうておれんのを、それを怒らん様にするのじゃから、怒らん様にするちゅうのは、あんたの心、怒りたいのもあんたの心、あんたの心の中に怒りたい。止める。両方ある。そしてこれ、どないもしようがない事になる。あんたがな。舟に乗ってな。これは例話ぜ、あんたが舟に乗ってな、あの舟の中に舟張というのがあって真ん中に、仕切してある、どの舟でも胴の所に横に木を入れてある、あれをガイニガイニに押して見なはれ、一生懸命、舟張りが、パリパリいう位押してみなはれ、力があるんなら、その舟押したら動くだろうか」「そら動かん」「どうしてな、押しとるのにどうしてうごかんで」「舟の中におるのじゃけん、うごきまへんわ」舟の中におるけん、うごきまへんわと、こういうその説明は明りょうでないのであって、「もう一つ明りょうにいうならば、手で前へ押すだけ、足で後へ踏ん張っとりゃしませんか。」と私が言った。「ほんまに、その通りじゃ、舟の中でガィに力をいれて前へ押すだけ、足で後へ踏ん張っとる」前へ三十キロの力で押すと、後へ三十キロの力で踏ん張っとる。それだから舟はひとつも動かんのじゃ、ということが、その人にわかったのです。「なるほどなあ、舟の中で突っぱると、こたえんものじゃということがわかりました。」「ところがあんた方、そんな事していませんか。」「どうしてない。」と私に言うから「そんならな、あんたが腹が立ったら、苦しゅうておれん様になる病気じゃのに、それやめんならんというのがわが心、怒りたいのもあんたの心、やめたいのもあんたの心、やめたいというので前へ張っとばりしとるんが、怒りたいという心で後に同じ力で引っ張っとるけん、どないならん。」「わかりました、なるほどなあ。私がなおらんとようわかりました。」「ほんならな、その時に細い竹でも持っとって、舟の外の水の中へさしてツーと突いたらどうなる。」「ほら舟は動く。」「ああそこじゃ、あんたは外のこと見よらんね」 「ほれ、先生、どないしたらええ。」「そこなんです、考えてみなはれよ、あんた、ひとつも外の事考えとらん、その時分に、ああ神さん、私は、どうも生れつきが腹が立つ生まれつきなんで、とうとう、心の動き方がごじゃ、しよる為に体が、わずらい込んでしまいました。どないぞこの怒らん工夫をひとつ守ってくださいませ。私も、もう考えて行きますから、私はこれからご真言繰ります。腹が立ってきたらご真言繰りますけん、どうぞひとつ助けておやりなして。
それ、これが舟の外を押すかいになる。太いかいで押すと、ガイに動くが、まあ始めはとてもそんな太いかいはよう使わん、細い葦みた様なんで突っ張るのがよろしい。まあやってみなはれ。」ところがその人、私の話がわかったんです。
「ようわかりました。」というて、喜んで帰って行きました。
それから一月ほどたって、「なおりました」というて、大へん元気になっておりました。「おまはん、この前来た時、 目が赤かったのに、目が白うなってきたな。」「ええ、それからのぼしてから、足が冷えよったのが、便がつまりよったのが、この頃楽に便通がありまして、足でも、すそがぬくもる様になりました。」「ほうで、結構じゃな。」というた事がございました。
これは怒らん工夫したのですね。怒ると、私の病気は起こりこんでしまう。悪い病気じゃから怒らん工夫をせなならんと、思うておったけれども、頼む事ひとつもせなんだ。舟の中で突っ張りよったから、足が又後へ突っ張るから、ひとつも動かん。その例がわかりまして、なおった方がございます。 これは真の信仰というものは、そういう風でございます。泉先生はそのことを二百五十二条に教えてあるのです。
心というものの使い方によると、それが天地の教えに反対する。すなわち怒るとか、ふくれるとかいう様なことは、天地に反対しておる事です。教えに反対しとる、すると肉がわずらうぞと、こういう先生はお教えをしとるのです。
全く違いありません。まあ論より証拠、あんたが、そんな悪いことなさるはずはないけれども、喜ばんと、朝から晩まで怒っとってご覧なさい。ご飯がおいしいか、おいしくないか、すぐ病気になる、そんなかっこうになってきます。それをくり返していると、ほんとの病気になってしまう。
どうぞ、二百五十二条に先生が教えてある事は、心の通りに体がついて行くんだから、あほういきにでも、日に日に喜んで、今日も無事にいけたと喜んで、日に日にを過して行くならば、健康な、心も体も強い一生が終えられるという教えをしてあるのですから、これはなかなか面白い事です。
(昭和三十六年九月三十日講話)
TOPへ
第二五三条 「運が開けてきたら不運な人を助けて通れ。この用をさせるために、天が運を、かしたと思え。」
こういうことを書いてありますが、今この二五二条にお話しした人が、「うち助かったんでよ、ほんまに怒る癖やめたところが、むつかしい、お医者がバセドーやの何じゃかんじゃと、おかしげな、訳のわからん名をつけたが、どうしたってなおらんのが、いっぺんぎりでなおったんでよ。ほんまに運がよかった。」という。運が向いて来たら、その様なことを不運な人に聞かせてあげて、その人も又喜ばしてあげなさいという。これが天道はんに恩返しする道じゃと先生が教えた。自分だけが喜ばんと、それだけ感心したのであったら、困っとる人たくさんいるのだから、困っとる人にも話しをして、その人を喜びの道へ導いてあげなさい。これが運をかしてあげた神様へ、かしてくれたんの、ご恩返しぞ、というてあるのです。
(昭和三十六年九月三十日講話)
TOPへ
第二五四条 「自分が知っている事でも、つつしんで聞き得る人となれ。」
こういう事ですが、まことに簡単な事でございますけれども、これは日頃、あなた方が、おつきあいの上で、お考えになったらよくわかります。向こうさんが知っとる事をいうと、ああ、それ知っとる、知っとる、と言葉出す人もあるし、言葉には出さないでも態度が、もうそんなの聞きたくないという顔しとる。これは泉先生のおっしゃるのには、それはいかん。たとえ自分の知っている事でも、人は、いろいろに解釈の仕様があるんじゃから、話す人がどういう風に話すかなというところを、自分の修養のために聞くのがよいと、先生はおっしゃりました。
泉先生は、まことに子供のような性格をもっておいでるお方でした。たとえてみますと、泉先生の前で、先生、ひとつ話聞いてくださいと言うて「昔、昔、大昔に、じいさんとばあさんとが暮しとって.....」というと、先生ニコニコ笑いまして、それを聞くのです。いかにも面白うそうなお顔をして、子供の話でも聞くのです。大体がえらい人は、訳のわからんおじいさんおばあさんの話でも、小さい子供の話でも、それをじっとにこやかに聞いておる癖があります。
これはどういう事かと言いますと、自分を高くおいていないという事なのです。子供のところへ行くと、子供になるのです。又偉い人のところへ行けば、えらい人と調子の合わせる人、言い換えると、どういうところへ持っていっても、うまの合わせる人、これは、よほど人間の幅が広いのでございます。
これは、今日の外交状態をみてごらんなさい。まことにアメリカとソビエトは仲が悪い。もうあの原子爆弾もうやめんかというと、やめんかといっても、内の近くにあんなけんか腰の人がおるので、こいつけいこしとらんと、いつ使わんならんかわからん。ことごとくが事情きかないで、そうして、ほんとうを言うならば、自分のうちでそういう毒ガスを扱いますと、今日世界中で毒の灰が降っとるんでありませんか。地球上、ことごとくの上からソビエトは悪口をいわれています。 こういう風に人の事を一切聞かないという事が、あしこの癖になっとりますので、まことに泉先生のおっしゃる通り、知っとる事でも慎んで聞ける人間になれというのはここの事です。これは日頃あなた方がおつきあいの上でも、ようわかります。
(昭和三十六年十一月十六日講話)
TOPへ
第二五五条 「子供が背中をかいてくれという。親はそれをかいてやる。子供は親の手が届かぬので、そこでないと無理をいう。親は笑いながら、あちこちとかいてやる。子供は満足する。人がもしこのような無理をいうたら、どこまでついて行けるか、これで自分の心の狭い事を知れ。」
こういう事を泉先生がおっしゃったのですが、あなた方はこういう事は経験なさっとる事と思います。子供が「かあちゃん、背中かいて」というて背中を向けて、首を前へうつむけている。その首の間から、おかあさんが手を突き込んで、「どこったって判りませんな。どこぞい」「違う、違う、そこでない、あっちじゃ、こっちじゃ」子供は、こっちゃ、あっちじゃというとる。ところが、おかあさんの方から言いますと、背中のどっちやら、こっちやらわからんのをあっちかき、こっちかきして、ニコニコ笑いながら、あっちかき、こっちかきしているうちに子供のかゆい所へ手が届いて、「よっしゃ、そこじゃ」といって子供が満足する事をよくご覧になるでしょう。
あれはどうですか、二五四条にお話したように、人の知っとる事でも、つつしんで聞くという気の広い人でないと出来ないように、これも又、気の広い人でないと出来ますまい。自分のかわいい子であるから、おかあさんが背中をかいてやれるんじゃが、背中かくんじゃなくして、人から何か無理な事頼んでこられて、こちらにわからんのに、やかましい、いう場合であったらどうですか、これが笑いもって、そうしてあっちこっちわからんなりに、向こうの気のいるまであっちこっちと迷うて、そうして満足さしてあげる。こういう気の広い事出来ますか。
泉先生は、子供の背中をおかあさんがかきよるのを見ても、これは世の中の手本になるというので、こういうお話をなさるんでございますが、こういう事は大変簡単な様でございますけれども、むつかしい事でございまして、殊に泉先生の人助けというものは、先生ひとつお頼みいたします。お頼みいたしますというて、ただそれだけおっしゃっとるのに、先生はそれを拝んで、それを満足さす事をなさっていたのでしょう。最もこれは神様の取り次ぎをしておるお方ですから、それであたりまえの様にお考えになっていますけれども、そうじゃないのでありまして、あともかたもわからない、どんな事かひとつもわからん人の前へ立って、これはああだこうだと説明を先生がなさるのですから、わかりきっとる事でも人にきく、慎んで聞くとか、あるいはわからん事言われた時分でも、面倒がらずして、向うの得心が行くまで、あっちこっち子供の背中をかきよるような調子できくというような気の広い人でなくては、ああいう力はもらえんのです。泉先生は、どんなむつかしい問題を持って来ても、神様にすがっておいでるからして、人の心はお使いにならんのです。
これは神様のおさしずを受ける時分のお話ですけれども、先生そのもの、人間先生におつきあいするとわかるのですが、人間的の先生、すなわち泉先生というお方は、神様拝まないでもそういうお方なんです。ちょうどお母さんが、子供の背中をかくような調子で、かゆいところに手の届くまで辛棒して、向こうを得心さしてあげる。そういう先生の性格ですから、お陰を受けた時分にはああいう風に神様の働きが出来るのです。この泉先生が、そういう事をここへ使うておいでますから、そこを間違いのない様にしてもらいたい。
簡単に子供の背中を親がかいておると、その子供がかわいい。大体慈悲心が表われるとこうなるのですから、いつも二五五条に書いてある事は、慈悲心をもって向こうたら、いかなる人でお得心がさせられるという事につづまる訳なんです。それを人はどうでもよい。わしがよかったらええという事では、とうてい世の中は治まらないのです。
もし、おかあさん、背中かいてと子供が言います。おまはんの背中、どこかいてよいかわからん、知るかいな、ともし言うたならば、子供は、それで育つでしょうか。それに子供は無理をいう、あるいはお母さんの言う事を聞かないという子供になってしまうと思うんです。私は、これはお母さんが親切にするのでなくして、子供がかわいい、子供に向いて慈悲心をもっておるから、子供が立派に育つんじゃと私は思います。又、訳のわからん、どこかいてよいかわからんところを気長くかく、そういう事で立派に子供が育っていくのだと思います。 ですから、ここは誠に応用の広いところでございまして、子供しを育てる上にでも、あるいは人とのおつきあいの上にでも、どちらへ向けるのでも、この二五五条の心を持てば、人間は大丈夫に喜んで一生をおえる事が出来るのだと思います。こういう風に泉先生は、ただ子供の背中をかいておる親の心を見ても、これは立派な人間の教えになるとこういう風におっしゃったのでございます。
(昭和三十六年十一月十六日講話)
TOPへ
第二五六条 「念 々 不離 心」
これはお経の文句です。「念念不離心」と書いてあります。これはどういう事かと言いますと、判り易く言いますと何事を思うのでも、考えるのでも、信仰という事を離さずして、信仰に連絡のある思い方をするという事です。
泉先生はこういう事をなさるのです。例えば手洗鉢に杓をつけてある。そのお手洗鉢の杓で水を汲んで、ご自分の手にかける、お手を洗うと其の杓を手先鉢に戻すんです。その杓がくるっと返りまして、尻が上へ向いたとします。泉先生は必ず直します。これはどういう意味かといいますと、いつも神様にお願いしている事が、裏に返らんようにという先生のお考えらしいのです。又、座敷へ先生がおあがりになる時分に、ひょっとその指の先に下駄が引っかかって下駄が裏返る事があります。あなた方でもそういう事ありましょう。泉先生は決してほうっときません。必ず下駄を起して満足に上へ向けてでないと、上へおあがりになりません。これは一寸考えますと、まあ、かっこうもよし、礼儀上ええ事に違いありませんが、先生のお心のうちは、どんなんかといいますと神様には、げたのきたない裏なんか向けるものでない。こういうお考え持っておいでる。
ですからご自分の内で下駄がかやっとん直すばかりでありません。お参りの道中でも、ぞうりの破れが落ちとる、あるいはわらじの脱ぎすてがあるという場合でも、裏が上へ向いとるのを見ますと、必ず先生それを見つけて起こします。そしてそれを道端へよせて、人の踏まん所へ寄せてお通りになるのです。このお心はどういうのかと言いますと、お日様には年中有難いお世話になっておるんだから、そちらへ向けては草履や下駄の裏は見せない。汚い物は見せない。そういう事がはいっとります。又こんどは、ぞうりや、わらじや、下たなどをお世話なったご恩があると思っておいでるのです。はくというのは、足の裏が痛いからはくのです。よごれない様にはくんだと、お世話になったのを古びてきて破れたら脱ぎ捨てて、どこへでも、ほうるという事は、恩を忘れとるという事になるんです。それで、一礼してお世話になりましたと、先生が、もし、ぞうりをお脱ぎになるのでしたら、心の内でお世話になりましたという風におっしゃっているのに違いないのです。
こういう風に、たとえ草履を脱ぐのでも、あるいは道に、ぞうりが落ちとるのでも、こういう所でも、信心離しておいでんのです。こういう事を「念念不離心」というのです。ありましょうな、あんた方でもこういうことはたくさんあると思います。これは、あんた方が耕作をなさっとる時分にです。仮に稲の穂が、何かの都合で、道端へ倒れかかっとると、そうすると、それを歩行者が引っ掛けたら穂が千切れます。籾が落ちる。泉先生がもしお通りになるのであったら、その穂を田地の方へ向けてねじかえして通る。人の足にもつれん様になさるんです。これも何かと申しますと、どこの田圃か知らんけれども、それを道へ蒔き散らしたら、それだけお米が粗末になります。もったいないと言う事もはいっとりましょう。又、せっかく作っておいでるのに、これこんなにしたら措しいものじゃ。気の毒じゃという、人に対する情もこもっとるでしょう。こういう風に稲の穂一つ踏みつけても、これはいけないというので、引っぱって田んぼの方へ向けてあげる。こういう風に、ただひとつの事にでも、稲の穂ちょっといらうのでも信心がこもっとるのです。こういう事を「念念不離心」といいます。 これは、私ある所へ参りましたが、玄関の上に念念不離心と書いてあるおうちがありました。いかにもこれはよい事だと感じました。たとえ一寸のはしの事にでも信心に連絡をとっておいでると、私感心した事であります。これも額にする位に始終心がけておりましたならば、知らず知らずのうちに神さんや仏さんに心が通うんです。
これはお経文の文句でございますが、そういう風にどうぞ皆さんも、たとえ簡単な一つの事でもそういう風にして 生活なさる事が神へ届くと私は思うのです。ただ神さん、神さんお参りする事も結構でございますが、参らん時間が多いのでございますから、参っとる時間は短いのでございます。その長い時間を念念不離心であったならば、まことに結構じゃと私は思います。
これから寒うなります。小さい子がカタカタと走ると、こごえてよく倒れるのです。子供がころぶというのは、足が上へ向く程こけるものです。そうして、わあんーと泣いているのを、おりおり見かける事がよくありますが、その時分に「わがでに、起きるわ」というような風をして、知らん顔をしておる様な方もある様でございますが、もし、それなら、自分の内の子供であったらどうかと言いますと、飛んで行って、かかえ起こして、すっとれへんか、けがしとれへんかと言うて、さすりまわるでしょう。ここです。どうぞ、わがうちの子供も、よその子も、親の目から見たらかわいいんじゃから、子がころんでいれば、その子の親の気になって、自分が起こしてあげるという事が「念念不離心」なのです。自分と人と区別しないんです。 これをもうひとつおし広げていきますと、どういう事になりますか。牛や馬や犬、猫その他すべての生物にも思いやるんです。家族のように思いやる。そして、あまり残酷な事はしないという事が「念念不離心」になるのです。
私こういう事がありましたのです。ある所に猫を無惨に殺した人があるのです。ところが、猫がその人にさわりまして、そこの人が、まるで間違うた事をしたり、言うたり、猫みたようなまねをしたりするようなことがありまして、拝んでもらいよるのです。そうすると猫がとりついとる様な形で、猫がもの言うのです。その拝みよる人に向かって(行者に向いて)「 わしゃもう聞いてやって、こらえてやろうと思うけれども、おまはんのようにいやらしい言うたら、腹が立って、いのうと思ってもいねんわ。あのわし等、道ばたで死んでから川へ浮いたりしている事があっても、村木さんは、ご真言くれるぞ。」と言うたそうです。それでそこの拝んでもらいよる人が私とこへ来まして、その話をするのです。「村木さん、あんた猫や犬やが川へ浮いとったら、ご真言繰ったるんですか。」「ええ、そりゃ私、かわいそうなと思って、それでご真言を三遍繰ったげる事にしておるんです。どうしたんで。」「猫がそう言うんですわ。取りついとる猫が村木さんの様にしてくれたら、こっちや、言う事聞かな仕様がない。いねと言うたら、いなな仕様がない。おまはんみた様にしたら、腹が立っていねんわ。」と言ったそうで、そんな事があるんです。ほら妙じゃなと言うて大笑いした事がありますが、そういう風に猫でも犬でもです。やはり生物でございますから世話のしやいという風にするのが私はええと思います。こらまあ、とりつくとか、さわるとかいう事は、そういう事はないに致しましても、生物同志でございますから、心は通うのに違いないのです。お世話なったとか、いやらしいとか、心は通うのでございますから、私はそういう事をした方がええと思います。 私もいっぺん子供の時に、かえるをむごくたたき殺した事もあります。犬をたたいた事もあります。まあ猫に悪い事した事もありますが、泉先生に会いまして以来、生物というものは、人間同志ばかりでない。生物同志の間にも、心が通うもんじゃと言う事がはっきりわかりましたので、私も非常に恥ずかしく思って、つまらん考えを持っとったと思うて、猫でも犬にでもご真言あげよったんです。向こうがそういいましたそうです。ですからどうぞ、この念念不離心という事は、何事にでも信仰を引っつけて考えるのが一番楽なんです。そしたら長い間、神さん仏さんのおつきあいをしよるのと同じことになりますから、まあ先生がそういうお話がありましたからお伝えしときます。
(昭和三十六年十一月十六日講話)
TOPへ
第二五七条 「昔から「あほう息災」というが、あほうは 心が空なからである。心は空にするには難儀はない。仕事に精を入れたらよいではないか。運は足元にある。」
運は近いところにあるもんじゃと、こういうことを泉先生がお話しなさいましたが、昔からよく言う「阿呆息災」と言う事は、阿呆じゃから息災というのでありまして、物事をあまり苦労に考えない、苦痛に考えないということを述べた言葉でございまして、物事をあれこれ考えなければ、心やからだを労せんから達者になれるんだと、泉先生はそうおっしゃいました。どうぞ、何事も考え込まんようにせよ。なるほど考えてみますと、心配性の人ほど、からだが弱いんです。心配というのは、息災な人でもあまり心配すると、ご飯の味にかかるという位のもので、それが年中続くんですから体が弱くなる。これは阿呆息災というて、物事をくよくよ考えん様にするのはしよいわと先生がおっしゃったんです。私これなかなか物事を苦に考えん様にせなならんという事は、むつかしいと思ったのです。
泉先生のおっしゃるのは、しよいと言うんです。それで私は聞いてみました。「先生何じゃ考えんと心をからにするのは、私なかなかでけん、むつかしい様に思いますが、先生これどんなにしたらよろしいんでしょうか。」と聞いた所が、先生こうおっしゃるのです。「物事に精入れたら物考へんわ。」それだけおっしゃって、ニコニコ笑っておいでる。私わかり兼ねたんです。けれども、その後でよく考えてみますと、将棋に熱中している人を横から見ておりますと、一生懸命になってどこへ打ってやろうかと力を入れて考えこんでいるのです。蚊が止まっているの知りません。額へ蚊が止まって、ぐみ見た様に血を吸うているのに追いもせず一生懸命考えとる。これは将棋に力を入れているから蚊がかんでいるのを知らんのです。なるほどな、泉先生のおっしゃることは違いない。物事に精を入れんから考えまわるんじゃと、こうおっしゃったのです。
先生はそういう風に、実際に物が成立する様にお考えになっとるのです。仕事にでも精入れますと言うと「精進波羅密」といいまして、行しているのと同じなんです。一生懸命に仕事に精入れますと余地がないのです。それ又、神さん仏さんにお参りして、神さん仏さんの有り難いことを思うとると、人間の愚痴が出ません。仕事に精を入れたらよい。人じゃから、しよいじゃないか。先生こうおっしゃったんです。
それともう一つ、二五六条に書いてある通りに「念々不離心」仕事中、その仕事に精を入れて根限り、こうしてこれできれいな米が取れると、又お接待もせんならんと、こういう事考えていると悪い事考える余地がないのです。泉先生は別にお師匠があって勉強したのでもなければ、ご自分でに念々不離心であれだけの立派なご人格を仕上げたのでございますから、先生のおっしゃる事は、ご自分の事を人におっしゃっているのであって、出来やすいわ、とおっしゃるのは、こんなんでございます。
どうぞ皆さんも、あほう息災というのをお覚えになって、あほうになりなさいと言うのではありません。物事考ん様にするのは、仕事なら仕事にちゅうになっていると、あほうと一緒になれるんじゃと、こういう風に皆さんが、どうぞお心を痛めて、弱い体になるよりも、あほうと言われても達者な方がよろしい。どうぞ泉先生の教えは、ここにあるのでございますから、どうぞそのようにして、ご健康なからだで、ご運のよいおうちをこしらえて、皆さんが共に拝み合いの生活をする。そうして極楽世界を、この世にこしらえるという事をお勧めいたします。
(昭和三十六年十一月十六日講話)
TOPへ
第二五八条 「神信心してお陰が見えぬように思うのは、お陰がないのではない。今まで積んで来た汚れが洗えているからである。洗えてしまえば驚くほど目に見える」
これは皆さんご経験のあることと思いますが、神参りをする。あちらへもお参りする。こちらへもお参りする。人さんとおつきあいの上で、信仰で聞いたことを実行しても、一向に目に見えない。これ早、もう一年もまだにもなるが、別に目に見えんと、こういう事を時によると、お聞きするのでございますが、泉先生はそれをお聞きになって、私に話があったのでございます。今ここに書いてある通りのお話しがあったのです。
目に見えるという事を考えているお方の考え方をこちらが見てみると、すぐに人の事がわかるとか、神さんが身の前に出て来てお話しを聞かして下さるとか、こういう突飛な事が無い為に、お陰がないように思うんだと、こういう様な事に帰着するんでございまして、泉先生は、それを皆さんがこれだけ信心しているのに、お陰がないと力を落しとるのを間違えておるから、喜べる様に泉先生がお話したのが二五八条です。
これを私がお話してみますと、泉先生のおっしゃるのは、こうなんでございます。ここにまず白い糸とか、布とかがあるとしますか、そうするとオギャアと生まれたその時に、白いきれいな着物を着て生まれてきとるとたとえてみますと、あちらへ歩いたり、こっちでご用しよる内に汚れてくるのです。黒う汚れたり、あるいは黄色に汚れたり、赤うに汚れたり、色々な色がついて清浄でなくなるのです。それが長年の間、そうしているうちに、ひょっと神さん仏さんのご縁が出来て、神様の前をゆくと、今まで汚れているのが皆洗える様に思うているのですが、決してそうでないのであって、その汚れが取れてしまわんと、不思議に会わないのですから、泉先生のおっしゃるのは、お参りする度にその汚れているのが、きれいにせんたくが出来る。色揚げが出来る。こう先生はおっしゃったのです。
それであなた方がこういう事ありませんか。あなた方が着ているお召物が、柄が気に入らんようになったら、それを染め直しするという事あるでしょう。その時分に染屋さんはどうするかといいますと、一たんそれを白生地に抜いてしまうんです。色を抜いてしまうんです。そうしてこんど好きな形とか、模様とかをそれに染めつけると立派に仕上がるでしょう。新らしいものと変りのない様に仕上げるのです。
信心も同様に、どうせこの世に人間として生まれてきましたならば、わがを第一と考えております。どんなに考えても自分ほど大事なものはないのです。ここをよくお考え下さるとよくわかります。まあ年寄りが大事じゃ、子供がかわいいと言いましても、「そら、大きな地震や火事じゃ」というた時分に、年寄り負うたりして走りません。まず第一に自分が飛び出るんです。まあ、こういう人が多いのでございます。それは、決して私は悪いと申すのではないのです。人間は生まれながらにして、何が一番大事かというと、自分を大事にする癖がついとる。それがよいとか、 悪いとか考えとる間は、まだ真っ直ぐなんですけれども、自分大事と言う根性が非常に強くなるに従うて、人を見ないようになるのです。人はどうでもよい。自分がよかったらええという風になるのです。
ところが人間には、性根がありますから、そういう自分をかわいがって、人はどうでもよいという風を見せると、きらわれる。笑われるという自分に根性があるが為に、人の前ではき麗におつきあいするのです。そうして人の見よらん所では自分の好きな事をやってのけると、こういう方もあるのでございますが、そういう為にたとえてみますと 着ている着物がよごれたという事になる。心がよごれたという事になる。其のよごれた上へ、きれいな色染めるったって、き麗な色に染められません。これは染色なした経験のあるお方はおわかりになると思います。
たとえてみますと、赤い布です。赤く染めてある布に、青い色をあとから染めて青にしようと思ったら、それは紫になってしまうんです。それから黄色に染めたところの布を、赤うしようと思うて赤色をつけると橙色になるんです。
思った通りの色出ません。というのは、前に染めてある色が混じってきますから、自分の好きな色にならないのです。
ですから、まず自分の好きな色を出す前には、必ず色抜きをせないかん。
そこで信心いたします時には、自分の考え方がええか悪いか、人に好かれるか、きらわれるか、とういう事をせん議する。そうして悪いと思うた事はしない。これを神様、仏様に連絡をとりまして、神様がお好きでない。仏さんがお好きでないという事はせないと、こういう風に色揚げして行くのです。そうすると、きれいな、まことに清浄な気持の心に変ってくる。そこで神様、仏様のお陰が現われて来るのです。色揚げしている間は、わかりません。
それからもうひとつ、こんな事がございます。ただ今、私がお話しいたしましたのは順当に修行する行をした時のお陰の話ですが、これは漸悟といいまして、そろそろとお陰を受ける方でございます。ところがそれと違って頓悟というのがあるのです。それは俄にお陰を受ける。これはどういう時にそういう事が起こるかといいますと、非常に困った。もう生きるにも生きられん。困ってしまったという問題にぶつかった時、たまたま「神様」と手を合わした時に、不思議に、にわかにお陰を受けるのです。そのうちにどうなるかといいますと、神様が見えたりするのです。
神仏が目の前にはっきり見える。そうして色々な事を教えてくれる。「おまえ、ほんな事しよったら大変、先にこうなるぞ、こちらの道行かないかん。」こういうにわかに大きなお陰を受ける方も中にあるのです。ところが、にわかにお陰をうけ、ええだろうといいますけれども、それは悪くありません。結構ですけれども、この訳がらを知らんと先刻お話し申す通り、色抜きして後へ自分の好きな色を染めるという方法でないと、汚れたままにおかげを受けますから、自分のそのよごれた色が出てくるのです。
たとえてみますと、非常に邪推深い人が、にわかにお陰をうけると、なんでもかんでも邪推してかかるのです。あるいは、けんかをしたり、腹の立つ人がお陰をうけますと、何でもかんでも人の悪口言うお陰になるのです。きらわれる事があるのです。それは神様がそんな事教えるのでないのであって、自分の色が混じって出るから、神様のお言葉が、きたなく聞こえるようになるのです。これは、にわかにお陰うけて、頓悟という方になりますと、そういう恐れがある為に、泉先生はどうぞ、心の方を先にせんだくなさい。そうすると、き麗な大きなお陰が受かる。ご自分も、そういう風な心の方でご修行なさって、自然にお師匠さんなしにあれまで、生神、生仏様と言われるまでになった方ですから、皆さんが失敗のない様に、人に笑われん様に、お陰をうけて人に笑われたらつまらん、ほんとうに結構なお陰を受ける様にというお導きを先生がなさった為に、二五八条の様な事おっしゃったのです。
ですから二五八条の事をわかりやすく言いますと、神仏に信心してお陰がないと思うのは、そうでないのであって 自分の汚れが洗えよるという気持で、喜んで、あせらず信仰していると、いつの間にか人から好かれ、人から尊敬せられ、神様からかわいがられ、ついには大きなお陰をうけて、驚くほどの目に見えるところの大きなお陰が受かりますぞと先生がおっしゃったのは、ここにあるのですから、どうぞ皆さんもお陰がないという事をお考にならずに、泉先生の折角こういう教えがあるのでございますから、これはきれいに自分の汚れを洗だくして下さい。今に神様の、有り難い事が映ってくるという事を謹んでなさる方がよいと私は思うのです。
(昭和三十六年十一月三十日講話)
TOPへ
第二五九条 「道は一筋である。この一筋の道がわかれば、誠に有難いお陰である。そのひとすじの道を見つけるまで、辛抱強くさがさねばならぬ。これをみつけるには、神の庭に通う事が大切である。 そうすれば自然にわかってくる。言葉や文字で道はわからぬ。」
こういう事を先生がおっしゃっとるのでございます。この二五九条は、私が書いたのでございますけれども、先生の日頃のお言葉を出したり、行をなさったのを私が横から見て、そうして先生はどういう風な道を歩んでおいでたかという事を書いたものです。道は一筋である。これは一寸分りにくいのですが、これを一寸説明いたしますと、お陰というものは、道は一筋なもんで、分れ道はようけあるもんじゃないのです。こういう事なのです。
これはわかりにくいですが、説明するとこういう事になります。たとえば運の悪い人がお陰をうけて運がよくなる、あるいは、世の中で非常に悪者のように思われとる人が立派な人格者になり、こういうお陰があったといたしましても、この二人の人のお陰は違うのでないのです。みかけたところ、違うたお陰のように見えますが、そうでないのであって、道は一筋のお陰をもろうとるんだ。こういう事なのでございます。弘法大師がおっしゃったお言葉にも、それがあります。お陰というのは種々雑多なお陰があるように見えるが、結局は、ただ一仏乗あるばかりじゃと、こうおっしゃっとるのです。一仏乗。つまり仏様の一筋の道しかないのだと、こう弘法大師もおっしゃっていますが、これは誠に意味深い事であって、わかりにくい言葉でございますから、わかりやすく私がお話し申し上げるとおわかりになると思います。
一口で言いますと、どんな事かといいますと、自分を知るという事です。どうですか、ここに書いてあるのを見ると、一筋の道を見つけるということは非常にむつかしいとこうなります。ところが自分を知るという事が一筋の道じゃとこういう事になるのです。讃岐の長福寺にも書いてありますが、実の如く己の心を知ると、こう漢字で書いてあるのです。如実知自心と書いてあります。これは、私が今申そうとするところのじくでございまして、ほんなら自分を知るということは、どんな事かと言いますと、だれでもご自分の事は知っとるとおっしゃるでしょう。ほんとうの 実際の通りに、実の如く自分を知るという事は、むつかしいんです。
ここは、お話ししてみませんとわかりませんが、だれでも神さんや仏さんと、わしらとは違う。あんな尊い、何でもかんでもよくわかる、自由自在に人助けする人と、何もわからん者とは、生まれが違うんじゃと、こう言う風にいいます。これが間違いなんでありまして、人間は、心は一つでございますけれども、これをよく調べてみますと、日頃自分と考えているところの心、それが人間の心なんです。その外に自分には知らんけれども、仏性という働きがあるのです。心が二つあるように見えるでしょう。その仏性が人間を使いよるのです。ところが、その人間に癖がついとりまして、人間の癖がついとるのを、それを普通の人間の心といっております。
こう申すとわかりにくいんでございますが、もうひとつわかるようにお話しいたしますと、あなた方は、あのセパードという犬があるが、あれはだれかが、はいていた手袋をセパードに、におわして、その手袋をはいていた人を捜してこいと言う事にします。警察犬は、そうすると、もうずーっとそのにおいをつけまわって、しまいにはその手袋をはいていた人を引っ張り出してくるのです。これ位鼻が達者なんです。主人がよそへ行った跡をセパードが追って行くと必ず主人の跡知っとります。こりゃあんた方よくご承知でしょう。セパードは今警察に使うとりますが、盗人などを捜すのに、よくセパードを連れて行く。警察がセパードを連れて行って、その戸切ったりしている所を匂わすんです。そしてその跡をつけさすんですが、隠れとる犯人を引っ張り出して来ます。これ位鼻がにおうんです。ところが、あんた方は「わしゃ、セパードのような鼻持っとらん。わしは、ついお膳の上の物がにおう位であって、隣りに何があってもわからんと思うておるでしょう。それは人間の心です。ところが仏性の働きはどんなものかといいますと、セパードどころでありません。実に驚くほどの力があるのです。その驚くほどの力を何が邪魔しておるかといいますと、人間の心が邪魔になっとるのです。人間根性が邪魔になっておるのです。そこで、その人間根性を除いてしまう方法があります。それは催眠術というものがありまして、人間の心をのけてしまうんです。そうして「今あんたはセパードよりも一つ強いところの鼻の力が出来ております。」その人に暗示を与えるのです。そうして、こんど振り、実験いたします。それには、私やった事あるのですが、何人でもよろしい。仮に十人としますか、その十人の人に、新しい手袋を買ってきて十人の人にはいてもらうのです。そうして十人の一人毎に、一二三四五六七八九十までの番号を打ってもらう。一番の手袋はわしはいとる。二番のは私がはいとった。こういう風に自分の手袋の番号を覚えて おってもらうんです。そうして、その手袋を脱ぎます。脱いで一所へ寄せると二十ございます。二十の手袋をかき混ぜるのです。ごじゃ、ごじゃに。そうしてこんど振り、今お話したところの催眠状態になっとる人の前へ持って行きます。そうして催眠状態になっている人は目をくくっておくのです。目はあいとっても構いませんけれども、その品物に見覚えがあったらいきませんから、目をくくっとくのです。そうしてここに、この二十の手袋があるが、これをにおうて、元はいとった人の元に返して下さいと頼む。その人が、よろしゅうございますというて、一つづつ取って、 におうんですが、そして十人の人の手におって行くんです。これはあんたのじゃ。これはあなたのじゃと、におうて渡し、におうて渡し、ことごとくその手袋を二十人の人におもどしするのです。そうして、そのあとで番号を打って ありますから其の番号調べて見ると、元はいていた人の手袋は、必ずもどっているのです。ひとつも間違いないのです。これは、私が実験した事ですから間違いありません。自分が知っとります。 どうです。「皆さんあんたが番号打ったん返りましたか。」「ええ一つも間違いありません。」これ位驚くべき鼻の力ができたのは、人が変ったのでありません。やはり元の人なんです。その催眠を解いてしまうと、こんどは、ひとつも鼻わかりません。もとの人げんです。どうですか、こらまあ私は鼻の力を言いましたが、眼の力もそうです。
心の力、すべて人間のからだに持って居る力というものは、今のように実に神さん、仏さんの働きをする力を持っている。
これは、何であるかというと人間心を除けて、その奥にある仏性を出て働いてもらったという事に帰するのです。宗教的にいいましたならば、それでこの仏性の働きというものは驚くべき力があるのです。信仰の何を一筋に覚えるかといいますと、ただ今、仏性を出てもらって一筋に働いたらええという事になるのです。言い換えると、人間の性根を除けてしまうて、神仏の性根に帰るという事になるのです。泉先生はこれをおっしゃったのです。先生は、そういうむつかしい事はおっしゃいませんが、道は一筋であると、一筋の道がわかる様になったなれば、お陰が大きいと先生はおっしゃった。一筋の道というのは、ただ今私がお話しする仏性の事なんです。仏性といえばむつかしいから先生そんな事おっしゃいませんが、私が話したらそういう風にするのです。先生の信仰の一筋の道というのは、それを言うのです。
あんた方がお参りなさって、そうしてお堂の前で手を合わせて、祈念なさいますが、神仏は「おう来たか、よう来たな。」そんな事言うてくれません。ただ森閑と静まったお堂の前で、一心に念じておる。こういう事が度重なりますというと、いつの間にかきたない人間性根がのいてしまって、その心の奥にある所の神仏に通うところの心、すなわち仏性が出てくる。この一筋の道に励んだらよいのじゃと先生はつねにおっしゃった。
この一筋の道というのは、誠に有難いお陰であるが、それがわかる様には、なかなかならんというのです。けれども、根よくいけば、ついにはわかってくる。それには、神さまの庭に通うことじゃ。手洗鉢の水を換えるとか、草をぬくとか、お掃除をするとか、神様のお好きな事をお世話申し上げて、交際を神さまと濃うにする事、これが一番よいと、先生がおっしゃったのはここにあるのです。考えたらしよい事です。しよい事であって、むつかしい事です。
(昭和三十六年十一月三十日講話)
TOPへ
第二六〇条 「人の事を、さばかねばならぬ時には、まずわが心に慾と怒りと疑いとがあるか、なきかをよくしらべて見よ。この三毒がなければ、神心でさばけ。天のさばきを見習えよ。」
先生がこうおっしゃった。これは、先生が人助けをなさるようになる前に、これは先生のご信仰中の事をお話いたしますと、津田のあんにゃんと言いまして、津田のあんにゃんと言えば、だれ知らぬものがない位、津田でえらい若者であったのです。けんかが出来ても、何事が出来ても、警察よりも、津田のあんにゃんと言うたら、その事よく通ったのです。警察さえも、津田のあんにゃんがかかっとったら、まあ任しとけという位まで、先生は人に尊敬せられた方なんです。それでけんかがあっても、あるいはもめ事があっても、津田のあんにゃんに頼んで来い、と先生の所へよく頼みにきたものです。そこで先生は、その事をここでおっしゃったんです。それを私が書いたのでありますが、まずそういう人の中へはいって、さばかなならんが、これはまあ気の毒だから、頼まれるとほっとく訳にもいかんと、そういった場合には、まず第一に自分を考えとおっしゃるのです。 先生は、わしは慾に迷うとれへんか、この人、こやって世話していたらどうじゃの、こうじゃの、慾に迷うとれへんか、それから憎み心出来とれへんか、これはけんかした場合でも、どちらが悪い、こちらが悪いか、先生わしの心のうちに憎しみが出来とれへんか、怒る根性はないか、それから、その次にこれはあんなに言うけれども、こちらの方の人がうそ言ってるだろう。何とか疑う根性があるかないか、この三つを先にご自分をせん議するのです。これが、私が申すところの、実の如く我が心を知れということです。それがこれなんです。もし自分が慾にかかっとるとか、怒るとか、あるいは疑うという事があらば、その三つの根性を持っていて、さばいたならば、まちがったさばきをするというのです。先生偉いでしょう。人のさばきする時に、そんな事考える人はごく稀でございます。先生は、そうおっしゃった。わしには、この三つの毒がないかいな。それで、神様をお参りして、この事お話するのに、どうぞこの三つの毒が出ません様に、無事に納まります様にお願いしますと言うといて、氏神様へ頼んでおいて世話にかかったものだそうです。これが普通の人と違いましょう。
実の如く己の心を知ると、実際にわしの心の中に、そんな毒はないかいな、毒がないと言う事がわかった時分に、人の方へ話をしに行くと、先生おっしゃいました。これは二六〇条に、人をさばくと書いてありますけれども、何も人をさばくのでなくして、日頃皆さんとおつきあいの上にでも、これは自分の心をかえりみて、自分の心に汚れがないか、あるかを調べて、そうして人とおつきあいしたならば、信仰の心が、益々深まって行くということになると私は思うのでございますから、ここを先生のまねせねばいかんと思います。
(昭和三十六年十一月三十日講話)
TOPへ