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第二四二条へ 第二四三条へ 第二四四条へ 第二四五条へ 第二四六条へ 第二四七条へ 第二四八条へ 第二四九条へ 第二五〇条へ第二四一条 「信ずれば成るといい、無より有を生ずるといい、神霊の物化といい、皆一つ事である。」
皆さん、今日は暑さも今が真っ最中でございますが、本年もすべての点が豊作型で何よりお芽出たい事でございます。世の中は次第と移り変わりまして、この間新聞でご承知でございましょうが、ソビエットのロケットで地球を十何回も回りまして、そうして自分でそのロケットを操縦して土地の上へ降りて来たという事が報道されておりますが、もうこうなりますと、世の中はどうかと言いますと、土地の上の交通やいう事は昔のことになりまして、これからは、宇宙旅行ですね。そういう時代になりました。まことに世の中の変遷というものは恐ろしいもので、も早、人間は地上の生きものでないようになりました。
ところが、一歩退いて考えて見ますと、まことに科学の進歩は結構のようでございますが、これをもし悪用するとしたならば、どんな結果が来るでしょうか。あのロケットの上から土地の上がはっきり見えるそうです。どこへ玉を落とそうと自由自在じゃそうです。自分がどこへ降りるのも、自由自在だそうです。こんどでも降りる所の土地を、初めから予定して、ここへ降りるということを決めておったらしいので、それとはあまり間隔の無い所へ降りたということになっとるのでございますから、一発放せば少なくとも四○○キロの間を全滅さすという力のあるものが、今日出来ておるのでございますから、一○キロや二〇キロあらいたって問題にならんのです。大体この方向という所で 一発やった場合には、その下はもう実に哀れはかない、荒れ果てた土地に変ってしまうのでございますから、もし悪用するならば、驚くべき人間の悲運が到来したと言いかえられるのです。そこで益々我々はこの土地の上でお互いにおつきあいすることは、お互いに拝み合いでなければならん。すなわち泉先生がご生存中にやかましゅうおっしゃったのは、これなのです。何を置いても理屈ではいけない、拝み合いと言う事が、これが神仏が一番お好きなんであると泉先生もおっしゃっとります。遠く昔にさかのぼれば、弘法大師その通り、釈尊もその通り、ともかくも仲よくいく。手をつないで行くという事が人間幸福のもとでございます。
今日は学問の方では特に化学、理学、こういうものを学校教育に充分力を入れると言うことを、やかましく言うておるにかかわらず、人間の心の方の教えというものは、なおざりにせられております。ところが、いつまでもそうはいきませんので、常に人間の心構えというものは、国を滅ぼすという事がややわかりかけたのです。為に、今後は大いに心の教育をせなければいかんという事が文部省が目ざめて、ぼつぼつとそういう事を研究問題としておるようでございます。まことに結構な事であります。直接泉先生にお世話になったこの三宝会信者達は、とくにそういうところへ目をつけておいでられたいものであると私は思うのであります。
かりに、池の中へ一つの石ころをほうり込んだといたしますか、その石がぽかんと落ちた所は波が高いです。ところが次第次第とその波紋が広がって、池中にずうっと伝わるごとく、あなた方がまずあなたの中心地です。すなわち 自分の親子、兄弟というような近い間柄、そこへ一番先にそれを使うのです。ちょうど池の中へ石をほうり込んだら、それが、輪が広がるように自分を中心として、近いところから、近いところから、遠いところへ及ぼすことです。そうして、次第にそれを広げて、お隣り村、その地方と、こういう風にみんなの輪がよりおうて、ここに大きな輪が出来る訳でございますから、そういう事を泉先生は、やかましくおっしゃったのでございます。理論は、理論としておいていくのでなくして、使うのはまず手っ取り早い自分の身辺からお願したいと私は思うのでございます。
これは余談でございましたが、今日お話しいたしますのは、二百四十一条からでございます。「信ずれば成るといい、無より有を生ずるといい、神霊の物化といい、皆一つ事である。」こう言う事を泉先生がおっしゃっています。
これをもっとやさしく言いますと、信じきったら成就するもんだということなんです。信じれば成る。もう心で思いつめたら必ず成就する。それからもう一つ、無より有を生ずる。これは何も無いところから目に見えるものが出来上がって来る。こういう事なんです。念ずる、思い込むと言うことは無形です。すなわち無でございます。ところが、その結果として、家の運がよくなるとか、あるいはお家が繁じょうするとか、体が健康になるとか、形の上へ現われてくる。これを有といいます。無より有を生ずるという事は、心の働きが形になって表われると言うことです。
もうひとつ心霊の物化とこういう事ですが、心霊と言うのは心の働きを心霊といいます。すなわち目に見えん働きでございます。心霊は神の働き、仏の働き、すなわち人間の心の働き、これが物に変わって来る。いつまでも心の働きでおるんじゃなくして、物に変わってくる。そうでございます。こうなって欲しい。ああいう具合になってほしい。こうしたい。ああもしたい。それがいつかは形になって表われて来ます。すなわち心霊の物化、この三つです。信ずれば成る、無より有を生ずる、心霊の物化、この三つは同じ事じゃと泉先生はおっしゃっとる。言い方こそ変っておるが、一口で言うならば常に思っている事がその通りに成ってくるとこう言うことなのです。これは簡単な事のようでございますけれども、常に思いよることと、言う事がその人の一生を支配しとるのです。
たとえて見るなら、仕事がいやな人がある。楽にもうけたいと始終思いよる。その人はその人の心が物にあらわれてくるのは、どういう風になって表われて来るかと言うと、ばくち、相場、もう一つ悪く働いたら横着になってくるのです。こういう事になりますから、それはその人の運命が哀れ、はかない運命になってくる訳でございます。
ところが又、私の知合いに、これは鳴門市 (撫養)でございますが、大きなお家の別れ家で新宅でございます。
そこのお方が家族の人が皆良いのです。丸いのです。困ったと言って頼んで行ったら物をくれる、困ったら世話をしてくれる、そうしてお家は商売なさっとりますけれども、そんなにするうちに、人から何とかかんとか頼まれるとそれに印を押したげると言う。そして自分が損するとか、こういうような事で誠についに気の毒でおれんようになりまして、大阪へおいでたのです。家族中が、それがこの間こちらへ帰って来まして、私のところへおいでたのです。
その奥さんがおい出たのです。「私ところは、皆さんにかわいがられて、まあ有り難いことで、もんてくる(帰ってくる) とみんながようもんて来たというて、非常に喜んで下さるのですが、実はその家運が苦しいので、何ぞ一つ、ここに心がけが足らんことがあると思いますので、話をしてくれんか」と、こういうお話なんです。私は申したんですが「あなたのお家は昔から存じています。人のお世話をよくなさるという事を聞いておりますが、あなた、見ておもらいになった事がありますか」「へい、どこそこも、どこそこも、ずっと泉先生の方の系統のお方の内へ行きました」
そしてどうです。別に障り、たたりはおっしゃりません。あろうはずがない。ところが、神さんの方へ向いとらんけん、運がつかんと言われたと、こういうお話であったのです。私はその人に神さんの方へ向いとらんからといっても、そこのご主人は神さんの方へ向かんのです。わしゃ神さん、仏さんにお世話にならなくても、人間のお互いの困っている人助けたらよいのでないかと、こういうお話しをなさって、誠に丸い立派な人なのです。それで私が申しました。この人は普通の信仰で行く人でない。神さんとは、どんな人か、仏さんとはどんな人か、どういうところが有り難いか、こう言うことを、ほんとうに有難味を知らんのです。その人に、私が申したんですが 「うち方のご主人は、まことにまるいお方であって、神仏にはご縁が浅い。ところが奥さん考えてご覧なさい。施すということは、ごくすいておいでる」「ええ、そうでございます。わたしとこは、施しと言うたら、尻逆とんぼにして走るんでございます。人のお世話とか、ほんな事に」「ところが奥さんよく考えてもらいたいのは、あの方、人が拝んでおる泉先生は、この方も施しが好きであった。ところが施しと言うのに二つあるんです。一つは物施、すなわち物を施す。一つは法施、教えの道をお話してあげて、迷うておるのを目をさましてあげる。もうひとつ言い換えたら、 神仏の有難味をほんとに知らしてあげる。奥さんどうですか、この施行に二通りあるんですが、うちかたはどういう施行が出来とるんですか」「そう言うと、私とこは、法施がひとつも出来ていません」「そうでしょう、物施は出来ております。ところがお大師様も、泉先生も、お釈迦様も言い残されとる事に物施も結構であるが、物施の力というものは、それかぎりの価値かないもんである。たとえば、一万円は一万円しかないもの、法施は測量の出来ない位大きなお陰をあげた事になる。こんな事おっしゃっとる。奥さんどうですか、あなた方が困っている人を恵んであげて、仕舞いにはあんたが食えんようになった。恵まれた人は喜んでおるが、今日になったら気の毒がって、あんたが人にお世話にならんならん。それで泉先生は法施を第一にせよ。こういう事なんです。法施と言うのは迷うておる人を助けるのでございますから、自身が神さんとはどういうお方であるか、泉先生とはどんなお方であっただろうか、お大師さんて、どんなお方であったのだろう、ということを先へ知って、そのお方のなさった事、言うたこと、した事をまねて、ご自分の体につける。そうして、ほんになるほど、こういう考えから生活すると有難いもんだな、うちは運がようなった。その運のよい、目出たい事を外の人に分けてあげる。これこそ一生がい使えるんですから、奥さんどうです、一時に一万円あげた、二万円あげたというよりも、大分大きいではございませんか」「そうですね。それを知りたいものです。」「知りたければ奥さん、私その泉先生のこと書いた本がありますから、一部差し上げますから、どうぞ、あなたが先へご覧になって、そうして泉先生という方は、こういうお方であったということをご承知になって体へしっかりしまい込んで、そうして、こんどはあなたのご主人にお見せして、お二人が手を引いて法施が出来るお体に成って下さったらどうですか。」ところが大変喜んで、そうして今まで知らなかった慈悲心とか、施行とか言うのは、物をあげることじゃと思っておった。信心じゃというて神さんに、わし頼む事ない。体が達者じゃもの、金は働いたらもうかる余計な金いらん。そんな事考えておった。大変間違うとった。泉先生はまことに有難いお方であるということを始めてお知りになったというお方がおります。
それで私は、今日お話し申す事はそこなんです。まず第一に心を磨いて、そうして人とのおつきあいの上に、人を喜ばせるというような心をつくる事です。そうして自分が、ご自分の体によゆうさえあれば、物施なさるのもよろしい。法施と言うことは第一に大事なんでございますから、お間違いの無いようにしていただきたい。 すなわちこの二百四十一条に書いてあります事は、その事を泉先生がやかましくおっしゃって、常に心で思って人におつきあいしておることが、世の中に物になって現われてくる。だから大事じゃとおっしゃったのは、ここにあるのです。まず第一に、あなたがお陰を受けて、いかにも有り難いもんであるなあと味おうて、人に分けてあげるのでなくては法施は出来ません。泉先生はそういうような導き方をなさっているのでございますから、だんだん間違うとる信仰なさっとる人もございますけれども、どうぞ、あなた方は、ここを、お間違いの無いようにお願いしたいと思います。
(昭和三十六年八月十五日講話)
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第二四二条 「神のご加護は人間の理屈には合わぬ事がある。そこが有り難い所ぞ。
これも世の中ではよく間違えられていることでございますが、神さんのお陰と言うものは、理屈に合わないんだ。
人間は理屈に合わそう合わそうとする癖があります。泉先生は理屈を考えてはいけない。理屈に合うようなのは、お陰でないのじゃ。理屈に合わなくても、助かったらそれがお陰だから喜んでおれ。こういうお話でございましたが、一例といたしまして、九州の福岡の宮田町と言う所の大きな仕立屋さんのお内でございますが、その方の奥さんが、つい四十才位になるお方です。二年あとにご病気なさって、お医者の診断が、ガンと名をつけたのです。子宮ガン、これは手術するより外はない。一日も急ぐんじゃけれども、よほど進行しとると言うので、びっくりして福岡市のお医者さんのところへいって手術を受けたところが、腹を開いて見ると、もうはやすでに全体に行きわたっておるので、これはもう手術が出来んと言うので、有名なお医者が三人も寄っとったのですけれども、これは出来ぬというので押し込んで、元の通り縫うてしもうた。ところが本人には隠しておったのです。隠したって、ついに本人が、自分はガンであると言う事がもうわかってしまって、そしてもうお医者さんの手におえんという事がご自分でわかった、
ところが、不思議なことには、そこの福岡の宮田町という所へ、讃岐から行っている人があるのです。そこへ私の書いた泉先生のご本を一箱送りました。向こうには信者が百人もあるのじゃそうです。そこでその奥さんが、もう私は近いうちに仏にならな仕方がないのじゃ。もうお医者さんの手が切れたんだから、一生懸命泉先生にすがったものでございます。そうしたところが、次第次第に具合がよくなって、直ったといって昨年お参りに来ました。そして、子供しが出来るようになりました。お医者にみてもらったら、子供に違いない。レントゲンに映したところが健康に育っておる。もうそのガンの跡は消えて治ってしまっている。こう言う話です。これはこの間の話です。ところが、こないだになりまして、子供がもう生まれる月になりましたけれども、一たんガンをわずらった関係上、生ませることが出来ない。それで月満ちてお医者が切り出したのです。これは生ますより楽なそうです。今日は医学が進んでいますから、立派に女の子が生まれて、今両方とも健康にお喜びになって居る実例があります。まだこないだの事です。
これは何であるかとお医者が、切り出す時に見たところが、以前腐っておったところがいえおうて、ざくろがさけたのがいえたようになっておって、土手みたように痛んでおる所がいえおうて、もうはっきりなおっておると言う事が実証されたので、以前三人もの博士が見てガンという診断したのですから、もう実物のものを目で見たんですから 間違いありません。お医者さんは、びっくりしてしまった。これどうしたんだろうか。もし直ったという原因が、はっきり科学上で説明が出来たのであらば、ノーベル賞がもらえる。ノーベル賞の価値があると言うて、えらい評判になっておるという事をこないだ私の方へお手紙を頂いておりますが、こういう訳でございまして、どうして直ったのかと言う事がわからなかったら、承知が出来んのが人間でこざいます。しかしこういう風にお陰と言うものは、不思議に訳のわからんずくに喜べるようになれるのでございます。
まず人は、これを奇跡というておりますが、泉先生は奇跡とおっしゃらん。念じてなおらんのが不思議じゃ。そうおっしゃっとる位に、泉先生は非常に強い信念を持っておいでたのでございます。これはほんの一例でございますが、そういう事がたくさんあるのでございます。
これは、まあ私の事を私が申すというのは、まことに妙でございますけれども、不思議とゆう点をお話し申しますから、私が病気しとらん達者な時の事でございます。泉先生がまだご存命中の事でございます。私の若い時です。 泉先生と、私、その他の信者の方が七人いっしょに五剣山のお山の上へ行ったのです。そうして私が、あの四の剣の逆さまになっておる鎖の所まで行きました時、そこから、おりとうて、おりとうて、しようがない。足がどうしても回って下りる方へ行きませんので、泉先生が「村木さん、何しとるんや」「先生足が動かん」そしたら泉先生が手を突き出して拝んで下さった。「お前の子供、ここからおろせ、お前さんは回って行け、大変な事が出来るぞ、ここから子供おろさんと大変な事が出来る」こういうお話で、私は喜んで泉先生とお別れして、泉先生は五人の人を連れて、北の方の木の根を伝うて回ってお不動さんの方へおいでた。私は鎖を逆に下りたのです。中ほどまでいった時に、鎖がじゃらんと切れて、飛んでしまいました。そしてその時に、ちょうど向こうへ回った先生ともに六人の方が、はあっと言うて、手を上へさし上げて、びっくりなさっとる。そこへ私が、どうなりこうなり岩にひっついて下りて行きまして、下へおちている鎖を体へ巻きつけて、太い針金でつないで下へおりて来たんでございます。その時に泉先生が、お不動さんの岩屋へ私とも七人でございます。入ってお不動さんにお礼を言ってくれた。今日はお世話になりました。そうしたら泉先生のお言葉として「今日、若し、お前の子供にここを降りささなんだら、大きな騒動、七人がいっぺんに死んでしまうとるが、その内何人かは、必ずこの下のお不動さんの岩屋のところで砕けてしもうとるわ。今日は、わざわざお前の息子の体をかりて仕事をさしてある。」こうお話しを承ってびっくりしてしまったのです。あらあええ事であったと思うて、私は涙を流して、お礼申した事がありました。私が何であんな軽業するようなことしとうて、あそこで足が止まったか、それは不思議でございます。もしおりなんで、先生と一緒に北へ回って降りたのであったら、だれかが死んでおります。そういう事を先へ神さんの方から、私の体を使うて、鎖をつながしたとこういう事は訳がわかりません。何で神様、そんな事したかという事になりますが、すべてお陰というものは、こういう風に人間が判断出来んのがお陰なんです。それを人間が判断出来なんだら気にくわんと言うのが人間の病でございます。 どうぞ泉先生は不思議な事があっても、その訳をこういう訳であったからこうじゃ、ああ言う訳であったからこういう訳じゃと理屈を言わんように、ただ有り難しとしてお礼申すのがええぞと、先生が教えたのは、そこなんでございます。どうぞ理屈に合わんから、これは妙なことじゃ。そう言う事をおっしゃらないようにお願いいたします。
(昭和三十六年八月十五日講話)
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第二四三条 「人の運命はチギの分銅のようなもので、掛けた重りだけのところにおかれる。何も不思議はない。因縁づくである。
泉先生がおっしゃったこの教は、正直正来ということです。今の台ばかりと違いまして、棒ちぎというのがございます。あの棒というたところで物の目方を計るのに、皿の方へ乗せます。ひっかけで、引き掛けとる、分銅を真っ直ぐになるまで動かすでしょう。その分銅は、ちょうどその目方だけのところへ分銅をおいたら水平になる。こりゃ因縁づくじゃ。こう先生がおっしゃったことを、こういう風に書いてあるのです。
先生は言葉でどういう風におっしゃったかと言うと「正直正来お聖天さん。」こう言うたんです。もう泉先生は人を拝んだら一人毎に一言は、はいって居ります。そういうお言葉が「正直正来お聖天さん。」正直正来とはどういう事か、それは自分がした通りに正直に返してくるということです。した通りに正直になって来るという事を先生は、正直正来とおっしゃった。何も不思議がない。それはもうどんな人にも正直正来に来るのです。それは、あなた方がちっと人間の感情というのをのけて、冷たいお考えで横から見てご覧なさい。不思議な事はないのです。この正直正来にきよる訳です。これが見えるようにならんといかんと先生がおっしゃった。わかりますか、ちぎの分銅が、その重さのところへ持っていたらちょうどよい。ちょうど自分のやった仕事のかけめ計って見ると、その分銅の目方のところ、丁度自分のした通りのところの目方のところへ行くんです。
こういうちぎに、たとえているんですが、これはあなた方が別に不思議そうに思うておいでんけれども、静かに考えてご覧なさい。必ずした通りに向こうがして来るようになります。泉先生はまたこう言う事をおっしゃった。
「村木さんよ、罰があたるのがわが身でわかるようにならんと、ほんまものではない。」罰があたるのがわかったらお陰ぞ、とおっしゃったことがある。妙でしょう。こうやったから、こうなったということがはっきりわかるようになったら、自分のしている事が道に通うとるんじゃ。どんな事して罰のあたらん人は、お陰がないんじゃ、とおっしゃった。そんな人があるでしょう。どんな事しても罰があたらん。それはいかんのであって、もうどないかけても、ちぎの分銅どこへでも持ってゆけることないでしょう。目方だけの所へ分銅を持って行くようなもので、自分でに罰があたったのが理解が出来るようになったら、一人前のお陰じゃと先生がおっしゃったのです。 こう言う訳で今日お話した事は、ほとんど先生がニコニコ笑いつつお話しなさったのが、目の前に映るように思います。どうぞ、そう言う事にひとつご注意を願いたいと思います。
(昭和三十六年八月十五日講話)
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第二四四条 「我欲を願うな、御徳をしたえ
今年のお盆も過ぎましたが、この盆のお祭りと言うのは、徳島県の阿波踊りは非常な評判になっていますが、大体ご先祖を崇拝すると言う誠にええならわしなんですが、ご承知の通り釈尊の時代に、お弟子の目連尊者が自分のなくなったお母さんが、どうなさってるかしらんと思って法眼を以てというのですから、先ず禅定に入って、そうしてかあさんのお身の上を尋ねて見ると、どうもお母さんが地獄へ落ちているのです。食べる物は何を食べようと思っても、口のそばへ持ってゆけば火になってしまう。水でも、お茶でものどへ通らない。こういう哀れな姿になっておるのを目連尊者が見て、何とかおかあさんをお助けせなならんと、釈尊にお尋ねしたところが、釈尊の仰せらるには、「目連さん、お前さんのおかあさんは高い身分ではあるけれども、身分は高い家に生まれたんだけれども、性格が出し惜しみをする。何事も人に物を与える事を非常におきらいなのであったんじゃ。いわゆるりんしょくと言いますか出しぎらいの性であった為に、なくなって餓鬼道へ落ちとるのだ。何も食べられないのだから、こういうのを救うのは、もはやおかあさんには、肉体はないのだから、お気持ちだけが残っているのだからして、もう自分ではその餓鬼道をのがれる事は出来ない。からだがある間は、自分がそれを罪を償う事は出来るけれども、からだがないようになるというと、人から助けてもらわなければ助からんので、おまえさんは、おかあさんの為に大勢の坊さんや、大勢の一般の人に、色々ごち走をして差し上げて喜んでもらいなさい。」
さっそく目連さんは、お釈迦さんの言う通りにして、大勢の人にお布施をして見てみると、今度はおかあさんは丸丸と太って喜んでおいでるのがわかったというので、目連尊者はとても喜んで、自分のお友達や大勢の人にも喜んでもろうて、やれ嬉しやと言うて踊ったというのです。そういう事が、今日までそのならわしが残っておりまして、お盆には、ご先祖の為に喜んで踊るという、こういう訳なので、特に徳島県はひどいのです。他府県から、たくさん見に来るという位に盛大で、誠にこれは結構な事と思います。
今日お話しします二百四十四条に「我欲を願うな、御徳を慕え」と、こういう事を書いてございますが、これは神様、仏様にお参りした時に、どういう態度でお参りするか、お祭りをするかと、こう言う事を書いたのでございまして、だれでも神さんへ行けば、まずお賽銭、あるいはお供物を差し上げて、家内安全、延命息災、家運長久と言う具合に、自分に良い事ばかりをお願しておるようでございます。それもあながち悪くはないのですが、お願することもよろしいが、しかしほんとうにお陰を受ける、受けようとは、それはなにであっても、神さまにお祭りせられる所の その神様の生きておいでられた時に人を助けた、あるいは世の中へこういう事をなさったという、その御徳を慕うて、そうして神様の教えを自分が行なう。つまりその祭ってある神様のみ徳を慕うのです。そうして、そのかわいい子になって仕舞う。そうすると自分の願い事、ちゃんと神様知っておいでるから、願わなくとも聞いて下さるものじゃとこういうのが泉先生の教え方なのでございます。それで今、先生のお祭りなんかでも、先生のおとなえをして、先生のみ徳を慕うて、そして、つまり先生の真似をする。先生は、ほうぼうへお参りにおいでたでしょう。私もお参りは、ほうぼうへ行く。先生は、いつも人とは拝み合いの生活をしなければいけない。人の悪口を言うたり、けんかをしたりする事はいけない。こう言う事を先生は始終おっしゃっておいでた。まあ自分もその通りせないかんと、こういう風に泉先生がなさった事を思い出して、それを自分が実行する。つまり泉先生のお徳を慕うのです。そうして、それを自分の身につけると、すでに今度は先生のかわいい子になる訳です。つまり信者になるわけです。そこで自分の願い事は、心の中で思うとる事は、かなうという訳なのです。これは先生が、ああいう風に大きなみ徳を持っておられた。そのああいう先生の有難いような人になるのには、どうしたらよいかと、つまりなさり方を教えてあるのです。 何もそんなに人を拝むようになるという意味ではないのです。そういう事を先生のまねをしておるうちに、先生が救うて下さる。こう言う先生のご自分のご経験から教えて居るのでございます。
(昭和三十六年八月三十一日講話)
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第二四五条 「すべてのなりゆきは皆因縁無しには来ておらぬ。この因縁を悟らねば神のお陰はもらえぬ。
これも先生が、ご自分が神さんにお参りなさったり、人とおつきあいなさった上に、ちゃんと、こういうお陰もろうた、こういう時分にもろうた、ああいう時分にもろうたと先生のお考えをここへ書いたものでございます。どんな事でもそれには、因縁なしには来ておらんと言うのです。
たとえば、暮らし方が不自由であるとか、あるいは病気であるとか、人にきらわれるとか、好かれるとかこういうすべての事には、皆これには因縁なしには来ておらない訳があるんだ。どう言う訳でわしは、人にようきらわれるんであるかという事に就いては、そのきらわれるには因縁がある訳なのです。つまり、そこの家の先代から人がきらうような事を言うたりしている人がある、そこへ生まれて来た自分が、それを知らん間に習うたと、こう言う事が因縁と言うのです。その因縁を悟って、こういう因縁の為にわしはこうなるんだという事を知ったならば、その因縁を繰り返さないようにせないかん。そうしたら、そこにお陰はもらえるんだと、それで泉先生は、そういう事をお考えになっとる。まあそういう訳で先生は、いつもお徳を積みなさった訳なのです。
先生が、お徳をつんだその訳は色々ございますが、一例申して見ますと、先生はいつも漁する船に乗りまして、遠方へ行く時には、朝鮮の近くまでおいでになったのです。その時分には、日本海の荒波を渡って、そうして朝鮮まで行くのでございますから、随分船もひっくりかえったりする事もございましょう。それから又、船はかやらんでも、病気する場合があります。病気するというと、船の中でございますからお医者さんもない。そのまま、まるで悪かったら悪かったきりで、その船が陸へつくまでは薬やお医者さんに来てもらう訳にはいかない。こういう訳でございますから、先生はいつも航海の無事、沢山さかなが取れるように、皆が達者にいけるようにと言う事を念じておいでるのです。ご自分の体よりも、そう先生は先を案じておいでる。
そこで、これは普通の事したのではいけないと、なにかひとつ神様にお願いするには代償を払わないかん。いつも私はあなた方によくお話しして居る事でございますが、代わりをする、お願いする代わりに何をするか、それを代償と言うんでございますが、先生は、私は海の上へ船に乗り込んで漁に来たら必ず塩を食べません。どうですかな、塩食べんと言うのです。しかも塩は海へ出れば皆塩でございますが、そうしてご飯食べるにも、おかずに塩が入っておらんとおいしくありません。ひとつ、まあ想像してごらんなさい。おいしい、おいしい、と言うのは、何の味かと言いますと、 砂糖などは使わなくても味は取れるものです。塩の味です。昔からよく言う通り、甘いも辛いも塩の味といいますが それから、これはええあんばいで出来る。あんばいとは、塩を配ると書いてあります。塩をどれだけ使うたか、ええ 塩配だと文字に書いてさえも、それ位塩というものは人間にはなくてはならぬものなのです。塩を抜いてしまえば、もう、おかずなんか、さっぱりおいしくないのです。そこで先生は塩食べませんという、おんがんをかけとるのですから、船に乗る前に、飴玉や砂糖をたくさん持って船に乗り込むのです。まあそれで先生は、船の中の用事をようなさる。ご飯たいたり、皆があがるおかずです。そういうものを、おさかなを焼いたり、色々そういうお世話をしておあげなさる先生は、非常に器用な人であって、何をするのも上ずであったのです。ところが塩をご自分があがらんのでしょう。友達には、おいしいものを食べささなならん。ご自分はもう、手かげんで味が非常に上ずに出来る。しかも、ご自分はあがらん。そうして、ぬくいご飯が出来ますと、そのはがまのふたの上へご飯を一番先におきまして、 そうして神さんや、仏さんに、それを差しあげるんです。はがまのふたをあわむけて、その上へご飯をおいて、そして生駒さん、八栗さん、象頭山の金比羅さんとか、もうありとあらゆる、先生のお参りにお出でよる神さんや、仏さんを念じるのです。そうして、それを差しあげる。それから、ほかの人にご飯も、おかず皆配る。先生ご自身は、ご飯はいただくけれども、おかずがお砂糖です。一切塩けはあがらんのです。これをひとつ一日でもためしてご覧なさい。とても出来るものでないのです。こういう風にして友達のけがの無いように、船が無事に行けるように、大きな難風に会っても船がかやらないように、たくさんおさかなのお土産を持って帰れるように、こういう事の大きな願をかけて、ご自分はそういう苦労をなさっとるのです。
これを見ても、いかに先生がご自分の事をさて置いて、そうして人を喜ばしたかということはわかりましょう。 ご自分は難儀です。塩食べんのですから、不自由なのです。其の不自由をして、そうして自分の体を苦しめて、そうして、その人の方へ良いものをあげて下さいと念ずるのですから届くのです。今あなた方が、神さんに事をお願するのは、代償払わなければ届きにくいというのはこれなのです。ご自分が色々な事をするのです。先生は、しかし海の上ですから、何をするというても、船から外は海でございますから、神さんのお世話はしにくいのです。それで、ご自分の食べるものをやめた訳なのです。こういう風にして、一ヶ月も海の上に浮いておいでて、たくさんのさかなを持ってお帰りになるのです。この一事はちょうど二百四十五条に書いてあります。
ものをどうぞあげて下さいと、神さまに念じとるのですから立派な因縁です。その因縁の為に先生はどうなるかと言いますと、体はお達者になる。海の上を浮いとる間、塩あがらんけれども、人一倍の働きをなさって、ちょっとも体が弱らん。そうして、神仏に常に念じておいでる為に、ついには神さんが人を助ける。その助け振りを先生に手伝うてもらおうと神様が子にしてしもうたのです。こういう人間は、わしの手伝をさそうというので、先生ご自身が、ちょっと人を見ると、この人はどういう因縁作っとる人だろうか、こんな因縁作っとる為に、こういう風になったんだと、こういう風に先生がふとその人に会えば、もうすぐわかってしまう。やはりこれが仏智見と言うのです。宗教では仏智見と申します。そういう、ただ人に会うただけで、その人の歴史がわかる、因縁がわかる。この因縁がわからねば、人助けする事が出来ません。人の苦労をのけてやって、幸福を増してやるというのが助けぶりなんでございますが、その人の因縁がわからねば、助けようがないのです。聞かなわからんようではいきません。
もしその聞く時には、相手方の人が、ちょっと言いにくい事は言いません。恥になる事言いません。つらいことは言いません。それを知らんとやっている場合があります。悪い事を。先生はそれを聞かいでも、ちゃんと知っておいでるのです。因縁を知っとります。それが為に、ああこの人も、こういう悪い因縁を作っとるから、この因縁をのけさえすれば、お陰はいただけるんじゃ。こういう事をちゃんと先生はご自分で知っておいでる。そういう偉大な仏智見を神さまからもろうていますから、それで人を助けた訳なのです。そういう事から考えましても因縁という事を悟らなければ、お陰はいただけないという事はおわかりでしょう。先生が人をお助けになるのは、なかなかそういう因縁をよくご承知なので、以前にもお話し申した事があると思いますけれども、もう一度お話しして見ます。
ちょうどこの間盆であった為に、それに関係があるのでございます。ある元、大きな分限者であった人です。その人が大変不運でございまして、財産を無くしてしまわれたのです。つまり出しぎらいなんです。人に物あげる事すかんのです。そうして勝負が好きであったのです。ばくち打ちです。今日でいいましたら、金をかけて、それが当たるか当たらんかでもうけてゆく。あたらなんだら損する、そういうような相場です。それで財産を無くしてしまった。ついにその日の暮らしも、つらいようになったので、ある時、石屋さんがそこのうちへ来て、お墓をこしらえよる石屋さんです。「だんなはん、あんたとこのお墓は皆立派ですな。失礼ですが今お売りになったら高い値で売れますぜ。」そこでだんなはんが、「そうかい、あんなの売れるか。」「あれをわけてもらいましたら、あんたとこの字が入っておるのを、その字を消すんでございます。そうして、こんどはお客さんのいう通り文字を彫り込んだら立派にあれが売れるんでございます。」「ああそうかい、あのうちの中でも、ほないええの、使えるのがあるかい。」
「あります。あのご先祖の中に一つ立派な五輪塔がごわすが、あれなども大変な値になります。」「ほな買うてくれるか、ほなけんど昼引いて行くと、かっこう悪いけんな、夜になって車に乗して引っぱって行くけん、おまはん、ほな買うてつかよ。」と言うて石屋さんにお約束した。
ある日、やみの夜に車に積んで引いて行く途中の土手の上へあがったところが、向こうから、ちょうちんつけて知人が近寄って来る。こいつ困ったなあと思って、それを土手の上からころがし込んだのです。お墓の石を。そして、その人がこぬ間に車引いてもどって来た。そうしたところが、そのあげ句に、その家の若いし(若者)が、てんかんになりまして、にわかにひきつけて、何も知らんようになるんです。ピンピンはね回ったりもします。その若いしはそれから草刈りにいって川の端へ行ったら倒れるのです。お医者様もこれを恐水病、水を恐れる病気という名をつけとるそうですが、どんなにかして、なおしてやろうと思うてもなおらん。お医者に見てもろうても、てんかんじゃと言う。ところが、その人が先生のところへ来たのです。泉先生の所へ「先生、私とこの子供が悪いんで、ひとつ助けてやって下さい。」「よろしゅうございます。何も言わないでよろしい。」先生が神さまの前で「帰命天道」をおっしゃって、「ああこれはおっさん、あんたところはもと大きな家であったけれども、気の毒な事には今ひっそくなさっとるが、お墓が一つ足らんでないかい、おっさんどうじゃ。」「へえ。」「へえったって、おまえさん、これ分っとるのかい。」「へえ、先生わかっとります。相すまんことしとるのでございます。」「これおまはん、仏さんがとりついとるんでない。仏さんが喜ばん、こういう事したんでは、家の運が悪うなる。神仏のご恩を知らんと言うて、水の中で泣きよるで。」「へえ、先生、水の中」ああ、自分には覚えがありますから、ほどようとこたえた。
因縁を作っております。土手の上から人が向こうから来るから、ころがし込んだ。そうして、それを取ろうと思っても、なかなか取れませんから、そのまま置いてあった。若いしが水見たら、はねかえる。病気になってしもうた。 「先生、もう恐れ入りました。よくわかりました。」「おっさん分ったんで。」「へえ、わかりましたどころではごわへん。もう先生、白状いたします。実はその石屋さんが、私とこの墓が値打ちがあるけん売ってくれ、と言うので、持って行っきよったんです。いっぺんに積めまへんけん、車にのせて持っていきよったんです。ところが闇夜に行きよったんですが、向こうからちょうちんつけて、知った人が来よるんで、これ見つけられたらかっこう悪いと思って、急いで車の中からころがして、土手からころがし込んだんです。そして車引いて走ってもどってきたのです。それから しばらくして、若いしがあんな事になりまして、先生、いま先生のお話聞いてびっくりしました。私は今まで仏さんは、死んだら無いのかと思っておった。いや間違いございません。」「おっさん、これはな、仏さんが怒っとると、わしは言うたけど、怒って、とりついとるんではないんだぜ、あとの子孫を、とりついてむごい目にしてどうするかい、悟れ悟れと悟って悪い道をやめて、ええ因縁を作れ、世の中へええ因縁を残しておけ、そうしたら家が運よう行くのや、自分の子や孫じゃから、おまえさん方をかわいそうに思って、助けて呉れよるんだぜ、分ったかい。」
「ええ、分りました。ようわかりました。これはもう、私が、こんな事しよったら、うちの家の運が悪うなるのを仏様が教えてくれよるの、ようわかりました。」「そうじゃ、ただの病気さしたのではわからないから、水見たら、てんかん起こすという、何で水という事を悟らんか、悟らんか、水の中で因縁作っとる。水で因縁作っとるというて、教えたのはようわかるだろう。」「わかりました。先生ほんとうによくわかりました。」というので、さっそく先生からもどって来て、今度はそれをあげんならん。ところがこれ又、昼作業をしていると、かっこうが悪い。夜そこへすいりには入って、水の底にあるのをなわでくくって、あんな大きなものでも水の中では軽いものです。それを、えんやえんやと引き上げて、そして車に乗せて持ってもどって、そして又お墓はん積んだ。そして石屋はんにその訳を話した。
「石屋はん、買うてもらおうと思うて、持って行きよったけれども、こういう訳で川の中へほうり込んであった。すると怒られて、こんな事になった。石屋はん、おまはんは、墓石ようけこしらえよるが、いかにも仏さんというものは有り難いもんじゃ。こういう訳であるから、あんたに約束してあったけれども、ほうぐにしてつかはれよ。」と言うて、石屋にことわっといて元の通り建てた。建てるとさっそく若いしが治ってしもうた、と言う事を、先生はおっしゃらんけれども、私が聞いたのです。先生がそういうお力があるのです。だれでも、常に先生がおっしゃるのです。 皆さんに、信者の人にお話しなさる「因縁というものを作ったら、必ずその因縁がよい因縁を作ったらええ事が家の中へ生まれて来る。悪い因縁を作ったら悪い事が生まれて来る。だからどうぞよい因縁を作りなさい。」と先生が教えたのが二百四十五条でございます。これはええ因縁作るという事、悪い因縁作るということ色々ありましょうが種類は幾らでもある訳です。だから一口で言うならば、世の中の人が喜ぶ事をするのが、ええ因縁を作ると言うのです。神さんや仏さん、生きとる人が喜ぶ事をする事をよい因縁と言うのです。で、お盆なんかでも、仏さんが喜ぶようにするのでございましょう。お火をたいて有り難いお経を読んで、その法の火の間にお経を読んだ。そのお経の声と明るいお燈明で仏さんが、ご自分がお陰を受けて喜ぶんでございます。それでお盆には火をあげたりするのです。
それで三宝会あたりでは、このお火やお供物を、ようもろうとらん。仏さんの為に、まあ仲須さんや私等が寄って十四日の晩に火をたくのは、ご承知と思いますが、そういう訳でたくのでございます。そのお供物やお光をようもろうとらん仏がつらいのです。その人の為にお光をあげて、どうぞ喜んで下さいといたしております。これは毎年しよりますからご承知だろうと思います。
こういう風に先生は、いつもええ因縁を作れば、必ず神仏は喜ぶんだ、という事を、今日三宝会でしとる訳です。その外にも色々と、ええ因縁を作る事をなさいよるでしょう。無縁さんのお掃除なはるとか、道のこわれとるのをなおすとか、世の中の為になる事、神仏が喜ぶこと人が喜ぶ事をするのが、ええ因縁を作ると言う事でございます。
(昭和三十六年八月三十一日講話)
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第二四六条 「夢の中で悪魔に追われた時、ご真言でも口にとなえられたら悪魔は、直ちに退散するものじゃが、さめた時はそれがかなわぬのは、心に邪心があるからで心得ねばならぬ。
夢の中で悪魔に追われた時、ご真言でも口に唱えられたら、悪魔は直ちに退散するものじゃが、さめた時には、それがかなわんのは、心に邪心があるからである。心得ねばならん。こういう事です。これは夢の中と、さめた時とが非常に人間の思いようの力が違うという事を書いてあるのですが、そうしますと寝とる時というのは、人間の性根が寝ているので死んでいるのとは違う。どのように違うかということを書いてあるのです。
これは皆さん、よく試すとよくわかるのですが、眠った時に虎に追われ、あるいは大きな、おそろしいものに追われるとかいう時には、一生懸命に逃げても足がもつれて思うように動かない。高い所から下へ落ちても死にません。こういう苦労があるのに、苦労のしほうだいであって、ひとつもすがる心がないのです。ところがもし寝とる時に、 とらに追われるとか、大きなへびに追われるとかいう時に、もしご真言の一遍でも口に出たら、もうたちまちこわいものは退散してしまいます。これは、はっきりしたものです。そういう事にお会いになった方もあるだろうと思いますが、それほど神様に頼る力がすぐあらわれるのに、目がさめて起きている時は、ご真言繰っても、あまり感じません。目がさめとる時に、とらに追われることはございませんけれども、腹が痛いとか、何とか苦痛があった時分にご真言繰っても、即座にはのきません。これは何によるのか、これはなかなか面白いところです。
もともとお話を人間の心理という方にかえてお話して見ますと、人間性根というのは、いつもお話し申します通り第七識、わがという心、人間の心です。それは、しかし、寝た時分に、我がないかというと我はあります。その我は何かと申しますと、同じわがでも 非常に違うのでありまして、大我というがで、つまり神様、仏様に通ずるわがなんです。仏性という方です。仏性というものと、人間の自分というものと大いに違うのでございまして、それは、はっきりしているのです。この仏性、寝とる時でも生きている時の働きは何か、ちょうどよく寝ている人の足の裏でも一寸かいてご覧なさい、足をひきます。それでその人が、目がさめた時に、尋ねてみると知りません。知らんけれど、足が物にさわると引くのです。その引いたのは、だれが引いたのか、これは仏性なのです。
そういう風に人間の心は二つに見えるのです。一つなのですが、働き方が二様になっているのです。なぜそのように二様になるかといいますと、本来人間は神仏の性根を持っているのです。仏性という誠に立派な性根を持っているのです。目がさめると人間の性根が起きてきて、その仏性を奥へしまい込んでしまうのです。人間の性根で暮らすようになる。人間の性根というのは、本来何から出来たかといいますと、欲から出来ているのです。欲から生まれて来てないのに、わがわがと言うとる。そのわがが人間性根なので、その人間の性根をのけた、奥にあるわがというのが 仏性なのです。
それで面白い話がございますが、この仏性というのは、神仏の力ですから、夜も昼も寝ないのです。寝ません。 人は普通夜寝て昼起きています。仏性は夜も昼も寝ません。それをためして見るのは、こうするとわかるのです。
ある人が寝ているとしますがその人の横で、その人の身の上の話をするのです。この人は、釣りが上手だとか、 あるいは走るのが早いじゃとかいうような話をする。そうして、その人が目がさめた時分に、「あんた昼寝なしとった。」「ええ昼寝しとった。」「その時、何ぞ話したことお聞きになりましたか。」「知らんない。」知らんのが道理、寝ておるから知らない。ところがその寝て居った人が、催眠状態になった時分に聞いてみるのです。「おまえさん寝ていた時に、何ぞ近くで話しよったこと聞けへんで。」こう聞いて見ると、「聞きました。私が釣りするのが上手じゃっていう話きいた。それから走るのが学校時代に早かったっていよった。」こういう風に、寝ておっても充分聞いておるのです。その聞いておるのは、だれが聞いたのかというと、やはりわれなんでございます。けれども、そのわれというのは、仏性のわがでございます。これを弘法大師は「人は生まれながらにして「五智円満」の力をもろうておるんだ。」と、そうおっしゃっておるのです。ところが人間という性根でふたをしているために、その仏性が働かないのです。それで信仰をして真直ぐな生活をする。慈悲の生活をする。こういう事になりますと、人間がみがかれてきますから、ちょうどガラスが曇っとるのをふききった様になりますから、ここで起きとる時分にでも仏性が働く。これが「聖者」というのです。
こういうお話をしてみますと、二百四十六条に書いてある事がわかりましょう。寝ておる時に悪魔に追われた時、ご真言繰るというとすぐ悪魔が逃げてしまう。それじゃのに目がさめると、ご真言を繰ったとて、あまり効果があるのやら、ないのやらわからんようなのは、よほど気をつけないかん。これは仏性が働いとらんのじゃと先生がおっしゃったのはここにあるのです。
それで、私は催眠術の話をいたしましたが、こんどはおかげをもろうて、さんまいにはいれる人、禅定にはいれる人は、ちょうど人間が寝とるので仏性が起きとるのです。その仏性の力によって人の事もわかるし、色々なことが自分の心に、はっきりわかってくるのはこれなんです。ちょうど仏性と人間の性根の間に、つながりが出来てくるのです。 修行が出来ますと、つながりが出来てくるのです。電気であったら、針金がつなげた様になる。ところが人間の方が堅苦しくなって、神さんや仏さんに縁が遠いというと、電気の針金が切れた様な具合になって、仏性と人間との連絡が付きません。こうお話したらわかると思います。
それで二百四十六条に書いてありますことは、無中で寝ておる時のご真言は繰るとよくきくのですが、起きていると、きかんのはどういう訳だろうか。それは起きていると、人間に邪心がある。邪心のために神仏に通わんのじゃ、こう先生がおっしゃったのは、ここにあるのです。 先生は、こういう事でもおためしになっておるのです。これは、仏教心理と申しまして、お釈迦様のお経の中に唯識論というお経文があります。「それに」書いてあるところの文句を、先生はお読みになった訳でもないのに、こういう事をお知りになっておるのです。どうせ先生がおやすみになって、夢をごらんになった時に、何とかそういう事でご真言繰ると、さっそくきいてくれた。ところが起きとる時には割合きかん。こういうところから、先生がなるほど仏性をみがき出すのが信仰じゃという、この深遠な真理をお知りになったのです。大学者が知らん様なことを、先生がお悟りになったのです。まことにこの二百四十六条を見てみましても、いかに先生が信仰に深かったか、まことの信仰に徹しられていたか、迷いの信仰でない、まことの信仰であったということが、はっきりとわかります。
そういう意味で二百四十六条はご覧下さいましたならば、大きなお陰が頂けると私は思います。
(昭和三十六年九月十五日講話)
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第二四七条 「おかげという事は、人が日の方へ向こうて日を見つめた後に、他の方へ向いても、尚日輪を見るがごとくに、いつも心に神を思える人に、解釈のできる言葉で、外の者にはわからぬものである。
お陰という事は、人がお日様の方へ向いて日を見つめたのちに、ほかの方へ向いても尚お日いさんの光を見る如くに、何時も心の中に神を思える人に解釈の出来る言葉で、外の者には判らんものであるという事を先生がおっしゃった。これをわかりやすい様にいいますと、お日様の方へ向いて、お日さんを見るのです。そして、次に目をつむるのです。やはりお日様が残っています。目の底に。これは、お日様を見ていないけれども、そのお日様へ向いとるのと同じ様に、やはり目の中に光って見える。信仰もどうかといいますと、神さんの前でお勤めをする。あるいは人と人とのおつきあいの間に、神様の教えて下さっておる心あいでおつきあいをする。こういう風に、始終神さんの方へ向いとる人は、神さんの方へ向かん時(人間の方へ向いとる時)にでもその光が残っておる。こういうことなのです。
ちょうど、たとえてみると、お日様の方へ向いて、こんどぶりよその方へ向いて、お日様が残っとるのと同じ様に、信心でも、一心に思うとる場合には、あとへお陰が残っとるもんじゃと、先生がおさとしになっているのです。この事は、あんた方がよくおわかりになるだろうと思います。
お日様の方へ向いて、お日様を見る。こんど横の方へ向いたら、向こうの方が見えません。お日様がやっぱり照っとる様に見えます。これは、目の中へ余光が残っとる。又、神さん仏さんも、お陰を受けて有り難いと思った時には外のこと考えていても、やはり有難いが残っていて、いつとはなしに信仰の教えの様な生活が出来ると、こういう事をおっしゃっているのです。
この二百四十七条に書いてあります事は、いつも始終、神さん仏さんのこと思う人が強いという事を書いてあるのです。お経文にも、朝念観世音・暮念観世音・念念従心起・念々不離心という経文がございますが、これはその事を言うてあるのです。朝起きて念じる。晩に念じる。又その間でも何事考えても、神様に連絡した考え方をする。自分がもの思うても、信心に連絡した思い方をする。こういう風に始終、起きておる間そういう事思うとる人は、いつもお日様が目の中に残った風に、神様のお陰はもらえる。こういう事ですから、誠に意味深いことでございます。
(昭和三十六年九月十五日講話)
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第二四八条 「物いみ、物断ちは、わが身の行である。それをなにかよい事のように思うて神に願をかけてはならぬ。
これはよくありますが、神様私は何々を食べませんから、お陰下さい。こういう事を願かける方がたくさんございます。そりゃあ悪くないんです。たとえば、酒を断ちますとか、あるいは煙草を断ちますとか、いうことをお願いして、神様に何々をきいて下さい。それは悪い事ではないのです。悪いことではないのですけれども、泉先生は、それはわが身の行じゃ、とおっしゃった。神様にもの聞いてもらうのは、神様の喜ぶ事をしたのが、きいてもらいやすいんじゃと、よく似とるでしょう。お間違いにならん様に。ある人が、わしゃ物たちやようせんから、お念仏断つけん、という様な面白い願をかけた方がありますが、こりゃあ悪い事ないのです。何でも物断ちするという事は、思うておればこそ物断ちするんですから悪くはありませんけれども、そういう物断ち、物いみという事は、わが身の行でございます。それは、さかな食べませんという様な先生は海へ行けば、塩けを断ちます。これは、わが身の行なのでございます。わが身でございますから神様には届きますけれども、行そのものが慈悲に通うていなければ、お陰にならんのです。ここを先生がおっしゃった。先生は、神様は塩断てとは、おっしゃれへん。塩食うたらいかんとおっしゃれへん。
ところが人間は、生きとるのに塩がなければならんものでございましょう。その、なけりゃならん塩を断ってでも、神様にお供えするのじゃという、その心がきくのでございます。決して塩を断ったから神様が聞いてくれるという訳のものでないのです。ここを間違えん様にというので、わざわざ泉さんが念を入れて別におっしゃった事なのです。
こういう例がよくございます。この何々の神様を信心するのには、何々食べたらいかん。こういう事いいますけれども、ここをお間違いにならん様にせないかん。わが身の行として始終気をつけておれる様に、何々を食べません。何々をいたしません。こういう様なことをいう。そりゃ神様から見ると、そら食べたって神様きらいなものでないから、かまわない。又世の中の足りにならんけれども、心掛けておるという事が届くのです。それだから同じ届く中でも、人を大事にする、世の中のたりになるという事をする為に物たちをする事が一番よくきくと、先生はおっしゃった。ここをお間違いにならんように願います。
(昭和三十六年九月十五日講話)
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第二四九条 「日蓮上人が鎌倉のたつのくちで首を切られかけた時に、泰然として、一心動せず、神を祈りつづけた、刃はだんだんに折れた事は、有名な話である。これは何も不思議ではない。理に合わんからというて信ぜぬ者はいつまでも神さんに救われぬ。
こういう事を先生がおっしゃったのでございますが、これはよくございます。お四国さんにも、こういう事がだんだんございますので、食わずの栗であるとか、あるいは衞門三郎が生まれた時に、生まれかわって石を握って生まれて来たとか、こういう様な事があるが、生まれて来るのに石を握ったりする事あるか、と同様に、鎌倉の竜の口で日蓮さんが首を切られかけた時に、振り上げとる刀が三つに折れてしまった。そんな事があるかと、こういうのです。
すべてこの人間の道理に合わん事は、そんなことないというのが人間の癖でございます。泉さんは、そういう事をいうとお陰にならん、という事を戒めているのです。神様の方のお考えというものは、どういうことを考えさすのかわかりませんから、あの観音経を見てご覧なさい。観音経に書いてある事は、そのお陰を念彼観音力として色々な事を書いてございますが、野原へいって、ぐるりから火が燃えて来る時分に念じた場合には、其の火が消えてしまうという様なことを書いてあるのでございます。信心のない人に限り、そんな事あるか、火が燃えよるものが念じたって火が消えるか。なるほど道理からいうとその人がいうのがほんとうの様に聞こえるのです。しかしながら、ここに信心といいますものは、不思議な事が起こるのでございます。不思議でなければお陰にならんといっても、かまわない位のものです。すべてお陰というものは、大抵道理でそんなことになるはずでないのに、なったというところに、お陰があるのでございますから、泉先生がそれをよく戒めて下さってあるので、そういう事をいうとお陰にならんという事をおっしゃって下さっているのです。これは、たくさんの例がございますが、定めしあんた方もそういう事にお合いになった事があると思います。
私が会った事をお話いたしますと色々ございますが、こういう事があります。私はいつも撫養の酒屋の方へ、日に日に自転車で通っていたのでございますが、ある晩夢を見ました。腹へ針が突き立っとるのです。痛いのです。痛いなあ、これは抜かないかんと思うて、引っ張って見ると、皮がついてツーと引っついて、皮が持ち上がって痛いのです。こらあ、そろそろ引っ張ったのでは都合が悪い。強く引っ張らないかんと思うて、きゅっと引っ張って抜いたらあまり痛かったので目がさめたのです。今の夢であってよかった。針が腹へ突き立っとった。その突き立っとった所がちょうどへその横でございます。朝起きたら未だ痛い気がするのです。こりゃ妙な事であった。今日、なんぞあるんかいなあ、気を付けとらないかんと思って、朝起きて、ご飯をいただいて、それから自転車に乗って撫養の方へ出かけるのです。これ又ころんで腹でも突いたりするのでないかと、気をつけて行かないかんと思って、ソロソロ自転車を踏む位にして撫養へ行ったんです。そして自転車を置いて事務所へあがりまして、机にもたれたのです。 するとヂカッと突き立ったのがあるのです。私の腹へ、机へもたれると、ちょうど帯のところを机へもたれて押したんです。すると、腹へくさっと突きささったものがある。これは大変と思うて、あまり痛かったので、急いでそれを調べて見ましたところが、木綿針の大きなのが帯へ突き立っているのです。それを私が机へもたれて押したものですから、腹へ突き立った。ちょうどそれが夢に見ました、私が突いたへその横の所と同じ所を突いとるのでございます。よく考えてみますと、その針というものは私が宅に居る時分に、帯を解いて置いてあったところへ、子供かだれかが針を落したもんです。帯に突き立っとったのを知らんと、朝、私が帯をして家を出たんです。その針の危い所が、 ちょうど夢に出て来とるのです。そんな事あるかって、あるんでございます。私があったんですから間違いないのです。こういう風に危険が存在しとる事が、何となく夢心地に感じて来るんです。そういう事が一つのお陰というのでありまして、理屈に合いません。夜夢見たのは針が腹へ突き立っていたのです。針が腹へ突き立ったのは、夢であって、夢で見たものと、昼の出来事は別物には違いないのですが、理屈から言うとそうなるのです。けれども実際において私は、そういう事がございました。
なるほど、泉さんがおっしゃる、理屈というものは言わんのがええ、お陰というものは理屈に合わん場合があるんだから、理屈に合うとるからわかったというのは、それは人間の性根であって、決して信仰じゃないのじゃと、泉先生からよく聞かされましたのです。定めし、あんた方もそういう事がおありになるだろうと思います。お陰というものは実に不思議なものでございまして、理屈に合うものでないのです。
それともうひとつのこと、八栗山の四の剣で鎖が切れかけていたのです。あの鎖、なかなか太いボートーです。指位あるボートー(五分ボートー)をまげてある鎖ですから、なかなか切れる訳がないのです。それが切れかけとった のです。それを私は知らんのです。けれども、人がすがったら、切れるように、かんが口はっとるので、抜ける様になるのです。そういう風になったので危いというので、これは、つくろわさないかんというのが、私が四の剣の鎖の真上にきた時分に、どうしても私、その鎖をおりなんだらおれん様になったのです。どうでもその時、泉先生も私お供しとったんですからおいでました。外の連れもみんなで七人でありました。泉先生が「村木さん、何しよんぞい。立てっていごかんと」「いや先生、足がいごかん。この鎖から下りたいんでございます。」すると先生が手をつき出して八栗山にお尋ねして下されたのです。「やあ、村木さん、ここからおりない。「鎖に不審がある、むすこおろせ」と、こうおっしゃるから、おまはん、ここからおりない。私は北の方へ回って下りる」というので、先生と外の五人の人と、北へ回って木の根伝いにおりておいでたのです。私はくさりをつたっておりたのです。鎖半分位下りた所で、くさりがじゃらんと、飛んでしまいました。そして私は、そんな事知らんものですから、そら危なかったと思って、今度岩にへばりついてソロソロくさりを離して下へおりてきまして、又切れて下へ落ちとるくさりを体へ巻いて、お不動様の前にあった針金をもらって、又岩を登っていってつないできたのです。そこへ先生が回っておいでて、「村木さん、くさりが飛んだんか」「へいくさりが飛びました」「危なかったな」そして先生が喜んでくれました。
「ああ、これ、おまはんがここ下りなんだら、先へこのくさりにとまいついていたら、切れて飛ぶんであったな」そして、先生は下のお不動様の岩屋へ、おは入りになって、お不動様にも喜んでもろうた事がございました。
これなども、私は、くさりが切れかけとるなど知りません。切れるといっても、このかんが口はっとるところがはさかって、抜けるのです。そんな事知りません。又見えません。そんなもの、岩から何間も下へ向いとる、あの中頃ですから、下からも上からも見えません。それ知らんと、私下りていきまして、飛んだのです。これなどを考えますと、神様からいうならば、このくさり、つないどかなんだら危い、人がころげ落ちて死んでしまう。そこで私の体をかりてこいつ危いことけっこうするんじゃから、こいつの体かってつながしてやろうと思って、私を使うて下さったと、こう解釈するのです。
けれどもそれを、もしこういう風に解釈したら何でもないのです。あれまあ、村木がよく降りていったもんじゃ、降りていかなければ、くさりが飛んでしまうのであった。神さんや仏さん、そこのけにしてしまって、そういう風に言えばお陰も何もないのです。又そんな事知る訳がない。私も、こういうところを先生がよくお教えになっとるのでして、どうぞお陰というものは理屈とは別ものであるからして、理屈に合わんからそんな事ない。こういう様に言ったら、お四国さんにもだんだんおいでになりますが、お四国の道にもお大師さんの「ご遺蹟」がだんだん残っております。残っておるというのが又、理屈に合わん事が多いのです。おいでになったお方はおわかりになると思います。
今にそういう事を言い伝えて、お大師様、有り難う、有り難う、と言うておいでになって、大きなお陰をうけておいでるお方がだんだんございます。それを理屈からいうと、そんな事あるかというと、お陰という事が有り難うないという事になるのです。
こういう風に、どうぞ信仰なさる方は、理屈というのを抜きにして、とうてい人間の力ではわからんのだ、こら お大師様ご承知であってこうなった。こういうことにして、有り難いと思う心にお陰が受かるのですから、ここを気をつけえよと先生がおっしゃった事なのでございます。どうぞ二四九条は、そういう先生が大事な事をお教えになっているのです。こらよくあることでしょう。あんた方、お四国へ回ってご覧なさい。沢山ございます。お大師さまのおかきになったお筆をお洗いになった所にはえた草なのですが、お大師様の筆のようなのが、海岸寺付近にございます。食わずの栗といって、栗によう似とるけれども、食えないのや、さかなの片方あみにかけてあぶった様に形が入っていて、片方は白い、そんな、さかなが泳いでおります。これ皆四国の道にお大師様は不思議をあらはしたのです。
それから、さばさげ大師さんもあるでしょう。お大師さんが、塩切ってあるさばを、ひとつもろうて、「これみなはれ」と言うて、沖へそれを放すと、塩してあるさばが、泳いで向こうへいった。塩をしてあるものが、泳ぐかというと、それでおしまいなのですが、人間の目というものは不思議なもので、有り難いと思うたならば、塩切ってあろうが、乾物になっとろうが、それを水の中で泳いで走りよる様に、つまり目にうつるというのがお陰なんでございまして、塩さばそのものが、さかなになって泳ぐという事あろうはずがない。そらその通りでございます。しかし塩切ってあったとて乾物であったとて、泳ぐ様に見えるものは仕方がない。こういう事がお陰のもとでございますから、大変大事な事です。どうぞここを勘違いのないようにお願いしたいと思います。今日はこれで置きます。
(昭和三十六年九月十五日講話)
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第二五〇条 「からだの健康な人には、食物のすききらいが無いように、心の健康な人には、世の中にすききらいがすくない。
先日来は大変なシケが致しまして、誠に御気の毒な人がたくさん出来た事は、おしい事でございます。しかし徳島県も、その仲間入りいたしましたけれども、これを手本にして、将来こぎぬいて天を恨まんという様な事が大事じゃと思います。今日ソビエトがしよる事見ましても、気にいらんからおれするんだと、そうして世界中の人に毒になるところのあの爆弾を空中で破裂させまして、毒の灰をばらまいておる。今日それを試験いたしてみますと、相当量の毒がはいっておるという事を見い出しておりますが、こういう様に、その時世を恨んで、やけくそやると、こういう事になってはならんのでございまして、実にこんどのシケでも一つの実例になりますので、天の状況に対してなげをうたない様に、これは、こんど振りはこういう事に気をつけなならん。こんどはこういう事に気をつけなならんといって次第に工夫をこらして、天の動きに応じて行く事が必要だと私は思うのです。それでないと、社会は進みません。
私は相当日本の国を、あちこちとお参りさして頂きましたが、どこの国を見ましても、私は故郷びいきかも知りませんけれども、この徳島県の農業は、ほんとうに恵まれております。今日こういうシケがいたしまして、恵まれているという事は妙でございますが、大体において、十年平均するならば恵まれておる方でございます。どうぞその意味で辛棒強く、大いに勇気をふるって、おいでられん事を望みます。
「体の健康な人には食物の好ききらいがないように、心の健康な人には世の中の好ききらいが少ない。」こういう事でございます。これは、あなた方が常々よくご覧なさっとる事と私は思うのでございますが、本当に達者な人は、何のおかずを 妻君がこしらえても、黙ってあがっとる。多少の好ききらいはございますが、これは食えんというのはない。それと同様に心の健康な人、心に癖のない人、いい換えると、気持のええ人、そういう人には、人に好ききらいが少ないというのです。ちょうど、食物とよく似ているような事になっておると先生がおっしゃったのでございますが、なるほど、泉先生はお好きなものとお好きでないものとが、あがるものにありました。しかし先生がお好きにならんというのは信仰の上で、たとえばこのお聖天さんの紋は大根だから、私は大根をいただかん事にしてまいりますと、大根をたべるのをご遠慮申して、聖天さんにお仕えするというようでございました。けれども、わしは味の上で、食われん、とは一切おっしゃらないのです。と同様に先生は、いかなる人が先生の所へお頼みに出ても、わしゃ知らんわとおっしゃらなかった。
一例をあげて見ますと、こういう事がございました。私は見知りのない人でございますが、どこか遠方から来ておる人でございましたが、先生に、こんどはこういう商売をしてみようかと思うんですが、いかがでございましょうか、と先生にお尋ねしているのです。先生お拝みなさっているうちに、こういう事が出てくるのです。「あんたは今まで の商売は、運が向いていませんな。」「ああ、そうでございますかいな」「あんたのは、昼はあんまりお仕事をなはらん、夜の仕事ですね」片方は胸にあたりますから「はあ」と言うとる。「これでは、お家のご運が立ちません。このあとも、あんたは、馬ごとなさりよった」「先生、馬ごとってなにですか」「馬ごとって、今日で言いましたならば、手錠入れるのです。」昔は手錠でなくして、くくって綱つけとったもんです。そのところまでいきますと、その人は恐れいってしまった。ところが、あとの先生のお言葉が、「決して心配なさるなよ、今まで間違うとったあんたは、今日それをこんどは商売しようとする事を神様に尋ねておいでる、改むるに憚る事なかれ。あんたは今神様にすがっておいでる。だからこんどは運が向いてきますぞ。今までのは全々おやめなさい。」私はそれを横で聞いていたのですが、私の察する所、この人は刑務所へお世話になった事がある。夜、仕事をして、よその家へはいるのを仕事にしていた。 それがひとつの事に感じて、これはいかん、正しい商売をせんというと、子供の為にならんというので、それをやめて商売の方へ力を入れようとして、先生の所へお尋ねに来たのです。それを先生がちゃんと知っておられて、それで、今言うた様にお話しをして、「まるっきり、あんたは今までの事を思い切って、そうして、こんど商売なさろうとしとる。それは大変結構です。ところが、おまえさんは、所変ろうとしとりはしませんか。」「先生、家内と子供とを連れて大阪へ行こうと思っとります。」「それはよかろう。大阪へ行っての商売というが、あんたは金物いらうのが好きじゃな、かじ屋さん」「ええ先生、私は大阪へ行って、あのいたち堀で金物の商売」「そりゃよろしい、あの大阪のいたち堀は金物の町なんで、そしておまえさんところの親類がいっとるな」「ええ先生、親せきが進めてくれるんで、あちらの方で店をひらく。」「それはよいぞ。神さんは、こんどあなたが思い切って足を洗うて、きれいな社会へでて行こうとしている事にお力を貸してくれるから、喜んでおいでなさい。」こういう風に、じゅんじゅんとお話をしたところ、その人は涙を流して喜んで帰りました。私はその横でおったのでございますが、こういう間違った道を渡っていた人でも、改心して、ころっと舞台を変えるというたら、今お話する様に先生は実に親身もかなわん様なお教えぶりでございました。
こういう風に先生は、いかに世間ではきらうところの世渡りをしている人でも、おきらいにならんのです。そのあとで、私は先生にこういう事をお尋ねした事があります。「先生、あんたは、すべての世の中できらう人でも、親切におっしゃっておあげになるんですが、先生のお気持はどんなんでございましょうか。」とお尋ねしたところが、先生はニッコリお笑いになって、「村木さんよ、この世の中にはな、ええ人はほうっといてもええ方へ向いて行くんだ。しかし何かの都合でつい表へ出せん様な事を商売としている人が、頭打っても、これで悪くなって行く人と、ようなって行く人がある。そういう人を今悪い事しよるからというて、退けて行くならば世の中は助からん。ええ人は放っといても助かる。そういう人を導いて行くのが、ほんとうの神様の道ぜ。」こういうことを私聞かされた事があるのでございます。なるほどそうです。いかにも先生は世の中の好ききらいをなさらん。世の中に毒を流す人と、かえって交際して、そうしてその人を善導する。実にこれが生神様の行動じゃなあと思って私、頭がさがった事がございます。それから、これは私がちょっと申しにくい事なんでございますけれども、昔から身分の卑しいという人がございます。卑しい人といえば、物をもらいに行くとか、あるいは人のきらう商売をしておる人、たとえば犬を殺すとか、 そしてその皮をはいで売るとか、こういう人が世の中にございます。ところがその人が先生の所へ助けに来てもらっておりました。先生はだれでもほかの拝み所でありましたなら、そういうけがれとる人はうちの座敷へ来てもらわん、とかいう様な事を言うのでございますが、泉先生は決してそれはおっしゃりません。こういう人だから助けてあげないかん。こういう思召で、特にそういう人を実に親切にお導きなさっている事を私は、目の前で拝見したのです。
この様にして先生は、普通の拝む人とは全々違うのです。普通の拝む人は、こりゃ金になりそうなと思うたら、えらい事親切にやる。こんなの世の中できらい果てとる人だ。こんなの拝んだって、という様な事言うのでございますけれども、泉先生は、そこはもうほんとうに生神、生仏の様なお助けぶりでありました。 こういう事が決して、その拝む人に限らんのです。普通一般の人でもです。食物に好ききらいない様に、心の上の健康な人は向こうの人が。悪かろうが、よかろうが、そういうことに頓着なしに平等におつきあいをして居る。こういう事が大事じゃと私は考えます。ちょうど二百五十条は、先生がそういうおつきあいする人に、好ききらいなしにおつきあいをしたという事を書いてあるのでございます。
(昭和三十六年九月三十日講話)
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