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第二三二条へ 第二三三条へ 第二三四条へ 第二三五条へ 第二三六条へ 第二三七条へ 第二三八条へ 第二三九条へ 第二四〇条へ第二三一条 「人一人、助けるのは、千仏を供養するよりも お陰が多い。」
二百三十条に続いとることでございまして、今申すように、だれでも世界中で一番かわいい者はわしじゃと皆、思うているんです。どうですかあんた方、私がいうとそうかいなと思いなさりはしませんか、雷がガラガラガラと鳴って来た。一番先に年老いたお母さんを負うて逃げてあげねばならんという人はまれで、自分が真っ先に走り出るのです。何もかもほうっといて逃げる。これは自分がかわいい証拠です。そういう風に世の中で、一番かわいいものは何かというと自分です。その自分がかわいいという事は、だれでもがそう思っておるのでございますから、人一人助けたら、千人の仏さんを拝んだのと同じになるのだと泉先生はおっしゃった。
わしが一番大事、そうでしょう。ひとつ見てご覧なさい、子供でもそうです。一番自分を大事にしよります。ところがその自分が大事と思いよる人を一人喜ばしたら、千人喜ばしたのと同じになるという理由がわかりましょう。
人一人助けたら、千人の仏さんを供養するよりもお蔭が大きい。泉先生がおっしゃることはすべてこうなのです。 ほんとうにわかりやすい教え方でござります。人一人助けたら、仏さん千人拝むのといっしょじゃと、一寸わかりにくいでしょう。ところが、そうでない。泉先生のおっしゃるのは、わしが世界中で天にも地にも、わしほど大事な者はない。わが身がかわいいったら、なかなか千人どころじゃありません。その一人を助けるのですから、世界中で一番大事にしよる人を助けるのじゃから、何千人助けたのと同じことになるんです。
泉先生は、そういう風に、まことにわかりやすうに解釈なさっとるのですから、神さん仏さんを供養する、拝む事も必要でございますけれども、それよりも、人一人を怒らさんようにせないかんと私は思うのです。まず助ける事がしにくかったら、怒らさん事から始めませんか、怒らさん工夫が出来たら、こんどは助ける下地になります。 どうぞ私は千遍説教するより、一遍行うのが大事じゃと思います。村木があんな事いった。一遍やってみんかと、どうぞひとつ人助ける、人怒らさんように実行してみて下さい。千人の仏さん拝んだ事にあたりますから、笑いながら私の言うことを実行して頂きたいと思います。
(昭和三十六年六月十五日講話)
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第二三二条 「わが身の非を悟れた喜びで、神様にお礼を申す心こそ、誠の心である。」
ここも二百三十条に関係があります。今日のは、皆関係があります。手を引いとるようなお話しでございます。
だれでも、わが身というのは、わが身のあかは、わからんと昔から言いますが、どうしてわからんかといいますと、わが身ほどかわいいという心のためです。それだから、わがが間違っている事でも、ええように思う。そこで我が身をかわいがる事よりも人をかわいがるのが先じゃとこういう事がわかります。ああ、わしゃ今まであんなに言ったり、したりしよったのに、これはこの話に照らして見ると間違うとる。こういう風にわが身の非を悟るんです。間違いを悟る、わがが間違うたという事を悟ったら、神様にそのお礼を申す。今まではわが身息災を考えていましたが、わが身の間違いというのがわかるようになりました。有り難うございますとお礼がいえるだけでも、たいしたお蔭じゃと私は思います。どうでございますか、あんた方は。だれでも自分の修養心が出来てくるほど、わが身が間違っている事を早く発見するのです。こんなまちがったこといままでわしは言うたり、したり、しておった、又内の家風はこういう具合にしよった。これ間違っていたと、その間違っていた事を発見したら、直ぐにご先祖や、神様の前で、今日はええ徳をしました。有り難うございました。これから改めます。これは大きな収穫でございます。 どうぞ今日のお話しは、天にも地にも、わが身ほどかわいい者はない。皆がそう思っているのだから、反対に人をかわいがったら、わが身がかわいがられるもとになるという原因と結果とが、反対になって来る事をお話したのでございますから、これは泉先生が非常に力を入れてお話しなさったのでございます。どうぞ今日のところは、ひとつ繰り返して、何べんもお考え願うて、これは良いと思ったら、どうぞ直ぐに実行に移して下さい。必ず家の中は春の朝日がさし込んだように朗らかにお達者に、運よく、いけるようになる事は間違いありません。
どうぞ今日のところは、そういう意味でひとつ実行に移して頂きたいと思います。
(昭和三十六年六月十五日講話)
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第二三三条 「人より難儀を持ちかけられた時には、因縁の筋道をとり違えぬように心掛けよ。」
外から自分の喜ばしいことを持ちかけられた時には、あやまちは少ないのですが、人から難題を持ちかけられた時には大変なあやまちをすることがある。これは先生のお戒めです。たとえば、自分には覚えのない事を持ちかけられて理屈を持ちかけられるばかりでなしに、暴力を持ちかけられ、あるいは悪口を持ちかけられる。この時には、よほど考えなくてはいかん。ややもすると、自分は真直ぐであると思い、相手がまちがっているのだと、こういうことに力を入れて、情に燃えるのでございます。
そんなときには、筋道なんか考えないのです。そこで泉先生は、そういう場合には因縁の筋道を取り違えぬようにせよ。そういう難題を持ちかけてきたところの人は、どういう因縁をもって、こういう事をしてきたのであるかと、常に相手のことを考えることが大事であると教えられている。
たとえば、向うには理屈はないのだけれども、おどして金を取ろうとか、あるいは人と人との争うている中へはいって、向う側の味方をして不都合であるというて刀を抜くとか、あるいはピストルを持つとか、切れものでおどすとかして、その人を困らしているのでありますが、その因縁はなぜそうするのかということを洗いただして見ますと簡単にわかるのです。理屈はなんであっても構わない。ただ一もうけしたらよいのであるという筋道から来ておる場合は、その因縁に応じた救済をしたらよいのでございます。
言い換えると、譲って向うを満足させると、もうその難はのがれられるのです。こういう事を考えていかんと筋道を取り違えたら大変な事が始まるぞ。泉先生はそういう事にお会いになったと思います。この事は大変大事なことでございます。
(昭和三十六年七月十五日講話)
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第二三四条 「人間の義理にからまれて、天地の道をふみはずしてはならぬ。」
これもよくあることでございます。義理にからまれて、そうして道を踏み外すということがよくあることです。
義理というのは何かと言いますと、情なんでございます。今から壱千百何十年前に弘法大師さまと、天台宗の高祖になられた伝教大師との、このお二人がこの事について、お話し合いをなさったことがあるのです。
人間が、どうも義理にからまされて、天地の行動をあやまるということがよくある。これはどのようにして助けたらよいだろうか、そこでお大師様と伝教大師さまとお二人が、お話の結果きめたものが麻訶止観です。その御経の本に書いてあります。これを一口に言いますとこうなんです。先ず、人間はよく目が見えんようになったり、間違っておこないをあやまるということは、何に依るかといいますと 情によるのである。情というのはえらい人でも、人間をめくらにします。情の為にほんとうの道理がわからないと言う事をやるのでございます。そこで情を離れてしまえ、これが教えなんです。情を離れてしまって、木や竹のような心になって、そうして理論の方で事を仕末せえよと、こう言うのです。簡単なのです。情の為にまちがいをする。とりもなおさず義理にからまされて天地の道を誤る。泉先生はつよくこのことを教えているのです。
なるほどその通りで、義理というのは情でございます。かわいいとか、憎いとか言う情でございます。そのかわいいとか憎いとかを、一応離してしまえ。木や竹であったらどうだろうか。あるいはそれが外の人であったらどうだろうか。こういう風に、わがが怒っている情をおさえつけてしまう。情というものをなしにしてしまう。そうして理屈の上で間違わぬように考えて、事を処理せよとそう教えています。それで情をはなれて理にたがわず、こういうようにせねばならない。これは皆さん大事な教えでございますので、額にお書きになっておいてもよろしい。 誰でもあやまるのは情です。あいつ憎い、あの人はよい人で嬉しいとか、この情の為に、ほんとうの筋道をあやまって、立派な人でも後の世に不名誉を残します。情を離れて理にたがわず。こういうことを額に書いてあるおうちがありましたが、まことに結構なことと私は思います。それを二百三十四条に泉先生がお残しになっとるのです。
これは簡単なことですけれども大事なことでございます。
それから子煩悩と世の中でよく言いますが、子ばんのう、これをここへあてはめてごらんなさい。子がかわいくておれん為に、ほんとうの子を育ててやるところの道を失うてしまうのです。私が小学校に行っている時の事でござい ましたが、ある家の子供が友達とけんかをするのです。泣かされる。その親御が唐鍬を持って追うて行くんです。 泣かした人を。そうすると、これはなるほど親として子供かわいがるということは悪くはありません。しかしながら、その泣かされた自分のうちの子供が良い場合も、又悪かった場合もあったと、そう私は思うのであります。それで、 そういう時分には、やはり相手方と自分の子供とを、一応情をはなれて見てみないといけません。うちの子が泣かされるのは、あたりまえだとか、あいつ意地が悪いとかいうように、わがの子供の癖を知り、そうして又その泣かした子供の癖も知り、両方の癖を子がかわいいとか何とかの情を離れてしもうて、そうしてほんとうに観察したら、中々唐ぐわや棒を持って追うたりするような事が無いはずでございます。それが為にその親に保護せられた子供が、ほんとうの修行が出来なかったことを私は知っています。泣いたら無理が通るのだという事を知っとる。それだから、わがままになってしまいましたが、終には世の中からきらわれるような人物になりました訳でございます。これは、取りも直さず情の為にほだされて、自分の子供のひいきを親がしすぎて、かわいい子供の一生を誤ったと言うことになるのでございます。そこをこのえらい泉先生は、これは信者の者に言い残しておいて、天地の道を失うことのないように教えられたものです。これは二百三十四条でございます。 それをもうひとつ私が、弘法大師や伝教大師さんのお教えのようなことに直してみますと、情を離れて理にたがわん解決をしろと、こういう事になるのです。そのことは重ねて申しますが、家庭の為には大変よい教えでございますから、やはり額にでもお書きになって、おあげになっておけば、自分の為、子供しの為、祖先の為、家の宝となるわけでございます。それは泉先生が、大変力を入れて我々にお話し下さった問題でございます。
よく貴方がたが、ご近所の人や世の中の人の事に押しあてはめて考えてご覧なさい。義理や情にほだされて大変な間違いをして居る人がよくありましょう。立派な人なんです。利口な人なんです。親御も利口な、子供も利口な人が情という為に迷わされて、わがが強くなって、両方共が立たんような問題をひき起こしてくる。これはお互に情というものはのけてしもうて、理にたがわん解決をせねばいけないと、泉先生が力を入れて私らに言うて下さった事でございます。世の中のことをご覧になって比較してご覧なさい。よくわかりますから。
どうぞその意味で二百三十四条をご覧願います。
(昭和三十六年七月十五日講話)
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第二三五条 「人の道は、自分がふみ行う道であって、人を責める道具に使うてはならぬ。」
泉先生の教えとか、あるいは弘法大師さまの教えであるとか、昔のえらい人の教えがたくさん残っておりますが、 これを人の道とひと口で言うております。この人の道は、自分が黙って自分のからだでふみ行うべきものであって、 人がその道を知らんというて、それを責めるのに使うてはならぬ。「お大師様はこう教えてあるのに、おまえはなんだ。」と教で人を責めることがありますが、ご自分が行うてしかる後に、人の方に言うのでなくては、自分が行のうておらんのに、味を知らんのに人の方を責めてはならぬという事です。これもあなた方が静かに世の中を見てご覧なさい、よくあるのです。泉先生はここを面白うに教えています。
どういうのかと言うと、「村木さんな、人がけがしとるんじゃが、それが打ってはれとるんじゃ、痛かろうといってさするのは、向こうでは喜んで受けるけれども、いくら有り難いお経文であっても、お経文を持ってきて、お前とろくさいけんじゃとお経文で頭をたたいたら怒らん人はありましょうか。村木さんどうじゃ。」先生の教えには参ってしまう。なるほど、かわいそうに思うてさすったら、向こうが涙をこぼして喜ぶけれども、どんな有り難いことを書いてある経文であっても、おまえとろくさいから、ひとつたたいてやると、そのお経文でたたいたら怒らん人はありません。ああもったいない、有り難いとは言いません。村木さんここをよく考えないかんぞと、私、先生に言われたことがあるのです。すなわちそれは二百三十五条に書いてあるのです。泉先生が、そういうことをおっしゃった、 それで私は、人の道というのは、自分がふみ行う道であって、人を責める道具に使うてはならぬ。これがよくあるのです。信仰する人はよくあるんです。
昔、論語という孔子の教えの道があるのです。論語に書いてあることは、なかなかいいことを書いてあるんです。 道徳上のことを。ところが、それをよく知っとるのに実行ができない先生があったのです。それをどんなに言うかと言うと「論語読みの論語知らず。」て、あなた方も聞いたことがあるでしょう。論語読みの論語知らず、すなわち論語であろうと、経文であろうと、人の道の教えを書いてある事は、自分がふみ行うて、それを自分のものにして、そのからだや、言葉や、心で人に接して、人に迷惑をかけない。人によい感情を与える。人を助ける。それならば、いいけれども、覚えたことで人を責める道具に使ったならば、かえって言われた人は腹が立ってくるのです。そうして助けるどころか、敵になってけんかになるのです。
泉先生は「わしのことを皆、泉聖天さんと言って尊敬してくれるけれども、これはみんながおかげを受けるための心からであって、わしを、人を責めることに使ったらかえってお陰がないぞ」と教えて下さったのはここです。それで人の道は自分がふみ行うのじゃ。人を責める道具ではないんだとだけは、泉先生の信仰者は知って欲しいのです。
弘法大師はここをどうお教えになりましたかと言いますと、人の短を言わずわが長を説かずとおっしゃった。短とは人のできとらんところです。人の短所です。理屈が多いとか、人ごとをよく言うとか、横着なとか、ずるいとか、いうような人の短所です。それを言うなよと、又反対に、私はこうゆう具合にして、人を助けたとか、私はこうしてもうけして、そのもうけた金を人にやったとか言うような風に、自分の長所を人に言うてはならぬ。自分の長所は、だまってかくしとけ、人の短所は見て見ぬ振りをしとれ、かわいそうに思うたげ、こういう風に弘法大師はおっしゃっています。泉先生の教もよく似ています。泉先生はこの教えの道は、自分のする学問であって、人を責める道具に使ったら、かえって人を殺すぞと、どうですか。泉先生のこの教えは生きておるでしょう。
今そういうことありはしませんか。人の悪口をよう言う方がね、それは悪口言われる者も悪いでしょう。悪いでしょうけれども、人の悪口をよう言う人がありましょう。そうしたら、その悪口いいよる人が結局人に尊敬せられるかといいますと、きらわれています。言われた人は、さほどにきらわれません。言うた人をきろうています。つまり、教えの道で人をたたいたということになるのです。そういうことは、現在あなた方のこの世で手本が見えよるでしょう。どうぞ、そうゆうように悪口いいよる人がありました場合には、いいよるのをいいたい放題に言わしておいて、聞かんふりして、ともに人の悪口を言わんことがよろしい。
それから又、こうゆう事も世の中によくあるのでございます。「お前さんだけに言うたげるけん、よその人に言いなはんなよ。あの人こうゆう事をしたんで。」これ、おまはんだけに言うけんどな、人に言いなはんなと言う位のものなら、その人にも言わんのがよろしい。その人に聞かしたところで、その人喜ばないのです。人の悪口ですから、それが為に人を何人も傷つけることになります。これも、あなた方はすでにご覧になったり、お聞きになったことだろうと思いますから、どうぞ泉先生の教え、弘法大師の教えが一番き麗じゃありませんか。人を助け、わがが助かるんですから、どうぞ人の悪いことを聞いても、それは言わないこと。あのお庚申さんのさるがそれです。「あれは青面明王の教えといいまして、青面明王の経というのがあります。」青い顔の仏様のお経文というのがあるんです。そのお経文を見ますと、身、口、意の三つですね。からだですること、口で言うこと、心で思うこと、これを慎しめということを書いてあるのです。
そうゆうことを書いてあるのを、形であらわしたらどうなるかと言いますと、言わざる、見ざる、聞かざるになるのです。さると言うからさるにしてあるのです。言わざる、 聞かざる、見ざる、三つのさるにしてありますが、あれは人げんの行ないのことを教えてあるのでありまして、人の欠点を見るな、そうして口で言うな、人から聞かされても、心へ聞くなと言うのです。ふたしているのです。だからどうです、あなた方も経験でよくおわかりになりましょうが、人ごと言うのを好きな人には、人から言ってくれるのです。妙でしょう。人ごというのを好いとる人には人からよく言うてくれるのです。人ごと言うのをすかん人には言っても、はずみがないから言いません。だから、あのな、おまはんだけじゃ言うたげるけれどなと言われる人も、名誉でないことになるのですから、あのお庚申さんのさるのごとく人の短所を見たり、聞いたりしない。人の悪口も言わない。こういうことになりますと、外の悪い連れが来て人の悪いこと聞かしもしません。そうすると、おのずと耳に蓋したようなことになって、楽々とこの世を気持よく過せる。
どうぞ、この二百三十五条はお庚申さんのさるみたようなことです。つまり三つの教えです。それは自分が行いなさい。自分がそうゆう風にしたら、お陰は自分の身の上へ降ってくるんだ。決して人が間違うとるのを、責める道具に使うてはいきませんぞと、これは私が泉先生に直接お教えを願うたことでございます。どうぞ広げて言うたら、今申したようなことになるんでございますから、その意味で二百三十五条はご覧願います。
(昭和三十六年七月十五日講話)
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第二三六条 「国のおきては、よし悪しをいうてはならぬ。皆神の氏子が相談できめたもので、悪ければ神様が正す時が来る。」
国のおきてといいますと法律でござります。法律というものは、悪いと言うて反対してはいけないと、これは皆さんが選挙した代議士がこしらえたものです。信仰の方から言いますと、神の氏子がきめたと言うことになるのです。
神さんがきめたのでないのです。神の氏子がきめたのです。ですから、法律というものには、信仰で見れば、悪いものも中にはあるかもわからんのです。信仰の道には悪いのはありません。言い換えたら神様の教えには、悪いことはひとつもないのです。けれども、法律は人間がこしらえたのでございますから、言い換えたならば神様がきめるのでなしに、神の氏子がお互いにきめたのでありますから、時によったら悪い事もないとも限りません。それだから、ちょいちょい直すのでございましょう。法律直しているでしょう。あれが証拠でございます。
しかし、いったん国の法律となった場合には、それに従って行けと言うのです。ところが今日の空気はどうでございますか、法律に決めてあるのに、それに逆らいよりはしませんか。新聞によう出ていますね、ストライキやって、大勢の人困らせて見たり、また大きな旗を立てて、いっき起して見たりしているでしょう。あれが法律できめてある事を反対しているのです。私はそういうことを悪いと申して、やかましく言うのでありません。どうぞ、皆さんがそう言う事をなさらないようにと言う事を申すのです。今なさっている人の悪口は、いいたくありません。そういうことになってはいけないから、どうぞ国のおきては良し悪しは言うな、法律となっておる以上は、それに従うて行きなさい。もしその法律が悪いのであらば、神さんが直す時がくるから、心配せんでもよろしいというのが泉先生のお考え方です。今日の新聞にはよくあるでございましょう。法律を直すという、直ささんという、大きな騒動起こして新聞に折り折りけが人が出たりしています。こういう事には、くみをするなと言うのです。
泉先生は、「悪い法律を変えて欲しいと思ったら、自分が従うておって、念じておれよ」と。法律は、変ってくると言うのです。なるほど泉先生は今日の政治にでも、こういう卓見を持っているのです。泉先生は、政治なんかお知りになりません。政治に関与しません。選挙にも関与しません。けれども、お心はこういう立派なお心を持っておるのです。国の法律になったらしたがえ。泉先生に一度こういう事がありました。
ある病人を、先生が助けたのです。すると、助けたということを、ある人が警察の方へいうていったのです。先生が 鞍馬の山の天狗さんを呼んで来て、その天狗さんを拝んで、そうして治した。そんなこと言うて、人をおどしてからするのは悪い。こういう事を警察へ告げていった人があるのです。すると、警察から泉先生の所へ来まして「時に、おまえさんは、この人拝んだことあるか」先生は「ございます」「その時に鞍馬の山の天狗さんって、天狗さんが出てきて、お前見えたのか。」「私は神さんを拝みよると、口がああいう風に言うたのでございます。」「あんなこと言うて、人を迷わしていかんでないか、それはおまはんの言う通り向こうの病気はなおった。そして、無い事は言うとらん。有る事は言うとる。なるほど、ことはよくおうておるけれど、天狗さんがそんな事教えるか、あなたのなさったことは 警察犯処罰令に触れるので、ちょっと来てくれ」と、とうとう泉先生は 長尾の警察へ引っ張られたことがあります。そして、長尾警察から刑務所の方へ送られた事があります。それでも泉先生は「ハイハイ」と言って、決して理屈を言いません。今日は信仰の自由ということになっておりまして、人を迷わしさえせねば罪にはなりませんが、その当時は、大正時代でありました。大正時代から昭和の初めころは、やかましく言うて、すぐ留置していたのです。
それでも、泉先生は、これは国法に決まっていることは、お従いせねばいかんと言うて、先生は決して反対せずに刑務所へおいでたのです。先生は三十日おいでになって、三十日の間、一切ご飯あがりません。ついに三十日の間刑務所へはいっておいでたにもかかわらず、三百匁目方がふえて出てきたのです。どうですか、そうしたらもう警察にはやかましく言い出して「これはどうしたんだろうか」、お医者がしらべてもわかりません。先生はそういう不思議な力を持っておいでになったお方であったのです。私にお話しがありました。
どうぞ、国の決めた事は反対してはならぬ。それには従がわないかん。神仏がよいことであれば助けて下さる。心配するな。こういう事を泉先生がお教えになったのはそういうことが、あるからでございます。私が聞いたことでもあるし、又有名な問題でござります。
「三十日も刑務所へ繋がれておって肥えて出てくるとはどうしたんだ。おまえはどんな不思議な事を知っとるのか」、向うから「教えてくれ、不思議なことを知っとるのを言うてくれ」、先生責められた。「これは私が言うたら又私を刑務所へつなぐから、私いいません。私がほんま言うても、すぐにつなぐんじゃけん言いません。」先生そうおっしゃったら警官が「それならもうつなげへん、言うてくれ。」「これ申せといわれても口でいえません。不思議な人が来て助けて下さったので、あなた方に言うたとておわかりになりません。けれども 私は、三十日つながれておって目方が増したからといって、ほめられたら私は恥ずかしい。あのへびやかえるをご覧なさい。百日から土の下や石垣の穴へこもって、出てくる時には以前より肥えとるじゃありませんか。私は三十日位物食べなくても肥えたと言うたら、へびやかえるに恥かしゅうござりますから、もういうのこらえてくれ。」先生、そうおっしゃったそうです。そうすると警官も、ほんにそうかなあ、へびやかえるはもの食べんと、百日も穴の中へこもっておって、出るときは前より肥えて出よるな。そんなこと、あるんかなあと言うて感心した有名なお話があります。こういうわけでございますから、泉先生のおっしゃる事は、決して言葉に飾りがない。ほんとうの事ばかりおっしゃる有難い教えでござります。
(昭和三十六年七月十五日講話)
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第二三七条 「人が生きるのに、たりとなる物は何ものによらず大切にするがよい。」
これは日頃泉先生がお考えになっておることでありまして、人間の生活に足りになるものは、粗末にするなというのです。これは、とりも直さず、人界全体にご奉公するという心と同じなんでありまして、たとえて見ますと、先生はお参りの道中に一尺以上のなわ切れが落ちとるというと、先生は必ずそれを拾うて道の端へ寄せます。そして心の内で敬礼して通っておいでるのです。これを私が一度先生にお尋ねした事があります。
「先生まことに、失礼な事をお尋ねいたしますが、先ほどつい短いなおを、道の端へ先生つまんでお寄せになっておいでましたが、あれはどういうお考えでございますか。」と私尋ねたところが、先生のおっしゃるには「村木さん、あれはわらを打って、のうたなわであって、その切れっ端でも、人の手間の掛かっておるものを踏んだらもっ体ない。のうた人にすまんという事の意味もはいっておるが、もしぞうりか下駄の鼻緒が切れた時分に、何かないかと探しておいでる人がもしあったとしたら、あのなわ切れを見つけて、やれやれあった有り難いと言うて、なわを解いて鼻緒をたてて行くに違いない。そういう人界の足りになるものを踏んで通るということは、まことにもっ体ないと、こういう事をおっしゃったことがあります。これはひとつの例でございますが、先生はいつも人の手間の掛かっておるものを軽く見ないと言うのです。
もうひとつ申し上げますと、まず通る道の真ん中に古いぞうりがおちとるといたしますか、そうすると先生はつえを持っておいででない場合は、手でそれを拾うて道のはたへ寄せるんです。そうして、裏返しになっておった場合には、表を上へ向けて裏を土地の方へして、そうして道の端へ片付ける。これも先生は、ぞうりの裏は色々不潔なものを踏んでおるだろう。それを今日の日天さんにあてるということはご無礼だと言うこともはいっとりましょう。又、その片足も、人があれをはいて古くなってほうってあるのだから、まず、いわば人を助けた道具と見なならん。それが古びて捨てられるという事はよろしくない。もし人間が、このぞうりというものを粗末にすることを、引き伸ばして考えると、一たん役に立った物が古びて用をせんようになったら、捨てるということになる。すなわち、うばすてやまと言う事になるわけです。
今日皆さんが年寄った者を敬老会とか、何とか言う意味で若い方が尊敬しておると言うことは、これはよろしい事でございます。先生はそういう敬老という意味でなしに、世の中のたりになったもの、その道具を足で踏んだり、けったりしない、道の端へ寄せて置く。すなわち、いったん人の役にたったものは、敬意を表するという意味なので、まことに尊い意味が含まれとるのです。そうして、なおもう一つ考えて見ますと、ぞうりをはいとる人が片方切れたとか、或いは片方が破れたとかいう時分には片足でも足りになる。こういう風に人界の足りになる物は、わら切れ一 本でも粗末にしないという事が先生のお考えであったのです。
ですから先生は、いつもお宅においでても、箱がかりにこわれたとしますか、先生はすぐにくぎで打っておつくらいなして、又使えるようになさるんです。ほうりっぱなしということはいたしません。こわれた物はすぐ直せる物は 直す。そして、大事に使うというふうに先生はなさる。そのかわり、物を大事にするという事はええんでございます
けれども、そういう風にして質素になさるかわりに、困っておる人を助けるという時分には、先生金つかみ出すんです。そういう風にして、質素にしたものを使わなかった場合には、これは質素と言えません。ある意味においてきたないものが含まれています。先生のは、結構な道に使いたい為にためるとおっしゃるのです。使いたいからためる。
ここにためたという意味が歴然と発揮されておるわけです。
これは、日常あなたがたが生活なさる上に、なぜ働いて、なぜ貯めるのであるか、こういうことを考えてご覧なさい。これは子供の教育もせなならん、病気の時にはからだを治す為に使わなならん。あるいは世の中の為に社会的事業がある時分には、これのお手伝をせなならん。こういう色々な意味で出すときに遠慮なく出せるようにするには、ためて置かなければ出せない。すなわち貯めるという事は、大いに出すという事を意味しておることが、ほんとうの教えであると、こういう風に泉先生は実に生きた経済学です。死んだ経済でありません。生きた経済学を先生はなさっているえらいお方でありました。そこで、人の足りになるものは粗末にするなという事は、私等に向いて折々先生からお話しがあったことでございます。
(昭和三十六年七月三十一日講話)
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第二三八条 「金や物で人を助けた功徳より、迷うている人を神の道に導いて喜ばせた功徳は大きい。」
これは施行と申しまして、以前に皆さんにお話し申した施しの行です。施しの行には二つの種類がある。一つは物施、物を施す方法、一つは法施と言いまして親切な教えを人にあげるのです。目に見えない働きもの、つまり徳を世の中へ敷くという方で、この二つの種類があります。物施と法施でございます。
それで物施と法施と、どれだけ違うかと言いますと、まずお金をあげるとか、あるいはお米をあげるとか、着物をあげるとか、いうことは結構なことでございます。けれども、その人の一時の助けでなくして、一生がい、それを覚えていたら幸福になる、運がよくなることを教えてあげることが法施でございます。あなたがたが、今お寺の坊さんにお世話なった時分にお布施をなさいます。布施、あれは文字から言いますと、布施の布の字はぬのというのです。
織物です、着物でも出来るところの反物、施は施すで、これは大昔、坊さんなどに差し上げる物に、坊さんの着物を差し上げたのです。反物を差しあげる、あるいは切れを差し上げると、そんなことしていたものです。布を差しあげる。これをお布施と今日ではいっとるわけでございます。つまり物施でございます。坊さんは又法施でございまして一般の信者にむけて、どういう風にすれば家の中が面白くゆけるか、どういう風にすれば家運が強いか、どういう風にすれば健康に行けるか、こういうような心の上のことを皆さんにお話しをして、そうして幸福な一生を終えるように教えるのが坊さん、法施なんです。それでああいう方は法施をして、物施をもろうて行く、こういう事なんです。
今でもそうでございましょう。まあ神官の方とか、坊さんなどは、法施を一般の人に差しあげて、そうしてだん家の人は、自分が働いた物施をお寺へ差しあげる。そうなっとりましょう。つまり法施と物施とは二種類である。
ところが物施というのは、できよいんです。だれでもが物施というのはしよい。物あげたら良いのでしよいと言いましても、そうしよい事はありません。けれどもまずまず法施に比ぶればしよい。お釈迦様がこう言うことをたとえで言うてあるのです。物施は小さいけれども、法施は計り知れん位の功徳がある。それをお釈迦様がたとえますのになかなかお釈迦様は、上手にお話しなさるお方であったのです。
印度にごうがという川があります。その両岸には、沢山なき麗な砂が盛り上がっておる。吉野川でもそうでしょう。砂が盛り上がっとるでしょう。その物施は砂粒の一つに当たるけれども、法施というのは恒河の両岸の砂位のものである。砂粒一つとその恒河の両側の砂の数位い違うんだとこういうお話しをなさっとることがあります。
すなわち、物施というのは小さいものだが、法施というものは、大きな功徳があると言うことをおっしゃっています。そこで泉先生は、そういうお経文に書いてあることはご承知でおっしゃったのではないのです。けれども、金や物で人を助けた功徳は、それはなるほど結構であるけれども、それよりも迷うておる人を助けてあげる功徳というのは、一生がい使えるんだから大きいぞと、こういうことを先生はおっしゃっています。ああいう弘法大師とか、お釈迦様とかいう一世一代とび抜けたえらい方の言われた事は、泉先生がおっしゃるのとよう似ています。私は、これを二百三十八条に書いた訳です。
(昭和三十六年七月三十一日講話)
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第二三九条 「神様は、すべてのものを愛せられるのであるから、人間だけが無理をしてはならぬ。」
このか条は、誠に先生の心のお広いことがよくわかるのです。誰でも神様は人間だけかわいがって、外のものをかわいがっておらんように思うんです。たとえば神様、仏様を祭るのは人間が祭っとるんでございます。牛や馬は神様や仏さんは祭りはしません。だから、人間だけにお陰くれるように思うとるんです。これを先生ちゃんと知っておいでるんです。神さまや仏さんは、何でもかわいがっとるんだ。それだから、人間だけが神のかわいい子であると言うて、無理してはいかんで、こういう広い先生の恵み深いお考えです。
たとえて見ますと、ここに毒蛇といって、へびに大変毒を持っておるのがあります。はぶであるとか、大きな大じゃの毒です。はみ(まむし)の毒であるとか、こんなのは、なるほど毒でございますけれども、ああいうへび類でも神様は育てておいでる。人間はそういうものを無茶にただ殺してしまったらそれでよいか。泉先生は、それはいけないと言うのです。あのはみの毒、あるいは、はぶの毒、こういうへびの毒を、こんどは薬に使えるのです。その薬はあなたがたご承知でございましょう。傷を直すとか、それを呑めば非常に体が強くなるとかいうようなことに使うているたくさんの薬が、今日あることをご承知でしょう。そうすると、これは人間界にたりになっておるのです。それから草木でも毒があります。しかしそれを適当に使うたならば、人間が非常に助かるのです。
たとえて見ますと、あの毒だみ (十薬)と言うのがあります。あの十薬、あの葉の中へはいっとるのは、あれはあまり人間の体には薬にならないのです。毒なんです。しかしながら、あれを多量にたべたら、あたりますけれども、ほどよくあれを使いますと、十薬と言う位、十にもきくという位に人間の体が非常に強くなる使い道があるのです。
又、けし坊主と言いまして、き麗な花が咲くでしょう。けし、あのけし坊主から取りました白い乳のようなのがでますが、あれを煮つめてこしらえたのは、恐ろしい人間の麻ひ薬になっております。ところが、その麻ひ薬がなかったら人間助からんのです。阿片とか、色々ああいう人間のからだを麻ひさす薬をもっとるのです。それから、あんたがたが病院で大手術をしますが、あの手術した時分に痛い、それは人間が目をさましとるから痛いのです。
痛い痛いと思う、その痛さがひどく痛いのを感じると、心臓麻ひを起こして死んでしまうのです。手術した為に助からん事になる。ところが人間の体を麻ひさすところの植物の中へはいっておる。その毒をとりまして、それをお医者さんが体へ注射いたします。せき髄注射をやりますと知らんようになるのです。その間にお医者様が切って、いらぬものを、のけて縫い合せて助けるという事は、よくあなた方もご承知でございましょう。
そういう風に、使い道によりましたならば、人間が大いに助かる。あの麻ひ薬が無かったなら、人間死んでしまいます。切ったり、はつったり、痛いのを覚えんから助かる。目がさめても痛さがそう感じない。それで助かる。こう言う恐るべき毒を持っておる植物でも、天道さんは助けとるのです。生々と繁っとります。天道さん、人間だけをかわいがるのであるならば、外のものは毒になるもの皆助ける訳がないでしょう。こういう大事なところを先生はちゃんとご承知なんです。天道さんは、すなわち神さん、仏さんはもうすべてのものをかわいがっとるんだから、人間だけが勝手な事をするということはよろしくないと先生は教えておるのです。
もう一つたとえて見ますと、この人間が生きものの中の世界の長者になった訳です。今どこへ行きましても、人間が一番強いことになっております。象が強いといったところで、象はご承知のとうり鎖でつながれております。ライオンが強い、ひょうが強いといったとて、おりの中へ入れられています。そうして、世界中には、ライオンや、とらや、ひょうのような猛獣は、ある地域に住んで居りますけれども、世界どこにでもよう住んでいない。人間に負けてしまっているんです。そうして人間はどうかと言いますと、牛でも、馬でも、何でも自分のたりになるものは、皆それを使うとります。すなわち地球の上全世界は、人間が統一していると言ってよろしいのです。人間が治めとる。
どうして、こういう強い力が人間に出来たのでしょうか考えてご覧なさい。あなたがたは世界の王者の位にあるのです。人間は生きものの中の王さんです。ところがライオンと、とらと、人間とどちらが強いか比べてご覧なさい。ライオンのつめは実にかまのようなつめを持って居る、あれで引っかけられたら、象のようなものでも、さっと切れるそうです。皮が刀で切ったように、そういうつめを持っております。又きばは、ほんとうに剣のようなきばを持っています。人間のつめご覧なさい。比べたら脊中がかゆい時にかく位でかいたって、ひどう血も出んでしょう。
かゆいところをかく位の力かない。歯といいましても、けんかする歯でありません。まあ人間は芋か、オコンコ(沢庵)をかむ、それ位の力かないのです。そういう弱い武器か持っておらんこの人間が、生きものの中の王者になれたという事は、なぜなれたかという事をよく考えてご覧なさい。泉先生のおっしゃる通り、この世界は人間の世界でないのだ。生きものの世界は、人間が掌握するのは、神さんや仏さんが、かわいがってくれとると思うところに人間の強さがあるのです。すなわち知恵を神さんから譲られておりますから、鉄砲というものこしらえる、あるいは弓というものこしらえる、やりというものこしらえる。こういうところの知恵があります為に、この体そのものには武器を持っておらん弱い人間という動物が、全世界の生きものを統一しとる。こういう力を譲られた訳です。泉先生は、そういうところを考えておいでるのです。
だから今、人間は神さんにかわいがられておるけれども、ほんに馬でも牛でも人間にまけて、人間のお手伝いをしているから、神仏は人間ばかりかわいがるのでないという心を、牛や馬に持っていてご覧なさい、どうなりますか、夏が来て、こんな狭い所で、風もはいらん所でかわいそうと思ったら、馬屋や牛小屋には風通しをよくしてやらなければゆきますまい。又、立てこんであるのですから、自分のおしっこや、便所の為に中がきたなくなります。それは替えてやらんとかわいそうです。夏には蚊もたくさんあそこへわいてきますから、又これも出来るだけ蚊が少ないように考えてやる。その代わり人間の仕事を手伝うてもらうと、こういう風に共存共栄でなければいかん訳です。泉先生は、そういう事をよくご承知であって、犬でもねこでも牛でも馬でも、むやみやたらに、こき使うてはいかんと言うのです。信仰じゃない。今日そういう事が世の中によく行き渡って来まして、牛や馬も大事にせられています。又、蚕のような虫で糸を取ったりいたしますので蚕祭、お蚕さんを供養するとか、そういう風にして供養することも、あなた方ご存じでしょう。そういう風にお礼を申して、人間の役にたってもらう。こういう事をいたしております。
ところが、ここを間違いますと大変なんで、生きもの一切殺さない、なる程殺さないのは結構でございますけども たとえばビルマの如き、牛や馬を飼うて、それが古うなっても放すんです。殺さない。鶏でもその通り、卵を生まないようになると放してしまう。そうなると、野もたんぽも馬や牛が荒すんです。そうすると国が栄えんようになります。すなわち人間は生きものの王者であるんですから、やはり人間中心で生活せないきませんけれども、慈悲を離すなと言うんです。そうせんと国が弱くなってしまう。
こういう事ですから、つまりこれを大乗仏教というのです。小乗仏教でなくして大乗仏教の国でなければたって行けない。こういう事になる。共存共栄の道をはかる。泉先生はこういう事を常々の教の中へ入れておいでます。実におえらいお方でございます。
(昭和三十六年七月三十一日講話)
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第二四〇条 「世の中の為を考えてする事は、神が助けるが、自分の為を計ってすることは成就せぬ。」
これも又面白いことを先生がお目をつけたことでございます。ただ今お話しいたしますように、この生きものの世界を人間に治めさしたという神様のご意志は、どこにあるかということがここに表われているのです。ある王さんでこういう話があるんです。王さんがおきさきさんに「うちの国はよく治まって、まことに芽出度い国が出来た。ところが、この国の人民をかわいがらないかんが、お前さんはだれが一番かわいいか、ほんまを飾らずして言うてくれ」
すると、おきさきさんが言うことには「もし私が考え違いでありましたならご無礼はお許し下されませ」こう言う前置きして「私はほんとに私の身が一番かわいいのでございます」そう言って、王様におじぎをした訳です。王様は感心してしもうた。「なる程おまえさんはほんまをわしに言うてくれた。わしもどうかと言うと一番わしがかわいい、大きな雷が鳴ってきたというたところで、まず何をおいといて逃げたり、わが身をかばうが、一番わが身をかわいがっとるように思う。わしもそう思う。ところがこの仏教では、すべてのものに慈悲をかけなければいかんと教えとる。だから、わしが考えて見ると、わしが一番かわいい。わが身をかわいがっとると思う。これでいいんだろうか、今からお釈迦様の所へ行って教えてもらおうじゃないか」というので、おきさきさんと王様とが馬車に乗りまして、そうしてお釈迦様の所へ教えてもらいに参ったのです。
そうすると、お釈迦様は喜んで「ようお出になった。今日はどういうお話かな」と王様が今お話ししたように、おきさきと相談してお尋ねに来たと言う事を申し上げたところが、お釈迦様は「ああなるほど、ほんとにそうだ。今あんた方が言う通りに、この生きものというものは、わが身を一番かわいがるものなんだ。ところが人間は同じ生きものの中でも、皆がそう思うとるんだからして、自分だけかわいがったら必ず敵が出来る。皆がそう思うとるんだから、外の人が一番かわいいのは自分の身じゃと、その自分の身が言うことをお手伝いする。皆がそう思うとるんじゃから、もしわが身だけがかわいいと言うのが衝突したら、戦争、けんかになる。皆が身大事、大事と思うとるんじゃから、そのわが身大事と思うとる人を喜ばしてあげることが、ほんとうにわが身を大事にしよることになる。人はどうでもよい。わが身だけがかわいいんだと言う事をしたならば、敵が出来て滅ぼされる。それは、ほんとうのわが身かわいいと言うのじゃないのだ。神仏はわが身かわいければ、人を助けてやれ。人もそう思うとるんだから、わからん者を助けてやれ。そしたら、神仏が味方をしてくれて、自分は幸福に運よく助かる」と、こういうことをお釈迦様が教えた所がありますが、これがちょうど泉先生が言うのと、おうとるんです。泉先生はその通りおっしゃった。
人は皆わが身がかわいいと思うとるんだから、そのかわいいと思うとる人を満足さしてあげなはれ、そうしたら、わが身は人からかわいがってもらえる。この方が一番手っ取り早いんじゃ。あなた方ここをひとつよくお考えになったらよくわかる。わが身息災の人は出世していませんよ。わが身を第二にしている人が運がええんです。このところをどうぞよくお考えになって、泉先生の教えを味うて下さった方が有り難いと私は思います。
(昭和三十六年七月三十一日講話)
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