221~230条

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第二二一条 「のどかなる石には、いわれなきものを風の姿や浪と見るらむ。」


この意味は、風の吹いていないのどかな時には、海の端に石がある。その石は別に波が立つとも、いそが、これでバタバタ音がするじゃのいうような事考えんものですけれども、一たん風があるというと波が立って、その岩に波がぶっつかる。そこに飛まつが飛び上がって、白いうずが巻く。こういう事になるのでございます。その時分に風が白い波を立てたのか、岩が立てたのかと、こう言いますと、どちらにもつきませんでしょう。風がなかったなら、無論岩に波が当たりません。風がなかっても、岩で波が起こりませんが、岩がなかっても波だけでは、白い波、渦は、飛沫は上へ飛び上がりません。これは、そういう歌の意味でございます。 昔から「鐘が鳴るのか撞木が鳴るか、鐘と撞木のあいが鳴る。」というような歌がございます。又これと同じ事であの鐘をつってありますのを撞木で突きます。突くから鳴るんでございますが、突いたかって鐘が前になかったら鳴りません。又鐘があっても、撞木がなかったら鳴りません。そういうような歌でございますが、これは何の意味ならと言いますと、実に深い意味があるのでございます。
ちょうど、どこの家庭でありましても、皆さんのお付き合いの上に、気に入らん事があるといたします。そうすると何とか、かんとかお互いに言い合いします。仕舞いには、ひどかったらけんかになります。そういうような事はあんた方もよくお聞きになる事があるでしょう。これはどちらが悪いのか、こう言いますと、ちょうど鐘をつってある所へ撞木置いてあるようなもんで、撞木が動いても鳴ります。鐘が動いても鳴ります。ちょうど、どちらかが一ツ無かったら鳴りません。そこで先生がおっしゃったのです。「のどかなる石にはいわれないものを、風の姿や波と見るかと」 あるいは「鐘が鳴るのか、撞木が鳴るか、鐘と撞木のあいが鳴る。」こういうような昔から歌があるが、皆様よう考えないかんぞと、先生からお話があったのです。どちらかが動かないなら、鳴るもんじゃない。これを手本に、日に日にお付き合いの上でも、き麗にせないかんで、私はそうおっしゃられたのです。
よくことを一つ思案していただきたい。家の中でもあります。そんなに言うけん、私が怒らんならんようになったんじゃと。それで怒っとるけれども、言うても、それを心に留めなければ、けんかになりません。けれども、言わないと、そうもなりません。だから、言うた人も悪いが、それを聞いて怒った人も悪い。言うたとて聞かなければ、けんかになりません。ニッコリ笑うていたら、けんかになりません。言わなければ、尚更ええ、とこういう訳で、この「鐘が鳴るのか、撞木が鳴るか、鐘と撞木のあいが鳴る。」というのは、あいと言うのは、何かと言いますと感情でございます。人間が感情持ったら、いくらよい事でも腹立てんならん事が始まってくる。こういう事になりますからこの「のどかなる石には、いわれなきものを、風の姿や波と見るらむ。」という歌も、それと同様に、これは暮らしの上に大変大事な事じゃと先生がおっしゃった訳なのです。日に日にこれ沢山あるんでございます。
この人間に感情というのを抜きにしましたら、実に淋しいような気になるのです。お大師様と伝教大師とが、京都の山でお合いになりまして、お大師様が唐からお帰りになった時、お二人がご相談なした時のことをかいてある本が私とこにございますが、それにはどういう事を書いてあるかというと「物に和して争うな。」と書いてあるのです。
何事にでも和合して争いをするなと、これはええ事です。所が何事にでも和合して争いをするなというと、丸い事はよろしいが、物を処理する上にどうもそれでは処理出来ん場合があるのです。そういう時分に、それを処理するのにどうしたら良いか。これはお大師様と伝教大師のお話です。それには「情を離れて理に違わん」というようにせよ。と教えとるのです。それがちょうどここなんです。腹が立つとか、いやらしいとか、あの人は無理だとか言う事は、 感情でございます。その感情をのけてしまって、理屈の上で間違わんようにせよと、こうなっとるのです。
このお二人の相談で、私これをよく考えるのでございますが、どちらを落としてもいかないのです。情を離れて理論の上で間違わんようにする。人間が固くなりすぎるのです。なるほど真っ直ぐじゃが、手で鼻こすったようなと、こういう調子になるのです。又もう一つの方の流で物に和して、争う事するなと言いますと、あんまり丸々団子になりまして、どんな事でもへいへいへいへいで済ましてしもうて、争わんのでございますから、物の切れ味がない。
つまり、きっぱりと物が始末がつかん。それでこの二ツをちょうど馬の両方の手綱みたように、右でも左でも動かすのには、この二ツの手綱でいけよ。こういう教えをこのお大師様と伝教大師様がなさっていますが、二百二十一条は そういう事にする事が一番ええんじゃ。これは、むつかしい話になりますけれども、もう一ぺん繰り返してみます。 「何事にでも和合して争うな。」という事と、もう一ツは腹が立つとか、うれしいとか、つらいとかいう情を離れてしもうて、理屈の上で間違わんようにせえ。 この二ツの綱を、物を処理する時に使うたら間違いない。
こういう事になるので、二百二十一条は簡単なようですけれども、大分むつかしいんでございます。あじわえば、あじわうほど、人間の一生には大事な問題を生み出してきます。簡単なようですけれども、どうぞここを一ツ考えて下さい。もう一ぺん重ねて言いますと、情を離れて理論に違わんようにして行くという手綱と、物に和して争いをせんという手綱、この二ツの手綱で物を処理して行けば、一生涯あやまちがないというお大師さんと、伝教大師様とのお話でございます。
(昭和三十六年四月三十日講話)
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第二二二条 「一人来て、一人で行くも、まよいなし。来たらず、去らぬ道を教えむ。」


こういう歌でございますが、これは、この世へひとり生まれ出てきて、ゆく時にはひとりずついっている。こういう事は、別に昔から変わったことないので、一つも不思議はない。ところがそういうことは、人間の常道であって、人間くさいのであって、ほんとうは来もせず、いにもせぬのである。その道を教えようと、こういう実に歌としてはわかっとるような、わかりにくいような歌でございます。
これは、何を言うとるのかといいますというと、人間本来不生のものである。生まれたものじゃない。生まれたものじゃないということがわかりましたならば、死ぬものじゃないということは、その裏手ですから自然わかる訳で、これは、不生の原理と申しまして、仏教界ではまことに大事にしているあの阿(ア、梵A)の字ですね、印度の字)の字を書いてお墓の額のところへ彫り込んでありますが、あれが不生の原理です。すなわち、生まれたのでないということが、わかったならば、人間はそれで悟りが開ける、という大事なこと書いているのです。
これは、私が何回も何回もお話ししたと思いますが、だいたい生まれたのじゃないということは、いろいろな方面から説くことができますが、一番わかりやすいことを言いますというと、いつも申し上げるとおりに、人間を今から何十億年という昔にさかのぼっていきますというと、もはや生きものの姿が変わってしまうのです。今日のように、いろいろと種類があるものが、次第次第と種類が減りまして、数が少なくなって、しかも小さくなって、しまいには目に見えなくなる。それでも生きているのであって、顕微鏡で見るとわかります。その顕微鏡下でも、やはり雄、雌があって繁殖しとるのですが、もうひとつずーっと昔にさかのぼりますと、もはや雄もなければ雌もない、手も無ければ、足もない、それでも生きているのだ。六根は一つもない、ただ丸いつぶつぶの中に、核という性根玉がはいっているだけで、ちょうど千倍に見て小米粒位でございますから、まことに小さな生きものでございます。これが、すなわち生きものの一番最初にできたご先祖です。雄もなければ雌もない、ただどこからでも口になり、どこからでもいらぬものを外へつき出すしりになる。こういうような、実に簡単な単細胞動物です。細胞というものが一つしかない。今日の人間のからだを分解しますと、細胞の数が七十何兆という数にのぼるのです。しかし、最初の生きものは 一つの細胞でございますから、今の人間のからだから言いますと七十兆分の一です。まことに小さなご先祖で、それでも生きているのです。
こういうものの前は、どんなものかといいますと、もはや土や石やと一緒になってしまいます。それから出てきたのです。その先は何かというと、火の玉でございます。生きているものがおるはずがない。何万度のしゃ熱した火の玉の中には、生きものがおるはずがない。火の玉が冷えてできたのが、今申す単細胞動物です。こうなりますと、もはやそれは火の玉の化け物で、生きものですから、性根があります。その性根というのは、小さいけれども、大きな宇宙の性根そのままの性根を持っております。こういうことになるわけです。
言い換えると、今日でも宇宙の心霊というのがございます。昔から一糸乱れず、できてはこわれ、こわれてはでき、それを繰り返してはいるが、秩序整然として、一つもかわりありません。こういう規則だった生活をしておるところの、宇宙そのままの性根を、わずかの小さい一細胞の中に、それをおさめておるのです。言いかえると小さいことは一番小さいけれども、大きい宇宙と同じ性根を持っていると言ってもかまわない訳です。これが我々の本体でございます。だから人間は、生まれたのじゃない、宇宙のこの天地の大きなからだが、そこへ小さく宿って出てきたのだと言えます。すなわち、これが不生です。
おとうさんや、おかあさんがあって、生まれたのではないのです。もとは不生です。ですから、不生であるがゆえに、滅することがない。不生ということが、わかれば不滅はわかるわけです。生まれたものは死ぬのです。生まれておらぬのですから死にません。こういうことがわかります。それでこの歌は、来もせず、いにもせん。すなわち、この土地へ生まれてきもせず、死んで向こうへ行きもせんところの、有りがたい道を教えようというのがこれなのでございます。われわれお互いに、父母のからだを借りて、ご縁ができて、ここへ生まれて出てきておりますけれども、それは一つの縁のために生まれるのであって、その性根というものは、宇宙に通うとるというのが、これでわかるのです。そこで悟りを開いて、人間臭といいまして、人間の性根を丸きり生まれ替わったところの仏の姿になりましたならば、宇宙に通じるお釈迦さんのようになれるのです。弘法大師もご承知のとおり、人間のからだを持っておいでて、神の働きをなさった。泉さんも漁師の家に生まれて、人間の姿であるけれども、もういかなるところへでも、お性根が通うとったという偉い方です。我々も、そういうふうになれるのじゃという、まことに、有りがたいところのこれが教えなのでございます。
(昭和三十六年五月十五日講話)
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第二二三条 「闇の夜に鳴かぬ烏の声聞けば、生まれぬ先の父ぞ恋しき。」


この歌は昔の偉い人がよんだ歌でありまして、ちょうど闇の夜に真っ暗な時に黒い烏がおる。しかし、その烏が鳴かんのじゃ、どこにいるやらさっぱりわかりません。捕え所がない。その鳴かぬ声を聞いたならば、生まれぬ先の父がこいしい。その父というのは先刻お話しする通りの、不生の元のお父さん、すなわち天地です。それが恋しくなる。という歌なんです。これは、私がいつもあなた方にお話しする前に唱えております無上甚深微妙の法は、百千万年たってもなかなか合えない。聞けないんだ。見ることも出来ない。それを今見て、心の中へそれをつまえ込んだ。誠に有り難い事だ。これ以上は神さん、仏さんというお方はどういう方であるかという、神仏の本体を知りたいもんであるというこの事を、私がいつもお話の前に唱えとります。いわゆる開経偈を日本の歌によんだのがこれなのです。
無上甚深徴妙の法というのは、誠に不思議な誠に妙なこの法で、百千万年待ったって会えないというのです。つまり闇の夜に鳴かぬ烏ですから、わかりませんという事です。その鳴かぬ烏の声を聞いたらという事が、この開経偈には、今我それを受持したという事になっております。そして神仏が恋しくなるという事が、今度ぶりは開経偈の方で神様、仏様の実体を知りたい。こういう事になっております。
ここで私がお話し申したいのは、なるほど、この無上甚深徴妙の法というのは誠にむつかしい、わかりにくいのです。言い換えると、信心というのは誠に訳のわからんものです。神さん無いと言えば無い。無い理由も立つ。有ると言えば有る。有る理由も立つ。こういう訳で捕え所がない。この神仏の実体というのは、人間の体に感ずる場合があるのです。どういう時に感ずるんかと言いますと、もう困って困って困りぬいて、生きるにも生きられません。死ぬにも死に切れん。どうしように困ったなあーと思った時分にです。困ったという性根使うのをやめて、神様仏様という方へ使えた人は助かるのです。そこに六根を通じまして不思議が現われます。
六根と言いますと目、鼻、耳、口、身、心この六ツのどこかへ働いて来るのです。困りぬいたら、おすがりしたら これがすなわち、闇の夜に鳴かぬ鳥の声聞いたのです。なかなか聞けんのに聞いたという事になるのです。私がただ今お話し申します事は、あなた方の中には多少お感じになっとると思います。初めから苦労もせず難儀もせずして、この不思議に会うお方もないではないのです。お釈迦さんのごとき、お釈迦さんは別にご病気もなさいません。お困りもない。何じゃ不自由もない。しかしここに、あのお方は、あのお方だけの不思議を感じとるのです。
どんな事かと言いますと、人間どんな人でも年が寄っていく。いつまでも若々しい体を持っていない。次第と体が不自由になってお仕舞には死んでしまう。これを免がれる人は一人も無い。生、老、病、死でございます。そうしてその先がわからんのです。これはどんな偉い人でも、どんな人でもこれは味わんならん苦労である。何とかこれをもう一つ知りぬいて、なぜ死ぬのであるか、なぜ生まれて来るんだろうか、死んでどうなるんかというような悟りを開きましたら、これは困っとる者を助けられるというお釈迦様に悩みが有ったのです。すなわち悩みが有った。我々の悩みよりもう一ツ意味が深長なだけであって、決して悩み無しに信仰に入るという事は有りません。そこで困りぬいた時分に六根を通じて、そこに働くその六根を通じるという事をお話し申しますと、目に不思議をみるのです。たとえば山へおこもりし、山へお参りに行って、一人淋しい所で神様の前で、私はほんとうに困る。どうぞ助けて下さいませと念じておる時はパッとお堂の所へお燈明が上かる。お燈明が上がる訳がない。だれもおらんのにお燈明が上がった。これがすなわち、目に感じた方でございます。不思議が目に見えた。これを学者曰く、錯覚である。錯覚やいう言葉で、それを消してしまう事はまことに惜しい話でございます。錯覚じゃと言う人の説を聞いてみますと、火が無い所になんで火がつくかと言うんです。これは人間の理屈でございます。火が無い所に火がつくから不思議と言わなならんのです。これが信仰家の言う言葉でございます。これが六根のうちの目に通じた方でございます。
今度ぶりは耳に通じるお話をしてみます。これはやはり自分の心に悩みぬいて、何とか神仏にお助け願いたい、と言うんで奥山へ籠って一生懸命に念じておりますと、不思議や鐘の音がゴーンと聞こえて来る。この鐘はお堂の奥に鳴った。鐘も置いて無ければ、鐘たたく人もおらん。又ゴーンと響いて来る。そこでその不思議に会うて、初めてお陰をいただくというのが、耳に来る方です。 今度は鼻に六根を通じて、神、仏の不思議を感じとるというのは、これは皆様方の中にこういう事をお感じになっとる方もあるでしょう。人知れず静かな所で、神仏に一心に泣くに泣かれず、死ぬに死ねんという場面に直面した時分に一生懸命我を忘れて念じておる時分に、プーンとにおうて来る。ああ、このかおり実にたとえようのない尊いよいかおりがプーンとして来る。さてそのお堂には、そんな香りの物が有ろうはずがない。お香たく人もおらん。こういう事がすなわち、鼻に感じる不思議でございます。
それから今度は、舌に感じる場合があるんです。口にです。口に不思議を感じる場合は。これは先刻も申す通りにただ一心にどうぞお助け願いたい、私はもうどうする事も出来んのでございます。泣くにも泣けんつらさで、神仏の前で一心に念じておりますと、これ又不思議な事には、自分の口でありながら、よーし聞き届けた、今より三日目に 不思議を現わして助けてつかわす。と自分の口が言うてしまう。あっ今のは自分の声だ、自分が自分の言葉を出して出そうと思わんのに、自分の言葉を出して、ビックリするという場合がある訳でございます。これが舌へ感じた。
今度は身に感じる、体へ感じるという事は、これは皆様ようご存知の通り、一所懸命に念じておりますと、手をプルプル振る場合があります。又、すわっとるのが飛び上がる場合があります。又、体が揺れて、あっちこっちと揺れる場合があります。それから又、これも不思議でございます。自分が動くのを止めようと思ったら、よけ動くのです。これはご経験済みの人沢山有ろうかと思います。
今度は心へ知らす場合、心と言いますのは、これは何やらお堂の中からこない知らしてくれよる、あない知らしてくれよるという事が、自分が思うんと違う思いではっきりと知らしてくれる。心へ知らしてくれる。
この六ツでございます。六根を通じて不思議を感じるというのは、それでございます。目、耳、鼻、舌、身、意、この六ツでございます。お経文には天地六種に振動してという事を書いてございます。六種に振動する。すなわち六根を通じて 不思議を見るという事です。お経文には、天地六種に振動すると書いてあります。それなんでございます。かようにして迷える人間の六根に不思議を感じて、お前の信仰受け取った。尚それを積んで自分の所へ運べ、必ず望みをかなえてやる。というような感じが起こるし、又助けられるんでございます。それを間違いますと、こういう事も世の中には有るんでございます。自分が助かりたいまではよろしいんですけれども、憎い場合に、あの人間を殺してもらいたいなんていうような事を言います。これは自分がはがゆくて言うのでございましてそれば通りません。
昔から人をのろえば我が身に七分、我が七分着るようになって来るんです。我が滅びてしまうようになって来るんです。それは大変な悪い事をする逆心が天下をくつがえそうとした時分に、これを封じ込めるという時分には、これは別物でございますが、わが身の憎しみをかなえてもらいたいという事は、これは呪いと申しまして、わが身が着んならん事になるのでございます。これは観音経にも我が身の上へふって来るという事を書いてあります。還著於本人の剣というのはそれなんです。還著於本人と書いてあります。元へかえって、我がの頭へ来ると書いてあります。
一生懸命の願も、助けたい、あの人間助けたい、この国を助けたいという願いで無ければ、かなわんという事をご承知置き願いたいのです。
その不思議が現われますと、今度ぶり本当の神様のお慈悲というんがわかるのです。鳴かぬ烏の声を聞いたら、生まれぬ先の父が恋しいになる、すなわち神仏が恋しいになる。恋しいになれば、そこに不思議が現われて、自分が助かる。こういう順序になって深い深い信仰がここに始まる訳でございます。これは誠によく言い表わした歌でございまして、ちょうど仲須様のお庭に、その碑文が建ったという事は誠にいわれある事でございます。
そういう不思議な歌を書いて、そこへ仲須様は一字一石、すなわち一字毎に光明真言の字を書いて、あそこへ埋めまして、皆様のお願をあそこで聞き届けると念じといて、泉先生の前へ祀って、あそこで旧お百度石の代わりに、又願掛石にもしてあるのです。すなわち鳴かぬ烏の声を聞ける訳です。あすこを心からお参りしよりますと、鳴かぬ烏の声が聞けたら不思議が起こったら、そこにご利益がいただける。それが為に願掛石として、あすこへ古林さんが献納した訳なのですから、あの碑文の意味もご承知置き願いたいのです。
(昭和三十六年五月十五日講話)
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第二二四条 「万人は皆、先の事を考えて事をしておるのに、ある人は思うた通りに進み、ある人は意外に失敗する。これは、人の目から見れば不思議であるが、神の目から見られたら何一つのくいちがいもない。」


これはあなた方が広い世界で、大勢とお交わりになるのに、こういう事さいさいご覧になるだろうと思います。だれでも先の事をめいめいに考えて事を運んでおります。悪かれと思うてしている人一人もございません。こうすりゃ良いだろう、ああすりゃ良いだろうと思って、良いと思うて、その方へ考えてしておるのです。然るにある人は、うまく行く、ある人はうまく行かない。こうなってきた時に、うまく行った人は有り難いと思うでしょうが、うまく行かなかった人は、神様も仏様も何ぼ念じたってこたえん。こんな事言うとる人も中には無いとは限りません。
けれども神様の方からこれを見ると、ちゃあんと決まっているんだ。こういう事を泉先生おっしゃったのです。
それを私が書いたのでございますが、どういう事ならと言いますと、最初こうすればいいだろう、ああすればいいだろう、と考えとる人でございます。その人の心という事が、果たして神さんの教えに合うとるか、合うとらんか、我欲一ぺんの願ではないか。あるいは無理な事を、がをそこへ現わしておれへんか、それが天地の理屈に合うた願ならかなう。わが良かったらええ。人はどうでもええ、という我欲の願いであるならば、それはかなわん。こういう事なんです。言い換えたらそういう事です。
泉先生は、いつもおっしゃっておりました。神さんは頼んだら聞いてくれるんだ。その頼むという事は、自分が神心にならないといかんのだ。我欲ではいかん。我欲を離して天地の教えに従うた願でなければかなわん。それで願ってかなうた時分には不思議にかなうたというと、先生ご気げんが悪かったのです。願うてかなわんのが不思議でないかとおっしゃったのです。自分さえ誠の道にかなうておるならば、願わずとも神や守らんという歌がございますが、天地の心を自分の心として、こうありたい、ああ、ありたい、という願いならば必ずかなうに違いないのです。
それですから神様、仏様にものを願う時分には、自分が間違っとりやせんか、神さんのごきげんそこねへんか、という事考えたならば、神様にお願いしてもよいという時分には、一生懸命願うたらすぐにお陰は早いんです。
たとえば、自分はどうも体の具合が悪い。これ早う治してもらわなどんならん。と、こういう時分にどうですか、自分が健康快復した時分に、国のお足りになる、ご先祖を喜ばす。こういうような事であったら、すぐかなうのです。
ところがこれ良うなったら、あいつ張りまわしてやろうか、人の物取りにいってやらんならん、夜盗み働かんならんのに弱い体でどんならん、こういう願いはかなわんという事なのです。だからまず願いを掛ける前に、自分の心を教えの通りに従って、そうして立派な心で神仏に一生懸命になるならば、必ずそれはかなう。こういう事を先生がお教えになったので、先生はいちいち試して後に、おっしゃっとるのでございますから間違いはないのです。
いつも先生は人が助けたい、困っている人間を助けたい。悩める人間を助けたい。こうお思いになっとる。それを神さんの前へ頼んで行くのに、そういう自分という心の損得を考えずして、ただ一途に助けたい助けたいの一点張りに固とうなったから、先生は皆かなうた訳なのです。こういう事をどうぞお忘れにならんように、願うてお陰が無いのが不思議とおっしゃった事でもようわかります。どうぞ皆様も、こういう有難い先生が経験をお積みになった事の教えでございますから、間違いがないという保証が付いとるんでございます。こういう事をお考えになって、先生のみあとを慕うて、ご信仰に益々進まれん事をお願いします。
(昭和三十六年五月十五日講話)
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第二二五条 「人は生れ出て何をなすべきかを考えねばならぬ。この考えようによって、一生行く道に大差を生じる。これは人ごとに顔が違うように、いろいろと考えているであろうが、一口で言うと楽天地の協力建設とでもいえよう。それにしても人を、とがめてはならぬ。」


大変大きな問題でございまして、人は此の世へなにしに生れでてきたか。ところが、だれしも生まれでて来たのは一人ひとり生まれたんであって、目的を知っておる人はないのです。いろいろ理屈をいう人がございますが、「わしはそんなこと知らん、親がこしらえたので、一人でに出てきたんじゃ、わしゃ知らん。目的があって出てきたんでない」と、こんな事いう人もございます。けれどもそれは大変な間違いでありまして、ここに一つの花が咲いているといたします。その花に、おまえさんなんのために花を咲かせているかとたずねると、花はそのわけを知らんでございましょう。しかし人間から見ると、花は実を結ぶ目的で、虫を呼ぶ為に花を咲かしているのである。そしてその「種」をこの世に広くのこし、育てようという目的があるわけなのである。と同様に、人間はこの世へ生まれて来た目的を知らぬといっても「知らぬ」という事と「目的」がないという事とは別問題です。ただ自分が知らんという事だけです。これをえらい人が考えまして、何しに人間は、この世へ出て来たのか色々と研究した結果、これはこの世の中にひとつの極楽をこしらえようと、楽天地をこしらえようと、出てきとるんだとこういう事になっております。
お釈迦様もおっしゃっています。お大師様もそうおっしゃっている。その他キリストであろうが、一世にえらいとうたはれる人は、皆同様な事をいうておるものです。つまり種族保存のため、繁栄のため、そして極楽浄土を建設するためだといっております。
私がこう申すと「そうかいな」と言うお方も随分有ろうかと思われますけれども、人間世界を見ずして、外の草木を見てご覧なさい、よくわかるのです。バラの花であろうが、花という花は、その底にみつをもっております。そうして、きれいな赤や、白い花を咲かせて虫のとんでくるのを待っています。昆虫類はうつくしい花にさそわれ、あまいみつの香をかいで集まります。そうして、雄ずい、雌ずいをかき分け底へもぐり込んで、そこにある甘酒をごち走になって、舌鼓打って飛んで行くのです。その何が為に花の底に甘酒をこしらえとるのか花自身は知りません。
パラは知りません。けれども、知らんという事は「ない」ということではないのです。その甘酒を造って、ぷんぷんとかおりをしとるというと、そのかおりに引きつけられて、はえが寄ってきます。ところが花の底ですから、なかなか口が届きません。そこでかき分けて奥の方へいく時分に花粉を、かきまぜますから、それがはねなどにつき、花から花へといくうちに交配しているようなものです。あなた方が、なしや、いろいろな作物を交配しているようなもので、花粉がそこに働きをして実が出来るという事になります。あの草木の花がなぜ咲いているかという事は、それでよくわかるのです。
こんどは、それが実のります。その実をみて見るのです。どういうふうになっているか。又それを草木に尋ねて見るのです。「おまえさん、実をならして、どんなにするんな」とたずねますと、草木はそれは知らんでしょう。けれども、知らんのでないのであって、誠に至れり尽くせりの保護を加えています。あのくり見てご覧なさい。外皮には 子供がけがせんようにぐるり針を立てています。さわると突くぞというようなかまえをしています。ところがくりのいがが次第に熟し、中の実がうれるころがきますと、針の皮が破れます。さけるのです。そうして、その中に包んどるところのくりの子供、すなわち栗の実を外へほうり出します。ご承知の通り、あのくりの皮はツルツルしている堅い物です。それでころげて、すべって遠方の方へころがって行く。こういう風な仕組みにこしらえています。
これを見ても、くりの親が栗の子供を出来るだけ広く、この世の中へ広げてやろうとしている事はよくわかるでしょう。「くり」にしましても大事に針で包んで、子供が一人前になると実がうれて、その針の皮が破れて、子供を外へほうり出す。ちょうど人間が子供の小さい時には負うたり、抱いたり、 ふとんで巻いたりして、やがて大きくなって、一人前になると世の中に分家をさすと同じ事を草木がしとるのです。
子供をそだてるまでの、くりの親心をみてみましょう。一つ調べて見ると、あのつるつるしとる堅い皮をむきますと、下には、まことに渋い渋い渋皮というのがあります。ひとつもうまくなく、渋い。その渋皮をもう一つむくと、おいしいところの栗の実、すなわちやがて栗の木になるところの実がはいっとります。こういう風に堅い皮で巻き、あの渋い皮で巻いています。渋い皮であったら、虫が食べようとても、きらうのです。おいしくないから、そういう風にして自分の子供を育てる為に保護しとります。そんなにして保護しているのは、いうまでもなく自分の子供を無事に外のものに食われんように保護を加えて、そうして、うまく湿りのある所へおとします。落ちましたならば、今度またその保護しておるところの皮が割れまして、中から芽が出、そして一人前のくりの木になる。こういう風にしておるのです。こういう事を見ますと、草一本にも、その親心が働いています。すなわち、子孫末代に至るまでも無事に生い立つ様に構えておるのです。 そこで人間の方を考えて見ますと、草木よりもうひとつ智恵をもっておる人間でありますから、われわれは子孫の為に出来得るだけ良い事を、この世の中でしてやらないかん。すなわち、ええ事をするという事は子供が幸福になるという事を考えます。もしも今日、この世界で研究しておるところの、あの潜水艦であるとか、あるいはミサイルであるとか、大砲であるとか、爆弾であるとか、こう研究している事は要するに幸福になろうと思うてやっている事なのです。一朝間違うたら戦争になる。戦争があったら、たくさんの人を殺さなならん。こりゃ全くわが身かわいやの違いでありまして、ほんとうにわが身がかわいいのならば、そういう武器はやめてそうして、皆が互に喜んで暮らせるような便利な道具にかえるべきであります。
お釈迦さんが言いました。およそ世の中で一番かわいいものは何ならというと、わが身である。わが身のかわいくない者は一人もない。一番大事にかわいくするのは、わが身である。こうお釈迦様がおっしゃって、その後に又付け加えて、一番かわいい者を幸福にしていないのが人間だというんです。それほど一番かわいいのなら、わが身を捨てたら、ほんとうにわが身をかわいいに、ぐるりからしてくれるんじゃ、これがまことの人生であるぞとお釈迦様が教えとるのはここなんでございます。だれでも、わが身かわいい。草木でもわが身がかわいい。かわいいんでございますけれども、もしもわが身かわいやというんで、草木が花を咲かし、実をならさんのであったら刈り倒されてしまいます。
あの木の中に、じゃきち (枳殻)という木があります。ご承知でしょう、剣だらけです。バラはまだ花はきれいです
けれども、じゃきちになれば、花もなければ実がなりましても、すいくて食べられない。ひとつもかわいらし味がないのです。あのじゃきちというものは、あれで何しに剣つけとるかというと、わが身かわいいの剣(とげ)です。
寄って来たら突くぞ、そういう風にわが身かわいやのために剣をはやしとる。ところが人間は、その剣を又使うんです。このじゃきちでかきしといて、痛うて入ってこられん。盗人のかきに、じゃきちが使われるのです。それから、あれは大変木の勢いが強いからして、酢の木のつぎ台にするんです。何の木接ぐのでも。じゃきちに接いどけば台が強いからというので、みかんでも、外の柑橘類でも、じゃきちの台に接ぐと強いというので、台に使います。
こういう風に人の為になるから使うてくれるんです。どうです。ここが大事なところです。あの剣だらけのじゃきちでも、剣で盗人を防ぐという用事をしとる為に自分の身をかわいがられるのです。こういう風に、すべてお釈迦さんや、お大師さん、又泉先生などは、やはりそれと同じような事をおっしゃっとるのです。 わが身が一番かわいいんじゃと、何というても、わが身かわいくない人は無いんだ。しかしかわいがるわが身を、ほんとうにかわいがりよるかというと、わが身かわいいでわが身をわがが殺してしまっている。ここを勘違いせんように、わが身かわいいと思うなら、わが身を捨てて始めてわが身が救われるであるぞという教えが宗教なんです。
草木でもその通りで、やはり人間の生きものの為になる草木は栄えて行きます。自分の為にならんものは刈りとられたり、むごい目にあわされます。これを見てもよくわかるんでありまして、このごろは、かきを作りましても、大変おいしいかきがあります。富有といいますか、あの富有のかきは甘いというので、芽をつぎ、種を植えますけれども このごろはほとんど接木になっております。そうすると富有が不思議な事には種が無くなっている。どうですか。 人間がかわいがってくれるから、わしは種なくてええというので、種のない富有がこのごろ出よります。この富有は甘うて、種がないからというて、益々かわいがられる。すなわち富有は、柿からいうならば、私は人を喜ばせる。自分というものを、わが身でかわいがらずして、人をかわいがっとる為に自分の子孫が種をこしらえなくても、自分の富有という柿は、次第しだいに人が広げてくれると、こういうようになっております。
草木一本に至るまでも、自分というものを世の中のたりになるようにしたならば、必ず自分は保護せられる、かわいがられる、こうなっとるのです。それを直接、わしをかわいがるものは自分がかわいがらなければ、人がかわいがってくれんというような考え方をすると、わが身息災という事になる。わが身息災になると、人にきらわれます。
きらわれる為に、その家は栄えません。栄えん為に断絶すると、こうなるのです。この所を教えたのが泉先生です。
ほんとうにわが身をかわいいと思うならば、わが身をすてて人をかわいがる。人から自分をかわいがってもらうというのでなくては、永久に自分を繁栄さす事が出来ない。こういう大事な教えでございます。
泉先生のごときは、ご自分の事はひとつもお考えにならん。人の為ばかり計っておいでた。そうすると万人が泉先生、泉先生と親のように尊敬しています。お大師様もその通り、お大師様もご自分は何の栄曜もなさっておいでん。 すげのお笠に杖をついて、そうしてきゃはん、わらじでお歩きになって、しかも人を恵んで救うておいでる。それが為に今日は南無大師遍照金剛とお大師様を中心に、こがれておるのは皆さんご承知でしょう。
あの高野の山の上などは、一ヶ年に百万人以上の人がお大師様におじぎしに行くそうでございます。これは何であるかといいますと、それは申すまでもなく、ご自分という事を第二において、人を喜ばしてやろうという事が南無大師遍照金剛と慕われる元になった訳でございます。お釈迦様もその通りで、世界の、ほとんどの国でも、お釈迦様のご誕生日、それをお祝しておるというのをご覧になってもわかるでしょう。
皆さん、この二百二十五条というのは、この世の中へ極楽を築くという事が一番大事なんであるという事が先生の教えですから、よくその意味でご覧を願いたいと思います。
(昭和三十六年五月三十一日講話)
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第二二六条 「今の世の中で、権利はあてにならぬもの、義務はのがれぬものと覚悟して、まじめに努力をしている人が成功するのは、ちょうど人間がからだに何も武器を持って生まれておらぬのに、生物の王者であるのと同じである。」


この二百二十六条は、権利と義務という事を先生からお話しがあったのです。権利というのは、これは日本の国の憲法によりまして保護せられて居ります。又民法によって保護せられております。その一人一人に下さってあるところの力。これを権利というのでございますが、権利というものは、あてにならんもんなんです。
なぜあてにならんかといいますと、まず、あんた方が権利を振ってご覧んなさい。わしは憲法上すべての自由を与えられておるのである。今日のあのストをご覧なさい。自分の給料あげてもらう為にストライキをやっとります。
あれ権利を振るっとるのです。憲法の上において、そういう権利を与えられとるように書いてありますけれども、ああいうストライキするというような事の憲法は許してはないのでございます。すなわち間違うて権利を振るっとる。
権利を振り回すというと、人からきらわれます。それだから権利というものは、あてにならんもんじゃと先生はおっしゃったのです。
義務は、たとえばあなた方は税金せなならんという義務が憲法にきめられております。その税金というのは、何にするんかというと、めいめいの人が働いてめいめいが金を持っとるのでは、国の交通とか、あるいは通信とか、衛生とか、教育とか、こういう事は個人個人では出来ませんのです。今日、道路をする、あるいは橋をかける、電信電話をかける。あるいは又、学校を建てるというような、こういう一般向きの大きな仕事は個人では出来ないのです。
そこで国は、国中の人が、皆が喜ぶように道路をきれいにする。便利にする。あるいは橋をかけて、お粗末な橋を立派な鉄筋コンクリートの橋にかけ変える。あるいは教育でも、家々に教育していてはなかなか出来ません。学校を建てて、そうして子供を教育する。こういう風に、おかみの方にしてくれるようになっておるのです。それが為に費用が入りますから、めいめいに費用を出して、そうして、その費用に依って皆の幸福の為にいろいろな設備をやってもらう。こうなりますと、納税の義務という義務が出来る訳でございます。納税の義務を果さんと国は何一つも出来ないのです。そうすると道は荒れ次第、めげ次第、電信も電話も維持も出来ない、学校も先生は一人も居らんようになってしまう。
こういう風になりますと、誠にわれわれは野蛮国のような事になります。警察もそういう事が出来んようになります。そうなって来ると、悪い事ししだいというような、誠にあわれな地獄の世の中になってしまうのです。地獄の世の中にならさん為に、おかみに世話やいて下さる。その世話料として税金がいるんだと、これは当然の話です。これを義務という。泉先生は、義務というものは喜んでせないかんとおっしゃったのは、ここにあるのです。 人間は権利というものを振らんようにする。そして義務をつくす。権利を振らずして、義務をつくすというようにしたならば、必ず人間は、この世の中は治って、極楽世界が生まれるんじゃと泉先生はおっしゃるのです。先生は、ほんとうにえらい事おっしゃったもんだと私は思います。
それが今日はどうかというと、義務はなるだけ逃げようとしています。そして権利を振りまわして居ります為に、あちらに人殺しがあった、ここに人が物を盗まれたとか、ストライキが出来て郵便物が送れんようになったとか、そういう事を言い出しとります。泉先生は、それでは世の中が治まらん。人間はちょうど、たとえて見たら人間のからだには、何にも武器を持っていない。つめといったところで弱いものじゃ、歯だってかみ合いする歯を持っていない。
こういう風に体には何も武器を持っておらん。弱々しい体である。その弱々しい体で、世の中の為に自分が働くという、これこそ人間が生きものの全部を治める事が出来たんだと、泉先生はおっしゃっている。
それをこん度は法律の方から見ると、権利は振らない。即ち武器を振らないという事です。権利を振らない、そうして義務を履行する。そして世の中の為を計る。そうすると、極楽世界がここに出来るんじゃと、こう泉先生はお説きになっています。実に泉先生のお説は、今日の政治学とか経済学とかいうものを超越した、真に立派なお説と私は拝聴するのです。権利を忘れて義務を行えとこういったら、もうひとり世の中は治まります。極楽世界はひとり出来ます。ほんとうに泉先生は、そういう、おえらい事をおっしゃったのですけれども、泉先生は学問をなさっとりませんから、おっしゃる事が誠に平易なんです。
私は泉先生に始終連れられて、あちらへお参りし、こちらへお参りに行き、お供をいたしました。その間に、こういう事をおっしゃったのです。権利はあてにならんものぞ。義務は必ず行なえよ。すると世の中は極楽になるんぞと、実に違いないお言葉でございますから、とくにここの所はご注意を願いたいと思います。
(昭和三十六年五月三十一日講話)
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第二二七条 「神様を月にたとえ、人の心を水にたとえ、そして人が水面を見ているとせよ。水に波立てば、月はうつらぬ。それと同じようにわが心に波立てば、神様の有難味はわからぬものである。」


これは水月の教えといいまして、昔からあるのでございます。ちょうど神さまをお月さんにたとえるんです。空にお月さんが出とるように神様がわれわれの上にござる。われわれの心を水にたとえるんです。たとえばたらいの中へ水を入れてある水が人間の心だとたとえますと、そのたらいの水が動いていたら月は映りません。風が吹いてその水の上に波が立っていたらお月さんは映りません。ところが、風がなくして、たらいの水が静かに鏡のようにおさまっておると、月はまるまるとそこへ映って、はっきりとわかります。これと同様に、人間の心に曇りがない。慾とか、怒るとか、くやむとか、愚痴をいうとか、そういうきたない根性がありましたなら、心の中に波が立っておるのと同じ事なのです。折角、神様、仏様は我々を助けてやろうと思うて、力を入れてござるんじゃけれども、心に波が立っている為に神様の有難味がわからない。だから皆さんは、心に波を立てるなと泉先生はお教えになったんです。
心に波が立ちさえせねば、月ははっきりと映るのです。と同様に、神様はいつも人間を助けてやろう助けてやろうと、そればかり考えておいでるんじゃけれども、人間の方が心に波を立てて、神様を映らさんのです。神さんに罪があるんじゃないんです。我々に罪がある、どうぞ、心をき麗に、いつも鏡のようにとぎすましておったならば、神様や仏様が、自然に心の内にうつって、人間はええ方へええ方へと進んで行く。極楽の世界がそこへ実現してくるんぞ。皆、わがに責任があるんだから、どうぞ神様信心する者は、心に波を立てんようにしなさい。心に波を立てない様にするのには泣いたり、笑うたり、愚痴をこぼしたりせられんぞ。いつも我を忘れて、人の為を計る、人を喜ばす事ばかり考えておりなさいと泉先生がおっしゃった。その、大事な事を書いてあるんですから、二百二十七条は先生の心とみてよろしい。先生はこういうお心で始終おったのです。
(昭和三十六年五月三十一日講話)
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第二二八条 「伏し拝む井垣の中は水なれや、心の月のすめばうつるに。」


これは泉先生のおとなえの終りにも書いてありましたと思いますし、伊勢町の先生のお宅の額に懸けてあったと思います。これは神様の、このお屋敷を池にたとえたんです。伏し拝む井垣の中は水なれや、伏し拝む井垣というのはそのかきの中、すなわちお屋敷です。神さんのお堂やお屋敷は、池のようなもんじゃと、ちょうど池は鏡のようになっている所へ自分の心が映るのですから、心の月が曇っていなければ、はっきりと映るという歌でございます。 ところがどうですか、皆さん、心の月が澄めば映る。なるほど心の月が澄んでいたら池の上に、きれいに映るものでございますけれども、心の月が澄んでいるか、澄んでいないかは、わが身には、わかりにくいのです。心にシケがおこらず、よろこべるときは、これは皆、神仏のお陰でこうなったというところへお預けするのです。つらかったら、これは、自分の未だ務めが足らんというて責任を負うのです。どうでございますか、つらかったら愚痴を言いやすくなるのです。自分が全責任、我にありと思うたら、愚痴はでようはずがないのです。うれしい時には、それをよそへお預けすること、つらい時には自分が責任を持って、未だ務めが足らんと、こういう風にするならば、心の月はき麗に澄んで来るのです。自分が責任、皆持つのであるから、人にむかっては腹も立ちません。又自分がうまくいった時には、共に手を引いて人助けも出来ます。これが心の月がきれいに澄むという事でございますから、どうぞ二百二十八条に書いてある事は、心にシケを起さないように、台風が心のなかに起らんように、お互に手をとり合うて進みたいもんだと思います。
(昭和三十五年六月十五日講話)
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第二二九条 「人に恵んで貧乏した人はないが、わが身を愛する為に貧乏した人は多い。」


人に恵みすぎて、貧乏した人はないんじゃ。ところが、わが身をかわいがりすぎて貧乏したという事は、数が多いと、こういう事を泉先生はおっしゃった。ここでひとつ面白い話があるんでございますが、お釈迦様がそれをおっしゃったんです。「愛するという事に、わが身を愛するほどつよく力を入れるものはないぞ」と。ある王様が国を治めておいでるのに、非常によく治って立派に出来上った国がありました。その王様が、奥さんとある日お話しをなさった。わしはこうして国が治まると、実にうれしいのじゃが、おまえさんはどんなに思うかい。わしはもうまことに人はかわいがっていかないかんと始終思うとるんじゃ、どうかな、おまえさんは私と夫婦になっとるのじゃが、この夫婦で、おまはんは、だれが一番かわいいか。ほんとのこというんだぜ。今日はうそを言わないで、ほんとう言うの、どうかな、おまえさんと、わしと二人か ここにおらんのじゃが、だれが一番かわいいかという事を考えてもらうんじゃ。奥さんが「ハイ、考えてみます」と、しばらくお考えになった結果、王さんの前で、それではお答いたします。
誠に私はものいうのが無調法でございますから、お気に召さなんだらお許しをお願いします。ほんとうを申し上げます。私が一番かわいうございます。そう言ったところが、「ああおまえはえらいぞ、ほんとうにおまえはえらい、わしがかわいいと、おまえがもしいうたら、未だちっと間違うとる、私が一番かわいいと自分でいうたのは、よく出来とるとわしもそう思うんじゃ、これ二人おるんじゃが、もうおまえとわしと二人おる中で、どっちがかわいいかというたら、わしが一番かわいい。おまえが死んだとて、わしついてよう行かんもの。おまえ淋しいだろうが一人行かんならん。わしあとへ残りたい。こういう事を考えて見ると、どうもわしが一番かわいいように思うわ。おまはん、今日は感心したわといって互に手を取り合うて感心の仕合をした。
ところが王さんがおっしゃるのには、しかしこれよう考えてみんかい。お釈迦さんが、わが身はかわいいと、だれでも思うているぞとおっしゃったけれども、今わしが考えるのこれでいいんだろうか、わが身息災のように思うて、 どうも何とも得心がいかん。いっぺんお釈迦さんに聞いてみるか、それがよろしゅうございますというので、二人が乗物にのってお釈迦様の所へ馬車を走らした。竹林精舎でお釈迦様がおいでる所へ二人が参って、うやうやしく礼をして「時にお釈迦様、今日私ら二人が参りました事は外でもありません、人間はどうもかわいいという気がありますので、子がかわいい、孫がかわいい、家内がかわいい、自分がかわいい、いろいろありますんじゃが、一番かわいいものを二人が言ってみんか、と申したところが、家内が申しますのは、私が一番かわいいございますと言われた。私も考えてみたら、私が一番かわいい。両方が感心し合って、正直によう言うたというて、感じ合うたのでございますが、信仰の上ではそれでよいのかと思いまして、どうもわが身息災のように思いますので、今日は教えて頂きに参りました」というと、お釈迦様がニッコリお笑いになって「それはほんとうに、ようお出でになった。生きるのは、まことに今人間として、万物の霊長というとるけれども、この人間のからだが出来あがり、心が出来あがるまでには何十億年という長い長い間かかっておるんだ。言い換えたら、下等動物時代から今日の人間が出来あがった、その癖がついておって、わが身が一番かわいい。人はどうでもよいというのから、そろそろと修養を積んで来て、今日の人間になったのだが、やはり一番かわいいものは、自分だというのは間違うておらんのじゃ。しかしながら、その自分がかわいいという、その自分のかわいいからだを幸福にしようとする事は、だれでも望んでおるだろう。幸福にならなんだら、かわいい自分のからだをわがでに、こわす事になってくる。そのかわいい自分のからだを運よく健康に、又人に喜ばれるよう立派な人間にしてこそ、わが身をわが可愛いい、一番かわいいといえるんじゃ。その一番天にも地にもかわいいのは、自分がかわいいんだということを実現さそうとするには、人をかわいがらなくては出来ないのだぞ。わがでに、わがを、かわいがるのでは、人がきろうてくる。するとわがでに、わがを、むごい目にあわすのと同じじゃ。」
さあ、そこで王様ら二人が「なるほどようわかりました。信仰というものは、わが身がかわいいから人をかわいがる、よくわかりました。これからますます私は自分を忘れて人を」「そうじゃ、そうじゃ、それでこそ出来たんだ」とお釈迦様のさばきがあります。
ここで、今この二百二十九条は人に恵んで貧乏した人はない。わが身がかわいいから人に恵まないでもええでしょう、わが身だけが好きにやって、人はどうでもよい。これが昔、動物時代のならわしなのです。今でもそういう人は中にはあります。人が困っても、わしはかまわんのじゃ、わしが困らなんだらええという人もあります。けれども、これは、ほんとうにわが身をかわいがる方法を知らん人です。と同様に、人に恵んで貧乏した人はない。人をかわいがりすぎて、貧乏した人はおそらく無いだろうと思います。皆さんどうですか。人をかわいがりすぎて貧乏した人が ありますか。私は無いと思います。ところが、わが身をかわいがりすぎて貧乏した人はざらにあるでしょう。
ここが大事なところで、お釈迦様も、又、泉先生もそうおっしゃった。わが身がかわいけりゃ人をかわいがれ、人、 皆そう思うとるんだから、わが身の事を忘れたら、人がわが身をかわいがってくれる。わが身は、神仏に預けといてしたら、ぐるりからかわいがってくれる。これがまことの幸福ぞ、と泉先生が教えたのは、実に立派な教えじゃと私は思います。この二百二十九条はどうです。これを、ひとつ、何かに書いて床へ祭っといてもよいでしょう。人を恵んで貧乏した人はない。わが身をかわいがって貧乏した人はよくある、面白いでしょう。どうぞ泉先生は、そういう深い意味で教えたのでござりますから、二百二十九条は簡単でございますけれども、非常に有り難い教えでござります。
今、あんた方のおうちのお年寄なれば子や孫さんが家においでる。若い人ならばご自分が家業をしていられる方もある。大勢寄っておいでる皆さんが、この二百二十九条をひとつの手本とおいて、わが身をかわいくないものは、だれもないんじゃ。ところが、その可愛がりようが人をかわいがらないと、わが身かわいがったことにならんという。
ところが、取り違いしとるのでございますから、取り違えのないように、これを子供しに至るまで、その意味で、あんた方が見せるならば、立派な教訓が家に出来る。すなわち家庭の風がきれいになると思います。
今日も仲須様がテープ入れにおいで下さって、仲須さんとお話した事なんでございますが、ほんとうに日常生活に思うたり、いったり、したりする事が神仏の心に合うという事は、なかなかむづかしい事であるけれども、近頃ぼつぼつ仲須さん、そういう人が先生のお陰で出来ましたと、仲須さんと感心した事でございます。どうぞ日頃から、二百二十九条の様な事を子供しにさせるんです。おとながして見せるんです。そうしたら、教えなくても立派な家庭になります。
(昭和三十六年六月十五日講話)
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第二三〇条 「利己主義がうすらぐほど、神様のご慈悲を受ける事が多くなる。」


これも二百二十九条にいうてある事と、よく似とるんでございますが、言い方が違います。利己主義というのは、自分さえよかったら、よいというのが利己主義です。其の利己主義がうすらぐほど、神様のご縁が濃うなるというのです。どうですか、そうなりはしませんか。わしだけ良かったらええというのでは、神さん拝んでもお陰を受けるはずがないのです。今、二百二十九条に言いました通り、世の中でかわいいのは自分なんだ。そのかわいい自分の身をむごい目にせんようにするには、人にかわいがってもらわなければ出来んという事さえわかっとるならば、二百三十条は、はっきりわかるはずでございます。
お大師様が、ある日お弟子さんをたくさん集めて、色々な世の中のお話しをなさっていたところが、お弟子の一人 が「お師匠様は、ほんとうにご自分というお考えをお持ちにならずして、人の事ばかりをかわいがっておいでるように思いますが」とお話しをすると、お大師様が「そんなに見えるかな、わしは利己主義だぞ」そうするとお弟子さんが、びっくりして、「ええ、お師匠さん、利己主義とおっしゃいますか」「わしは利己主義じゃ。しかし、わしの利己主義は大の字をつけてもらいたい。上へ、小さな五尺のわしを大事にするという利己主義ではないのであって、大利己主義、大きな利己主義で皆を喜ばさなんだら、わしが喜べんという利己主義じゃ、だからわしは大利己主義、皆さんは大利己主義になってもらいたい。」というお話を、お大師様がなさった事がある。面白いでしょう。利己主義でも五尺のからだの自分を可愛がるのじゃなくして、世界中という、この大きな人間世界という大きな個人、そういう世界的な個人主義になったら、又きれいなんです。おかしいもんでしょう。大個人主義になりますと、ああいう立派なご光がさすような人間になれるんです。
これは泉先生がおっしゃったのには、あの奈良の大仏さん、鎌倉の大仏さんも大きい、何のためにあんな大きなからだこしらえてあるのだろう。泉先生がニコニコ笑いながらおっしゃるのには、小さい五尺のからだを大事にするからいかんのじゃ、世界中の人をからだの中へ入れる位の大きな体になったら、それがほんまのお蔭じゃとおっしゃった。それで大仏さんは、大きな大きな仏さんをこしらえてあるというのは、大利己主義を現わしているんじゃと、私は泉先生のお話しをそう考えるのでございます。
どうぞ、そういう風に、小さい五尺そこそこのからだを大事にせんように、大仏のようにならないかんと私は思います。
(昭和三十六年六月十五日講話)
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