1~10条

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第一条 「神というも、仏というも、根は一つ。」


「神というも、仏というも、根は一つ」と、いうことですが、今日では、神様、又は、仏様として、おまつりしておりますが、そもそもおまつりの始めといいますと、今より二千五百年前のこと、すなわち釈尊のときでありますが、印度では、釈尊を神の如く思って、いや思うのではなく釈尊を神としてお仕えしておりました。
それも、もっともなことで、釈尊は人をごらんになれば、すぐに、その人の心をお知りになっており、又将来この人が、どのようになるということまで予言なさる。そうしてそのおことばのとおりになるのですから、人はみな、神仏としてお仕えしたのも無理のないことであります。
神ということばは、神道の宗教でいうことばであって、仏教すなわちお釈迦さまの教えでは、神のことを仏というのであります。このまつり始めともうしますと、お釈迦さまが、お国がえなされまして、印度の信者の人々は火が消えたようになり、たとえお釈迦さまのお姿なりともつくって、おまつりしたいと相談ができて、はじめて大理石で、そのお姿を刻み、これを仏としておまつりしたのが仏をまつる始めであります。これ迄にも、まつりの例はありましたが、それは、天の神を祭るとか、火を祭るとかいうのでありまして、み仏をおまつりするのは、これがはじまりであります。そうして、そのおまつりの意味に至っては、全く神というも仏というも同じものであります。
泉先生は、学問としては、学校へはお出でになっておりませんので、仮名文字位しかお知りになっておらぬくらいであります。にもかかわらず、このような深い真理をお話になっている。まことに頭がさがるわけであります。
さて、この仏さまでありますが、見ようによって三体あるのであります。仏さまというのは、いまお話しいたしましたように、入の目で見ることのできるお方では無いので、一口にいうと天地のお心であります。いいかえますと天地の真理であります。無始の昔より、永劫の未来まで、天地の心理は一系乱れず、整然としておるのであります。
時々刻々変化して、複雑なようでありますが、一定不変の真理の一環でありまして、この真理を法身仏と申します。
この真理を肉身に体得して生物を救済される人を応身仏といいます。そうして、法身仏の一分身のみ恵を仏体と念じて、報身仏としておまつりしてあります。ですから八万四千体のみ仏があらわれてくるわけであります。しかしこれは、三体に分けてみただけであって、せんじつめれば、三体一味であります。
(昭和三十二年四月三十日講話)
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第二条 「天地の内に、神の、み徳をうけておらぬものは一つもない。」


この天地の間にあるものは、すべて、草であろうと、木であろうと、虫であろうと、人をかむような「まむし」のようなもの、あるいは虫、ちょう、であろうと、くもであろうと、犬であろうと、馬であろうと、人間はいうに及ばず、ありとあらゆるものは、神のみ徳をうけておらぬものはないと、泉先生の目には映ったのです。そういうことを先生は、「天地のうちに、神の、み徳をうけておらぬものはない」とお教えになっております。
これを、私が事実においてお話し申しますと、空気というものがここにありますが、これは、科学者は窒素と酸素との混合したものであると、科学的に述べておりますが、この空気の中にある酸素でありますが、この酸素がなかったらどうなるか、又これを製造するものだったらどうなるか、この空気は、今日の測量では土地の上を一二〇キロぐらい地球をおおっておるそうであります。地球は、この厚い空気の層でおおわれていて、人はその世界に住んでいるのでありますが、この酸素を吸い込みますと、肺の中へはいっていきます。そうして肺の中の気泡というごく小さい、息をするたびに、ふくれたり縮んだりするところの気胞に空気が接触します。すると、その気泡の中へ血が流れこんでおりまして、血の中にあるところの悪いものは、炭酸ガスとなって、今度は吐く息の中へ出てくるのです。そうして、吸いこまれた酸素は血の中へすいこまれて、血が真赤にさらされて、新しい血となって、今度は肺からでてくるのです。もし呼吸を五分間しなかったならば、もう目が白くなってしまいます。こういう尊いところの空気というもの即ち、天地の神のみ徳をいただいているわけです。知らず知らずのうちに、それを神のみ徳としていただいているわけでございます。
ところが、また、山とか、野とかに生えている木でございます。この木の葉緑素といって、みどりの葉の裏側に穴があいております。気胞といって、木の葉の表面には気胞はありませんけれども、裏にいくつかの穴があいております。このことは、あなた方が木の葉を水の中へつけて、日なたへ出しておいてごらんなさい、解ります。葉の中から、[ぽつ]と泡が湧いてきます。これは、木の葉が息をしている証拠です。木の葉は、人間が呼吸するのと反対に、人間の出した炭酸ガスを吸い込んで、酸素をはき出しているのです。これ、天地の神の仕事です。
それですから、この緑の木の多くはえている山とか海辺は、養生に適するところで、保養地になっております。
須磨や明石のあの、松原は多くの呼吸器の悪い人が生活しているというのも、その新鮮な酸素を吸うためにからだがよくなるので、保養しておるのであります。
このように、緑の木の葉のうらには、人間になくてはならぬところの酸素を無尽蔵に製造してくれております。
この仕事は、だれの仕事であるかといえば、いわゆる天地の神の大み心による仕事でございます。
植物と動物とは、離れることのできない間柄で、お互いに生き合いをしている。人間でいうならば、お互いに手をとって拝み合いの生活をしているさまであると泉先生の目にはうつったのでございます。
泉先生は、学問とては、なさっておりませんが、海の上に浮いて、あちらの神さまをお参りしたり、こちらの神さまをおまいりしたりしているうちに、そういう尊いところの神さまの、み徳を自分が受けているということをご承知だったわけです。それで、私に天地の間に神の、み徳を受けていないものは何一つもないというお話をなさったわけなのでございます。こういうお話を申しますと、いくらでもあるのです。
以前にもお話申した事がありますが、山や海辺にはえている草木はそうですけれども、えんの下にはえたかずらでさえ、板のふし穴から芽を出してくるが、それは天地からさえぎられているからして、神さまのみ徳を受けていないかのように考えられますが、かずらは節穴のところからはい出してまいります。これはどうして目のないのにと考えますが、そこに天地のみ徳を受けているのです。そのみ徳は、苗を養成なさるとよくわかるように、草木は光線のさす方へ伸びてまいります。それは、日が当ったところは分子が伸びなく固く強く縮んで、陰の方だけが伸びるからです。自然に縁の下の植物は節穴から来る光線に向かって、伸びていく状態になるでしょう。そしてどんどんと伸びてついに穴の外へ出て、晴ればれとした天地で花を咲かせ実を結ぶということになります。すなわち縁の下に生えた草までが天地のみ徳をうけているということになるわけです。このように考えますと、ちり切れ一つでも神のみ徳をうけているわけです。
もう一つお話ししましょう。ここに大変おいしい実がなる果物の木がある。それを改良すると、ますますおいしくなる。このようにおいしい実がなる木は人にかわいがられるのです。したがって人がそれを栽培するので、あちら、こちらに広がるのです。すなわち、おいしいところの果物の子孫がますます繁栄することになります。そのおいしい味というのはだれがこしらえたのか、それは人がつくったように思っていますが、いかな農学博士といえども、味一つつくり出すことは、できないのです。これは、地味の関係とか、あるいは光線がよく当たるとか、当たらないとか、湿気がどうだ、こういう天地の力が十分発揮できるよう、じょうずにお世話して、おいしい味をつくるのです。おいしい味一つでさえ人間の力では出せないのです。ただそのお世話ができるだけです。
米作りについて考えてみます。段関はご承知のとおり粘土質の土地です。上から十五糎位表土をまくりますと、下は粘上がもうかたい石板のようになっております。段関米といいますと、近年は大分よくなりましたけれども、播州米や備前米には及ばないのです。それで農業なさる方が種子の交換をなさる。播州米の種を持って帰って植えたとします。そうすると、その年は、播州米によく似た米ができるのですが、いつのまにか、段関米になってくるのです。
なぜそうなるかといいますと、あの播州あたりの土地は、耕土からずっと深く下の方へ泌みこんで行く地層なんですから、あちらの方では、大変稲が深くはいる。そうすると、いきおい、稲の「から」が生育する上に実の方へ力がいってくるのです。段関になりますと底へはいれない。横へ広がるのです。だから、稲の「から」(茎葉)はよくできますが、「から」のできた割合に穂はさほど収穫が多くありません。よくとれますけれども、からの割りに少ないのです。味も播州米に劣ります。交換して帰ってきた種を、又今度の年もつくる。又その翌年もその種をつくる。こうして三年すれば立派な段関米になってしまう。これはだれがしているかというと人間の力でありません。つまり天地の力です。段関ではえると、段関としての気候、土質に適応した「から」をつくらないと播州式に行くならば、枯れてしまうか繁殖しないのです。つまり稲が段関に相応した天の力をいただいて、段関にはえて一番強い稲ができるのです。いかに篤農家の方でありましても、米一粒さえ製造することはできません。ただお世話をする。いつごろ、どういう肥料をやればよいだろうか、などとじょうずにお世話をする学問が農学なのであります。
米一粒お作りになる方は、おそらく人界にはおらないのでございます。米をいただく上においても我々は、米が天地のおかげをうけて、りっぱに生育したのをおいしいおいしいといっていただいている。ただ、稲一本考えましても、そういうような天地の力をこうむっているわけです。
それから、かりに二粒の「もみ」をまきまして収穫すると、これを最低で算用いたしまして、千六百倍になるのです。その千六百倍になったところのお米を一粒も食べないで、その翌年作ると、その収穫を年平均二石五斗としてもこれを五年くりかえすと、五年後の収穫は、二十五億余という石数が生れるのです。僅か二粒のもみからそうぃうことになります。この力はだれが作ったのかといいますと、なるほどお世話は農家がなさったのでありますが、ほんとうにその米を作りあげたのは、いわゆる「天とうさま」すなわち神さんであります。その二十五億は消費してしまっていますからわかりませんが、消費しないものならば、こういう大きなお仕事を神仏がなして下さっているのです。
先生のお目にはこう映るのです。我々が見ると、ただ二粒の「もみ」とみますが、五年後には世界中を養う力がある。
こういう風に泉先生には天地の力ということ、すなわち、神の力ということをいつも心からお離しになりません。
すべて、神さんと人間の生活を結びつけて、いつも「有難い」「有難い」と感謝の生活をなさった方なのです。
今一つ、ここに神の、み徳を受けていないものはないということにつきまして話してみます。
仲須さんの工場でお仕事をなさっていた女の方が、髪の毛を「シャフト」にまかれ、「アッ」と、いうまにどうすることもできなく、みるみるうちに、皮とともに頭の肉がくるっと帽子をぬいだように取れました。大急ぎで「スイッチ」を止めましたから、それでよかったのでございますが、そのまま、この髪を「シャフト」からとりはずして、医者へ大急ぎでつれていきました。ところが、不思議に血があまり出ていないで消毒して、それをひっつけたところがもとのようにきずがなおって、大けがしたことがすこしもわからぬように直ったということです。
人が、けがをすると、ちょっと色が青くなるでしょう。’脳貧血を起こす、貧血なんですから血が出ないのです。あまり血がたくさん出ますと、帽子をぬいだように頭の皮が取れたのが付きません。ついてもはげになります。ところが、びっくりして脳貧血をおこしている間に医者が手術したために、結構にひっついたのです。これも、はっとびっくりした時に脳貧血を起こすということは、天の働きです。その天の働きがあるがために、人間は目をまわすということにはなりますけれども、その結果、傷などしてもなおりやすいという、おかげをうけているのです。
そういう不幸な目に会った時でも、その不幸にあったことが、すなわちその人の幸福になる。こういうふうに天地の力というものは、はしはしまでも生き物が助かることになっているのです。信仰のない人からみますと、血が出なんでよかったなあと、これ位のことになる。けれども、泉先生のような念念不離神、すなわち、もうひとことひとことごとに神さまを離れておらぬというお考えのあつい人になりましたならば、血が出ぬどうしたのかとお考えになって、その「なぜ」の中に神さまのご慈悲をみいだして、ああありがたし、ありがたしというご一生を終えられたわけなんです。
こういう風に、いつも私はみなさんといっしょに、考え方を、この天地の間には神さんの、み徳をうけておらぬものは何一つもない。草木から、虫けらに至るまで、ことごとくみ徳をうけているのであるという風に考えていきますと手を合わせて祈らなくとも、心のうちに神のみ徳を慕っておるのでありますから、大きなおかげがいただけることになります。
第二条の「天地の内に神のみ徳をうけておらぬものはないぞ」とのお教えから、この草がこうなるのはどういうわけか、(ほうせん花の実が熟したのに手を触れるとパッと種子がとび散るのを見て、種子を散らす力を天から与えられていることをとうといと思う)と考えれば、草木一本にでもあなた方の信仰が神さんに通うことになるのです。
ほんとうの信仰は感謝にあるのでございますから、ああ草木にまでも神さまのみ徳が行き届いている、ああもったいないものだなあ、有りがたいものだなあと思う心に神のかげがさすものでございます。
知らず知らずの間に神様とのご縁が濃くなって、おかげが知らず知らずの間にいただけることになるのですから、どうぞこの第二条を心より離さないようにしたいものです。
(昭和三十二年五月十五日講話)
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第三条 「神は夜となく、昼となく、遠き、近き、清き、きたなきの区別なく恵まれている、疑いを去りて感謝せよ」


神さまは、人間のように、昼起きて、夜おやすみになるということはなさらない。昼も夜も、すべての生きものを守っておいでる。こう申しますと、あなた方は「神さんは眠っているのか、起きているのかわからないのじゃなあ」とおっしゃるかも知りませんが、仮にあなた方が夜眠っている時分に、足の裏をちょっと、かかれてごらんなさい。 必ず足をひっこめます。そうして朝起きて「あんた、昨夜足に何か感じたことありませんか」と聞いてみると一向ご存じがない。この足を引いたのはだれがひいたかわかりますか。無論、その人が引いたのでありますけれども、その人の人間根性というのは寝ております。そうして夜も昼も起きているところの、その人の心の中にある仏性すなわち「神仏の位」です、その神仏の位のある仏性の力によって感受し足を引いたことになるのです。
この仏性という、天地に通ずるところの働きがつまり神仏の「ご加護」となるのでありますが、もし神さんが夜やすまれて、そうして昼は起きてみてくださるということになりますと、生物は助からないのです。身体には、人が意識せずして大切なはたらきをしているものがあります。それは身体の機能です。人間の身体の機能、これは知らん方が多いです。たとえば、あなた方が脈を早くしてみよう、おそくしてみようとしてもそれができますか、又かたい物食べたから今日は胃袋をちょっと余計働かしてやろうと思ってもそんなことはできないでしょう。
そのように人間が知らずして天地の力で働いている機能を考えますと、寝ても、さめてもお世話なっていることは実に多いということがわかります。あの心臓は、身体中に血を送る一つのポンプでございます。このポンプが、もし一分間でも休むとどうなりますか、その人はもはやこの世の人ではないということになります。ところが規則正しく、一分間に七十二平均打っております。又人間が夜休みましても、昼間いただいた食事は胃袋から腸の方へ下がりまして、その腸の運動は夜寝ましても働いております。そうして夜も寝ずにその食物をこなして上から下へと順々に運んでおります。その運びの運動が止まりますと、これは病気を起こす原因になります。この人間の五尺の身体のうちに、夜も寝ずに働いている部分はたくさんあります。むしろ昼起きているあいだはたらいているということよりも、ねているあいだ働いている部分が多いのでございます。人間は寝ていても神さまにめぐまれているということになるのです。
それから神さまは「きたないもの、きれいなものの区別はなさらない。」ということを、泉先生はおっしゃっておいでます。たとえば、ここに一尾の魚でよろしい、あるいは他の何ものでもよろしいが、食物が腐るといたします。人は腐りますとすぐに、これはもうどうにもならない、きたない、こんなもの食べるとあたるとかいって、まことに恐しいものかのごとくこれを捨てておりますが、捨てるのもよろしいが、神様はどういうことをなさっているかというと、人の食用に適しないということになると、これを腐らします。そうして腐らして、今度ぶりは、腐ったものを好きなもののところへ持っていって食わしてやる。例えば、魚を腐らしてあの魚肥というものがありますが、その魚肥を稲とか、その他のものにやってみると、大変よろこんで食べるのでございます。一方では人間のきらいなものを、腐らして他のよろこぶ方へまわして下さっております。
もし、この腐るということが無かった場合にはどうなるのでございましょう。想像してごらんなさい。今、地球の上には三十余億の人がおるのですが、その人間が生まれて死んで腐らないと仮定しましたならば、この地球上はおそらく死がいで埋まってしまって、耕作する土地は少しもないと思います。それどころではありません。もうほとんど交通もできません。
かように、物の腐敗というものは、人間はきろうておりますが、天地の働きから考えますと、恵みです。慈悲でございます。我々を助けて下さっておるのです。もし腐るということが無かったならば、実に悲惨窮まるこの地球上は、目もあてられぬ状態になります。馬も、牛も、犬も、ねこも、鳥も、ほとんどのものが腐らないのですから、死んだものが積み重なり、積みあがり、とうてい我々は生きることができない世界ができてくると思います。こういうことを考えますと、神さまは、きたないものでもきれいなものに変えます。こうしてきれい、きたないの区別はなさらない。ともかくも生物が助かるように、助かるようにできているように我々には解釈ができるのです。
これを宗教的に考えますと、物が腐るということも大変有難いことになる。そうして妙なことには、大ていのものが腐りますと酸となります。ご飯が腐りましても、すぐすっばくなるでしょう。そのくさってできた酸は今度ぶり腐るのをとめる薬になるのです。腐ってしまった場合は酸ができ、その酸というものを他のものに加えると腐らぬものになる、こういう不思議な助けぶりもしてくれておるのです。夏ご飯食べる時分に謹かばかり酢を入れるとか、あるいは梅干しをいれると、そのご飯はなかなか腐らない、このようなことはみなさんご承知だろうと思いますが、その酸というものはくさらないようにできております。酢は物を腐らしてできた酸です。腐ったところの酸で腐りをとめるというふうになるのです。まことに不思議なものであります。
又、夏など柿、梅などによくおります「いら」という虫です。その「いらむし」を「わらすべ」か何かでちょっとさわってみますと「スー」と、あの「いら」のとげの先から水のようなものが出てきます。つゆのようなものが出てきます。あれが酸なのです。非常に強い「蟻酸」といいまして、あれが人間の皮膚へはいりますと、はれてきます。 これを「いらむし」にさされたといっています。神のはたらきは不思議なもので、あの「いらむし」にさされた時に 「いらむし」のからだをつぶった汁をはれた部分につけますと、その酸が消えてしまうのです、実に見ようによりますと、世の中は毒をもっているものは毒の反対のものをもっていることになっているのです。はみ(まむし)もそうでしょう。「はみ」にかまれて体内に毒が入りますと、なかなかの猛毒で生命があぶないのですが、その「はみ」の毒を薬にしてつけますと、いかなる傷もなおるのです。実に妙なんです。かまれると毒なんですが、これを薬として食べるならば、精がついてくるのです。人間が精力を増すとか、あるいは傷につければ傷がなおるとかいうようになるのです。これを宗教的に考えますと、神様は毒のものは必ず薬となるようにして下さってあります。毒そのものが薬になっています。
又、同じ毒といいましても美しい花の咲く「けし」があります。けし坊主にきずを入れると白い乳のようなものが出ます。その乳に麻痺薬(しびれ薬)がはいっておるのです。それから、いろいろの植物から「マヒ薬」を取りまして、今日ではそれを医者が手術をするときに使っております。しびれるということは、いらないときには大変な事でありますが、このしびれるということがなかったならば人が助からん場合があります。
このように、天地の神様は草にでも、木にでも、人間に毒のようにみえて、それを使い方によれば薬となるものを含めてあります。この麻酔に「局部麻酔」と「全身麻酔」というものがございます。局部麻酔は歯を抜く時も、注射して痛みをとめます。全身麻酔は大手術の時に使います。こういう薬も神の力によって、この土地の上にできているわけです。このように一方からみれば毒のようにみえますけれども、それがなければ助からぬ場合があります。
大手術する時分に、そのままやりますと痛い痛いで心臓麻痺を起こして死んでしまいます。それを麻痺の力で知らぬ間に手術してもらえる、こういうふうに生き物が助かっております。これなども、誠に有り難いところの神の思召しと信仰の上から見ることができます。
それから話が変りますが、「ポンプ」を押しますと、水がぐんぐん上ってくる、なぜ上ってくるのか、そのことを考えますと、これは、むずかしい物理の話になりますけれども、この地球の上には、一二〇キロの厚さの空気の層があります。そうして土地の上を押している。空気の一二〇キロもある厚さを代って水で押さえたら、どれだけの水の厚さになるかということを換算してみると、まず土地の上を二十一尺(六三〇センチ)の深さの水でおさえているのと同じことだそうです。空気のかわりに水とかえてみると二十一尺、そうするとこのポンプを押した時に真空ができます。つまり、その真空のところへ水がずうっと上ってくる、上ってくるのは、地球の表面を空気が押している、押している重さだけの高さしか上がらないのです。水上ポンプであれば二十一尺しか上がらないのです。もし、この空気の圧力がないならば、ほとんど土地の上へは吸い上げても吸いあげても上がらない。吸い上げても上がらないとなりますと、生き物が生きられません。土地からは、植物がはえて水を吸い上げますが、吸い上げる力がなくなってしまうのですから生物は全部だめです。無論ポンプも使えません。このように吸い上げる力は、空気の押している力だけ水が上へあがることになる。こういうことで、もしその押える力がないならば、生き物は生きられないのです。いくら吸い上げても上がらないのですから大へんなんです。生物もすべて死んでしまわなければならないという運命になるのです。
今一つこんな話をいたします。朝おきてお茶をたきます。茶びんに、しゅんしゅん音立てて沸いてきます。すると、やがて茶びんの口からふーっと湯気が出てきます。それを水蒸気といっておりますが、これは茶びんの中へはいっているお湯が摂氏の百度以上になりますと、水蒸気になって上へとびあがる。これを俗に「湯気」といっておりますが もし、この水をずっと熱しつめますと、どれ位水蒸気になってふくれるかといいますと、千二百倍位にふくれるということです。もしこの水が熱にあってふくれない、水蒸気にならないという場合、どうなるか、作物を作っている方々は大変な問題が起きてきます。水が蒸発しないのですから、空にしめり気が無くなると、雲ができない、雲が無ければ雨が降らない。そういう結果になりまして、ものがおそらくできません。一面の沙漠となってしまうわけです。 極端に申しますと、そのような状態がおきてきます。
又、この水蒸気になって膨張することがなければ、汽車も走ることもできないのです。水が沸いて湯になって、それが蒸発して水蒸気になるというこの働きはだれがこしらえたのか。人間はそんなことはできません。人間は、ただ火をこしらえて沸かすということはできますけれども、沸けばそういうふうな水蒸気になる力は、これは神の力なのです。もしその恩恵がないとするならば、われわれは死んでしまうより外ありません。これを信仰の方から考えますと、神様は水一滴にでも生きものが助かるという慈悲が含まれているということが言えるわけです。
このように、すべてのことを考えてみると、科学という理論には、ちがいありませんが、その科学の理論はわかるけれども、その根底というものは神の力である。人間が作ったものではない。天地自然の力である。人間がこれを利用していることが一つの工夫でありまして、もし根元の力が神の力でないならば、生き物はたすからない。すべて死滅してしまう運命になるわけです。
泉先生は、舟にのりながら、魚をとりながら、海の上に浮いて、そうして、夜となく、昼となく、神様に恵みをうけているということをおっしゃっておいでたのですが、このか条に書いてあることを、神は夜となく、昼となく、又きたないとか、きれいとか区別なさらん。すべて生物が助かるという根元を神仏は作っておいでる。それで物理であるとか、科学であるとかは、それは知る一つの方法であるけれども、その根元を神が作ったということに間違いはない。疑いを去ってよくしらべて感謝せよということを泉先生がおおせられたのが、このか条であります。
これは、ただ簡単なことでありますけれども、広くこれを考えていきますと、何ともいえない深いところの意味が これに含まれているということが、学問が進めば進むほどひどくなっていきます。
今日原爆ができ、あるいは水爆ができました。あの僅かな人間が持ち運びできるほどの量でもって、一度爆発すれば何十万という生き物を殺す力を発揮します。これも、原子爆弾という力は人間がこしらえたのではありません。 大昔、もう土地の始まる前から、ずうっとそういう働きがあるということは経文にも書いてあります。立派に釈尊もいわれているわけです。ただそういう力を人間が発見したというにとどまるのでありまして、もし、それを戦争に使って生物を殺し、また物をこわすことに使うならば、それは一つの悪魔の働きになるわけです。神の力が悪魔、悪人の働きになるわけです。それを人間の幸福のため、生き物が助かるために使う。たとえば、それでもって電気を起こすとか、あるいは、船を走らせるとか、飛行機を飛ばすとかいうふうに、その強い力を人間の幸福の方へ使うならば これがいわゆる善神の働きで、ものはいつも使い方によって人が助かり、使い方によって人が死ぬ。このようになっております。これはむずかしい宗教上の言葉になりますが、すべての法には、自性はない。使い方によって助かり、 又助からんということになると、お経文にも書いてありますが、なるほど、今日の原子爆弾の如きも使い方によれば大いに助かる、使い場によれば、大いに苦しむということになるので、前に申しました毒薬でも、使用法によれば人間の薬になる。使用法をあやまれば人を毒する。つまり、その神の力というものが悪の方、悪神で、悪神というのは ここから生まれたわけです。
使い方によれば、善神つまりこれをもう一つむずかしいことばでいいますと、活人剣殺人剣といいますが、あの仏のもっておられる所の剣は両方きれるようになっております。人間の使う刃でなくして、両方がきれるようになって一方は活人剣、一方は殺人剣、活殺自在の剣であると信仰の方ではいっております。この妙味を現わしたのであります。活人剣、殺人剣、一本の剣で人を殺し、又人を助けることができるということを、お経文に書いてあります。「あの働きがすなわち、私がただ今申し上げている所の、使い方によれば活人剣になり、使い方によれば殺人剣になる。人を殺すも生かすの妙味は、ただ慈悲があるか、ないかということにとどまるわけであります。
泉先生は、ここに非常に心をお用いになって、すべてのものをみる時に、いつも慈悲の目で見て、慈悲の考えで、 この人界で使うならばこれが結構なる神の道になると、これを慈悲でなくしてその反対に使うと、これは世を害するところの悪人になると、いつも先生はおっしゃっていたのです。まことに今私が四十年昔の先生の心を考えてみますと、いかにも勉強も何もなさらずして始終生物の生命をとる漁師の中にあって、交りながら、しかも今日人がもっとも尊ぶところの、この宗教上の驚くべき解釈をなさっておいでたかと思いますと、先生のおっしゃる神というものは形でない、心にあるのだ。なる程考え方によりまして神となり、又悪神となるということを始終お教えになられました。
讃岐に一の宮というところがあります。「一宮神社」といいますと、むかしは国幣社でありまして、堂々たる大きなお宮でございます。その隅の方の末社に、つい二間四方無い位のほこらさんがある。それが「素波久羅さん」といって女の方をまつってある神様です。そこへ先生がお参りに行きまして、一宮さんも、素波久羅さんも同じく礼拝して、一宮さんが国幣社であるからして、そこで拝むことをなさらないで、素波久羅さんのところへ行くと、一宮さんには「そばくらさん」といって、その小さい神様を先生はお拝みになる。このようなふうで、先生のご信仰ぶりにしましても、おかげというのは形にあるのではない、形はいくら立派にしてもだめだ、心にあるのだ。
今日お話し申しているこのか条も、科学の方からこれを見ましても、どの方面からみましても、その姿に天地の慈悲が現われておると先生はごらんになるから、ポンプをみても神のおかげ、又毒薬見ても神のおかげ、とういうふうにご覧になっているわけです。これで神は夜と昼と、あるいはきたないと、きれいと区別しない、遠いだの近いだの区別しない、いかなることも生き物助かれとお慈悲深いところの恵みを我々に下さっておるという教えがこの第三条であります。
(昭和三十二年五月三十一日講話)
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第四条 「生きても、死んでも、天地は我が家」


泉先生は「死んでも生きても天地は我が家」ということを、ほんとうに「死んだのでない、生きているんだ」という事実を如実に示されておられます。
さて、あの世と、此の世と通信するということ、その力はどこから生れたのであるか。一例を申しますと、先生の 親御は、石槌山の大先達であったのですが、その石槌山へお参りいたしますと、三十三尋の指程の太い鉄の鎖が掛っています。それが「がけ」だそうで、その鉄の鎖を「南無まい陀」「南無まい陀」と唱えながら上へあがります。もしも、その一番上から小粒の石でも落ちたとしますと、あたった下の人はふくれあがる位の高い「がけ」だそうです。その鎖を上ぼりつめますと、がけの上に一つの石の台がありまして、その上に石でこしらえた槌があるそうでございます。すなわち、石槌山とはそれから名前がでたそうです。その石の槌は「極楽のよろずの罪をくだいた石槌山」と、先生はお唱えしております通りに、自分の肩がいためば、その槌で「南無まい陀」「南無まい陀」と唱えながら肩をうつ、あるいは頭の悪い人は、おつむへその槌をさえる。
そういうならわしでございますが、先生は、私に『村木さん、アノなー、自分のお父さんにそのことを聞いたのだが、石槌山の石で「南無まい陀」「南無まい陀」というと自分のおかしたつみが軽いとは、わしゃおかしい。自分が犯した罪は、この五尺の身を石の槌にたとえて、このからだで「南無まい陀、南無まい陀」とご真言をとなえる如く 心に念じて、そうして世の中のはたらきで罪を払うというのが、わしゃほんとだと思うんじゃがなあー」と、お話しをいただきました。そういうふうに、昔からの習わしでも、先生は必ずご自分の身体でこれをなさるということに力をお入れになったそうです。
すべて先生のご一生を通じて、神仏の教えに対しては、必ず身体で実行せねば「おかげ」がないとのお考えのもとになさったので、あれ程の人格を築きあげられたものと思うのです。以上は先生の偉大なるお力ができたというもとをお話しした次第でご座います。
さて、話を本文にかえしまして話をすすめます。「生きても死んでも天地は我が家」とおっしゃられるが、どのような事例があるかと申しますと、それは、先生がご生存中のことでありましたが、『お前さんは、長らくこうしておつきあいをしたが、わしはもう山の中へはいる時が近づいてきたが、お前さんにいっておくが、今から三年すると、お前さんは神様の前へお供へするものを作るようになると思う。その時には、わしはもう山の中へはいっているが、必ずその前に、一ぺんお前さんところへ知らしてあげるぞ』というお話があったのです。その物語りを最後に先生と長のわかれをいたしたのでありますが、それから、早いものです、三年たちまして、ある晩先生がおでましになっていよいよ三年の時がすぎ、先生の三年前におっしゃったとおりお告げがあったのです。もはやその時は先生はおなくなりになっていました。
ちょうどその時、撫養の四軒屋に仲須正吉という方がおりました。この人は野崎の仲須さんのご親せきですが、その方が大変な重い病気におかかりになって、わたくしに会いたいということになって迎えにまいりました。私は、さっそくいってみますと、もうおつむりの上は、こしきの湯が立つかの如く湯げが立っているというようす。熱は四十度余り。お医者さんにきくと、「なんとも申し上げかねます」との言葉でした。病気は肺炎なのです。随分重いとの話でした。ついにその方は、次第次第とこの世の、のぞみがうすくなりまして、最後に私の手を握って、私に「旦那さん」と言うのですが、「旦那さんまことに一生涯のお願いであります」「それはなんですか」「申しかねますが私に妻と子供がこざいますが、それを養ってくれということは、あなたさまにお願い申しません。実は此の私がとりかかりました事業の後をお継ぎ下さって、仲須正吉という名義をきづつかないようにねがいます。私には今たのみをする人はありませんから、此の点はどうぞお聞きとどけをお願いしたい」という話がありました。仲須さんはもはやこの世を去るかわからない時でこざいますから、わたしは考えてみるということもいえないし、ご親せきの方々にもご相談申しあげなければならないので、私はその場で、「ご安心なさいませ」と申しあげました。その時分に私の手にすがって「ありがとうございます、これで安心ができました。さようなら」と、にこやかにお笑いになってこの世を去ったの でございます。そこで私は、御親せきの方々にご相談申し上げますと、親せきの方々は満場一致で、是非頼むということにきまりましたので、私は心よく引き受けたのが撫養の酒屋でございます。こういうわけで、先生のおっしゃったとおりに、夢で前ぶれがありまして、本人に頼まれ、ご親せきに頼まれて、そうして酒を製造するということになりました。後で考えてみますと、なるほど「三年後には神の前へお供えする酒を作ることになるぞ」と先生の生存中におっしゃられたことが実現したわけです。全く「生きて死んでも天地はわが家」ということを先生はご実行なさったというわけです。
又、こんなこともあるのです。今から三十年程すると、世界の中に火の雨が降る時が来る。その時に、わしが手伝って大きな仕事をお前さんにさしてあげるからと、これも「時がきたら知らせるから何も考えずと安心しておいでなさい」と、これも先生ご生存中にお話しがあったのでございます。その後三十年程しまして、今日申す大東亜戦争がはじまったわけでございます。すなわち世界中に火の雨が降ったわけなのでございます。しかし私が仕事をする前に、先生が知らせにくるぞというお話しがありましたが、さあどういう事をおっしゃって下さるのかなと常に考えておりましたところ、ある夜夢の中で「おい、おい」という声がしますから目をあけてみると、先生が黒い着物に黒い前かけをなさって、ご生存中のとおりの姿が見られました。無論夢ですから、私は先生なくなっているということを知らないで先生がおいでになったということしか知らないのです。『お前さん、なんでないか、唇と親指の節に「いぼ」 ができて、どんなにしても取れないでないか』「ええ、これがどんなにしてもとれません。医者にも、とってもらったり、薬もつけたのでございますがとれません。」「さあ、時がきたんじゃ。まあ後の世のしるしにそのいぼを取ってあげる、今日はそれを取ってあげるがこんなものあげる」というて、先生のふところからお出しになったものが、白い紙でまいた長さは三〇センチ位のもの。それは、つかも無ければ、さやもない明こうこうたる短刀です。 「ソラ」いたといってほうられたので、パッ!こら危いと思って、私はよけたつもりでありましたが、左の親指の節にあたったのです。あ!いたいと思って目がさめたのであります。あ!今のは夢だった。何心なくその短刀があたった左の親指の節を見てみますと、「いぼ」がありません。あら「いぼ」がない。くちびるはどうかと思って見ますと、ありません。これは不思議なことだというので、さっそく起きて夜具の上を調べ、ふとんをふるいましたが、二つの「いぼ」は見つかりませんでした。これは不思議なことだと思いましたが、その後その「いぼ」がなおってしまって跡形もありません。
又、不思議なことがおこりました。それは撫養に吉兼正吾という新聞記者がありましたが、その方が見えられて「時に村木さん、撫養の町は周囲が塩田でかこまれて、町が広まっていくにも広まる余地がない。ところが、桑島に 浅瀬ができて船の航行に困るというのじゃが、あれを埋め立てれば塩田の外へ人家もできるし大変撫養の人も便利になるので、あれを埋めたらどうですか」という話がありました。「吉兼さん、それ、なんですか。埋めるといえば砂かなにかで埋めねばなりませんね」「ええ、その近くに山があります。その山をくづしてやれば一番てっとり早いです。」「その手続きは、どういうふうにしたらよいのですか」「それは県の方へ私が話し合いをしますから」と、その時は撫養町といっておりまして今の鳴門市ではありません。「撫養町の方が、村木が埋めるのには不服ないという決議さえすれば県の方は許されると思うのです。私が手つづきいたしますから」と。こういうわけで土地の埋立にかかったのです。ところが、それがその後、戦争になりまして若い人がみんな出てしまって、埋立の手伝をしてくれる男の若い人がいなくなりました。それで全部を埋めずして八、九分まで埋めて残りは休みました。埋めた土地が不思議にも今日は阪神連絡の咽喉部となりまして、フェリーボートが発着いたしております。「その土地というのが、ちょうど今から四十年前に「わしが知らせに行くから埋めよ。仕事をせよ」というお話があったわけでございます。これにつけ加えまして、「わしは、此の世で手伝いできないが、その時はわしは手伝うぞ。 もし、そのできたものが天から降ったか、地からわいたかという宝物が、お前さんにはいることになった場合には、 一ぺんわしの衣がえをしてくれんか。わしは見はらしのよい三畳敷で座っておりたいから、一つ衣がえしてくれよ」とお話しがあったのですが、それが今日の多宝塔をこしらえたという原因になったわけでございます。
このように先生は、おなくなりになっておりますけれども、「生きても死んでも天地は我が家」と生きの世でおっしゃったことの証明とでも申しますか、必ず私に知らせにお出になって、その後に私に仕事をさせると、このようになっておりますので、全く先生のおっしゃった、「生きても死んでも天地は我が家」ということは、あの世、この世を通じて先生はお働きになっておると、いう実証になるわけでございます。
今日多宝塔のお話をいたしましたが、この多宝塔ができ上りまして、その中へ、つまり先生のお舎利です、それを 多宝塔の下へおまつりするという段取りになりまして、「弁さん」つまり先生の息子さんにご相談申しましたところが、それはそのようにまつってくれるのは結構だと、心よく受けて下さったのでございますが、いざ入仏式となりますと、「あれは、わたしがまつりたい、多宝塔の上へ持って行かれたら困る」というお話しがありましたので、私は そういうことに無理することは、きらいな性分でご座いまして、これも常々先生は無理をすな、すなという、み教えですから、弁さんの方へ「それは結構です」というお返事をいたしました。多宝塔には、先生からいただいておりました先生のお召帯を、お舎利のかわりにおまつりしたということになっております。
ところが、その当時に多宝塔の世話をしてくれていました讃岐の長福寺におられる多田さんは、長福寺で森先生にうかがってくれというお話であったそうです。私は阿波にいたのでありますが、森先生がおみくじをいれましたのが昭和三十一年の八月五日、しかも夜半の十一時二十分ということになっております。ところがそのおみくじには、舎利は中へ入れなくてもよい。これには色々事情もあることだからそのままでよい。こういうおみくじが森先生の口から出たのです。多田さんは、あまり先生がお虫がよすぎるというので、ご満足でなかったようで、その他にも用事もあったのでご座いましたが、さっそく私の方へ電信をくれました。その電文には「急用できた、明日朝早くこい」という電信が参りました。その電信がまいったのが、同日すなわち八月五日の、讃岐の十一時二十分のできごとでまいったのですから私の方へ十二時にとどいたのです。それで私は、これは何の用かなと、急にこいというのだから、重要なことができているとは思うのだがと、私は心の中で何の用だろうかと案ぜたのでございますが、その時何げなく 私がペンを取りました。そうして、その受取った電報のうらへ、こういうことをすらすらとかいてしまったのです。 「九輪でき次第、はいる、野中の一本木、好きに送れ息子」こんなことをかいておったのです。書いた私もどうも合点が行きません。意味は、「多宝塔の上へたてるところの九輪ができたらわしは何もいらんのじゃ、どう中へはいっとるのじゃ、野中の一本木みたような人間じゃ、心配せいでも好きに送ってくれ、わしは中へはいるから」という意味のようにかいしゃくしたのです。
早速、六日の朝一番で長福寺へ参りましたところ、森先生と多田先生おいでになる。 ごあいさつそこそこ受取った電信の裏手を差し出す。多田さんがおよみになる。「あら、こらどうしたことだろう、昨夜夜半に森さんに伺ったところが、皆それぞれに考えがあることだから、おれはこのまま多宝塔へはいる、何も心配せいでよい。」こういうような森先生のお話しだったが、つまり先生から電報と見てよろしいが、それをみてみると、「九輪ができ次第、わしははいる」と野中の一本木、すなわち俗縁の者が何といおうが、あるいは教会が何といおうがわしゃ野中の一本木じゃから一こうさしつかえない。お前がこのまま受け取ってくれ、わしゃ、はいる、とこういう意味なんです。
ふせつを合わす如く森先生のおみくじと、私のベンで夜半に書いた電文とが一致したのです。しかも、その時刻が 昭和三十一年八月五日の夜半のかっちり一分違わぬできごとなんで、このようなことを考えてみますと、泉先生が 生きの世で「生きても死んでも天地は我が家」とおっしゃったところの実例をおあげになったように思われます。
なぜなれば、一方讃岐の鴨部の長福寺で多田さんと森さんとがお舎利くれんからどうしようかと、おまつりするのに先生のご遺体がないからというので大変な心配をせられておると、森さんは先生にお伺いすると、そんなものはいらない、そのまま祭ってくれたらよいじゃないか、おらはいると、こうおっしゃった。また私は阿波で同じ八月五日の夜半に讃岐からきなさいという電文の裏面へ、九輪ができたら、すなわちあの多宝塔の九輪です。あの九輪は、私がこしらえたのですが、それたててくれたらわしははいる、何も心配せいでもよい。わしや野中の一本木。こういうようなことを先生から私にいわせるし、森さんにいわせる。然も同日、同時刻で一分違わぬ時間にこのように音信があったということになります。「死んでも天地は我が家だ」。 わしは死んでいないのだ、いまに指図をしておると こういう実証になることだと私は考えるのです。
さて、先生のあのご遺訓というのは、いつも先生がなくなりましても、いつでも先生は実証してくれるのだとこういうことに考えられるのです。又こんな話をいたします。
多田さんとこへ、この度東京から来られた人がいる。この人はお伊勢参りにおこしになったのですが、只今の天皇陛下、皇后陛下、この方がまだご幼少の時分、おん二方の保育官をなさっておいでた有名な杉補重剛先生のお子さんに生れた方で西川梅とおっしゃった方です。その方が、伊勢参拝の折お越しになって、泉先生の伝記をご覧あそばされるというありがたいこともありました。その時かいていた伝記の一節に、こういうのがあるのです。
これは先生と私との間のことなんですが、「わしが手伝って、村木さんよお前さんに仕事をさせる、それができ上ってお国の役に立つ時分には、わしは千石船のマストの上で日の丸の扇子を広げる。そうして指揮をとるぞ」と、こんなことを生きの世でおっしゃられていた。森先生が私のところへおいでになりました。この森先生のところへ来られたのは、普通のお考えではない。大決心をせられておるように思うと、こんなことを私が考える。これは先生が生きの世で、私に、「この扇子を大切にもっていてくれよ、というて日の丸の扇子をくださった。そのお前さんの仕事ができあがって、お国の役に立つ時分には、日の丸の扇子でマストの上から指揮をとるぞという、扇子を三本いただいているのです。その一本をあなたにあげたい気がするのですが」と、森先生はびっくりして「そんな尊いものくださるのですか」、「あげなければならんようになっているとわたしは思うんじゃが、さし上げます」。こういって差し出したところが先生非常によろこばれ、さっそく長福寺へ行き、多田さんに見せます、というのでお別れしたのですが、その森先生が長福寺へおこしになったときは、多田先生と先刻申しました尊い方とが机で向い合って先生の伝記をかいているところでありました。その伝記には、千石舟のマストの上から日の丸の扇子で指揮を取るぞとまで おかきになったところでした。「これ!」といって森先生は日の丸の扇子をおだしになった。「これどうしたのですか」「これは、泉先生が日の丸の扇子で指揮をとるぞという話であったが、そのお話の扇子を村木さんから私にくれたのです。」「ええ、不思議なこともあるもんです」と、多田先生は、「これ見なさい、この原稿用紙に千石船のマストの上から日の丸の扇子で指揮を取るぞとまで書いていたところです。いかにも不思議ですな!」と森先生の声。 「西川女史と、多田さんとは目を丸くして舌を巻いてしまった。森先生は大威張です。こういう具合で、この時の状態を私が考えますと、先生生きの世でおっしゃられた、その日の丸の扇子で指揮をとるとおっしゃった、その日の丸 を森先生にわたし、しかも、先生の伝記の日の丸の扇子の記事をかいているところへ持ってきて、ピシャーと、ふせつを合わす如くさし出したということは、とりもなおさず「生きて死んでも天地は我が家」と先生がおおせられた、これが証明にあたると私は考えるのです。
このようにして、先生はいつもながら生きの世でおっしゃったことが、この世で必ずそういうふうに証明をなさってくれるということを考えますと、先生がおなくなりになったということが私には思われません。ですから、あの世とこの世との交通ということは、ほんとうに先生が事実をもって我々の前にお示し下さる。まことに尊い先生であるとの思いを深めていくわけでございます。それで私は今日の話は、「生きても死んでも天地は我が家」ということを実証なさったというお話をいたしました。
けれどもこれをもう一つ広げて申すならば、先生のような高い徳をお積みになった方にたよりまして、先生の前で帰命頂礼するということが天地にかなうならば、先生はよろこんでその方に対してご助勢申し上げるということは、うたがいないということになるわけです。まことに我々はこういう徳の高いお方にこの世でお目にかかれたことは実にありがたいことだと思います。
(昭和三十二年六月十五日講話)
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第五条 「罪やとがは形にない、神は心を見たもうのである。」


我々人間社会では「罪」というと、何か形の上で証拠がなければ罪ということは決定できないと考えております。 ご承知のとおり、裁判所あたりでも、大犯罪がありましても、証拠が少しもあがらなければ、なかなか罪を決定するわけにはいかない。信仰の方ではそういう形の方はどうでありましても、心の方が土台になって、罪になり、あるいは罪でないというようになっております。
この第五条は、信仰界の事であるのですから、つまり、神さまや仏さまの世界では「人の罪、とがといふものは形にないのだ、心にあるのだ」と、泉先生はおっしゃっております。先生ご自身も、日常生活にいつも心の方に重きをおいて形の方は第二番目に、なさっておったのでございます。
たとえて申しますと、私が先生の所へお伺いしていた時に、讃岐の観音寺あたりの人であったかと思いますが、ご主人がおからだが悪いので先生にお頼みに来ていたのです。先生は、「ああ、ああ、おばさん何も言わいでよろしい、わかりますから」といって、くわしいことは聞きません。そうしてお数珠をいつものように水ですすぎまして、つぎは神様の前へおすわりになりますと、例によりまして、帰命天とうをおとなえなさって、おっしゃることには「おばさん、お前さんところは鎮守さんが西北の隅にあるかい」「へいございます」「この神様の前には大きな木が二本あるな」「へいございます」「あれ一本椿でございまして、片方はむくでございます」「ふうん」「そのお祭りが、このあいだあったのかい」「そうでございます。鎮守さんのお祭りがございました」「ふうん」「そのお祭りに、神様がお好きにならんことをお前さんしたようにおっしゃっておるがな」「そうでございますかいな」「別にお祭りはきちようめんにしたように思いますが」「いやまあ別に神さんがおこっているのでないぜ、お前さんを益々ほんとうの信仰に導こうとして教えとるのです」「おまえさんところの御主人は腰が痛いのかえ」「そうでございます腰が痛いのです」「ちょうど帯する下の方が痛いな」「ええ、さようでございます」「うん...おばさん、おまえさんに失礼ないい方をするようだが、お祭りにご主人のまわしを神様の前へつったかい」「へえ!」「先生、まわしといいますと、ふんどしじゃが」「それをあなたは神様の前へつっただろう」「いや先生めっそうなことを!そんなもった いないことをいたしますかいな!」「ふうん、そうしたらお前さんはこのあいだ白木綿買いにいきやせんかい」「ヘい、参りました」「一反買うたなあ」「へい、一反買いました」「それで一番先に何とったかい」「へいわたしとこの主人のまわしを取りました」「ほうかい、そうしてその残りを二つに切っておのぼりこしらえたのかい」「ヘい、そうでございます」「そうれみい、ふんどし,のあまりでないかい」「ああ先生恐れ入りました、なるほど主 人のまわしを先に取りました」「ふんどしをつったのではないけれども、神様は心をおよろこびになる、それでご主人の下の帯を先にとったのでは、おはつそうじゃないなおばさん」「そうでございます、恐れ入りました!」「神さんはおこっとるのでないぜ。こういう風に何事もまず神様にお初そを差し上げて、使うならば、そのあとを使わしていただくというようにするのがほんとうの信仰なんじゃ」「いや、ようわかりました」「わかればその痛みの腰はおばはん、かえったらなおっとるわ、心配せいでよいで」と、このような実際のことを私はちょうど先生のところへ行き合わした時に、先生のお加持のもようを聞かせていただきました。
これが第五条の、神様は罪やとがは形にあるのではない。心をご覧になるのだ、というわけでございます。これは簡単なことですけれども、みなさんのうちでも、田畠で初めてとれたものをお初そとしてお供えなさるでしょう。そして、そのあとのものをいただくことにしているでしょう。何にしてもそのように、お初穂、といって一番最初のものを差し上げる。これがまことの信仰の教えなんで、食いあまりをあげますというのではないけれども、まずものを食べる前に神さんのことを思い出して、最初に差し上げるという風にしていく事が、神様はお喜びになるというわけです。
泉先生は、神様にお百度をふませていただきますと、百以上おふみになります。その百というのは一つの数でありまして、人間は一から数えて百になったら百だといいますが、泉先生は必ず百十ぺん踏むのです。大てい百より余しておふみになる。そのわけを先生にお尋ねいたしたところが、先生のおっしゃるには『これは、村木さんなあ、百ペん数えていてもつい何かの都合で忘れてよみそこなうことがある。それではまことに相すまんから、百というた時には百よりな多くふむ。人間はよく間違うから、神様にそそうを申しあげんようにと、こういうわけで百度といえば百余りふむんだぞ』と、いうお話しを聞きましたが、これも先生がご遺訓に残してあります。
神様は形をごらんになるのでない。心をご覧になるのだと皆にお教えなさったのです。おっしゃるよりも、先生ご自身がなさって、そしてみんなにお教えになっておるのでございます。
泉先生は「お礼」についてこうなさっております。先生は、いつも、何を見てもお礼なさるのです。普通、我々がおつき合いの上では人さんにお世話なると、ありがとうございましたと、お礼をいうのはあたりまえでございますが、先生は心の方に重きを置いていられるのです。それで相手が人間であろうと、犬であろうと、馬であろうと、必ずお礼をおっしゃる。それは心にありがたいと思っているということを表現なさるのです。
ある時、私が先生のお供をしてまいりましたら、先生はぞうりをはいておいでる。先生のお召しになるのは鼻緒を白い紙でまいた「ぞうり」です。そうして、そのお召しの草履が破れて、あたらしいものにおはきかえになる時分には、必ず破れたぞうりを道端へそろえて、お辞儀をなさっている。これは、相手がぞうりであっても、お世話になったのには違いない。この「ぞうり」がなかったら、足の裏が痛むのを、「ぞうり」のおかげで足が楽に運べた、有りがとうございました。このように先生は、どんな小さなことにでも、お決めになったことは必ず実行なさるのです。
又、先生は、ご自分が使用なさっていない草履でも、道端でぞうりがひっくり返って裏が上へ向いていると、つえなどで道端へよせるか、又裏返しをして表の方へ向けかえておかれます。そのわけは、裏はいろいろきたないものを踏んでいる。それをお日様の光にあてないようになさる。このように、ただ「ぞうり」の破れたきれにでも心を運んでお出でたわけです。このようにすればこそ、生神さんといわれるあの尊い行いをなさるお心を持ってござる先生の ご人格が完成されたわけなのです。ただロ先でおっしゃるのでなくして、身をもって手本をお置きになった訳でございます。
ある時、私が津田へ参りました時分、それは秋だったと思います。年配がつい六十四、五才位のお方が先生のところへおいでて、「先生、私一つお伺いしていただきたいのです。」『へい、へい』「つい神さんとお約束違いしまして、出直してこうかと思いますので、ちょっとお尋ねしていただきたいのですが」『は、は、よろしい』というので 先生は例によりまして、手を洗い数珠をすすいで、神様の前へキチッとすわりなおして、『おっさん、これから一つ 神様へお伺いしますぞ』といって帰命てんとうを、おっしゃって、その後で『ああ、おっさん、毎年八栗さんへお供え物なさるのかい』「へい、私の方の秋祭に、いつも甘酒のお初そを毎年八栗山へお供えするように決めておりますので、今年も一升びんに入れて持ってきている途中、逢坂峠の讃岐の境まできましたとき、石の上へ腰を下し一服いた しましたところが、甘酒のびんのおきどころが悪く、かやって転げたんです。まことにすまんことをしたというので 取り替えに帰えろうかというので先生にお伺いにきたわけでして」と、先生がそれに対していわれるには『おっさん 毎年八栗山へお供えものしよるな』「ええそうでございます」『八栗さんがおっしゃるのに、もう待ちかねて、わしは、山の上でよばれたぞと八栗さんが、おっしゃいよるぜ』「へえ、まださし上げておりません。わたしや岩の上でころがしてこわしました」『いや、それが神さんは有り難いところ、おっさんは、ロへ入れなんだら、おいしいないと思うかも知らないが、神さまはそのあなたの真心をうけて山の峠じゃなし、これ大坂峠じゃなあ、八栗さんがそこまで出張しておいでて、おいしく甘酒よばれたとおっしやっとる、とりに帰らないでよろしい。そのままわしのところへお参りにきてくれ」と、こうおっしゃっておるので安心してお出でなさい。』すると、その人は大変喜こんで 「神様という方は、まことにありがたいもんやな。私のそそうで山の上でこわしたのに、うけとって下さっている、もったいない。」といって涙をこぼして喜んでおりました。このように、神様はものを差し上げようと思うて『戸の口を出た時はもう届いているわけなのです。人間であると 品物を手にとってそうして、味をきいてみないとわからないのですけれども、神様は形をごらんになっていません。 心をご覧になっている。』こんな具合に先生は人を助けても、そのように教えておいでました。
今話しましたのは、その人からいえば届いていないように思います。しかし神さまは、その親切な心を受け取っていただいているというわけで、人間から言えば途中でそそうをしたといっているけれども、神様の方では受けとって やってあるぞと、こうおっしゃる。そういうことを先生はいつも何事にも心がけておいでるのです。
それから人間界には、度量衡というのがあります。何グラムとか、何メートルとか、何円何十銭とか単位があります。 物を買いましても百円で買うよりも、千円で物を買うのが多く買えます。このように人間は思いこんでおりますが、神様は心をご覧になるのですから、度量衡のかけめや、尺度や、あるいは円価の多いものは、よけいにおかげをもらえるというのではないということを所々方々で拝見しているのでございますが、今一つたとえてお話しを申します。
高野の奥の院の万燈籠へお参りにいくとわかりますが、「長者の万燈、貧女の一燈」といいますが、長者の万燈は 籔坂長者という方が万ものお燈明をあげたそうです。ところが、まことに貧しい「お照さん」という方があって、親孝行で、親の菩提を弔うために燈籠を差し上げたいけれども、その時に十六文と書いてありますが、十六文有れば一燈上げられたんだそうです。その時の記事にそう書いてありますが、その十六文がなかなかもうからない。まことに女の細腕でもうけるのになかなかそれだけできません。あげたい、あげたいと思うたけれども十六文がもうからない。ところが、ある「でこ屋」にきれいな女の髪を買っている。それをでこの髪に植えこむのです。その女の髪を買っている所を お照さんがききっけて、髪を売る決心をいたしました。髪は女の方にとっては非常に大切なもので、なかなか黒髪を切るということは、だれでもなさらないけれども、お照さんは、これはよいことを聞いた。私はまことに働く力がないので、十六文がなかなか手にはいらない。お照さんは、髪はまたはえて来るのじゃから、占めたというので、みどりの黒髪をプッツリと切って、そうしてそれを売って、そのできた金で一燈を差し上げたのです。その一燈が今に千百何十年という長い今日に至るまで消えなく光っております。貧者の一燈じゃそうです。
そのことから考えますと、その籔坂長者のあげたところの万燈は、一つが十六文ですから、一万燈では大した金のものです。けれども、それよりも、難儀してこしらえた十六文が永久にみんなに重宝がられて、今に貧女の一燈として高野の山に光り輝いている。このようなことから考えますと、神さまは決して度量衡によるところの、その銭の面だけのおかげやいうこととは違うらしい。とどいたものには、おしまず恵んでくださるということがはっきり例証せられているわけでございます。
このように、昔から有名な話がたくさんございます。いま言ったのは貧者の一燈というお話でございます。けれども、これに類したお話はいくらもあるのでございます。大体神さまは、真心に対してお恵み下さるのです。今一つ光っているのは、白河法皇のお燈明です。白河法皇、御手づから弘法大師の前へお光りをおあげになった。 あの尊い法皇の身をもって、御自らおあかしをお上げになったというので、貧者の一隧と白河法皇の光は今に少しも消えないで輝いております。この大法事をいたします時分には、あのお燈明の火をいただいて持って帰って、仏前に供えることになっております。お火をいただきに高野にでるのです。ある年大きな「しけ」があって、高野の万燈籠の杉の木が倒れて、そうしてその万燈籠の屋根の上へ倒れかかり、お屋根がこわれて、たくさんのお燈明が消えたのでございます。そのときにも貧女の一燈と白河法皇の光りは、りん燃として消えないでいたということが記録に残っております。このように、真心のこもった所のお供えというものは 非常に神様、仏様にはとどくというわけです。
それから、もう一つおかしい話があるのですが、これは泉先生が大勢の信者を助けておられる時に、丁度私いあわしたのですが、花を持ってきたおばあさんがあるのです。けいとうの花でしたが、五本持ってきているのです。 「先生、これ神様の前へおまつりして下さいませんか」『ああ、そうで、そら有難う、きれいな花じゃな』、と言って その花の束を解いて、あっちえやり、こっちへやりしてお供えなさろうともせずしているのを私、横で見ておりましたが、ついに二本と、三本とによりわけまして、『おばさん二本なあ、おかえしするわ』「先生、それせっかく遠方持ってきたのですから、どうぞお供えして下さい」『いやあ、これわな、おばさん供えんのがよいぜ』「どうしてない、先生、こうして持ってきているのに先生ったら、どうしてそんなこと、おっしゃるのですか」と、このようにおばさんが理屈がましく言ったのです。そうすると先生はにこにこお笑いになって、『おばさん、これはな、わけをいうてあげたいけれど、言うたらおばさん、ちょっと具合が悪いことがあるんじゃが』「先生、具合が悪いと言った所で、神様の前へ花をお供えするのにどこが具合が悪いんですか」と、このような調子で おばさんが 先生にお話しなさるので、先生もう止むをえず『おばさん、それなら言うがなあ、おまはんとこのなあ、花畑は幅が一間位の細長 い畠じゃなあ』「へいへい、そうです」「そこにおまはん、三本はえとった』「へい」『お隣のは多くはえとった』 「へいそうでございます」「それがまぜっているのじゃ、おばさん』「いや、先生恐れ入りました」『いや、それで おばはんこの二本はいかんわと言いよるんじゃ』、といって先生はお笑いになりました。それもどうかといえば、神様は心をまつっているのです。そういうことを心の内に悪いことを秘めとっても、それはいかん。神の前は通用せんぞという教育を先生がなさる。おばさんはもう恐縮して「先生恐れ入りました」「おばさん、わかったらよい、わかったらお供えするが、これから気をつけなさいよ、あやまったらそれでよろしい。』こういうふうに、先生は一旦は教育なさっても、後は慈悲でおばさんをかわいがってやる。これが先生の教育振りであったのです。
つづめて申しますと、先生は形の方はお粗末なふうでもかまわない。しかし、心は、錦の心を持っていないといかない。信仰は形にないので、心におかげがあるのじゃからという、ほんとうの信仰を、みんなに教えたいと始終おっしゃっていました。
第五条に「罪やとがは形にないのである」と「神様は心を見たまうぞ」といわれたわけです。神様にお願いをこめ たり、あるいはお祈りになるのでも、ご自分のことよりも、人のことがお蔭がもらえるというのは、ここにあるので す。自分のことはつい欲がこもりますが、あの人かわいそうな、いとしい、何とかしてあげたい。こういう念願には欲がこもっておりません。ほんとうに真心でその人を思うてあげるということが、おかげがうけやすいという、ここにあるのでございます。自分のことは、欲でないと思うておりましても、よくせんさくしてみますと、やはり利益を考えている場合があります。人知れず念じてあげるとか、知らない間にその人の利益になるようしてあげるとか、など 念じるのがほんとうの真心でありますから、神様へはよくとどくわけなんです。
それでありますから、みなさんもこの代償ということを、私はつねによく言い ましたのですか念じてあげる、その人の代りに自分が何か世の中のためをはかってあげる。こういうふうに、代償人を自分がしてあげる。こういうことは、ほんとうにきれいな代償だと思います。やはりこれも心ということに重点があるとお考えになれば、信仰なさる上に大変ご便利だと思います。
(昭和三十二年六月三十一日講話)
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第六条 「何事も、神に頼め、わが心ばかりで苦労するな」
第七条 「我が身は、神にまかせて、人の苦難を思え」


「何事も神にたのめ、我心に苦労するな。」これが第六条でございます。第七条は「我身は、神に任せて、人の苦難を思え」となっています。意味は表裏になっていますので、この六条と七条とを、いっしょにしてお話したいと思います。
「人間の癖といいますのは、ご承知のとおり、自分でなにごとも心配するのです。自分のことを自分でくろうする、神にまかせないのです。任さないくらいですから頼むという心も起きない。こういう事になるのです。私が長らくの間泉先生におつきあいして、あけくれの先生のありさまを、よく拝見しております。先生は何事があろうとも、何をお考えになろうとも、まず第一に神様と、こうお考えになるのです。
たとえてみますと、道を歩いていても、石ころにつまずき、すべってこけるといたします。そうすると、だれでも 「ああいた。」といいます。ああ痛い。きづはしていないかな、歩けるかなと調べてみる。ああよかった、よかった、たいしたことないぞ。こういうふうに、考えるのですが、先生は、そうでないのです。ころっと石ころにつまづいてすべっても、ああ、なるほどよかった。神様ありがとうございました。こう思うのです。いつも神様と二人づれ、こういうわけです。
ちょうど四国の島は、お大師さまと非常にご縁が深いところです。お遍路さんが首にかけておりますあの札ばさみ、あれに書いてありますのに、同行二人と皆書いてあります。あの札ばさみには皆同行二人と、三人いっていても一人 一人の札ばさみには同行二人と書いてあります。だれと二人づれなのか、すなわち、お大師様と二人連れだという考えです。その意味は、今私がお話し申すとおり、何事にも第一に神様と、頭の中に浮かべるということが大変結こうなのです。こういう事は、簡単なことですが、別に神様と第一に思おうが思うまいが、たいした事ないと、ふつうはお思いになるかもしれませんけれども、今度の戦争にいって帰った人の話をききますとよくわかるのですが、こんなことがあります。
どの兵隊さんも、いくさにかちたい、かちたい、日本のために、勝利を得たいと思う一念よりほか何も考えていま せん。ある戦争の場面であったできごとですが、五人が一組になって一番砲手、二番砲手、三番砲手、四番砲手、五 番砲手、この五人があの野砲をあやつっているのです。二番砲手がねらう役です。一番砲手が引き金をひくのです。 それから三番、四番、五番は砲車をあちらへ、こちらへと動かしたり、「たま」を運んだりする役なのです。ところが、その五番砲手が、大砲の一番後を砲尾と言いまして尾のようなものが出とります。あれをつかまえて、大砲の方向をあちらへやり、こちらえやりするのです。つい三〇貫(百十二、五キロ)くらいありますから相当重いのです。
ところが、その五番砲手が砲の後でおりしけの構をしている時に、敵の砲弾が飛んできましたのですが、幸あたらずたまは横へとんだのです。けれども弾はあたらず、弾のそのケースが手にあたったのです。そうして、次の号令がかかった時分に、自分の手がちぎれているのを知らずと、その砲尾をつかまえてあげかけたのですが、手がないためあがりません。そこではじめて片手がとんでいることに気付きました。その人は、片一方の手でやったるというて、 その片一方の手で砲尾を動かしたのです。それで、その友達が「おまえ片一方の手がないからはたへよっておれ」とすぐにその兵を後からおこしてやすませて又戦争したのです。その時、その手にあたったところの「たま」を岡山へ持って帰ってありましたが、どういう風になっていたかと調らべてみましたところが、一番つつの底に、軍服がある のです。その次に肉があるのです。そのつぎに骨がある、その次に肉があって、一番あとにまた軍服がある。ちようど着ているままを、ぷすっと向こうへ筒で押し抜いたようになっておるのを記念品においてありました。
もし戦争でなくて、平常時に、田畑をなさっているときにそういう物が飛んできて、ぱっと当りましたならば、そら大変です。ただちに卒倒するのにちがいないのです。けれども、天皇陛下を思い、国を思い、いくさにかとうと一念に思いこんでいるため、片手ないのに気がつかないのです。戦争と同行二人となっておりますから、手がちぎれたのさえしらずにはたらいたというのです。こういう力がでるのです。その力は何がそうさしたかといいますと、いわゆる同行二人の力です。それで泉先生はいつも、まず何事でも「たのめ」と一番先に「たのめ」「お礼」をいえ、自分の心で苦労するなという事を常に私にお話がありました。
ここにおもしろい話があるのです。あの、さるが、血を見ると泣くというお話をお聞きになった事があるでしょう。あのさるが血を見たら泣くというのは、どうしてなくのかといいますと、さるの一ぴきが、なにかでけがをして 血が出るとします。そうすると、友達がぐるりからよってきて、その血を止めるために、木ぎれでも、竹ぎれでも拾ってきて、その上からおさえつけるとなお血がでる。大変じゃと、あちらが押さえ、こちらが押えし傷口を大きくするか、はては死ぬまでやるのです。これがために、さるは血が出たらもう逃げて隠れてしまうという話を聞いたことがありますが、もし人間であれば、すぐ「神様どうぞ血がとまりますように」といって、すぐに手当をいたしますけれども、畜生のさるでごさいますから、なにさま信仰心があろうはずがない。あの血をとめてやると、まあ自分の心に苦労して一生懸命にやる。その苦労は水のあわでず。これは極端な例でございますけれども、そういうふうに、自分がこうしてやろう、ああしてやろうということは、まことに力が弱いのです。
それから、私はよく割り木を割りますが、おので「カン」と太いのをわるとき、かけ声するのです。「エィ」というかけごえをすると、「パーッ」とよくわれるのです。この「エイッ」という気合は、すなわち自分の心を、固めるわけなので、そういうふうに自分という力をのけてする力というのは、思わず出るものです。 ある人が、常には米俵をかつげないのに、火事に出会った際に隣へ俵かついで運ぶことができたというが、火事がおさまったじぶんに、それをもらいに行って、かついでかえろうとすると、なかなかかつぐことが出来なかったという、あとで大笑いをすることがよくあるのでございますが、常に四斗俵をかっぐことができないのが、楽々かついで 運んだという力は、どこから出るのでしょうか。自分というもの苦労を忘れて、なんでも、これは、大事な食料であるから、運ばねばならんと、いちずに思い込んだところが、そういう力が、あらわれるのですから、この泉先生がおっしゃった「何事でも神に頼め、自分の心に苦労するな」とおっしゃったことは、まことにありがたいお教えです。
私が若い自分に、徳島の通り町で大きな火事がいたことがあります。あのじぶんに、お名前は知りませんが女の人だったのですが、「ひきうす」をかかえて走り回っていたとのことです。これは、うそみたような話ですけれども、それはその女の人のあとでの話です。ひきうすというのは焼けると、後でわれてしまうのじゃそうです。もっと大事なものがありそうなんですけれども、まあ台所をあずかっている女の人で、自分の職務でありますひきうすが、大事に思うたのかもしれませんが、こういうふうに、とっさの場合に何をするか、どうするかと言うことは、「神さま」という最初の考えで強い力が出て来るのですから、こと簡単なようですけれども、たいへん結構な泉先生の教えです。
それから私、こういうことがあったのです。これは私が三十才の時に先生にお別かれしましたのですが、その後いろいろと先生をお慕いして、先生のことを考えていましたところが、ある晩眠っている時、からだが「ごま」を回したようにすーっとまうのです。しまいには目がまわってきて、これはこんなにまわったら死んでしまうと思っているのです。夢ですよ。それで、これ止まればいいのにと思うて手に力を入れても、足に力を入れても、どんなにしても止まりません。ついには音がしてくるのです。「プーン」という音がして、飛行機のプロペラがまうようにきりきりまうのです。もうとてもからだがもてない、もうだめだと夢の中で思っているうちに、ひょっと目があきましたら汗びっしりです。こういうことがあるときには、いつも泉先生に、教えられた「先生」というか。あるいはご真言をくると、すぐにとまるんだということは知ってはいましたが、お恥ずかしい話ですけれども、性根のしんまで信仰がしみこんでいなかったのです。そうすることが毎晩毎晩続きまして、一週間続きました。目方が約七キロ(一貫八○○刃)減っておりました。本当に細りました。ところが七日目の晩にまたまいだしたのですが、その時分には、もういよいよ困ったと思うて寝たせいもありますが、どんなにかして先生に頼みたいものじゃという私の願いもあったわけなので、まいだしたじぶんに不思議に「先生」と言えたのです。言うと同時にパッと止まり目があいたのです。
これは良い事を覚えた。常に先生に教えられているのに実行せなかった。ああ何事も心に苦労するな、すぐに神にたのめと教えられているのに、夜ねているのですから、腹のしんまでじゅうぶんしみていないのです。
ようやく七日目に、からだが弱りはてて、これではもうからだがもてんというところで、本当に先生に教えられた事が実行ができたわけです。あなた方にも夜ねていて大きな「うわばみ」に追わえられるとか、あるいは「とら」にほえられるとか、こんな事があるでしょう。そういうじぶんに「おんきりくうぎゃくうんそわか」とかあるいは「先生」とか「聖天さん」とかいうことばが、もし出たら一っぺんぎりに止まります。不思議にお蔭がうかるのです。
これは、寝てまでご真言が出るというのは、よほど信仰が進まんとできないものです。私も困ったのです。こういう小さな事まで先生が教えてくださっているのです。
それから「我が身は神に任せて、人の苦難を思え」とこういう事を七条に書いてありますが、自分の事は神に任せて、人の事をたのめとこういうふうに先生が教えてくださったのでございますが、これはよく考えてみますと、自分の身に関係あることは、まっすぐなように自分は思っているのです。我が身の事を離れることは、なかなかむずかしいのでございまして、慾がともないますと決してその願がまともに届かないのです。まして、あの人にくいとか、いやらしいとか、うらめしいとかいうふうに、心に三毒をもって神様に願いをかけたときには、あべこべに自分のからだの上に、その罪がふりかかってくるということは観音経秘鍵に書いてあるのでご承知でございましょう。 いつか私がお話ししましたが、「還着を本人の剣をもって呪詛諸毒薬の病を滅す」と、こういうことばがあるのです。これは、お釈迦様のお言葉なんです。還着を本人という事は、かえって元の人間の方へ帰って行くということなのです。お願をかけたことが、なぜ自分の身の上にふりかかってくるのか、それが、すなわち我が身の腹の中へ、あいつにくい、あの人にくい、いやらしいというような、にくしみをもっておるために、願をかけたその願が、あの人病気になれとか、こまれとか、運悪うなれとか、そんな事思うているときには、かえってその罪とがは、思うたものの方へかかるぞという事を観音経秘鍵には、はっきりと書きわけてくださってあるわけてございます。
この事を先生がおっしゃるのです。自分の事はもう神様に任しておけ、腹の中には何にもおくな、そうしたら願が 通うのじゃとこういう事を、先生が教えて下さったのですが、自分の身を神様におまかせしとるのですから、にくみなんかおこるはずがないのです。もう慈悲心よりほかは起こらないのです。それで、我が身は神に任せて、人の苦難を思えとこのように教えて下さってあります。
ところが、我が身の事さえなかなかできんのに、人の事が頼めるかというような事をおっしゃる人もありましたけれども、それはご損です。で、もし、お隣りの人であるとか、あるいは御交際の人であるとか、信者の人であるとか あるいは無関係の人でありましても、難ぎをしている事を我が身の難儀のように、その人を念じてあげるという事には、何にもここに、貪、瞋、痴の三つを含んでおりません。もう慈悲一点ばりです。それで慈悲にもえて願をかけるのですから、これはかなうわけです。慈悲心にもえるくらい願のかないやすいものはありません。で、これは自分と関係ある、ないということはどうでもいい、見ず知らずの旅の人にでも、この慈悲心というものはとおるものです。 泉先生はその点を、よほどお考えになっていたのです。
ある時先生が、あの津田の松原の中に、岩清水八幡さんという大きな八幡さんのお宮があります。あのお宮へただ今、白鳥で拝んでおる長浜亀太郎さん、あの人はお弟子ですが、亀太郎さんをつれてそうして、岩清水八幡さんへ、 お参りにおいでたのが冬でございました。ところが、あの山門の仁王さんの横すみで、腹をかかえて、「うん、うん」うなっておるお遍路さんがある。先生は、そろそろと近よっておいでた。『もしもし、おまえさんはおなかがいたいんですか、』「はい、おなかがいとうて」『ああ、この寒に冷えたんだろう』『ええ、もう寒うて寒うてこまっておりましたので、お腹をいためております。冷やして凍っているのでございます。」『ああそれは気の毒な』というので、八幡さんをお参りするのもそこそこ、先生はさっそくお召物をぬいで『さあ、これ着なさい』と、お遍路さんにきせてあげた。亀太郎さんは、横でみておりましたところが「おお亀太郎はんお前もぬげえ」亀太郎さん、とうとう先生のお供をしたばかりに着物をぬいで、二人がその人に着物をきせた。それで、しばらく先生は、八幡さんをおがむんでなくしてお遍路さんをおがんでおいでると、ぬくもったためと、先生の、その慈悲深い念力のこもったために お遍路さんのおなかが、みるみるうちに直ってしまった。「ああ、ありがたい、もうこれで直りましたから、お召物をお返し申します」「いやいや、これはもうあげるで」「もうこれはもう結構」『わしゃ、また帰ったらあるから心配ない。これきなさい』と、その先生の慈悲深い恵みのために、お遍路さんは一命をとりとめたという話があるのです。これは、ぬくもったばかりでなしに、人のために先生が慈悲心にもえて念じておあげになったことが、届いたわけなんです。向こうがおかげをうけると同時に、むこう様さんのおかげよりも、念じた人のおかげが、こんどぶりは厚いのです。人げんのそろばんから言うと、一貫のもの二つにわると、五百目づつですけれども、信仰のおかげというものは、お遍路さんが一貫のおかげをいただいたら、それをあげた人の方へ、二貫も三貫ものおかげがもらえるという事になる、その事を先生は、「我が身を神にまかせて、人の苦難を思え」とおっしゃったのです。
この人の苦難を思うという事は、大変信仰の上には大きな修業になるのです。それで仲須さんも時々おっしゃっておいでますが、この代償という事、神様にお願いした時分になにか、かわりの仕事を世の中にする。人にしたげるとか あるいは社会のためにしてあげるとか、何か自分に関係のない代償を払う、身がわりをはらうのです。これはちょうど七条にあたっておることで、我が身は神に任せて人の苦難を思え、人の苦難を思えという、そのなかなか人の苦難という事にはいきにくいのです。けれども、代償を払うのはすぐに出来ます。代償という事に対しては欲がこもっていませんから、大変修業のためにはよろしいわけでございます。どうぞこの七条の、我が身は神に任かせて人の苦難を思うという事は代償を払う、あるいは人の身がわりになる。自分の事は神様が結構にして下さる。困っておる人の方が先だと、こういうふうにお考えになれば、それが大きなおかげになるという事を先生がおっしゃったわけでございます。
それから、私こういう事があったのでございます。これは、今晩この中においでるかもしれませんが、沖野彦十郎さんと、私と、丸山はんと三人が津の峰さんへおまいりにいったのです。それが、夕方ごろに「津の峰さん」の境内へ着く予定でこちらを出たのでございます。三人が自転車で、ところが、途中で沖野さんの車がなんべんもこわれたのです。修理してもらうのに時間がかかりまして、とうとう津の峰さんのお山へ行ったのが午前二時、三時、ちょうど「丑三どき」になったのです。むろん、こちらは知りません。その時間は何時だったか、まあ夜がふけたくらいのことで坂をのぼりました。ところが、十間ほどむこうの柴の中に沖野さんが立っとるように思えるのです。「あら、 沖野はんいっしょに歩いてきたのに、はやあしこのしばの中に立てっとる、こっちへ向いとる」こう思いよりますと そのしばの中におる沖野はんが、すっと沖野さんじゃないのです。沖野はんにようにたかっこうの人が、すーっと手を伸ばしてきて、私のえりを捕えたんです。胸元を、捕えたと思ったら、私がピューッと綿を投げたように後へ飛んだのです。ほんとの沖野さんは、後で私より二間ほど遅れてきていたのが沖野さんにあたって、沖野さんがびっくり したのです。「どうしたんですか」「いや別にたいしたことない、言うたら心配しますから」と、私はそういうて歩いていたのです。すると今度は、もう少し上へ上っていきますと池があります。長池の方から登ったのですが、そ 池の登り口というのは、片一方ががけになっておりまして、片一方が細い道、一方は山で、ちょっと夜など暗い時は 歩きにくい所です。そこへいったところが、なにか向こうに黒い大きなものが、私をツーンと私につっかかってきたんです。こら危いと思って、私よけてとびのいたんです。ところが、あとで気がついたのですが、その池の端に岩がとびでとるのです。その岩のはしへ、私の足がひっかかって池の中へおちるのが止まったのです。この池を見ますと 下へ二、三間あります。また、おつれをびっくりさせた。「どないしとんですか、あんた今晩どうかしています」 「あ、もうあんたをはなせません」と言うて、とうとう私をつかまえてはなしてくれません。「みんなこれから心配ないから、危い所ないから離してください」と言うて、山の上へずっとあがっていきました。それから山のはらを通って、今度は津の峰さんのお山へかかる所に、あの中ほどに岩がこわれて、たくさんざれている所があります。 あしこまでいきましたところが、まあ丸山さんが先へおいでとるのです。その次に私が行ったのですが、私の前へ大きな太い太い斗桶のまわりぐらいある太いものが出ているのです。これは丸山はん、どんなにしておいでたんかいな。私は、またぐったって、気持が悪うてどうしようにと思いました。そうして、ひょっと「津の峰さん」と思うたんです。心に先生の事を思うたんです。そうして、ひょっと山の上を見ますと、大きなぼんぼりが二つあがっとるのです。そのされた山の上に、ぼんぼりがあろうはずがありません。それが大きな丸いぼんぼりです。それが、三尺もあるようなぼんぼりです。あれが二つあがっとるのです。そこで私は、ひょっと思うたのは、これは今晩津の峰さんの大祭の晩じゃ、何時頃だろうかと、考えてみますと、もう暗がりで時計が見えませんけれども、よく考えてみますと、「うしみつころ」です。ああ、今晩は、これは親先生に言われとった、「大祭りのあくる日の朝の、うしみつ頃は必ずお参りに行かれんぞ」という事を教えられとったのです。そこで私は、沖野さんに「沖野さん、今晩祭りの朝がたぜ」というと、沖野さんは「ええ、そうじゃない」と答える「これおまはん、今夜こられんぞ、お参りせられんぞといわれとる晩じゃ」「ああ、そうであったなあ、そんならもうこらえてもらって、お参りしないで宿へ行きませんか」と言うので、三人の話がまとまったので、それからずーッとお山の上へ行きまして、お堂の前でおじぎだけしといて宿でとめてもらって、朝お礼に出たわけです。そうして山をさがりがけに、私が石のざれた所へ帰ってみてみますと、そのあたりはしけのあとみたようなもので、枝が折れるやら、しばがこけとるやら、もうそこらあたりは、しけのあとみたようになっておりました。それから、池のかたもまるでしばはおれとるし、なんやらそこご棒をふりまわしたようになっとりました。それから一番最初とんだところ、そこも道ばたの草がもうおれて、そこだけがしけの跡のようになっておりました。で、こううい私は不思議におうた事がございますが、この時もどうかといいますと一番最初、私がほうられた時に「先生」といやよかったのです。そうしたら先生は「今晩こられん晩ぞ」と教えて下さったと思うのです。けれども、何さま先生にお頼みするのもせずして、そうして心に苦労して、ああ恐ろしいものにおうたと心に苦労しとったのです。それで二へんぶりの災難におうたのです。その時もまだ「あぶなかった」くらいの事で、自分の心の内に苦労して、苦労しとるけれども神様にたのまなかった。それが、三回めにようやく大きな太い人におうたもので、びっくりしてしもうて、先生とはじめていえたんです。その時に、今晩お祭であるぞというしるしに、 山の上へぼんぼり二つあげて下さったのです。これは、はっきり私の目にうつりました。なるほどと、これでわかったのです。こういうような風に、いかなる事に会いましても、一番さきに神様、泉聖天様と、あるいは御大師様と、 ご自分のごえんの深い方におたのみする事が、一番そのよい事を教えていただけることになるのです。
自分の心の内で、これは困ったとか、恐ろしい、どんなにしようにといったとて、それは、「へたな考え休むににたり」で何にもならん事です。これはこん後、六条と、七条にかいてありますことは、恐らく泉先生が御一生の御信仰のうちにお出合いになって、いろいろご体験になったあげく、こういう事を私におしえて下さったものと私は思うのでございます。 お大師様が、この四国をお開きになった時に、あなた方はお四国をお参りになって御承知でございましょう、十夜の橋。あれは伊予でございます。あのとやの橋で蚊がたくさんおって、御大師様は非常におこまりになった。けれども、ああいう徳の高いお方でございますから、いちずに神仏を「どうぞ今晩、やすらかにやすましていただきたい」とお念じになったのに違いないのです。あの夏のさかりの蚊がおる時にも、お大師様は野宿をなさっても蚊にかまれなかったと、こういう事が残っております。それから私が、泉先生のお供をして津の峰さんのやぶの中で休んだ事も ございますが、その時も蚊はたくさんおりますけれども、一つも刺しません。恐らく泉先生が念じて下さったものと思います。
こういうふうに、「ああ困った」という時分に、ああ困ったというひまで、「今におかげを」とお念じになること が、一番ご修行にもなりますし、おかげをいただくのに近道だと思いますので、この六条にかいてある事と、七条 かいてある事とを二ついっしょにしまして、今晩お話いたしましたわけなんで、「何事も神にたのめ、我が心に苦労するな」といふ事と、「我が身は神にまかせて人の苦難を思え」という、こういう事二つでございます。
先のは、自分の心の構え、その次の七番のはこれは修業のし方です。六条と七条とは内容がよくにとりますから、 どうぞそういう事にご承知を願いたいと思います。
(昭和三十二年七月十五日講話)
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第八条 「我が心の角で我が身を害するな」


わが心の角というのは、自分の心で嫌と思うとか、憎いと思うとか、悲しく思うとか、つまり貪、瞋、痴の三つの角でございます。この三つの角が我が心の角ということになります。これは泉先生がご在世の時に、非常に力を入れてお教え下さったものでご座います。心の角というのは、知らず知らずのうちに、すぐ出やすいものでございます。
一例を申しますと、これは紀州和歌山県の山奥に起った問題でございますが、(萩本忠助という名前で)親一人 子一人の親子暮しでありました。ところが、お父さんが急にご病気でなくなりました。息子は、お父さんの働きにすがって暮しておったものでございますが、お父さんがなくなると大変生活に困ったわけです。普通ならば、神仏のお教えにご縁のあった人ならば、ここで大いに奮発心を発揮するわけですけれども、お気の毒にはそういうことを考えていなかったのです。独立してどんな苦労があろうともご先祖の為に働くというような努力が出ずして、世の中を悲観したわけです。ああ、つまらん、わしが働いたところで、なかなか、口すぎが出きんと悲観に落入って、「どうせ困るなら、いっそ、少しばかりある家も、山も売ってしまって、世の中の広いところへ出ていって遊んでやろう」と、悲観のあげく享楽主義の心に変ったわけです。つまり心の角です。
親ごがなくなったのに、後の菩提を弔うとか、あるいは、御先祖にご奉公するとかいうように出れば、心の角は出ないのですけれども、あまり親にすがりすぎていたために世の中を悲観したのです。自分程、つまらないものはない そのあげく世にいう「やけ」心をおこして、もういっそ、家も何もかも売ってしまって、そうして何か一つ面白いことをやってやろう、事業でもして大儲けでもしてやろうというような事を考えたのです。
そのとき、そこへ一人の旅僧が来まして、戸の口で「ご報謝おねがいします」と言ったのです。僅かの金をあげたのでしょう。ところが、その旅僧が「あんたは非常にお気の毒なご状況のようにおみうけいたしますが、一ぺん「易」 を見させてくれませんか、金はいりませんから」という。見るからに風体といい、人相といい、いやしからぬ旅僧に 見えたものですから「それじゃ一つたのもう」と言って、みてもろうたところが、旅僧が、「あなたは孤独の相といって、世の中を一人ぼっちでいかなければならぬという生れ相をしています。そうして、気の毒ですけれども生命線という手の線が三十できれとるがなあー」「あなた何才になる?」「わたし、もうかれこれ三十になります、二十九才です」「あなたお一人でしょう、孤独の相、なるほどなー、もうあまりよわいはありません。気の毒だが私は正直に見ておるのだから、お気の毒だが仕方が無い」といいながら旅僧は、何か口のうちで念じながら一礼してどこかへいってしまったのです。そこで萩本さんは、一人つくづく考えたのです。この金で、ひとつ事業をしてやろうと思うたけれども、今の旅僧の話を聞くと、何かばからしくなったなあー、あの旅僧のいうことはよくあっている、わしの寿命もあっているのであろう。寿命もあと一年かそこらかない。それとわかれば何もかも全部売ってしもうて、その金の有るうちに、自分のしたいようにして行こうと考えた。あまり信仰心が無いために御先祖のお位牌もそこそこに 総て売り払った金だけ大切にして、都会へ出ていったわけです。
方々見物でもしようというので、いわゆる諸国行脚に出かけたわけです。ところが、月日の立つのはまことに早いものでかれこれ一年もたってしまった。一年もたったので、もう火の消えそうな時が近よったと思って財布を見ると、まだ半分も使っていない。「まあ一つ、かなわぬ時の神だのみ」というが、せめて飛ぶ鳥も後を濁すなというように あまり後で笑われないようにしておかねばならぬというので、きれいな着物を求める、もし腹でも痛くなったら其の時の用意にと、薬までも用意して死の日を待ったわけなのです。
ところが満一年がきました。今日はおおつごもり。明日は年がかわるのです。もう一晩すれば、もうわしの約束の年がくれてしまう。そうなると眠れないのです。もう腹がいたくなるか、もう目がまわってくるかと、夜もねないで、いろいろ考えながら薬の袋の口をあけて待っていても、一向腹も痛くならず、病気にもならない。これ、おかしいなー、だまされたのかなー、みてくれたことはよく合ったが、寿命だけはどうもないがな!というわけで、とうとう夜が明けてしまいました。持っていた金はまだ半分ばかり残っている。もう使い場がない。もう日がかわった。
そうしているうちに二日たち、三日たち、十日たち、一月たち、どうしても死なない。これはどうもあの易はよく 合うたけれども、わしの寿命だけはあわなんだな!と、こんどは怒り出したのです。これは心の角です、
怒り出して、おどれくそ、こんどあの旅僧に巡り合ったら、えらい目にあわしてやろう。こんなことも考えたけれども、そろそろ金は減ってくるし、何か一つ仕事せんというと、これはつまらんなあ!と、こう思ってあまり世の中を悲観して夜もねずして、あちらこちら歩きまわっていたところが、ちょうどその場所が、今の心斎橋のほとりへ通りかかったのです。今はもう大阪の目貫き通りでございますが、その当時はさみしい橋であったのです。明治にならぬ昔の話であったのです。橋のきわで立っていると人の泣声が聞えてくる、世の中にはつらい人はわし一人でないのだな!。泣き声が聞えるのはどんなことかと、好奇心にかられて暗い夜ですから、そろそろと足音を立てないように、それに近よってみると、橋の半ごろで一人は男、一人は女ということもわかった。
二人が川へとび込む相談をしている。ふん、これは死にたいのだなあ、何で死にたい?話を聞くと事情がわかるだろうと思って、そっと近よって聞いてみると、金に詰まっているらしい。男の人も、女の人も、自分の家庭から外へほうり出されているのか、自分がとびだしたのか、いづれにしても金が無いのでくらせない。
一人はどうやら芸者らしい、身うけしなければならぬというのでしょう。その金が入用であるという。そこで、にわかに二人の側へ寄り「もしもし」といったところ、二人がびっくりして「へえっ」といって逃げかけたのを、「ま あまあお待ちなさい、私は決して悪い者ではございません」というと、二人も安心して逃げるのを止めて近よってきました。「今私は、失礼ながらあなた方が非常にお悔やみになっているから、どんな事情かとそっとおききしたところが、お金につまっておいでのご様子、大体どれ位のお金ですか。私は実は、おたづねするのは、余っておる金があるのです。持ち合せの金全部差し上げてもよろしい。というのは、私はもうおい先が短かいのです。」所が、先が短いといった人が若いのですから不思議に思ったけれども、「いや、ご親切有難うございます。実は三百円の金で、この女を親方のうちから出してやりませんと身が立たないのです。私も、家庭はかなりな暮しをしておりますけれども、 親に追い出されているかっこうなんです。もう仕方なく、世の中を非常に味気なく思って二人が飛び込もうといっているとこなんです。」「それならば、ちょっとお待ち下さいよ。ありますのじゃ、それ位の金なら持っております」 と、財布の中から三百円出して渡したところが、夢かとばかり二人はよろこんで、土下座してお礼をいいました。 神さまや、仏さまをおがむように感激したわけでございます。「時にあなたは、どちらの何とおっしゃるお方でございますか』と、きかれるものですから萩本さんは、「いや別に話をすれば、長々しいけれど、私の寿命はもう僅かなんです。とてもこの金は使いきれませんので持ちあわせは、あなたに差し上げようかと思うているのです。名前など、あなたに覚えていただくような人間でございません。たってお尋ねになられるから申しますが、紀州の山奥の萩本というものです。ろくなものでございません」といって、くわしいことを聞かれるのがいやさに、逃げるように、 その場を立ち去りました。二人はすぐ後を追って走ったのですが、おいつけなく萩本さんに別れてしまいました。 二人はともかく助かったわけです。
一方、萩本さんは二人を助けたのはよかったのですが、もうあと僅かの金しか残っていない。どうしても死ななければならないはめになった。わしは、もうこれはいけない、易があわなんだ、もういよいよ死ななければならないわい。今度どこかで見つかったら、あの易者をえらいめにしてやろうと、これ「心の角」です。
先生のおっしゃる心の角で、日々怒ってばかりおりました。怒ったところで、死ぬわけにもいがず、物を食べなければいかず、物資もいるし、これ一つ身の芸もなし、車引きをやってやろうと残った金で人力車を買ったので、日に日に車をひいて、それで糊口をしのいでいたわけです。
或る日ひょっと、その向うへ風呂敷包を肩に掛けて行っている姿が、どうもあの旅僧によく似ているので、あとから空車をひいて、そろそろついていってみると、どうもその人らしい。「坊さん、すみませんが一寸お尋ねいたします。あなたは昨年のことですが、和歌山の山奥の一軒屋で易を見た覚えございませんか」「ああ、ありますとも、お気の毒な若い衆でございました。」「その若い衆が私なんで、いっこう死なず、こんなに落ちぶれて苦労しているのです。けしからん、あなたのような易は人を殺すというものじゃ。」と腕まくりして近よった所が、「まあお待ちなさい、私は今まで色々易を見ましたが、そんなこといわれたことはありません。私も若い時からこういうくせがありまして、方々の山奥で行をし、神仏に祈って、そうして困っておいでる人を、なんとかお助けしようと、今日までくれてきたのですが、そのようなことをうけたまわるのははじめてです。もう一ぺん易をたてさせてくれませんか。その上であなたのご存分に、殺そうと、どんなにしようと私一向いといません。」こういうわけで、ふところから珠数をとり出して手を合はしている。萩本さんも、たたくわけにはいきません。「それなら、もう一ぺん見て下さい」といって易をみてもらうことになりました。
ところが、色々と手を見、顔を見、人相を見、その生れ星、などをしらべて、「どう考えても、あなたは生きられぬ性に生れておったのじゃが、その後あなたの面体といい、これは大きな千人以上のみ仏の加護を得ておる。此の世では、三人の命を助けとる。どうせ無いのにきまっとる命三人助けとる。その功徳によって、今からは大出世をする 人相になっておるがな!」「ああ、お坊さん一寸待って下さい。わしはそんな慈悲心はないのですが、どうしても死ぬと、あなたにいわれたのを信じきったものですから、金を使い果し、僅か残っている金で、こうこうこういうわけで、心斎橋で人を助けたことがあるのですが、二人だったんで、三人ではございません。」「いやどうしても三人ということが現われておりますぞ、」「そうですか、二人であったのだが...ああ、なる程二人であったのだが、助けた時 の一人の、女の方は腹に子供をもっていた。」「なるほどそうすると三人になる、なる程あんたの易は合っている。 実はあなたに理屈を言う気であったのですが。恐れいりました。今、車ひきをしていますが、いかがですか」と、きくと旅僧は、「ええそれでよろしい、今に運が向いてきます。」というので、その場は別れたのです。
ところが話は変りまして、萩本さんが車ひきになって日に日に働いていた。ところが或る日、立派な紳士が「ちょっと車やってくれんか」と云うたので、その人を乗せ、お客のいうとおり町すじを右へ折れ、左へたおりしていったところが、大きな銀行の前を通って、そうして、つい近いところの立派な玄関前のところへきたとき、ここでよいからおろせというのでおろした。紳士はずーっとおはいりになった。僅かばかりの車賃つかはると思うて、玄関でしゃがんで待っていたところが、そこの番頭みたような人が出てきて「いくらあげてよろしいか。」というと、「これこれ」 というと「お世話になった」といってくれたのです。そのとき、これは大きな家じゃなあと思うて表の方をのぞきますと床が見える。それに萩本大明神とこう書いてある。はてな萩本大明神、わしは萩本じゃが萩本大明神という 神さん無いんじゃが、これ一ぺん聞いてみてやろうと思って、「もし、恐れいりますけれども、ちょっとあの間からちらっとお床のおかけじ見ましたのじゃが、萩本大明神というのは、どこの神様でございますか」「いやそんなこと聞いたって話はできんわ」といって番頭はん内へ引き込んでしまった。今度は立派な旦那はんがお出になって、「お前さんは萩本大明神を尋ねるんじゃが、なにかお前さんに心当りあるのかい。」「いや別に心当りございませんけれども、私、萩本というので同じ名字の神様あるのかと思ってお尋ねいたしました。」「うん、あんた萩本さんというのか。あんたは紀州の生れか」「ええ、私紀州の山奥の生れです」はなしはきいたものの、主人はうたがい、番頭を つけてやって、どういう所に住んで、どんな人か、どんな歴史を持っているのか調べさせたところ、あにはからんや その人が心斎橋で救ってくれたところの萩本さんであることがわかった。
そこで今度ぶりは、反対に車でお迎へにいった 。「萩本はん、ちよっと、山口さんという旦那さんが、お前さんを 呼んで来てくれという」「わしは車引きが車に乗れるか」「いやまあ、そんなに旦那さんがおっしゃるのですから」 ときもちが悪かったのですが、車にのしてもらって行った。ところが表へ通ってくれという。そうして正座へ直して ことの有様を遂一聞くし、自分も述べるし、その時の恩人がその人であったということがわかった次第です。そうして、無学文盲でございますから銀行のお手伝をして裕福に暮したという話がございました。
さて、心の角ですね。萩本さんも、人を助けるまでは、心の角のために、日々苦労が絶えず、体も弱かったが、人を助けてからは、心の角がとれて、慈悲と感謝に満ちたよろこびの生活を送り、非常に有名な長生きの萩本さんということに、なっとるそうでございます。 これは一例で御座いますが、泉先生はこういう事に非常に力をおいれになってお話になったのです。自分の心に貪瞋痴、の三つがありますと日に日にが面白くない。面白く無いばかりでなしに身体が弱い。考える事が、つらい事や腹が立つ事ばかり考えている。けれども、もう「よわい」が無いというところで、さとりを開いて、残す金はいらんというところから、慈悲の生活にはいったわけです。そうして人を助けた。ああ、わしゃ人を助けたというて、大変気持のよい生活をしているうちに運が廻って来たということになるわけです。腹に貪、瞋、痴が無ければ、そういうようなめぐりあわせがあるというお話を承ったんです。
慈悲に、もえて仕事をした場合には、それからはまるっきり変った人になれると、これは生きた実例じゃと私は思うのでございます。それからまだ一つお話をしてみます。
これは京都の話ですが、京都のあるおうちに、お子さんが二人あった。一人は小学校、弟はまだ幼稚園へも行けぬごく幼い子であった。 ところが丁度氏宮のお祭りで、お父さんが上のお子さんを連れてお参りにでかけた。そうして、かえりのお土産に赤鬼の面と、青鬼の面の二つの鬼の面を買いました。子供をよろこばそうとのお父さんの心使いです。家へ帰ったところが其の兄さんが、面白半分に弟と赤鬼の面をかぶって、暗がりを弟さんがよちよちと歩いてきよるところを、わあっ!と驚かした。そうすると弟さんは、大へんびっくりして、目をまわしてしまった。
さあ大変、お父さんも、お母さんも飛んできて、お医者さんをよび、ようやく息を吹きかえしてなおったのです。 それで事なく弟さんは小学校へはいる。次は中学校へ入学しました。弟さんが三年生になった時分に、ひょっと夜目をあけたところが恐しい鬼が出てきている。もうどれ位びっくりしたか、「わあっ」といってとびおきました。まあ、これが初めての病気、毎晩くらがりにすると、必ずそれがでてくる、これが続きまして、神経衰弱となり、体も細くなって学校の成績わるくなるし、もう恐ろしい恐ろしいいうので、お医者さんにみてもらうと、恐怖症と名をつけられました。そこで色々な薬を、名医にも見てもらってもなおらず、学校の成績はますます悪くなってしまった。 そこのお父さん、お母さんがご相談で、これはどうも薬はきかない、あの京都の大学に、福良井友吉博土がおいでる。此の人は心理学の大家だから一ぺん相談してみようというので、そこへつれていった。その福良井さんは、私もあったことがありますが立派な学者です。「よろしい一つしらべてみましょう。」というので、その中学校の三年生になる人です。その方を自分の応接室へ呼びまして、そこで催眠術をかけたのです。福良井博士は非常に催眠術の大家なのです。そうして、いうことには「お前さんに一ぺんたずねてみるのじゃが、その夜、暗がりになると恐ろしいというものが出てくるというが、恐ろしいものの本体をきかしてもらいたい。」とこういうお話をすると、その弟さんがいうことに、「よく尋ねてくれました。私はこの人間に長らくついているのです。この人が三つ、四つの時から 今日までついとるので拾何年になります。」こういうお話なんです。「どういうわけでついとる人か。」先生が聞いてみると、「それはあの祇園さんのお祭の夜からついているのです。」「どういうわけで」「それは、この子とお父さんとが、お参りにきたときに、ついて行ったのです。この人の兄さんが、つれていってくれたので」そしてその夜この人についたところが、この人はびっくりして目をまわしたのです。その時にお医者さんはくるし、おおぜいの人が介抱してよくなったのです。それからしばらくの間、事無く過ぎ去ったのですが、ちょうどその人が、今年中学の 三年生ですが、非常に勉強してよく出来る子ですが、勉強がすぎてよわったところへつけこんで、私がでてきたのです。今では勉強も何もできはしません。」こういう話をきいたのです。
そこで催眠術をときまして、お母さんを呼んで「お母さんどうです。ああいうことをいうのですが、この人の三つ四つの時からついとるというのです。」「ああ、それは思いあたることがあります。私の主人がお祭りに兄をつれていって、青鬼の面と赤鬼の面とを買ってきました。ところが、兄が面をかぶって弟をびっくりさせたために目をまわしたのでございます。」「そーれ、それからが心の角というのがついたのです。それから今日まで事なくきたのですが 小さい子じゃから鬼じゃと思いこんでしまったのです。」「なるほど、よくわかりました。」その時先生がおっしゃった。「それでは赤鬼の面と、青鬼の面とを買うておいでなさい。もう一ぺん私が話をしてあげる。」というので、ほんとの紙ではった赤鬼と、青鬼の面とをもってきて、又弟さんに催眠術をかけました。「お前さん、この子についているというが、どちらの方かな、」「むこうの方じゃ」というて赤鬼の面を手にとりました。そして、その弟さんにいった。「よくごらんなさい。これは紙の面ですよ。あんたは、ほんものと思っているが紙の面ですよ。あなたは本物と信じて、今まで心の中で、ひそかに案じておったのじゃが、本体をあばくとこういうもんですぞよ」と、いうので催眠をとりました。ところが、といた後に心の底に深く刻みこんだために、いわゆる八識の働きなんです。 それで安心ができて病気がなおったという話があるのです。
例えそれが事実でありましても、こういうような紙の面でありましても、「心の角」というものができると身体を 害するということが、これでよくわかるのです。泉先生は、どうぞ「心に角」をつくるなということを常によくおっしゃっていました。
(昭和三十二年七月三十一日講話)
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第九条 「取こし苦労をするのは神に不足をいうのとおなじこと」


取りこし苦労というのは、申すまでもなく、取り越しというのですから、先のことを悪く考えて、そうして苦労するのです。先を楽しむなら取りこし苦労じゃないのです。先に悪いことになるということを予想して自分でに苦労する。それを取越し苦労と申します。
例えてみますと、今年豊作をして、三石以上も米がとれたといたします。大方十俵近くも御座いました。まあ、それまでは、よいのですが、さあ来年とれることでございましょうかな、というて顔しかめている。これなどは、取越し苦労でございます。このことにつきまして泉先生は、こういうお話がございました。
これは私が、津田へお参りしよる時の事でございますが、年の頃は女の方で、四十四、五才でございますが、男の人で五十余りの人です。この二人の方が、先生のところへ見えまして、「先生、私は、どうも運が悪く思うようにいきません。それでお庵へはいりたいと思います。まあ、世話してくれる人がございまして。然し、本来私らは二人が 働いていければよいのでございますが、まあ苦労が多うございまして、先生におたずねにあがりました。」との挨拶でございました。そうすると、先生はお数珠を洗いまして、例によって、おとなえしてさてお話しになりました。 『ああ、お前さんは、髪をそる気かえ』「先生、実はもう私も此の年になっておりますので、子供が一人もご座いません。それでまあ、働くのは二人で楽しく働いているのでございますが、みよりも外にございませず、子がないのでございますから、せめて老後は神仏におすがりして、二人がもう頭そらんかと心をきめて参ったのでございます」 『ああ、そうか。』そうすると先生がにこにこお笑いになって、「取越苦労は神に不足をいうようなもんじゃ、お前さん大きな願かけとんじゃないか。』「へえ、願かけとります。」『ふぅん』『このお地蔵さん耳がかげとるかい』 「ヘ、そうでございます」『田ぼの端で立っとるな』「そうです、端で立っております」『それをお前さん、願をかけておりながら、子もくれず』と取越苦労している。『それは、はやいから、おやめよ。後で愚痴をこぼさんならんぞ、まあこの夏すぎるまでお待ちなされ。』
夏すぎ、三か月、四か月立った秋の頃でございました。よろこんで二人が子供をつれて、頭の髪もそらずして、「先生がおっしゃって下さったので、私はこんなに子供ができまして、何より結構とよろこんでおります。」そこで 又先生がおっしゃった。『お前さんは取越苦労してえらいこと、お地蔵さんの悪口ではないが、まあまあ願がかなはないので不足いうようなものだ。ところが、この度はそのお地蔵さんが長らく待たしたというので、今度はこの子に知慧を授けてくれる。利口な子になるのだから、益々信仰をつづけていくのがよろしい。』と先生はお話しなさっていたのを聞きました。つまり取越苦労は、神にお願いし心の内で願っているのです。けれど願がかなわないと、悪い方、悪い方にそれを考えて信仰と自分の思うことが別々になっていっています。そうなると、いわば、神さんの方へ不足をいよるのと同じことなんです。そのことをおっしゃったのですから、この九条にかいてあることは、すべて神さんにまかせて、人間心で心配するな。楽しんで待て、ということになる。悪い方に考えて待たずして、よろこんで 楽しんで待て、という教えなんです。そうすると願がかないやすいんだということです。
(昭和三十二年八月十五日講話)
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第十条 「神、信心するものは我が心をだましてはならぬ」


或る讃岐の西の方の人でございますが、家の屋敷の南側に屋敷神さんがあるのです。その屋敷神さんの周囲に一間巾位の竹やぶがあるのです。その竹に実がのりました。枯れたのでございます。竹がかれてしまったので神様にお頼みして畑にしてもらったら、かえって屋敷神さんもきれいなだろうと思い、そこを畑にするようにいたしました。それで先生ところへ相談に来たのです。ところがです、そのやぶが枯れたのを畑にするというお頼みを神主さんに頼んでしてもらった。そして、神主さん、これ実は、やぶがかれましたので、どうもこのままほっておくと、むさくるしくもあるし、いっそ畑にしてきれいにしたら、かえって屋敷神さんがきれいになるので、そういう風に一つたのんで下さい。すると神主さんは、頼まれるままにいたしました。そこで神主さんは、「ちはや」を着て、冠つけて神様に頼んでおるのに家族の人は、唐ぐわかついでたんぼへ行ってしまいました。たんぽへ出かけるときに「神主さん、ここへおいておくから、すむと持ってかえって下さいよ」とお礼のつつみ紙をおいていきました。
ところが、その後色々面白くないことが有りましたので、先生ところへ相談に来たのです。そうすると先生が、無論そんなこと先生がお話しするわけはないのです。先生、ちょっと私とこ、このごろ家内にぼつぼつ困ったことがありますので、おがんでいただきます。こういって来とるのです。ところが先生は、例の通りお口をすすぎ、お珠数をすすいで、神様のところへおすわりになった。そうして、おっしゃることがなかなかおもしろい。 『ああ、お前さんは、屋敷神さんの周囲を堀ったことがあるか』「へいへい、それはやぶが枯れましてね」『そのやぶは、三方屋敷神さんの石垣をかこんでいるやぶじゃな』「へえ」『うん、それを畑にした、屋敷神さんあまり喜びになっていない。 しかし、「先生、神主さんに頼んでしましたが」、『さあそこなんじゃ、お前さん皆仕事にいったんだろう』「へえ、神主さんに頼んでまいりました」「その時に、神主さん、すんだらな、これ持ってかえってつかはれというてお礼を紙に包んで置いてたんばへ行ったんだろう。』「へえ、その通りいたしました」『その金札のすみに赤いインクがついていただろう』「へえ、先生あれ赤いインクがついていました」先生は金札に赤いインクがついているのまで見えている。屋敷神さん知ってござる。そら『何も赤いインクがついとるのが悪いんでも、いいんでもないのじゃ、それまで見えるということなんじゃ。』『それは神主さんにお礼したんじゃが、そんなことしなくても、お前さんが使うところのお屋敷なんだから、畑で主人や家族がそろうて、「屋敷神さん、まことにこういうわけで、むさくるしいから、畑にさせていただきます」といえば、それで受けとってくれているのです。金札のすみに 赤いインクのついているのでさえ、やしき神さんがおっしゃっている位だから、お前さん方が、そろって頼みますといったらとどいているのだから、この信心するのが、自分の心をだましてはいかぬ。お前さんが使うのに人にたのんでもらってたんぼからかえって鍬ではりまくったな。』 『おまはんくのご主人は膝ぼうが抜けとるのでないか』 「へい先生抜けています。」『いやそれは神さんおこっているから抜けているのでないのだ。もうそういう時が来て そんなになっているんじゃけれども、すぐ直してくれるぜ。』帰るともはや足はなおっていた。
こういう実例もございました。神信心する者は、そういうふうに自分が神さんにお頼みしたかった時分には、自分がたのむ、そうして念のために神主さんとか、お坊さんをいれるのはよいけれども、人に頼んでおいて、自分がそれを好きにするということは、自分の心をだましていることになる。これは気をつけなければいけないことである。
即ち、ここに書いてありますとおり、信心するものは、我が心をだましてはならぬ。神さんは、すぐ側で見てござる、聞いてござると、いうつもりで、人と話をする。或は掛合いするのでも、お礼をいうのでも、何であろうとも、 その心掛が大切である。そのようにしないと神さん、ちゃんと知っている。 「人間でありますと、証拠がなかったら罪にならぬということになっておりますが、今の法律は、悪い事をしていても、「いたしません、」「知りません」といって、そこに証拠がなかったならば罪は免がれるけれども、信仰の方では、悪いこと直接手を下してしなくとも、心で思ったときに早や既にそれが罪となっている。善いこと思うたら早や功徳になっている。このように神信仰するものは、自分の心を正直に、ありのままに外へ出さないと、外と内とがちがったら、村木さんこれはおかげにならんぞよときかしてもらったのです。なるほどそうでございます。
例えば、自分がよそへ行こうと思うところへ、ついお人が見えられた時分に、急ぎの用でなければよいが、急用の時である場合に「ええ、さしつかえございません」というのはいけない。限って行かなければならない時に心のうちでは行きたい、行かなならんと、もじゃもじゃしている。お客さん早く帰ればよいがと思いながらお話をしていると、お客の方がおちついて、長話になると、はがゆくなってくる。こういうようなのが、我が心をだましていることになるのです。そんな時には、私には、そういうことがさいさいございます。その時には、私はお客さんにわけをお話をするのです。今日はこんな用事で、何時までに、何所までいかなければならないのですが、今時間がちょっとございますので、もしおさしつかえなければ、その時間をおつかい下さって結構です。このようにいっておけば、早くかえればよいのになとか思わなくてすむのです。口で親切そうにいっても、心のうちで早く帰ればよいのになあと... これが我が心をだましているということになるのです。
これは信心するのに限りません。人さんとおつきあいする上にもそういうことはよくあります。自分の心では、きらいなと思っているのに、ロで愛想をいうと、これは心をだましている。誠でないのです。そうするとどこか、そわそわしているために人に感じが悪い。向うさんからいえば、何か落ち付かない。いやな感じが起る。
こういうことを先生が、おいましめになったので、これは信心するものばかりではありません。我々が日頃おつきあいする上に相手方にはっきりとこちらから、先へお話ししておくのです。そうすると落ちついてゆっくりと真心同志のお話しをするということが、まことのおつきあいでありますと先生からおしえをうけたことがあります。成程と私は感心したのですが、あなた方も多分こんな例はあろうと思います。そんな時にはもう相手方の人に正直にお話して気持よくその時間内で、おつき合いをするとまことのおつき合いができてよいと思います。
泉先生は、こういうささいな点までも我々に日常生活に悪い感じをいだかさないようにと、いうことをお考え下さったものです。
(昭和三十二年八月十五日講話)
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