171~180条

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第一七一条 「天地の間には「あだ」はなきものぞ。すべてを尊べ、皆を楽しめ。」


天地の間に何ものも何一つもあだなものはない。キリスト教のバイブルにも書いてありますが、仏教の方にも書いてあります。神、仏は、人間が出て来る前に、もう何にも、困らんようにして下さってある。ちょっとみたらいらんようなものにみえても、やはり生活の上には、必ずいるものを作って下さってあります。泉先生も「天地の間に、何一つの不用な物はないんじゃ、どれもこれも尊い物であって。必要な物ばかりだ。」とおっしゃっている。
たとえてみますと、あのきれいな花が咲きます「けし」というのがあります。その花がちりますと、けしぼうずといって、かわいらしいぼんさんが、花の実となって後へ残ります。この実に、ちょっと包丁で傷を入れますと、白い乳のようなものが出ますが、あの中にはおそるべき麻薬がはいっているのです。新聞であなた方よくごらんになるだろうと思いますが、この麻薬というのは一般につくらさないのです。つくらしません。毒ですから。中国(支那) あたりで、この麻薬を秘密でつくるのです。製造する。そうして、それをほうぼうへ売るのです。たいへん大きな金をあつこうとります。小さい商売人でも、何百万、大きければ何億万もの金をあつかって麻薬を買うたり、売ったりしているのです。これほど毒薬であるのにかかわらず、なぜそれを買うたり、売ったりするかといいますと、これは、あなた方ご承知でしょうが、モルヒネという毒がはいっておりまして、これがなければ、人間が助からないことがあるのです。たいへんに腹が痛むとか、なんとかいった時分に、お医者さんが注射いたしますと、たちまちとまりますが、これはモルヒネなんです。からだがしびれて、ま薬が人間を助けるようになるのです。ああいたいで心臓まひになって死んでしまわねばならんようないたさでも、注射一本で、からだがしびれてしまいますから、楽になったというておるのです。いたい原因はのいておりませんけれども、しびれておりますから、いたい感じがないというので助かるんです。そうして、その悪い原因を後からのぞきますと、助かるという事になりますので、あの劇薬でさえも、今日は大変重宝な薬になっております。
それから小さいことですが、皆さんは「よもぎの餅」をなさる。よもぎのもち、あの青いもち、よもぎというのはたいへんな薬です。あれは、薬草の中では大事な薬草になっております。あのよもぎの葉を、もんでもんで、さらしますともぐさができます。これはあんた方が、やいとなさる時分に、あのひねって置きますあのもぐさ、あれになるのです。このやいとということも、明治、大正時代には、やけどじゃと言っていましたけれども、このごろはなかなかあのやいとで助かるのは当然じゃというような、学問の上での証明がつきまして、やいとということも必要であるということになっているのです。つぼが合わなければ、やけはたですけれども、合いさえすれば不思議によくきくものだということが証明されております。こういうふうに、すべて土地の上に生えている所の物には、ほとんどあだがないのです。
それからまた、このあいだ雷が落ちましたが、あの雷というのはいらんもののように見えますけれども、これは、この土地の上の何十里も空の、空気のない所に電気の層があります。その電気があるために、自然に雲に電気を帯びてくると、土地の上へ反対の電気が出来る。感応作用と言いましてその感応作用によりまして、反対の電気が出来て、それが引っぱりおうて、放電するのが雷です。
もしこの電気が、感応作用という作用をしなかったならば、今日我々は、電気を作ることも出来ません。この尊いところの電気も、やはり雷が出来るのもおなじ理屈で出来ているのでございまして、雷そのものが落ちてくる。あんな物いらんと言いますけれども、やはりこれは電気でございますから、その電気は我々の生活には、なくてはならん物になっておるのてす。
それから又、この台風でございますが、こんな物いらん、台風やなくてもええわと言うことでございますけれどもこの台風の起こる原因というものを調べてみますと、空気が熱せられる、熱するとそれが上へまい上がる。舞い上がったならば、周囲からそれを補給せなければいけません。これが低気圧と言うのです。それでこの低気圧というものが起こりまして、そうして空気が上へ上がって、風が遠方へそれを運んで行く。こういうものが無かったならば、この土地の上へ、あちらへ雨を降らし、こちらへ雨を降らしすることがないので、もう乾燥するところは、無茶苦茶乾燥する。水が全般に行き渡るということがないようになる訳でございます。すなわち沖の上で非常に蒸発した、水分を含んだ空気が上へ舞い上がると、これが旋風になって、そして各地へその湿気を運んで行く。そうして土地の上へ来て雨となって落ちる。こういう風に、低い所から高い所へ、低い所から高い所へと水を運んでくれるのが台風なんでございます。もしそういうようなことがないならば、土地の上は大変乾燥しすぎる所や、又湿りすぎる所が出来てこまるのでございますが、こういう現象があるが為に、土地の上はまんべんに湿り、まんべんに乾燥すると、いうようなことが出来る訳でございます。
ですから、この土地の上には、いらん物のように思う物がだんだんありますが、我々が考えても、これはいらんと思うような物がありますけれども、それとても、なに一つ不用なものはないのでございます。で、もしここに人間の生活に邪魔になる物があるならば、それは人間に知恵というものをくれてありますから、その知恵から割り出して、邪魔になる物をのける工夫をするとよいのでございます。
たとえば、あなた方が農業をなさる上に、いろいろなばい菌や虫が田んぼにわく。しかし、それにはちょうど適薬がありまして、いろいろな薬をおやりになりましょう。そうして、それを駆除しよりますが、土地の上にはほとんどいらんという物はなんにもないのでございまして、草がはえて困るといいよりますけれども、天とうさんは、人間に必要な米や麦だけつくって、ほかの草はふやさんということはなさらんのです。
すなわち自性なしという、萬象自性なし、一さいの物に自性がないと言うことを釈尊がいわれとりますが、なるほど、それは自性というものがないのだから、人間にたとえそれが邪魔になるものであろうが、なんであろうが、すべてを守りたてるという天とうさんの法則です。だから米麦だけを成育して、雑草ははやさないというような事はないはずなのです。又、雑草いらんのかというとそうでない。雑草がはえるくらいの土地に我々の必要な米麦だけを作ったらよく出来るのでございます。それには人間に知恵というものをくれてありますから、どんなにでもできるわけです。こういうふうに考えていきますと、土地の上には何一ついらんというものはありません。すべてがいるものばかりです。
こんなことをなんで泉先生がおっしゃったかといいますと、泉先生は不足というのがおこらんのです。あの方にはたとえば、おやしきに草がはえると、泉先生こう考える。ああ草がはえるくらいでなかったら木をうえてもはえん。 草は自分がいらない場合にはぬいたらええんだ。いるものだけ植えたらええんだ。ああ、ありがたいもんだと、こういうふうに、泉先生お考えになるのです。ですから天地の間には、泉先生のお目にとまるところのものは、何一つ困るという物はない事になるのです。それでいつも泉先生は不足がひとつもありませなんだ。あの方には、何でも結構結構とおっしゃって、にこにこわろうておいでた。という訳は天地間には何一ついらんというものないんじゃと。
こういうようなお考えから不足がおこらんのでございますから、あなた方がこの百七十一条をお読みになった時分には、ああ泉先生はこの雨が下に、いらんもの何もないとおっしゃった。しかし私はどうであろうというと、不足が沢山ある。これはもう少し勉強して、なぜ不足をいうのかという事を尋ねてみると、不足言うたのはまちがいであった。かえって喜ばなならん事であったという事を発見する訳なのです。ですから百七十一条をよくお読みになりますと、何事にも不足をいえないという事がよくわかるのです。
天とうはんには、人間困らすような物何一つこしらえていない。助かるものばかりこしらえてくれてある。こういうふうになりますと、日に日にお礼が言えるという事になる訳です。百七十一条は誠に簡単に書いて妙に考えますけれども、こういう考えができたならば、朝おきて寝るまでの間、見る物が皆楽しみということになってくるのです。
どうぞそういうふうに、不足のないように修養なさることがもっと一生がいの得でございます。不足がある人ほど一生がい苦があるのです。
(昭和三十五年八月三十一日講話)
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第一七二条 「床下の草も天これを捨てず、明るきに導き出す。天の加を草よく持したるによるものぞ。(御加持)」


この条は、お加持ということをよくいいますが、お加持の加は天とはんから力が加わるのを加という。お加持の持はもつという字で人間がそれをお受けすると、天が与える、人間が受けると、これを御加持というので、床の下にはえた草でも、このお加持の力によって外へ出てくるという事なんです。これは、まえにお話し申したこともありますが、縁の下にかずらがはえる。えんの下は暗いのです。ぐるりがふせられとりますから。しかし一方に風窓があいとる。そこから光線がさします。そうすると、その縁の下のまん中にはえたかずらは、何と目があるかのように、その明るい方へ明るい方へはってくるのです。そうして、しまいには外へ首つきだして、そこで花をさかし実をならして、繁殖する。こういう様をあなた方すでにご承知のことと思いますが、なぜ、そうなるか。ここでございます。
なぜそんな事になるかという研究に二通りあるのです。理屈の上から研究すると、これ科学者になる。信仰の上からそれを研究するとああ、ほんに神仏は、縁の下の草までも、かわいがっておいでるという、慈悲に判断ができるのです。で、今この二通りを私がお話してみましょう。
学者はどういうふうにみるかといいますと、光線があたった方は伸びないのです。日をあてると伸びが少ないでしょう。陰にしたら、ずっと徒長するでしょう。あの理屈で日の光線のあたった方の側は伸びません。縮むと分子が硬くなるのです。かげの方、日の当たらん方は、柔らかくなって伸びるのです。そこで日の当たる方、すなわち光線の当たる方は縮んで陰の方が伸びますから、ずーっと曲ってきます。日の当たる方へずーっとおじぎしてきます。そのようにして日のあたらん方は伸びる。日のあたる方は縮むと、これはどうがこうでも光線の方へ向いて、真っすぐにはってくる。すなわち、分子の収縮と分子の膨張と、この収縮と膨張とによって必ず光線の来る方向へ性根があるかのように伸びていくんだと、こういう事が学者の理屈です。学者はそういうております。それには違いありません。 そのとおりです。日が当たったら堅い茎ができます。当たらん方は柔らかく伸びますから、自然日のあたる方へ、あたる方へと向いていくのは当然です。これは理屈です。
それを信仰の方から考えますと、その力をだれが与えたのならと、こういうんです。光線があたった方が縮んで、陰の方が伸びるという力は、どこからきたのか、草自身がそんなことようしません。ということになります。すなわち天地自然の働きがそうなるんだと、日のあたった方は、堅く、健康にかたく強くなる。日の当たらん方は、柔らかく ずるずると伸びるという事が、すなわち天地自然の法則なのです。この法則は地球上どこへ行っても合うのです。 これがすなわち、天地の慈悲です。それで皆が助かっていくのです。草も木も助かる。こういう見方するのが信仰の見方なんです。こういう事から考えますと、縁の下のすみにはえた草でも、天地の大きなお慈悲をいただいておるんじゃ。こういう結論になるわけで、泉先生は床下の草でも、天地の大きなおかげをうけているとおっしゃったのは、ここにあるのです。で、もう天地間にある物、皆天地のおかげを受けとらん物は何一つない。すな粒一つでも、その中には、天地の法則が、こもっております。こういう見方なのです。なるほどそのとおりです。信仰もそこまでいきますと、見るもの聞くものが、すべて、おかげになる訳です。
(昭和三十五年八月三十一日講話)
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第一七三条 「言論文章は描けるもちと心得よ。味も香もなく腹もふくれず、肝にひびくは神のみ声ぞ。」


この教えの意味は、言葉でいうたり文章で書いたりした事は、絵に書いたもちみたような物であって、心にひびかないというのです。それでは、どうしたらよいかといいますと、つまり実行です。信仰のことなどは特にそうでございまして、あんた方が教を聞いてわかったといっても、まだ実行して身につけておりませんから、絵に描いた餅みたような物じゃ。味がわからない。やはり自分が実行に移してみて、なるほどなあと、からだへしみた時分にはわかったという事になるのでございます。「肝にひびくは神のみ声ぞ」というのは、それなのです。聞いただけではだめだ、実行に移したら、いかにも神様の慈悲という事が肝に銘じてくる。こういう事ですが、こんな歌があります。
「時おりは雲の上へも上がりみよ、雨の降る夜も月は輝く」。「時おりは雲の上へ上がって見よ」というのです。下では、曇ったら雨じゃといっています。けれども、お月様は年中雲の上で照っておるのです。曇ったとか、雨じゃとかいうのは、下の者がいう事であって、はるかに土地を離れてみよ。そんな物ないのだとこういう歌でございます。 ちょうどこの歌が、百七十三条のような事を歌っとるので「時おりは雲の上へ上がって見よ」という事は、実行に移してみいということです。そうすると、下界で、ああだこうだということは吹っ飛んでしまう。言い換えますと教えを体へつけてみよ、なんにも、苦になる物はないのだということです。
このことについて、お話してみたいのですが、この百七十三条はすでにわかっておいでると思いますけれども、実例をあげてみますと、あの「ミシン」です。ミシンであなた方ご家庭でいろいろな裁縫なさっておられます。あれは、足で踏んで、そうして、手で縫っていくのです。足と手の二つが調子が合はないとうまくいきません。まっすぐに縫おうと思うて手に注意しますと、足が遊ぶんです。こんど足の方の踏むのに心をとられると手があそぶ。なれんと、なかなかむつかしいものです。それから「オルガン」もそのとおりです。足で踏んで手でけん盤をおさえ、目で歌の譜を見るのです。目と手と足と三つが一挙に合はないとだめです。目で音譜を見ていると、手の方が動きません。けんばんを見ていると、足や手がおるすになります。こういう風に三つがなかなか一致しません。理屈は良くわかっとるのです。あたまではよくわかっているのですが、やってみるとなかなかうまくいきません。こういうような事は、ちょうど百七十三条に書いてありますとうりに。言葉や文章で書いてあるのはすぐわかるというのです。けれども、 それは絵に書いたもちと同じで、味もないものです。
「オルガン」のことにもどりまずが、理屈はよくわかっているのだけれども、実際けいこをして慣れることです。
そのなれるまでは、すくなくとも何カ月もかかります。二・三ヵ月しますと、手の方はもう目で見なくても動いていくようになります。足も無意識的に動きます。手が別に仕事する。足が別に仕事する、目が別に仕事して、その三つの違った動作が一致するという事は、体へつけなければできる事じゃないのです。「オルガン」をひくことの出来る人が、はじめてけいこする人に教えると、その人はすぐできるかといいますと、やはりできません。口で言うたり、字で書いたものは、授けられますけれども、身につけるという事はやはり練習でなければ、その人はひけるようにならんのです。どんな偉い先生がかかりましても、それは、やはり身につけるのは、練習する人が練習せなければひけません。
そういう訳で、あなた方が、この信仰の上の事をおききになりまして、なるほど、そうじゃなあと、おわかりになっているのです。わかってはおいでますけれども、これを日々実行に移して癖にせねば使えるものじゃない。こういう事になる訳で、誠にこれは大事な事でございます。泉先生などは、おわかい時から、ずっとお年をとられるまで、いつもこれを実行なさっているのです。実行のむつかしいことをやりきっておいでる先生の実例があります。
泉先生は、船に乗りなさって支那、朝鮮の方まで何十日もの遠洋漁業をなさっていたのでございますが、出発するときには、あの津田の八幡さんの沖をくるうっと一ぺんまわり、神さんに「いってまいります」と、ごあいさつなさって沖へ出ていくのです。その時に先生がおっしゃる事は、「こんど朝鮮へいってまいります。その間、私はもう塩を食べません。海の上からとった塩をいただかんことにしていますから、どうぞ無事にお願いいたします。」という願をかけなさるのです。先生は、何十日おりましてもいっさい塩あがらんのです。すぐ手を海水につければ、塩がとれて、ものの味もつけられるのですが、先生はいっさい塩あがりません。それは八幡さんと約束をしていますからです。朝鮮へおいでになる前には、あめの粒とお砂糖とを買っておいでるのです。そうして皆がお魚を料理したり、あるいは、おつけものを食べる時に、先生はおはしの先にお砂糖をつけて、ねぶっておいでるのです。何十日もの漁業をしてお帰りになるまでは、いっさい塩あがらんのです。こういう日に日にの行をつみまして、先生のあのりっぱなご人格が出来上ったわけです。なかなか癖をつけるために塩をあがらんという願をかけるのですから、たいしたものでございます。あんた方塩ぬきにしてごらんなさい。それこそ困ってしまいます。病気によっては、塩をたべられん病気もございます。たとえば、糖尿病とか、じん臓病とかになりますと塩を食べません。それは苦痛だそうです。
食べる物に塩けのないくらいまずいものはありません。あの「あんばい」(塩梅)あんばいがええと言うことよく言いますが、うまいもおいしくないのも塩加減によるといいます。あのあんころもち、あんた方がこしらえなさる時分に、あの塩をすこしも入れなければ、そのあんは、みずくさくて、すこしもおいしくないそうです。
こういうふうに塩という事は、もう人間の生活にどうしてもなければならんものですが、その大事な塩を先生は何十日もいっさいあがらんという願ですから、たいしたものです。ああいう神さんになるような偉いお方ですからできたのですけれども、われわれにはなかなかむずかしい仕事です。我々は先生のまねをさしていただいたらよいのでございますから比較的しよいのです。つぎ木したらよいのですから、やさしいことです。先生はご自分でにお師匠さんなしに、山の中や、日に日にの仕事で鍛えあげたんでございますから、なかなかむずかしいと思います。そういう事を考えますと、我々は先生にいくらお礼言うても足らんと思います。そういう苦労をしてこしらえなさった、その有り難い考えというものを、簡単に教えてくださるのでございますからしあわせです。われわれは、たとえばあるき習いに手をとって歩るかしてもろうたというような具合で、非常に楽に修行しとるわけでございます。どうぞ一七三条は、そういう意味ですから、体につけるという事が一番大事でございます。
(昭和三十五年九月十五日講話)
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第一七四条 「人は雨がえるのように、環境に従え、しからば全からむ。」


あの雨がえるは、木の葉の上におる小さいかえるであります。雨が降ると、ふれふれふれとなくかえるです。あの雨がえるのように、まわりが青かったら青うなります。黒かったら黒うなります。これは環境に自分の体の色を似せることです。周囲の色に従ごうて体の色が変わって行く動物のようにしておれば、人間は失敗がないということなのです。雨がえるは、どこにでもおります。いもの葉の上におったらちょっとわかりません。いもの葉と同じ色をしておりますから。それを反対に石の上や、石の穴の中へはいっとるとか、かれた竹の筒の中へはいっていると、暗いものですから黒うなっとります。目だけがひかっておる。これは、まわりの色のとうりに自分の体の色をかえているからです。ちょっと敵に見つかりません。それで自分の体の保護ができるのです。もずにすっかけられたりしません。
どうもこういうことが人にはすくないというのです。この雨がえるのように、周囲の状況に同化せよということです。理屈はそうなんですが、それなら我々はどうするとよいかということになります。今の我々の環境は、いなかの、たんぼや山や野原であって、まことに静かなよい所であります。こうした不便ないなかに住んでいて、都会のような風に、便利に暮らそうと思うならば大変です。たとえば、よそへ行こうと思っても、電車やバスがないんですから、 ハイヤーをやとわないけません。戸口からハイヤーにのって、又戸口へのってかえる。金があればできますけれども これは、ぜいたくということになります。それで環境に従うということは、なかなかしよいようでむつかしいのでございます。食べものでも、ああ、きょうは一つ牛肉で親子どんぶりこしらえようかと言うてみたり、あるいは、もう西洋料理のような物で暮らそうとかいっても、いなかにおってはとても、都会のような生活はぜいたくになって、やりにくうございます。着物にしましても、あなた方が田んぼなさるのに、もめんのきものに、木綿のもんぺいでもつければ自由自在にはたらくことができますけれども、都会の人のように、絹布にもぶれて、長いきものをきておっては、田んぼはできません。もしそういう立派な風でたんぼするならば、あの人はお嬢さんとか、なんとか人から言われます。こういう風に周囲の状況に従って、生活をすると目につきません。そうすると楽です。こういうことを泉先生はおっしゃっておりますが、なるほど、泉先生はお粗末な風をなさっています。沖で船の上に乗っておる時は、漁師の風をなさっておいでます。決して自分は人よりよい物は着ない。人が着ているものをきています。
私は昔先祖が建ててくれた、このふるぼけた家を、そのまま下を造作して住んどるのでございますが、これ以上りっぱな物もできんことはございませんけれども、周囲がこうとうな暮らしをしとる所でございますから、大きなご殿みたような事いたしますと、皆さんの目について恥ずかしいですから、少しも目につかないように泉先生の教えの通りに、そういう風にいたしとりますと、きやすいです。心が非常にきやすいのです。
ただ今、私が申したのは、衣食住でございますが、衣食住じゃなしに心の方から、雨がえるのまねをするというと どうしたらよいかと考えますと、かりに大ぜいの人が、相談事をしている時、皆がこれはよろしい、こうしたらよい、ああしたらよいと意見を出して、なごやかにお話しができよるところへ、もし一人が非常に理屈高く意気ばって「おらそんなことどんならん」、「いやこうせねばいかんわ」という風にこねまわしますと、相談がまとまりません。
そうすると、何かしらんその人だけは、のけもののような気分がするのです。やはり人さんの中でとけおうて、そしてたがいに、こうしたらどうですかと静かにお話しすればよいけれども、目だまをむいて、大きなにぎりこぶしをかまえていいますと、何だかけんかごしになってしまって、その周囲の状況になれておらんという事になります。
その人は一人ぼっちになることは間違いないのです。目の前では、そうしませんけれども、敬遠主義をとられます。こういう人が世の中にあるものでございます。そういう事を泉先生は雨がえるにたとえて教えとるのです。
周囲の状況に同化して、暮らしていけ、そうするときやすい。そして皆さんとは、互いに手をとって、助けおうて世の中が渡れる。気楽に渡れると、こういう事を教えておいでるのです。人にけんかごしに理屈をまきたてるというような事は泉先生はお好きにならんのです。それは損じゃとおっしゃっとるのです。あまがえるでさえ周囲の色に化するけいこをしているのに、人間としては、つまらないではないかと先生はおっしゃった。
これは有名なお話で、泉先生は雨がえるをよくお話しなさったのですが、先生のお話しをきいていますと、なるほどなあ、雨がえるは青い所におったら青うなる、黒い所へいたら黒うなる。自由自在に自分の色を変える。大ぜいの中へはいっても、偉そうに自分の意見をのべて、人をよせつけんという様なことをつつしまないと、雨がえるにさえもおとるぞと泉先生がお教えになっております。つまりこれは、雨がえるにたとえて人間の生活をおつきあいする人に同情せえという事です。自分勝手な議論をたててやかましくいうな。言わんならん時は静かに意見をのべて、きいてもらえと、こういう事です。これは人の交際の上に非常に大事でございます。又、衣食住の上にこうしないと生活がしにくうなるわけです。
(昭和三十五年九月十五日講話)
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第一七五条 「蚊のこぼす涙の中の島かげに、つなぐ小船もかじはあらましという歌のように、一粒の砂にも天地の理法は通うているぞ。」


これはまこと先生の卓見であります。蚊のこぼす涙の中の島影というのですから、蚊のこぼす涙の中に大きな池みたような涙が出て、その中に島があって、その島かげに船をつないでおる。そのつないである船にでも、やはりかじはついていると、そういうおもしろい歌でございますが、これは、なにを歌うておるのかといいますと、大きな山でも、小さな砂つぶ一つでも天地の理法というのは同じぞという事なんです。これは、今日、科学が進んでおりますので分析してみますと、富士の山みたような山でも、岩や土から出来ているのであって、それを分析すると一つの分子になる。分子を分析すると原子が出来てくる。もう一つ分析すると電子になる。砂つぶ、道端の砂つぶ一つでも、これを分解するとやはり電子になるので一つも変りがないんじゃと、いうことになります。もう一つ人間の身体についてお話してみますと、人間のからだは分析すると、わずかに十二、三種類の原素から出来ております。今日世界中の原素を調べてみますと、凡そ百原素あるわけです。たとえば、炭素とか、水素とか、酸素とか、あるいは、鉄であるとか、金であるとか、銅であるとか、これみな原素でございますが、人間のからだにはそれをもっております。その原素をもう一つ分解いたしますと、今日の原子核のように、もともと電気を帯びた所の一つの力、エネルギー電子になってしまうのです。ところが大きな地球も電子になる。人間の体も分解してみると電子、やはり同じ事であると、こういうようなことになるわけでございまして、これをあなた方がお読みになる般若心経には空即是色というように書いてあります。色不異空・空不異色・色即是空・空即是色とかいてあります。 この四つのことは、空というものは、いかなる物でも物質となるんだ。この空は物質と同じ物だと、こういうような事をかいてありますが、これを今日の原子学で説明いたしますと、物を分解しつめたら電子になってしまうのです。電子というのは、目にも見えないからっぽなんです。しかし、そこに一種のエネルギー、すなわち力があるのです。そのなんにもない所から、それがよりあつまってくると物になるのです。こういうことを二千五百年の昔、般若心経の中に読みこんであるとは実にたいしたことでございます。
空というのは、からっぽでなんじゃない、というんじゃありません。なんと名のつけようもない、ないかというたら、あるんじゃが、あるのかといったら見えんのじゃ、こういう物が空なんです。そういう物から出来あがっているんだ、こういうことなんでして、蚊のこぼす涙の中の島かげというような細かくわかれていますが、その中にもやはり大きな天地と同じ理法のものがはいっているというのです。これは非常に味のある言葉でございまして、これから言いますと、人間などはどこからでてきたんなといいますと、それは 土地から出てきたというよりしようがないの です。
しかし、その土地がもと火の玉であったんだから、やはり火の玉の中におったということになるのです。その時どんな調子でおったんな、といいますと、空であったのです。人間というものが空の状態でおった。その空の状態が、そろそろと動物という物質になって、そうしてこんど進化して、だんだんだんだん進化してきて、人間というものができ上がっている。元をただせば、砂つぶという事になる。土という事になる。もう一つ言い換えれば、火の玉という事になる。こういうような訳で、一粒の砂粒の中にも天地がこもっとるという事になるのです。ですから我々は、土の中からはいだしてきたのでありまして、それだから土でも石でも、これ皆我々の兄弟ぶん、木でも竹でも兄弟ぶん、動物は無論の事、兄弟分。人間は、はきものをはいて歩きまわりますが、草や木は、はきものをはいて歩きまわらないだけの事で、やはり生きている。砂つぶも眠っているだけの事であって、我々と同じものだ。こういうような風に 一つの砂粒の中にでも、すべてのものを、含んでいるという訳です。
もう一つ言い換えると、すべてのものは空というものに帰してしまう訳で、この点から言いますと、すべてが兄弟になってしまうのであって、豚でも兄弟、馬でも牛でも我々の兄弟、ねこでも兄弟とこういう事からお釈迦様は、宇宙観といい、人生観というものをおたてになったのです。そういう事から考えればお互いに助け合いをせなならんというような事になっとるのです。
これは全く間違いのない、むずかしい事ではありますけれども、砂粒、我々と同じものだと、こういう事を泉先生が、どこでけいこなさっておっしゃったかと考えてごらんなさい。文字は「いろは」だけしか知らんくらいの先生が、蚊のこぼす涙の中に浮いている島に、その島の中にまだ船がおって、そんな船、小さな船でも、やはりかじをつけとるんだろうというような事を、先生がお考えになるという事は、たいしたものです。これは、もう一つそれを先生がおっしゃった事を裏手からみると、すべての物は、一つのわけがわからん物からできとるんじゃ。空からできとるんだ。そうすると二千五百年前の空即是色という言葉が生きかえって来る。失礼な言い方しますけれども、無学のお方の泉先生が、こういう天地の大真理をお述べになっとるのです。いかなる大学者であっても、先生の前では、間違いございませんというにちがいない。ここをお考えになって、一つこの百七十五条に書いてある事は、人間だけがえらいんでないと、万物の霊長などと言うて、威張っておりますけれども、そうじゃないのです。どれも、我々の兄弟だ、ご先祖だ、草木もそうじゃ、こういう事になりますと、何やらここに広い気がいたします。お大師様は、この五尺の体は小天地とおっしゃっております。天地は大きく広いんじゃけれども、この五尺のからだの中に天地の間におこるだけのものは皆おこる。人間のからだの中でおこるところのものは、天地もそのとおりのことをしている。
こういう事をおっしゃっております。意味の深いことでございます。
(昭和三十五年九月十五日講話)
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第一七六条 「瓜の手の働きを見よ、自力と他力のお手本である。」


きゅうりのようなつる物の生きかたを、信仰の方から先生はおっしゃっています。あの『うり』の手というのは、これは自力です。自分の力で立とうという方でございまして、それから、竹のつえの方は、他力の方でございまして、すがってのぼらしてもらうと、この二つを先生がお説きになっている。あの『うり』の手の働きをみても、人間は、他力一方ではいけない。また他力をのけて自力一方ではいけない。どうしても自力他力の両方がだいじである。 このお話につきまして、以前に申し上げた六波羅密というのがございますが、施行・忍行・戒行・精進行この四つ、これがうりの手になるのです。自分の力でございます。施行というのは、人にほどこしていて、自分が徳をつむという方です。忍行は、しんぼうのできん所をしていて、人にゆずるという方です。戒行は、いったん良い方へ向く所のきめごとをこしらえたならば、それはくるわさないことです。それから精進行というのは、力を入れることであってどこへ力をいれるかと言いましたならば、白分の仕事に精を入れるのでありますけれども、その自分の仕事の精を金をためるため、あるいは財産をこしらえるという事になりますと、精進行にはならないのです。精を出す事といえますけれども、それは信仰上でいう精進行ではありません。信仰上でいう精進行は、人をよかれ、自分よかれと、両方が平等によいのでございませんと精進行には、ならんのでございます。この四つが人間の方がする仕事でございますから、ここの一七六条に書いてあるうりの手にあたるのです。この四つで、物に巻きついて上がっていくのです。 それでは、なにに巻きつくのかというと、うり類は竹の支柱へ巻きつくのですが、人間の信仰上ではその柱になるものは神仏です。おたのみする方です。六波羅密行の方では、それを禅行、智行となっております。つまり一心におすがりする、その一心にすがるといいましても、ただすがるのではいけません。やはり自分の力で、四つを使い切って、そうして、こういたしますからお助けくださいと、いうことになっているのでございますから、ただ六波羅密行しますのに神様に助けてくださいばかりでは、助けていただけないのです。前に申した四つが、これが代償になる訳でございます。私はこういたしますから、どうぞ望みをかなえてくださいということになれば、神さんだって、きかなおれんようになります。そうしてその一心行の結果、自分の心の中へひとりでに、知恵がついて来るのです。 こうしたらよかろう、ああしたらよかろうと、これがすなわち智行なのでございまして、学校の先生が教える学校の知恵とは違うわけでございます。いろいろ、千変万化する神さんの方のご希望を頭の中へ知らせてくれる知恵でございます。それで、六波羅密行の最初の四つは、うりの手に当たるのです。それから、あとの二つは、これが神様にすがる方になります。
巻きついているつるをよく見てごらんなさい。巻きつき方がちゃんと決まっているのです。右巻きでございます。
あのどんなに反対にまいておいてもまた巻きもどします。ためしてご覧なさい。こいつこっちへ、巻いておいたらと思って、巻くうとくのです。すると、そこまではほどけませんからしかたがないが、つぎのやわらかい方からは、やはり、自分の得手でなければ、向こうは巻きつきません。これほど規則整然として天地の命令を知っておるのです。
うりの手でさえもそれでございますから、人間といたしまして、六波羅密行をするという時分には、こうして欲しいからこうするというのじゃなくて、こうするのがほんとうの道だ、どうしても、こういう風にしなければ神様に聞いてもらえないと、覚悟してかかるのが、ほんとうのこれが六波羅密行の先の四つでございます。こういうむづかしい事を先生は、うりの手を例にとって自力他力を簡単に教えてくださっとるのです。
こういう風に教えてくださると、わかりよくて、そして忘れにくいのです。六波羅密行とか、施行とか、忍行とかいうと、むつかしくなりまして、忘れやすいのでございますが、あのうりの手は自力の方で、いいかえれば宗教の方であり、竹棒は他力で、これは禅行すなわち、おすがりする方にあたる。このように先生は、学校へ行った事のない人でもわかるように教えてくださってあるのです。先生はいつもこういう教え方をなさるのです。まことに先生のお知恵は、物にたとえるのが、非常にお上手であって、しかも学問のある人でも、ない人でも、世間に出ておる人でも、世間をあまりお知りにならない人にでも、みんなにわかるように教える知恵を持っておいでるのです。
(昭和三十五年九月三十日講話)
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第一七七条 「はえ打ちの柄にとまりたる果報者というような、浮いた果報は力がない。」


はいたたきに、はえがとまっていると、たたこうと思っても、それにとまっているので、はえはにげてしまいます。これはおもしろい言い方です。はえは、はえたたきの柄へとまっておれば、もう大丈夫じゃと思ってとまっているのではないのです。偶然とまった道具が、わがたたかれる道具であった。これは偶然にぶつかった仕合わせというのです。どうですか、あなた方、偶然にぶつかった幸といえばどんなものがございますか。はじめから計画して、まちがいなしに、いただいたおかげというのではなしに、偶然のものです。申し上げるならばバクチ同様です。あるいは、ボートであるとか、あるいは競輪であるとか、競馬であるとかいうようなもので、これは勝つやら負けるやらわからない。知らずに、かけてあるのが、ついあたった場合には、たいへんな幸福になるというので、信仰の上からいいますと、これは偶然ころがりこんだというような訳になるので、こういう事には力をつかうなよと、先生が教えてあるのです。
ある日泉先生に、こういう事をお尋ねしたお弟子さんがあったのです。「先生、先生は後の事でも先の事でも百発百中でございますが、先生はいつもながら相場すなとおっしゃるのでございますが、神さまは相場しらぬのでございますか。」おもしろいでしょう。こう先生にお尋ねしたら、先生はにこにこお笑いなさって、「それは、わからない事はない。そんなら一つわかるという事を話しておいて、それから後で、神様がそれをおきらいだという事を話したげる。」大阪毎日のあしたのそうばを二品か三品か、先生おっしゃりました。あくる日見たところが、かっちり合っとるのです。「どうぞいな。」 「先生、合っています。」「そうか、これが神さんの力。そらわしには損も得も何じゃ考えとらんからだ。欲がかかれば、神様は力をかしてくださらない。もし、そういう欲の願い事が許されるものであったならば、分限者になるのは、わけはない。一日もと入れしたら、日本中の財産が一所へ集まってしまう。そうしたならば国の経済がごじゃになってしまう。ほろびてしまう。そういう事をもし神様が許したならば、仕事せんようになる。こういうような訳で、神様はそれを知らさんのじゃ。」と先生がおっしゃった。神さんも一番きらうんじゃ、それでいっさいするなよと、先生がおとめになった理由です。欲でおがむと、教えてくれるように思うんです。
けれども、それはさかとんぼを教えられて、しまいに、なんぎするんでございます。それでは人のを見てあげたらどうですかとお弟子が尋ねたので、すると先生は「人のを神にたのんであげても、精神欲とか物質欲か何かがからまっているとわからない。ほんとうの慈悲で、するならわかるのです。わしが、あんたがたにこれを言ってあげようと思ってきのう朝日新聞を見る約束したが、これは親心から子供にけがをささんように神様教えていただきたいんじゃとわしが願うた。そんなことをする人が世の中にあろうか」と、先生はにこにこと笑うて、絶対してはならんぞと、いましめられたのを私は聞きました。
そういうような訳で、ちょうどここに書いてあります一七七条のように、はえ打ちの柄にとまった果報者といったような果報は、拾うなというのです。おわかりになりましたか、なかなかおもしろいたとえだと思います。
(昭和三十五年九月三十日講話)
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第一七八条「人は世の中のために働くと思え、的が違うたらあてがはずれる。」


人が働くというのは、生きている以上は必ず食物を食べねばならぬ。その食物というのはお互いが働いてこしらえたお米か、お麦かいろいろな食べ物です。これをいただく以上は、そのご恩返しに働くんだと、つまり人のために働くのだ。これをまちがえて、世の中のために働くというのではなしに、我が財産をこしらえるとか、金をこしらえるとかいうので働いたら、妙にそれは成功せんと先生がおっしゃいました。
先生は、字をお知りにならないのに、だれに聞いたんか知りませんが、「村木さんよ、働くという字は、人べんに 動くと書くんか。」とおっしゃるから「先生そうでございます。先生ようごぞんじですね。」「ああ、いや、わしも字知っとんで。」というてお笑いになった事がありますが、なるほど働くという字は支那で文字をこしらえた時分に、こしらえる人が偉いんです。人ベんを書いておかなんだら働くという字じゃない。人べんがなかったら動くという、動くのであったら運がどちらへなるやらわからん。人のために働くのがほんとうの働きじゃとこういう意味です。
時計の振子が動いているのを、あれ働くといいません。動いているという。人げんのは、働くという以上は、人のため世の中のためでなければなりません。泉さんは、字をお知りにならんのですけれども、そんなことをよく考えておいでました。なかなか先生は、こういう所を見ると学者みたような事をおっしゃるのです。その実、けいこなしておらんけれども、理におった事をおっしゃって、いつまでもいっぺん話を聞いたら忘れにくいようなお話しぶりでございます。この働きということ、人のために働くという事が大事なのでございます。
(昭和三十五年九月三十日講話)
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第一七九条 「人の道なる道徳も、型のとおり堅くなるとかえって人をそこなう事がある。天地の道には型もなし、あだもなし。」


この教えは、なかなか意味の深いことでございまして、どんなことでも型よりも心ということです。ある偉い人が教をのこしているそれは、仁義礼智信の五常の道です。昔からよくいいます、仁・義・礼・智・信、この五つは人間の行いには、たいへん大事なものだ。特に侍は、仁義礼智信の五つをわきまえておかねば侍じゃない。こうまでいうくらいの大事な教えでございますが、人をかわいがる、親切にするというあの仁です。人べんに二の字をかいてあります。この仁も、過ぎれば弱くなってしまう。かえって人に仁を受けんならんようになってしまう。ほどほどにしなければいけない。仁すぎれば弱くなる。こういう事をいっております。なるほど、考えてみますとそうです。やはり相手方を助けるのに、自分の力という事も考えませんと、ただ仁であるからというて、むこうを助けるのに熱中してしまっては、今度は自分が人の仁にあずからなければならぬようになってきます。これはやはり人よかれ、我よかれの道が大事じゃということになります。
それから仁義の義です。これは義理の義という字を書いてありますが、義にすればかたくなる。そうでしょう。
あんた方の日に日にのおつき合いに、義理というものがございまして、こういう恩義にあずかったから、こういう風にしなければならんとよく言います。あれもええかげんにせんと、あまりぎりにかたくなるとせっかく向こうがよくしてくれてあるのに、つめたく返すようになりまして、かたくるしくなります。あまりぎりがすぎたら、かたぐるしくなりすぎるでしょう。やはり下さったむこうの恩ぎを覚えていて、ありがとうと感謝するので、それでたつのでございます。くれたら必ずくれただけの物は返さねばと言うていくと、ちょうどちぎでかけたり、はかりではかったり 、商売みたようになってしまう。義に過ぎれば堅くなるこういうことになります。なるほど私は感心したのです。 こんどは礼です。礼儀、この礼儀も、すぎればへつらいとなります。私はどうも、よそへいっての礼儀がざっとしすぎておるようにおもうのでございますが、あまりよそへいって、ていねいにおじぎしません。私の癖が人からなま意気な高調子じゃなとお思いになりはしないかと、思うて遠慮する場合もございますが、よそへはいっていって、腰をかがめて、しき台に手をついて口上を申し上げるように、あいさつしたらよいでしょうけれども、それはちょっとおかしいと思うのです。礼儀は礼儀でございますけれども、やはり「今日は寒うなったなあ」とか、「暑うなったなあ」とか簡単に楽々とごあいさつするのが、私は、お互いに気安いように思うのです。「礼すぎればへつらいとなる。」
わかった事は、ねちねち言わなくても、あっさりと言うた方がよかろうとこう言うのです。なるほど、一理あると思います。
次は智ですが、「智過ぎればうそを言う」というのです。それは智がすぎたら必ずうそをいうというわけでございませんけれども、知恵もどうかといえば、人が助かり、自分が助かりしていくだけの知恵がありましたら、それ以上の小ざいくする知恵はいらんわけでございます。ところがそれを余り知恵が多すぎると、遠まわしにかけて解釈を右からしい、左からしい、上からしい、下からしい、縦横無尽に知恵を使うことをします。そのようにして、人と話してご覧なさい。ほんとうにねばくるしくて、話になりません。時によると悪根性を回して、人に悪う思われんようにとか、なんとかで、ついつくろうた話するようになります。知恵を使うたらええんだ、あまりねばこばといらん知恵を使うと、うそもまじって来るような事になるわけです。この知恵ということについておもしろい話があるのですがすこし長うなりますから、次にお話したいと思います。
人間は外の動物に打ち勝って、人間世界をつくっております。元から人間世界というのがあったのではございません。昔はへびの世界もあったでしょう。大きな象の世界もあった。このように動物の発生においては、大きな強いものの世界があったのを人間が今日は征服して、牛も馬もつないで使っています。とらや、象も動物園につながれています。そして人間の世界が出来ている。どうして人間の世界ができたかというと、これ知恵じゃというのです。
この知恵というのは、非常に大事なのでございますけれども、余り知恵ばかりに精を入れると、うそをいうようになりますから、知恵は八分目に使うたらよいということです。
それから人べんに言の字です。「信」この「信過ぎれば損をする」と、これはまあ、かけひきみたようなことでございますけれども、信というのも、相手方がどうぞたすかれば良い、こちらも助かるようにとこういうように、人よかれという信でないと、ただ信一点ばりに信じて言うとうりにやって行きますと損をするとこういうような事を教えております。すなわち、くりかえしていいますと、仁義五常の道です。仁すぎれば弱くなる。義すぎれば堅くなる。
礼すぎればへつらいとなる。知すぎればうそを言う。信すぎれば損をする。なるほどと私は思います。なにごとにもほどほどというのがありまして、つまり一七九条に書いてありますように、道徳でも型のとうり、あまり型に力を入れすぎるといけないと、かいてありますが、泉さんもそうおっしゃりました。あまり型にはいりすぎて堅くなるので、ほどということを考えていかないと、かえって、礼儀が礼儀にならんということになります。
また知恵ということで、もう一口そえたいと思うのは、この人間が知恵で、ほかの動物をいかにして征服したかということです。大昔には「象」とか「とら」とか「しし」とか「へび」とか、あるいは「とかげ」(足の骨の太さが柱みたようなとかげ)とか、そうとう大きな動物であったと思います。こういうものが世界を占領していた時代に、我々のご先祖はどんなすがたかといいますと、想像ですが他の動物のように四つんばいにはっていたのではないかと思われます。体は小さく、武器というてはなんにも持っていない。かりに歯といっても、さつまいもにかみつくぐらいの歯で、けんかする歯ではない。又、かきむしり合いするといっても、こんなつめでは向こうをかきむしって血がでるほどもかけない。せいぜい背中がかゆいのをかくくらいのつめです。一つも天とうさんから武器をもらっていま せん。ところが人間の手がよくつかえるようになったことです。この手を使うためには、どうでも後足で歩かなければならないというので、後足で歩き出したのが、これが人間の出世じゃそうです。そうすると二本の足で立てますから手が遊んでいることになります。自由に使うことができます。ほうりつけることが出来る。ほかの動物は、それができない。できるのはさるだけしかありません。さるにしても、人間によく似ておりますけれども、まだまだへたです。練習ができておりません。人間は知恵がありますから棒につるをつけ、矢をつがえて、ひっぱって向こうへ飛ばす。次に矢の先をとがらして、遠方の敵をたおす。それから又棒を手にもって、それを上ずに使って向こうをたたく事を、けいこをする。それは今日の剣道です。こういう風に二本の手を使ってそうして刀のかわりにする。今日の鉄砲のかわりに弓をうつ、やりでいく。こういう風に知恵を使うて、ついにその大きな動物を征服してしまって人間の世界にしたのです。これも知恵のおかげです。
知恵を上ずに使いましたために、人間が出世したのでありますから、その知恵を悪い方に使うというと、これはいけません。人だますという事になります。うそをいうという事になります。礼儀でもかたをあまり重んじないように真心であいて方を尊敬する。それがほんとうの礼儀であるのだと泉先生はおしえております。これが一七九条に教えて下さっております。
また先刻の五つの話もあわせて考えますと、なるほど、礼儀でも知恵でも、義理でも、なんでも、ほどほどというのがある。その度をこしますと、かえってむこうを害し、わが滅びる種になるから、そこをうまく調節していかなければならぬ事になる。調節はどうするかというと、両方の手をあわせ、人と自分とをあわす。これが手をあわすかたちでございます。人よかれ、我よかれと互いに手を合わせて拝み合いの生活をする。すなわち、神仏にすがっていくという心さえ失わなければ、自然にその調節がとれるようになるのです。これは不思議な事です。
こういう訳で、どうぞ一七九条は簡単に書いてございますけれども、なかなか意味が深いのでございますから、どうぞ、その意味でごらん願いたいと思います。
(昭和三十五年九月三十日講話)
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第一八〇条 「わが身の欲がのいてから、真の人間である。それまでは人の仲間入りはむずかしい。」


この欲という事を簡単に言いますけれども、罪の深い欲、浅い欲、又非常に立派な欲。立派な欲というのは人を助けたい欲です。この欲という事は一概に言えませんので、なかなかむずかしい事でございますが、ここに言うてある欲というのは、わが身の欲でございます。これがのいてから、ほんとうの人間になるのであるという事を書いており ますが、少し広い目で一億年か二億年か後へよって事を考えて見ます。そうすると、その時は最早我々のご先祖は着物を着ていなかったと思います。四つ足で歩いて、尾をはやして、外の動物と一向変りのないかっこうをしておったと思います。ところが、やはり人間も動物でございますから、無論そういう時には、かみ合いやります。食物の奪いあいやります。ところが人間の体を調べて見ますと、歯は、はえていますが、かみ合いする歯ではありません。さつま芋をかじる位が関の山でございます。つめと言いましても、まことにお粗末なつめで敵と渡り合うような鋭いつめではありません。背中のかゆいのをかく位が関の山です。こういう武器しか持たんところの、まことに優しい体をしている人間でございますから、今から何億年昔にあっては、劔龍というて体中劍がはえていた龍もありました。大きいのです。今、土地から化石になって、そろそろ、ほうぼうに出よりますが、太さから言いましたら柱位の骨組でございますから、多分胴体などは大きな酒屋のおけの様な胴体をしとったに違いないのです。その時の我々ご先祖は、おそらくそういう大きな動物を見つけたら、急いで逃げて、岩の間とか木の根、あるいは洞穴の中へ隠れて、戦々恐恐として暮らしていたのに違いないのです。
ところがこの人間が、いつとはなしに知恵があるものですから、手で細工をする事を覚えた訳です。人によると、さるから人間が出来たといいますが、さるから人間が出来たとは限りません。さるによく似たものであったのでございましょう。併し知恵があるものですから考えることをします。一番先に考えたのは何かと言いますと、岩の穴の中へ入っての生活です。しかし、人間が多くふえてきた時には岩屋は足りません。どうしても家を建て、雨露にぬれてかぜを引くことのないことを考えます。どういう家を建てたかと言いますと、今残っておりますのが、山の腹に横に穴を掘り込んである。横穴式のものです。それから、平地に住んで居る人は、ちょうど戦争中の防空ごうです。
水はきをつけて、上の屋根をふいとる。こういう家を建てたのに違いない。その時代には、くぎ一本あるんじゃなし、切れ物といっても石に刃がついている様な刃物であって、金属の切れ物ではおそらく無かったのですから、山でかず らを取って来て丸太の木を、それでくくって、かやや草を屋根にふいた、こういう家でございます。岩をコツコツとして遊んでいると、つい火が燃え出したのです。これはおそらく石と石とかち合ってその火が、がまの穂みた様なものに、うつって火が燃えたんだろうと思います。さあそれを見た人たちは大へんびっくりしたのです。さわったら痛い。ますますびっくりして、みんな寄ってきて色々な物を中へほうり込んだら焼ける。焼けるというとたべものは、そのなまと違っておいしいものになったりする。さかななんかもう焼いたらうまい。そこでその火を大事にみんなが分けて帰る。こういう風に家を建て、火をたく様な事は外の動物にはありません。
そうなって来ると、人間は手の仕事をよくするものでございますから、手の方が発達しまして、今の手の様に五本の指が自由に物を握ったりする事が出来る。足はお猿の様な足であったのでしょうが、歩くのに便利なようにかわってきました。そうすると、益々手を使うて色々な物をこしらえる。家のお茶わんの様な物はどろでこしらえ、それを火で焼きますと堅くなる。このどろあちらこちらで掘り出しているあの土器というのがあるでしょう。これなどは昔の人がどろを焼いてこしらえた器物ですが、こういう風に知恵があります為に、人間は外の動物より大分まさった生活をするようになりました。そんな生活をしているうちに弓を発明して、矢をつがえて打つ。それから又、木の先をとがらして槍を作るこういう道具ができた為に、外の強い大きな動物が人間を見ると逃げるようになったのです。ついには生きものの中で一番つよい位に登ったわけです。
ところがその時代でも、人間は自由にすることを好みます。自由にしたい。皆が自由にふるまうから、けんかが絶えないのです。外の動物に勝った事は勝ったのですが、人間おたがいが自由にしたいのですから、けんかができることは当然です。たとえば食べ物でも、自分が一番ええものをとり、又山の木の実を自分が占領しようとする。外の者にちぎらすまい、こういう風に人間も動物でございますから、最初はうばいあいが始まったのに違いないのです。
すなわち自由にしたい、今日の自由の世界と言うていますが、これは大きな勘違いをしておる訳なのでございまして、この欲という事から始まって、うばいあいをするのでございましょう。すべての事は欲から始まるのです。我一人が欲を満足して、他人には欲の満足をさせない。これが、そもそも争いのもとになるわけです。そこで一八〇条に書いてありますが、欲がのいてほんまの人間じゃと書いてあります。何億年前のわれわれの先祖の時代は動物の時代ですから、欲がのいとりません。「向うをかみ倒しておいて」でも自分がそれを占領したい。ところが、ここが人間です。
寄り合うて話が始まった。これお互いに外の動物に勝つことは勝った。しかし強い者同志が争うたら大変、又人間界が滅びてしまう様になるので、お互にひとつ相談せんかというので、相談が出来たのが、欲と欲とがかち合う時分には遠慮して人にゆずる。これが道徳が出来た始まりです。
道徳という事が人間界にありますから、人間界が治まる。それでも又、中には道徳もくそもあるものかというので無茶苦茶な人間ができます。非常に力あり、何からいてもかなわん。あいつ困るな。そこで又大勢の人が寄って来て 相談した。「これ、道徳をこさえて、家庭というものもこさえて、お互に仲よくゆくという相談ができて結構だが、あんな無茶苦茶な人げんができて困るなあ。こうしよう、みんなが組んでから、あれをたたきつける、そうしてああいう者をつまえて、よそへ出さん様にしようではないか、出すと荒れるから、これが監獄所の始まりです。
そこで法律というものが出来てきた。法律というものは無いのですが、こういう悪い事をした時分には、つまえてしまわんか。今日の法律です。これが法律の始まりです。道徳といい、法律といい、いずれを考えましても自由に自分の欲を使わせないというきまりです。もし使うとそこへつまえられるのがいやじゃから勝手の事はしない。すなわち欲というものをのけなければ、皆が仲よくいけないという事を悟って、人にゆずるということができる仕事をするにもおれ、くるしい方へ回ってやる。強いんじゃから苦しい方へ回ってやる。おいしい物を食べよ。おれ、何でもよい人の好む物をゆずる。そうすると他の人は、えらいな、えらいなとその人をかしらにしたものです。そういう事を何億年前のわれわれの先祖が、今日までながく習慣としてのこしてくれたのが今日の道徳です。これが一歩進んで信仰になった訳なのですが、こういうわけで一八〇条に書いてある様に欲というものは、そもそも下等動物時代のものであってそのまま今日持ってきているのであります。警察も法律も道徳もすべてないとしたら下等動物時代になります。
ご覧なさい、そういう真似をしておりはしませんか。月給を増してくれなんだらストライキやらんかとか、そういうような事を言うて組んでやっています。そうして又政治の方でも、そういう人が大勢居るんだから、その人を後押ししてやったら我々の票を入れてくれるだろうという様な考えを持って居るところの政治家もおる訳です。こういう事に迷わされない様に。
人間の欲というものはいかなるものか。何億年前にさかのぼったら、ああなるほど下等時代のわがよかったら、ええというものが今日伝わっておるのが欲になっとるんです。この人間界を建設して、いかなる動物も潜んでしまうて人間の世に治まってくる。治まってくると人間同志が争うてくる。又もとの動物に逆もどる訳です。こういう事を考えました時分には、どうしても欲をしてはいけない。人に譲るべきものだ。そうすると人から又譲ってくれる、まことに拝み合の生活はこれから始まる。 どうぞ欲というものは人を滅ぼし、その人間社会を滅ぼし、ついには下等動物時代になってしまうような恐ろしいものだから、欲を慎まなければならぬ、人間という名がつけられんじゃないか、こういう風に泉先生はおっしゃっています。わが身から欲がのいたら、これがはじめて真の人間じゃと先生はおっしゃった。いかにもそうです。こういう深い意味があるのです。
人間に良心というのがあります。信仰上では良心のことを仏性、すなわち「第八識」「如意の玉」。色々言い方もございますが、とかくどんな悪人でも、心の底には良いか悪いかがわかる様に「玉」をくれとるのです。ですから、わしが今持っているこの欲は通る欲か、通らん欲か、わが身にわかります。とおらん欲はやめないと下等動物と同じ世界に成ってしまうからやめよう。こういう風に考えていると、ますます幸福な一生が得られると、泉先生は説いたのです。簡単に私は書いてありますが深い意味があるのです。
(昭和三十五年十月三十一日講話)
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