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第一六二条へ 第一六三条へ 第一六四条へ 第一六五条へ 第一六六条へ 第一六七条、第一六八条へ 第一六九条へ 第一七〇条へ第一六一条 「万物の心、体動、を見て、真の神のご慈悲を悟れ。」
心と、体と、動作と、三つにわけておりますが、この三つをみると、神さんがいかにわれわれを助けてくださっているかという、お慈悲が悟れるという、むずかしい話です。これを、例をもってお話し申しましょう。
例を草木におきましょうか、この草木が花を咲かせて、そうして自分の種を作ります。すなわち子孫です。子孫をできるだけ広く世の中へ広げたい。自分の子孫を繁栄させたいと親の木や、草が願っているのです。そこで、その草木の心、草木の体がどういう風にこの世で動いておるか、この三つを調べてみると神の心意がわかるということなのです。まず見てごらんなさい。このごろ田んぼで、はすを作っていますが、あのはすにきれいな蓮華が咲くのをご承知でしょう。はすの花の、花びらをのけてみますと、その中にはちの巣のようなものがあります。そうしてはちの巣のような中に、多くのピストルのたまみたような実がはいっております。これは見た方が多いでしょう。あのピストルのたまみたような実を割ってむいてみると、スポンジのゴムみたような、フワフワした物がはいっておるのです。
それがどうなるのかと言いますと、はすの実が、花が咲いて、じゅくしてきますと、花びらが散る、そうして、はちの巣の中の玉みたような物が外へ出てくるのです。花弁がおちますと、もう熟しておるのです。実がいっとるのです。
そうすると、ピストルの玉みたような下にある、スポンジようのふわふわした柔らかい実が、しだいに大きくなって来るのです。自転車のタイヤでいうと、空気を入れたようになって、ふくれてくるのです。それはたいてい日の出お日さんがそのはちの巣みたようなのに当たりますと、スポンジようのものがスウーとふくれてきて、玉をおし出すようになるのです。ポンという音がして飛ぶのです。そうとう遠方へ飛びます。明け方にそのはすの花が熟した時分におい出て花を見てごらんなさい。飛ぶのが良くわかります。実にかわいらしい、ちょうど子供の紙鉄砲の音によく似ている音がしまして、はすの実が飛びます。これです。そのはすの心をこちらが考えてみますと、なるほどなあと考えさせられます。実がそのまま腐って池へ落ちたのでしたら、その花が咲いた下に、はすの実がもりあがるようになります。それでは広く、子孫が広がりにくいというので、スポンジみたような物をこしらえて、遠方へピストルの玉を飛ばすように飛ばしております。こういう所作を見るのです。そうすると神様、仏様というのは百六十条に申しましたとおり、主宰者ですから、はすが、わが子を遠方へ送りたいと思う想いがかなうように、スポンジの座布団をくれるのです。そうするとはすは、結構に子孫を遠方へ飛ばすことが出来る。こう考えて見ますと、神様は実に、草木にいたるまで慈悲を加えておるということがわかりましょう。これははすの話です。次は「くり」です。 あの「くりの実」と言うのは、うまいので虫がつきよいのです。実が熟するまで見てごらんなさい。くりの実の外側へ針が何百本とはえているでしょう。さわると突きます。そうしてその針をのぞくと、その下には、しぶいしぶい皮があります。あれはタンニン酸といいまして、その腐り止めの薬です。ですから虫なんかが食べると、しぶくて、うまくないのです。タンニン酸がはいっておるしぶ皮が巻いております。その下に、実がはいっておるのです。
熟してきますと、あの皮がはぜて、ザクロのように割れます。しぶ皮も割れます。そうすると、中にある所の実が丸い中に、三つも四つもはいっておるのでございますから、みな片一方がまっ直ぐであって、片一方がどんぐり、丸くなって、ざるのようなかっこうになっております。あれが丸いのでしたらずっところげますけれども、一つしかはいりません。数多く子孫を遠方へ広げようと言うのでありますと、片一方真っ直ぐで、片一方どんぐりになっていると、あれが土地へ落ちますと妙なぐあいに、つるつると、ちょうど船かなんかをすべらすような調子に、丸い方がすべりまして、真っ直ぐなのが上になって、谷の底まですうーとすべって行くように出来ている。こう、くりの形を見、所作を見ると、くりの心がわかる。ああ、ほんに栗は自分の子供が大人に成長しないうちは、あれぐらい守ってやっている。そうして一人前になって土地へ放す時分には、つるつるすべって、遠方へすべらしてやります。それから考えましても、ほんとに主宰者である神様は、栗の心を知って深い慈悲をかけられている、まことに頭が下がります。
(昭和三十五年六月三十日講話)
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第一六二条 「光は物に即して生じ、物は光によりて生まる。」
それは、マッチすりましても、マッチの軸木だけすりあわせたのでは光は出ませんが、薬がついとる所をすりますと、パッと光ります。そこに熱が起きて、もえ、ついに灰が出来るのです。光というのは、ただ光るだけではないのであって、必ず物に即して発するものです。又、物は光ることによって、ほかの物にかわってゆきます。
泉先生は、何をおっしゃっているかといいますと、これは真言宗でいうところの六大無礙ということを、こういう風にやさしくおっしゃっています。六大無礙というのはわかりやすくいいますと、この我々が目をあけて見る世界のものは、一秒間もじっと居るものではないというのです。日に日に変わっている。固体、液体、気体、すべて日に日に動いておるものだ。又変化しているのです。草木は呼吸するのに、動物が生きていくのになくてはならん酸素をこしらえるのです。あなた方草木が息しているのを見てごらんなさい。水の中へ草を入れればよくわかります。草の青い葉を水の中へ入れてごらんなさい、その葉の裏からぷつぷつと、あわが出て来ます。あれが酸素です。草木は、人間が吐きだした炭酸ガス、あるいは燃やした煙などを、葉の裏から吸いこんで自分の体に必要な物に作って、そして必要のない酸素を外へ出すのです。又動物は植物のだした酸素がなければ生きられません。このために、どこでも青いものを植えとります。これが無ければ、人間は空気がよごれてしまって生活ができません。都会へ行きますと工場などの煙が多くて健康上よくないので、仕事がすんだら急いで田舎の方へ自転車にのって、よい空気を吸いにでよるのをみかけます。ああいうふうに、どうしても生きるのには、煙やごみでは、人間は生きられんのです。で、山などへはいれば、体がよくなるというのは、そこにあるのです。こういうふうに、動植物にしましても、助け合いになっているのでございます。
物という物が、他の物にかわる時分に光がでるのです。土地ができた時分でも、それが光になって、今に星となり、お日さんとなっで残っております。地球とか星、その物から光をはなしとります。物と光というものは、はなれておらんものなのです。お日さんの下で草木が息をして出したものを、人間がまた吸う、いわゆる酸素を吸うのです。すると人間の体に熱がおこってきて、あたたかくなるのです。発酵作用がおこって熱が出るのです。炭酸ガスを外へ吐き出す。それを草木が吸う。この現象も、もとは熱がある所には必ず光がある。それによって万物の成長をささえている。こういう風に両方は表裏しているものだと泉先生はごらんになっているのです。
それで泉先生は、こういうことをおっしゃったことがあります。やなぎの木や桐の木は、早く大きくなるのです。
お日さんの熱をあんまり吸うていないのです。それがために、それらをたき木にしても、もえでがなく、すぐに消えてしまって、やわらかい炭になります。ところが、かしの木とか、うまめの木とかのような堅い木になりますと、なかなか伸びませんために、それらの木はお日さんの光をたくさん吸収しております。それらの木を燃やしたり、あるいは炭にしますと、長くもえ、又長もちがいたします。それは太陽の光を長くうけていますから、長長それをお返ししているのです。あなた方が、日に日に火をたいてよくご承知でしょう。
こういうふうに、物には光がついているものです。光っている所には物があるものだ。こういう訳で、よけい光がでるものは、やはりよけい吸うているのです。ああ人間は、天と地の間に生まれて、そうして天地の恩を知らずに息をして物を食べて死んでいきますが、草木は長くお日さんにお世話なった物は、やっぱりよけいかえしている。
かしの木は長く火をもやし、すみにしても、火持ちがよい。すなわち、お日さんの光に長くお世話になっているがために熱をよけいにおかえししていることになるのです。こういうふうに、火ばちの火一つ見ても泉先生は有り難いものじゃということを考えておいでるので、この百六十二条は何一つみても、お礼がいえるものであるとのお教えです。
(昭和三十五年六月三十日講話)
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第一六三条 「花を咲かせよ、しぼまぬ花を、花もしぼまぬ尊い花は、人里はなれた里に咲く、人里はなれた山に咲く。」
これはたとえた歌でございまして、しぼまぬ花というのはありません。たいていの花は、しぼみます。けれども、ここに書いた花というのは、人間の心の花にたとえたのです。花もたくさん咲くが、しぼまん花をさかせよ。その、しぼまん花は人里をはなれた山に咲く。また人里はなれた、さびしい里に咲くものだということを書いてあるのでございますが、これはあなた方が泉先生のお祭日に、たくさんのお方が津田へお参りにいきますが、あの先生も山の中においでるのでございますが、先生は讃岐においでたお若い時分には、八栗さんへよくおいでていました。それから三十才くらいにおなりになった時分には、大阪の生駒さんへよくおいでになったのです。そして、いつも山へかけ足でお参りなさったのです。あの先生のきれいな心の花です。だれが先生を見ても、お話聞いても、先生がなつかしい。先生、先生と、先生をこがれておいでる人がたくさんございます。この先生の心の花が咲いた。そのしぼまぬ花は、どこで咲いたかといいますと、八栗さんのお山で咲いた。生駒さんのお山で咲いた。津田の松原で咲いた。いつも人里はなれた寂しい所で、その花を咲かしたのでございます。
なぜそういうことを泉先生がおっしゃるかといいますと、たとえば人が多く集まって、どんちゃんさわぎする所ほど雑音が高いのです。何も大ぜいがよって、どんちゃんさわぎするのが悪いとは申しませんが、その中には必ず神さんのお好きにならんことが混じっているのです。山の中の静かな所には、神さんのお好きな状態になっとるのです。
それで先生はいつも山とか人里はなれた雑音の少ない所で、帰命天等はとおっしゃったものです。こういうふうにいつも先生は静かな所をお好きになっとるのです。私、この静かなということにつきまして考えましたのは、岡山から伯備線にのりまして、日本海の方へ出たのです。そういたしますと、「みたきさん」といって、えんの行者さんがおこもりになった山があります。今その山は国宝の山になっとりまして、だれでもはいれません。その山へ私はお参りしたのですが、実にその谷とか岩とかがせまっていて、馬の背とか、牛の背とか、いう名をつけてある所へ行きますともう横みると千じんのがけです。ひやっとするのです。そうしてその上は大きな木がはえしげって、昼もなお暗いというようなお山です。そこへえんの行者はんがこもったんです。何のためにこもったかといいますと、ああいう偉いお方でも町へ出てきますと、どうもその雑音が高いのです。神、仏が好かん声が多くあるのです。で、そのみたきさんでおこもりになった屋敷跡へ私がいておこもりさせてもらったことがございますが、そのお山にえんの行者の投入堂といいまして、大きな大きな山みたような一つ岩の横っばらに、ずっとトンネルみたような穴があいとるのです。その穴の中へ桧の柾で作った立派なご殿が建っているのです。私はもったいないと思うたのですけれども、その大きな岩の横っぱらの穴まであがるのに、なかなかあがれません。ちょうど「雨がえる」がのぼっていくように、岩へぺたんとへばりついて 腹を岩へすりつけて登っていきました。そして、そのお堂が二間四方あるのです。二間四方の家が建つ位大きな穴です。その岩の穴の中で帰命天等をいわしてもろうたのですが、実に自分の声ながら、その声はなんだか、ほら貝のような声になりまして、どうどうというような声になって、今にもその大きな岩が帰命天道はという調子にのって、ころげそうに思うくらい、しんしんといたしました。これは、やはり人がいたこともない奥山の岩の中でごさいますからすなわち、心の花が咲くのです。そういうことを泉先生がおもしろうにおっしゃったのが百六十三条でございます。
ですから、あんた方が何も、神様、仏様は、どこへでも、たのめばおいでてくれるんだと。泉先生は山ばかりでおるんじゃないと、そう申します。けれどやはり、人里はなれた山、人里はなれた野中においでるということは、心の花が咲きやすいのでございますから、その意味でお参りなさることは、たいへんよいということを泉先生がおっしゃったのを私がここへ書いたわけなのです。その意味で、どうぞおひまができたらまたお参りにおいで下さることを、 おすすめします。
(昭和三十五年六月三十日講話)
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第一六四条 「一筋の水の流れも、天人は瑠璃と見、餓鬼は、これを火と見、魚はその中に住みて水たることを知らず。」
見る人によって、ひとつの谷川の流れをみても、四つにみえるというのです。これを宗教では四相観といいます。
すなわち、あなた方ご承知の、あの盆によく坊さんがお話しなさる、餓鬼道のことですが、それはお釈迦さんのあるお弟子のおかあさんが、餓鬼道におちて苦しんでいる様子なのです。そのおかあさんは、立派なお家に生まれた人ですけれども、物を出すのをおしむ、出し惜しみをする、つまり慳貪の罪を犯しておるのです。で、身分は高い方でありますけれども、なくなりまして餓鬼道におちたのです。それで、食べる物を口の所へ持っていくと、それがぽっと燃えて火になる。水でも何でも、そういうふうに火になって飲めない。のどが乾いて、水が欲しや欲しやとあこがれても、どうすることもできないのです。つまり食べるものに飢えておる世界、これを餓鬼道といいます。
餓飢道におちている人に限らず、われわれでも山へ行って、あの谷川の流れのきれいな水を見れば飲みたい気がするものです。まして餓鬼道の人が、それをみたならば、どれくらい飲みたいかわかりません。しかし、それを餓鬼道の人が手にすくうて飲もうとすると、ぽっと燃えるのです。それで餓鬼道の人が谷川の水をみると火とみるのです。
水に違いないのですけれども、自分が罪を犯しておるために、それが火となってのめないのです。
それから又、天人がこれを見ますと、天人というのは土地へおりずに、空を飛んで松の上へおりたり、きれいな松原の天の橋立てというような所へおりるという伝説になっております。その天人は土地へおりませんから、水をしらないのです。天ばかり飛んでおりますから、青い水が流れておるのをみると、これを瑠璃とみるのです。瑠璃というのは、あなた方ご承知の女の人が帯どめにしたりする、あの青い石があるでしょう。それから又、時計のバンドに用いたり、あるいはブローチに使うたりいたしますあの青い水のようなきれいな青い石です。これを瑠璃といいますが 天人が空を飛んでいて、きれいな谷川の水が流れよるのを見ると、水が流れよると思わんのです。ああ、きれいな瑠璃があるとこう言うというのです。つまり、水は水として、依然水なんでございますけれども、天人はそれを土地へおりませんから、水がどんなものかわからんので、ご自分の考え通りにそれを見て瑠璃と見とるのです。
また魚がそのきれいな水の中に住んでおって、およいだり、はねたりしているのを見ますけれども、水をはなれて生活できないのですから、魚はそれで自分の世界が水であるということを知らないのです。ちょうど我々人間が、空気の中に住んでおって、空気があるというのを知らんのと同じです。この空気の厚さは、土地から上へ百二十キロあると言いますが、その空気の重みだけでも、たいした重みなんです。それは、水の柱にしますと六百三十センチの厚みの水で押さえとるのと同じ力でおさえられとるのです。それほど重い空気でおさえられていても、体のぐるりからきとるんですから、慣れてしもうてわからんのです。我々が空気中で住んでいて空気を知らんようなように、魚は 水の世界を知らんのです。我々水の中にいると、すぐ息ができんから、すぐ水というのがわかりますが、魚は知りません。魚は水が自分の世界でありながら水を知らんのです。人がそれを見ると、これは川じゃこれは水じゃ、これは滝じゃこれは海じゃ、と言うふうに、はっきりと水と言うものを見分けております。
ところが迷いの心がありますと、同じ水を見ましても、四相観と今申したように、同じ水でありながら、火と見たり、青い石と見たり、あるいは、それを知らなかったりこういう風にいろいろに見えるのです。これを宗教では四相観といいまして、たいへん大事なことでございます。なぜそんな物が大事なのか、どうして天人が見るのと、餓鬼が見るのと、ちがうということが、なぜ我々の生活に必要なんだとこういいますと、我々の間違っていることを一例あげてみます。
ここに川のきれいな水が流れとるとしますか。そうすると、何にもこの川ということについて、つらい歴史をもっとらん方がそれをみますと、なんでもないきれいな川じゃなあというのです。しかしながら、自分のかわいい子供を川の中へ落としこんで、そうしてその水の中でおぼれたという歴史をもっとる人が、その水をみると、すぐにその水がつらいものに変って来るのです。こういうように、きれいな水ということが思えなくなるのです。
あるいはまた悪いことをして、そうして刑務所へはいれば、その覚悟ができるのでございますけれども、追いまわられて、そうして警察の方に追われている、つけられとるということを自分が知っている場合に、そういう人は、くつの音聞くと、びくっとするそうです。我々はどうですか、くつの音きいたとて、何ともないでしょう。くつはいてきよるなあくらいのことでございましょう。ところが、犯罪を犯しますと、そのくつの音が雷さんよりおそろしいのです。どうですか、あなた方この間の雷さん大きかって、おそろしかったでしょうが、なかなか犯罪をおかすと、くつの音がおそろしくなる。何もおそろしいもないのです。
こういうふうに、ひとつの何でもないことでも、自分が犯したところの罪によりまして、それがつらくなったり、 暗くなったり、いろいろするのでございます。その反対に、何でもないものがうれしくなることもあるのです。うれしくなるということは、何にもつみがないのです。自分はうれしい、人もまたうれしいその笑顔で人におつき合いするから、人も喜ぶ。で宗教は、すべての物をそういうふうに喜びにかえて思わすところの教えでございます。 みてもつらいというてなげいていたら、それは、自分の徳が高まらず、人に対しても悪い感じをあたえると、いうのでこの教えというのは、すべて喜べるように喜べるように考えとるものです。
ところが、ここでお話ししておかなければならないのは、この四相観のことです。四相観はまことに大事ですから念を入れて申しますが、この実相といいまして、ほんとうに物そのものの実態をみるということは、なかなかむずかしいものなんです。えてして自分の心の中にかかっている通りにみえるのです。目で見ることも、耳に聞くことも、何でもないことをつらく考えたり、こわく考えたり、愚知をこぼさんならんことがあるのです。こういうふうに人間として生きている間には苦労が多い。その苦というのは何で出来たのかと、なぜ苦ができたのであるか、その苦ができた基をさがしてみますと、お釈迦様のおっしゃる通り、ものごとわがの好きなものを、できるだけよけい集めたい、きらいなものは、できるだけはねとばしたいという気まえから、苦ができたのです。きらいなものをのけたいというたところで、思う通りのけることができればよろしゅうございますけれども、なかなかのけられるもんじゃありません。
たとえば、あんた方が、夏が来ると、もう病気はいっさいしたくないと思う。だれでもそうです。夏でも冬でも病気はしたくない。ところが病気したくないといったところで、病気せんでいけるとゆうわけにもいきません。そこで、病気をおそれるということになるのです。それは健康ということを集めたいと思うているからです。一生がい健康で生きたいと思っているから、その健康に害がありますと、恐ろしいということになるのです。何も病気というものはそう恐るべきものでないのであって、平気でおればなおりやすい。また時いたって、この世の帳がきえたら、向こうへいったらそれまでのことなのです。簡単なものです。で、簡単にそれをみとる人ほど長く体が使えるのです。 自分のきらいな方へきらいな方へ近よっていて、好きな方へ遠ざかっていくということが、人間の常態なんです。
苦労はだれがしているかというと、自分がしているのであって、人がしているのでございますまい。自分がしよるのです。それなればその自分というものが寝ていると、心配していますか、どうですか。自分というものがきえてしまっていたら、どんなにしても心配でない。頭の上で、ピストルでねらわれたって知らんでしょう。知らなければ何にもこわくないでしょう。知るということは、だれがしっているのか。自分がしているのです。この自分という者がなかったら人間こわいもの、つらい者、何もないのです。
それならば、自分というものはどんなものか、あなた方考えてごらんなさい。自分という者ほど、つかまえどころのないものはないのです。これが自分だというものをつかまえてごらんなさい。おそらくありゃしません。財産が自分か、財産がひとつもないようになってしもうても、自分というもの、きえとりはしますまい。それなら、からだが自分か、それならば大けがして足も手も、もしとれてしまって、胴だけが残っとるというようなことになったところで、自分というものは手も足もないような自分でありますが、やはり元の自分の心のとおり、自分というものは完全なものです。こういうふうに、すべて煮つめていきますと、自分というものはないことになるのです。つかまえ所のないことになるのです。
もしその自分というものを消したならば、苦というものがありません。苦楽はないのです。お大師様がおっしゃった、「迷うがゆえに三界の城、悟れば、すなわち、十方空」です。迷うというのは、自分というものがあると思って、その自分に名誉も、財産も、地位も、生命も、何もかも欲しいもの皆集めよう。自分に集めようとするがゆえに、それが集まらん所が苦になるのです。自分というものは、つかまえ所のないものであって、もともとそんなものないんだと、これは 天とうはんの影だ、と影にちがいないのです。その訳は お話しすれば 長くなりますけれども、これはいつでもお話し申しあげてもよろしい。
自分というのはないのでございます。ということを悟ったならば、もうぐるりは明方であって、何にもこわいものひとつもない。空なもんだと、お大師さんが教えて下さるのはこの所なのです。それで帰する所、苦のないようにするならば、自分というもののありかをせんさくすることです。どこが自分であるかとさがしたら、自分というものはつかまえ所のない、どこにも見あたりません。ところが、「自分というのは、つまらん欲のかたまりじゃなあというのがわかったら、その欲をはなして、神仏につかえるならば、苦がなくなるのです。苦がないと、ここにほとんど神仏に近い心になるのです。もうその苦のないようになった人に、慈悲心さえつけるならば、これはりっぱな仏さんです。そういう人には四相観はないのです。何を見てもつらくないのです。得だとかいって喜ぶものはないのです。
これが百六十四条にかいてある四相観でございます。一生がい暮らすのでも、この実相をみて暮らす。ほんとうの姿を見て暮らすことです。
ただ今私が申したのは、目のことを多くいいましたが、もし耳の方でも、まともに話をなさっとる人のを聞いて、あれわしをひやかしたんじゃ。あれは上手にわしの悪口言うたんじゃ。こういうふうに邪推してかかりましたならば人の話というものは、実におどろくべき悪いことに見えるようになって来るわけです。いかなるお話でもええ方にとるのと、悪い方にとるのと、二つのとりようがございますが、もし悪くとるならば、ひとつもこの世の中はおもしろい話はないようになります。これはためしてごらんなさい。そうなっとるのです。ですからここを自分というものは実にまことに強欲なよいことばかり望んどる性根だ、これではだめだというので、その自分というものを消す工夫をしてごらんなさい。日に日にがおもしろいのです。お大師さんのおっしゃる通り「悟ればすなわち十方空」となんにも心にかかる物がないようになってくる。実にありがたい世の中にかわってくる。すなわち涅槃にはいれるのです。
こういう大事なことを、簡単に百六十四条にひと筋の水の流れというので教えてあるのですが、あんた方もここをひとつ充分お考えになって、ただ今お話しした「苦のもと」はなんであるか。「わが」があるからだと、「我」とは何か、「欲のかたまりじゃ」と、「欲」さえなかったら、我というのは何にもつらいことをすこしも考えやしない。 こういうことが、わかるのですから、これがすなわち、ほんとうの信仰なんでございます。
信仰というのは、金もうけをさしてもろうたり、そんな強欲なことを教えたんでございません。この信仰にはいって、ほんとうの信仰に徹するということになりますというならば、期せずして楽ができます。期せずして富裕にいけます。苦というのがないのです。どんなになっても苦労がない。こういう世界がある。これを出世間と申しますが、そういう出世間にはいれるのでございますから、どうぞこの百六十四条に書いてありますことは、ただの水の流れを見て、いよるのですけれども、これはおおいに考えなければ、自分はほんとうの物見ずして、物のかげをみて、そして泣いたり、笑ったり、怒ったりしよる。これは多いに悟らな一生損だと考えるべきです。たとえ五十年生きても、百年生きても、その間を愉快にせなならん。こういうことがわかるわけです。
そこでもうひとつ、私が大事な所でございますから、念を入れてみたいんですが、それならば一人前の人間というのは、どんなのかといいますと、泉先生のお心から、あるいはお大師様の御教えからお話してみます。この一人前の人間というのは、まず第一に人に害を与えない。生きとる間に人を困らせない。人に害を与えないということが、条件の一つ。その次には、自分は自分の立場を自分で作っていくということです、そうすれば、どうしても働かないきますまい。働かな、家内や、子や、孫を苦労さすでしょう。その責任を自分が負うのです。まず生きていく道を安定することが第二の条件。第三には、衣食住が楽にできた家は、無事におもしろうにいけるようになったと、こんなよい工夫があるのに、これをわしが一人考えているのはいけない。これは皆に話して、お互に手をひいて助け合いでいかないかん。この三つのそろったのを一人前といっています。どうですか、しよいでしょう。何にも無理なこと一つもない。信仰というのは、これがほんとうの信仰なのです。 世の中にこのごろ新興宗教というのがたくさんできまして、いろいろなことをおっしゃっていますが、一人前の生活ができる方から見たら、実にあわれなこと言いよりやしませんか。わがだけの幸福を祈って、先祖までたたきはろうてしまう。神仏までも、無視するというような教えをするということがあります。
今申したようなことできる人が一人前です。まず人に害を与えない。まず自分が働いて自分が食う。第三番目に、余力ができたならば困っとる人を手伝う。互いに手をひいて助け合いでいこうと、こういう事が考えられる人が、これが一人前なんです。どうですか、これが泉先生の教えの中心です。
お大師さんがありがたいというたところで、この三つをのけてごらんなさい。お大師様の教えは、ほとんどないようになってしまうのです。この三つのことを教えようと思って、お大師様が ご苦労なさった。先生がご苦労なさった。それでこの百六十四条は四相観と申して大事ですから、どうぞひとつ色々な方面で例をおいてお考え下さい。
(昭和三十五年七月十五日講話)
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第一六五条 「要求は空より有を生ず。要求は力なり、光なり。」
要求というのは望むということです。自分がこうなりたい。ああなりたいという望みでございます。これは何もない所へ物をこしらえてくるというのです。「要求は無より有を生ずる」とも言いますし、「空より有を生ずる」とも言いますが、これはまことに簡単なことですけれども、大事なことでございます。 これは前にもお話しいたしましたのでございますが、泉先生のお話をとっていいますと、あの「いか」という魚が海の中におるのです。ご承知でしょう。いか、たこ、これは骨がございません。軟体動物で体は肉ばかりでございます。それだからほかの歯のはえている魚によく食われるのです。たこは足が八本あるのに、食いきられているのがよくあります。いかでも手をくい切られとるのがよくあります。八本そろっているのはなかなか少ないのです。
骨が無くて柔らかいから、他の魚からよくねらわれるのです。そこでたこや、いかは考えたのです。あー、わしはどうも、けんかするのにまことに弱い。逃げるといっても泳ぐのにおそい。それから、歯といっても、かみあいする歯でないし、自分が腹おこすために物食うくらいの力しかない。こういう風に考えてみると、どうも自分くらい弱いものはない、そこでこう考えた。これはとても、けんかしては勝てんのじゃ。どんなにかして敵が追うてきても、すーっとかくれて身を守ることができないものだろうかと考えたことでしょう。人間が考えるような考えではありませんが、ややそれに似た望みがあったのに違いないのです。そういう望みをいだいて、子や孫と何代かの長い年月考えたあげくあのくろべを身にもつことができたのです。あれを学者が研究したところによりますと「くろべ」くらい水にとけやすいすみはないそうです。あなた方が字をおかきになるあのすみをすって、あれを水の中へすててごらんなさい。なるほど水は黒うなりますけれども、あのいかのくろべや、たこのくろべほど広がりません。もう実にぱーっと広がるのが早い力をもっております。とけよいのです。そのまっ黒なとけよいしるを、どうして体にもつことができたかということです。あのすみきった塩水の中での食べ物の中には黒いものありません。どうしていかが、それを製造したかといいますと、いつも、身の安全を念じていたために、たこや、いかは天道さんから、すみしるのえん幕をいただいたのです。今、煙幕というもの、戦争の時などに使いますが、さあーっと煙でそこらあたりわからんようにしてしまうのです。いかが出す黒べも、そのとうりです。つまりわしは弱い体じゃというので、なんとか無事に生活ができるようにと、それを望んで望みきっていたため、天からめぐまれて、ああいうのを体の中にもつことができたのです。一度いかや、たこを料理した時分に、くろべはどこにあるのか包丁で割ってみてご覧なさい。わずかしかもっておりません。ところが、それをつぶったら、もうそれこそ始末が負えんくらい広がるのです。こういう自分の姿を消す工夫を、天道はんからいただいたのです。 これをみても、あんた方が願をかけないと損じゃということがおわかりになるでしょう。どうですか、神さん、仏さんに強く願かけるのです。するとその願は必ず成就します。しかし願かけとる間に、犠牲を払わなんだらきいてくれんのです。代償というのを払わなければ、神さん、仏さん聞いてくれません。それなら、どんな代償かと申しますと、代しょうにもいろいろありますけれども、大事なことは、「おこる」ということと「欲」ということと「愚知」をこぼすという、この三つを生活からのぞかなければいけません。その欲をのけるためにお接待という施業をするのです。つまり貪、瞋、痴の三つをのけておかないと望みがかないません。それさえなかったならば、望みは必ずかなうのでございます。そういう風に、信仰をたこやいかから、泉先生は天下の真理を考えだしたお方でございます。
こういうことを感心して南無泉聖天さんといって三毒をすてるならば、必ずかなうもんであるということを信じて間違いありません。
(昭和三十五年七月十五日講話)
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第一六六条 「天は円きものを好む。」
てんとはんのお仕事というのは、人間の想像もつかんところの大きな仕事でございまして、近時は科学が非常に進んでまいりましたので、その状態がよくわかるようになっています。これもお釈迦さんの時の宇宙観といいまして、この世界のことをお釈迦さんがごらんになっているのをみますと、実にお釈迦さんの目は達観です。三千大千世界というような事をお釈迦さんがおっしゃっとりますのは、このお日さんを中心として、月とか、地球とかがくるくるまわっているのです。これは太陽系、つまりお日さんを中心とする一つの世界。こういう世界が三千そろうたのが小千世界という。その小千世界が三千集まったのが中千世界、その中千世界が三千集まったのが大千世界とお釈迦さんがおっしゃっているのです。これをみますと、お釈迦さんの眼光というものは、実に偉大なものであると私は思うのです。あの台風といいましても、二○○キロからある幅の大きな風がまいまいするのですから、なるほど大きな仕事とは思いますけれども、これはただ一部分の地球の上の風がきりきりまいしておるくらいのものでありまして、宇宙というものから比べたら、ほとんど顕微鏡でみんならんような小さい仕事でございます。こういう大きな世界、目もとどかないこの大きな世界。そこへぽつんと人間が生まれてきて、そうして宇宙の真理を仏教を中心とし、述べられた偉い人が、すなわちお釈迦さんなんでございます。
この風が吹き、日がてり、水が流れるという現象は、昔からもう未来永久に一糸乱れず、続いていくわけでございます。決して昔も今も変わりはないので、人間はいろいろのことを発明はしますが、製造したことはないのです。
今日の原子学とかいうものができまして、大きな仕事をやっております。すなわち、一発の弾が破裂するごとに、 何十万というところの人を殺すこともできています。これは、宇宙の働きということから見れば小さいものであります。この原子学、原子の働きというものも昔からあるのです。何も人間が製造したものではありません。こういうふうにみていきます事を宇宙観というのでございます。泉先生はああいう学問も、なにもお持ちになっとらん方でありましたけれども、おっしゃることがなかなかおもしろいのです。
「天はまるいものを好む。」これは泉先生がおっしゃったのですが、「天とはんというのは丸いものを好む。」ということを今日お話しするようなことになっとりますが、泉先生もそういうふうに別に宇宙学とか、天体学とかいう勉強はなさっとりやしませんけれども、おっしゃることが、お釈迦さんに似とるのであって、天地自然の物は、皆、まるいんじゃ。だから人間は角い世わたりをしていたらだめだ。まるくわたらないけないということをおしえておいでるのがこの百六十六条でございます。
一本の木を切ってご覧なさい。切り口が角い木はありはしません。皆丸いです。それから鳴門海峡に「うず」がよくまきますが、うずがまくというたところで、かくいうずはありません。動いたらまるうなるのです。それから、雨がふって、つゆが下へおちるのでも、これ三角や四角のつゆありません。皆まるいのです。花が咲いても、皆丸い花びらが、五角形や六角形のもありますけれども、だいたいにおいて五角や六角というのも、へりはまるうなっているのです。ほとんどすべてのものは何もかもまるい。科学の理屈はまちごうとりやしません。表面張力という働きによって、何もみなまるうなるんだ。それはそのとおりであって、つゆがまるいとか、あるいは花びらがまるいとかいうことは、なるほどその学問の理屈はそうでございますが、なぜそうなった。なぜそういうことになった。表面張力というのはどうしてできたのかといえば、その学者はよう説明せないのです。これが宇宙の真理というより仕方がないのです。
泉先生もそういうことにお気がつきまして、これは私が聞いたのでございますが、「村木さん、てんとはんに三角や、四角の物ないんじゃ、自然のものは皆丸いんじゃから、どうぞ人間は三角や四角の考えせんように、まるい考えでおつきあいするのがええ。」こんなこというたのがこの百六十六条でございます。天は丸いものを好むから、人間はまるく考えていけよと。こういう訳なのです。これは聖徳太子が申します、人間の一生は和をもって尊しとなす。
丸くつきおうていくのが一番尊いんだ。こういうふうに聖徳太子さんがおっしゃっとるのもそれなので、泉先生は、こういう学問もなにもなさっておりませんけれども、天とはんの働きというものは皆まるいんじゃ。角な物ひとつもないんじゃ。これが天の法則なんじゃから、人間丸うにいかなんだら滅びるぞとおっしゃったのは、このことなのです。
このやみの夜に星が出とります。あの星の出ておる所へ写真のレンズをあけて、そして写真機を上に向けておくのです。あの星は、じっとおるんかと思うたら、じっとおりません。皆動いとるのです。お日さんや、お月さんといっしょに、東から西、東から西といつも動いて丸うに円をかいているのです。それが写真にうつります。線ひっぱったように写ります。こういうふうにすべてが丸いのです。こういうことに泉先生がお気がついとるということは、不思議でしょう。えらい方はこんなものです。理論なんぞけいこせなくても知っておいでるのです。
どうぞ、理屈言えばいくらでも理屈はあるのです。人間の一生には、あれはええ、あれは悪いとかなんとか、かんとかそれに理屈をつけますけれども、まあ悪いこともあり、ええこともあるでしょう。あるでしょうけれども、泉先生のおしえというのは、円く人と争わんようにせよというのです。これが一番上手な生き方ぞとおしえたんで、いかにもと私は思います。で、この百六十六条は、天は円いものを好むのであると書いてありますけれども、泉先生のおっしゃったお話は、天は円いものを好むんじゃから、円うなれとおっしゃったのです。
(昭和三十五年八月十五日講話)
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第一六七条 「いつも心にくもりなく、明るくあれ。」
第一六八条 「暗きは天に反するか、望み小なるによる。」
この二条は同じことでございますから、いっしょにお話しいたします。たるでも、ひょうたんでも、器はその中へいれるものによって色もかわってくる。強さもかわってくる。こんなことを先生がおっしゃったことがありますが、 それとこれは、よく似ておるのでありまして、心にくもりがあるというと、明るくなれないのです。そうでしょう。
あなた方が、心の内に何かご心配がある時に、はればれしくお話しもできんでしょう。なにやらくもりがちになってくるでしょう。それで心の中に暗いものをおくなと先生がおっしゃったのが百六十八条です。
それからもう一つ、また百六十八条にかいてあるのは、望みが大きかったら、くもらんのじゃというのです。
これもなかなかおもしろいいい方でして、この真言宗では坊さんが、ご本尊の前であげとるあの理趣経という、ありがたいお経文があります。あの理趣経に書いてあることをみますと、望みが小さいからいかんのだということになるのです。望みが大きくなったら、悪いものないというのです。そんならここにおこるということです。おこることはいけないことになっております。貪、瞋、痴の瞋でございますが、ただ小さいおこりようがいけないというのです。大きな望みでおこれと、こういうことになってきますと、これは理趣経に書いてあるのです。お坊さんが仏前でいよります。セィセィクウシイホサエというのはあれなのです。望みが大きいとおこるということが、おこったことにならんのです。それがお不動さんなのです。どうですか、お不動さん、目をむいて歯をくいしばって、剣引き抜いて見てもこわいようなお姿でおられます。けれどもこれはおこっているのじゃないというのです。おこりが大きいからおこっているんじゃないというのです。
どういう訳で大きいかというと、人を教育するのに困らせてしまわなければ、その人が助からん。この時分に、いわゆる「ばち」をあてる。ばち(罰)あてるんじゃありませんけれども、つよくばちをあてたようにみせるのです。
その実お不動さんの心のうちはどうかといいますと、かわいそうなから、ため直してやらなければもうつまらん。
地獄へおちこんでしまうから、おどろかして、こまらせて、そして誠の道へ出してやろうとするところの慈悲のおこりとこういうのです。そのことをこの百六十八条に書いてあるのです。
大きな望みでせねばいかん。暗い心でするということは、自分の小さいわがを満足させようとすることになって、心が暗いのです、それは小さいことです。これは静かにあなた方がお考になったらわかりますが、自分さえよければ良いという場合の考え方をしている人があったら、必ずくらいのです。なんとなしに晴ればれしくない。朗らかでないのです。お釈迦様や、お大師様は実にはればれしいお顔をなさっております。そして、はればれしいというたところで、じゃらじゃらなしてはおりません。きまっておいでるのに、なんとなくはれやかで、おそでにでもすがりついていきたいような、なつかしい、はれやかな気持をなさっております。これはどうしてそうなるかといいますと、大きいからです、望みが大きいからです。
ここにおもしろいたとえがあるのですが、仏様のおこるというのは、おがんでもろうたら、たたっとるとか、さわっとるとか言いますけれども、もとは大きな金持でありましたが、今は家の運が悪くて、暮らしかねているような、お家があるのです。これは現に私が若い時分、泉先生の所へお参りさせていただいていた時のお話です。お名前を言うことは遠慮して置きますが、その金持のお家でありましたものですから、とても大きなお墓があったのです。
あるとき、墓石屋がそこへ行きまして「だんなさん、誠に失礼でございますけれども、うち方のあのきざんであるお墓ようできとりますなあ。立派な墓石です。」「失礼な言いようしますけれども、お金にでもしたらたいへん高うに売れますね。」石屋はなにげなくこういったのです。するとご主人が「あっそうですか。」「どれくらいねうちのあるものですか。」「どれくらいって、まあだしてみなわかりませんけれども、とてもよくできとりますから高こう売れます。」どこのお寺さんにも立派な墓がぼつぼつあるでしょう。そのような立派なご主人の墓であったのでしょう。石屋にいわれて売る気になったのです。さあ、これが大変悪いことです。ご先祖がたててあるところのお墓を売ることになったのです。
夜になって、車につんで石屋さん所へもっていく途中、向こうから星あかりですかしてみると人がきよる、道は細い、困ったなあと思っているうちに、車のわがどてからはずれて、川の中へころげこんでしまいました。車とともに墓石をころがしこんでしまいましたので、そこで人が通り過ぎた後で、車だけを引っぱりあげて帰ったのです。お墓は、ゆる口の深い所へ沈んでしまったので、引きあげるわけにはいきません。そこで、そこのご先祖がおこったのです。これは、ゆいしょあるわが家であるのに、代々お国のためになって、名高い家であるのに、こういう不都合なことさしては後々家の歴史をけがすというので、それでご先祖がおこったのです。どういうおこり方をしたかといいますと、そこの若主人が草刈りに行って水見たとたんに、あわふいてひっくりかえってしまう。昔からよく言います、あの恐水病って。水をみたらそういうふうにひっくりかえるのです。水てんかんともいうそうです。そこのご主人は、人から便があって、つれてもどるということがたびたびあったのです。そこで、うちの若いし(若者のこと) 水みたら、はねかえる困ったものじゃ。お医者にみせても直らず、薬のききめもなく、どんなにしてもよくならないので、泉先生のところへおたのみにいったのです。
先生は心よくおうけして、いつものように「帰命天等」を言いまして「おじさん、お前さん所のお寺はんにすわっていた仏さんがあるんじゃが、どうですか、あるかい。」さあ肝うたれたのです。ご主人が「へえ」「へえっていうたっておっさんみえんじゃないかい。」「へえ。」「へえではいかん、お前さんところのわかいしは、水みたらはねかえりよりやせんのかい。」「先生、水みたらひっくりかえるのでございます。」「よう考えてみなされよ。あんた所の墓地にある仏様が、水の中にはいっとりゃせんかい。」「先生、恐れいりました。」「どうしたんで。」「ええもうお恥ずかしいことで、」「あっ、こちらから言うたげる。この仏さんは、おまはんが川の中へほりこんだんではない。貧苦の悲しさで、お言い訳して車につんで売りにいく途中ひっくりかえしたのが、水の底にあるぜ。それをほってあるものじゃから、仏様がおこっとんでないで。さわっとるんでないで。おまはんところのこの家柄の家に、そういう仏を売るんじゃとか、いう者をつくっては家の名誉にかかわる。それで、おまはんに悟れよ、悟れよといって水みたら倒れるように、わかいしをつくってあるのに、おまはんそれが悟れんとはどうしたんなら。」といわれたのです。そこでご主人はびっくりして「ああ先生、ほんとうに仏というものは ありがたいものじゃ。ああ助けられました。すぐひきあげます。私が悪うございました。」といって先生にあやまっていとまごいをしてかえりました。私はそのとき、いき合はしておりました。ご主人は、さっそく苦労して水の中の墓石をひっぱりあげて、もとの所へ車につんですえたのです。たちまち、わかいしの病気がなおったのです。ご主人は涙ながらにお礼にきておりましたが、このお話なども、ただ今私がもうす百六十七条と八条とに書いてありますとおり、心にすまんという心のかげがあり、心の中に暗いものがあるのです。そしてまた、望みがわずかのお金にあるのです。家を運よくしよう、偉い子供をこしらえようなんて大きな望みがない。ただわずかばかりの金がほしいという、望みが小さいためにそういう罪悪をおかしたわけなのです。
ところが仏様は「天はまるいものを好む。」決してわが子孫をいじめたり、こまらしたり、とりついたり、そんなことするのでありません。大きな望みを仏様があたえ、この家のものを未来永遠に助けて、偉いものをつくってやろうとするための手段として、目をさまさすためになさったことであります。ところがご主人が気がつかなかったのです。ここです、泉先生のような偉いお方が、今お話申したような順序で、み仏の慈悲深い心をご主人にうつした。
ところが、ああ、やれありがたやと、おこられて、ありがたやといってとんで帰ったんです。これが「無上甚深微妙の法は百千万劫にも遭い難し。」というのと同じなのです。
この不思議な仏さんの教育なんていうものは、ふつうでは百千万年まったとて会えないものなのです。ところが、泉先生のようなお偉いお方が、この世に生まれたために、わしは今、それにおうたんじゃと、ただそのわずかな時間の間に仏さんの偉いことを覚えた。我、今見聞受持したというのはそこなんです。で、願解如来真実義、すなわち仏様のお慈悲深い心を、ご主人は先生のわずかな時間のお話で、さとることができて、ああ悪うございましたと、ざんげし、涙ながらにあやまって、その仏を、またもとどおりおまつりしました。すると、たちまち、わかいしがなおったというありがたいおかげを、親も子も受けたのです。そのことからもう何十年にもなりますので、現在のその家のようすは知りませんが、たぶんお出世なしとることと思います。
こういうふうに誠に神さん仏さんは、もう人間を助けよう助けようとなさっているのであって、決してさわったりたたったりはしません。そこを勘違いしたら、大きなおかげをとり逃してしまうことがあるのです。泉先生が実にお偉いのはどこにあるかといいますと、ここにあるのです。
決して、神、仏は「さわらん神にたたりなし」なんて、人間におじられるような教育はしません。泉先生は、誠にご親切な、ありとあらゆるやわらかな、まるいお言葉で仏のみ心を人間に植えつけるのです。そうして一生がい、大きなおかげをいただける道をおはなしになっております。それが百六十七条と百六十八条です。
(昭和三十五年八月十五日講話)
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第一六九条 「事実は何ものよりも強し。あの卵の黄みの頭尾も弁ずるものなしといえども、なきにはあらず、人の知らぬだけである。」
たまごをわってお皿へでも入れてごらんなさい。外まわりにすきとおったものがあって中には、きみがあります。どんな学者がしらべても、どこが頭になるか、尾になるか足になるなどわかりますまい。けれども、ないのでないのだ。天とうはんはちゃんと、こしらえてある。それをあたためて日がたっていくならば、必ず尾になるところは尾になり、頭になるところは頭になる。ちゃんとそれが分かれて、立派な生きものができてくるのです。
こういうふうに、天とうさんのお仕事というものは人間の知恵ではわかりません。近ごろ学問が進みまして、だんだんそういうことがよくわかるようになってはきていますけれども、天とうはんのお仕事、すなわち真理は、未来永久な問題があるわけです。おすや、めすなどしらべることはしだいと上手になってきましたが、生命をうえこんであるということは、とうてい天とうはんよりほかになさる人がないのです。泉先生は、いつもそういうことをお気にかけておるのです。それから夏、せみがよく鳴いとりますが、あのせみは生まれて、わずかに土用中いきたら皆死んでしまうのです。わずかな命です。けれども幼虫として土の中におる間が非常に長いということです。 それから夏の蚊ですが、あれは手水ばちにわいとるぼうふらが、水の中泳ぎまわっているでしょう。それに月日がたってくると羽のはえた蚊となってでてくるのです。そうして空を飛ぶのです。これだれが教えたのですか。親が教えたんではありません。天とはんが教えたのです。神、仏が教えたのです。こういうふうに知恵というものは、あの虫の中に空飛ぶ知恵がこもっとるのでありますが、それを知りません。虫そのものも知らないのです。けれども時がきたら自由自在に結構飛ぶ。こういうふうに、てんとうはんのお仕事というものは、誠に人間の知恵ではわかりません。泉先生は蚊を見ておがんだりするのです。ちょうをみて拝んだりするのです。「先生、どしてあんな虫におじぎなさるのですか。」と尋ねると、先生はこうおっしゃるのです。「あれは、幼虫の時に水の中におったり、又土の中におったりする時分に、空飛ぶけいこやをすこしもしていないのに、かえるとすぐ空をとぶ。あれは神仏のおちからをいただいているおかげであると思えば、ああ神さん、仏さんはありがたい。あんな小さな虫にいたるまでも助けておいでるのだなといって、わしはおじぎするのです。」と、先生はそういう信仰のしかたです。誠にゆきとどいた先生のお考えです。
又、桜の木をおので割って見ても、どこにも花の色も、葉の色もみつかりません。しかしないのではありません。
あるのです。季節が到来いたしますと、みどりの芽が出ます。そしてすぐに花が咲きます。こういうふうに天とはんの仕事というのは、人間の知恵ではわかりません。ただもったいなさにうたれ、おじぎするのが一番ええんだという先生の教えなのです。 どうぞ、泉先生のご信仰にまねた信仰をなしていただきたいと思います。」
(昭和三十五年八月十五日講話)
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第一七〇条「我という化物見たか米と金」
「我」すなわち「自分」です、この個人の「私」「我」というものは、どこでできたかということを、昔からやかましくいうんでございますが、この我というものを、さがしてみますと、あり場がわかりません。どこが自分だろうかと、皆さんこれをご自分でにお考えなしてごらんなさい。皆めいめいに自分、自分といって、人と自分とを区別しております。その自分というものは、どこが自分かと、これはよく私が話しするんでございますが、すなわち、我です。どこが「我」かと一つつかまえてごらんなさい。つかまえられるどころでありません。「財産」「地位」「名誉」その他すべての物、おしまいには自分の体まで、「我」かというたらそうでない事が、よくわかってくると思います。これはいつも申すんでございますが、だれでも体がわしじゃと思っておりますけれども、それは間違いでありまして、自分の体がやせていた時も、よく太ってきた時も同じことで、我というのは、そんなに太るものではありません。けがしても、我というものには、けがしとりやしません。やはり我なんでございます。
そうすると、自分の体なんて言うものは我でもないと、むろん財産とか、地位とかいうものも我でないと、こういうふうに、我というおり場をさがしてみますと、どこにもないのです。それでも我というものがあるように考えている。それをよく詮索いたしますと、結局「欲だ」ということになるのです。欲の性根が自分である。それで「我という化物見たか米と金」こう書いてあるのです。米とか、金とか言うのは財産です。その財産を欲しい欲しいと思う。 だれが欲しいのかというと、我が欲しいんじゃという。そういう欲が積み重なって、自分というのがあるように思い出したのです。ほんとうの自分というのはないのです。
ないという証拠を申しますと、たくさんなことございますが、まず第一例を申し上げてみますと、仮に今から何億年も昔に、人間というもの無論あろうはずがございません。もう犬猫も、そんなものおりません。木も今日のような大きな木や竹はありません。ただ見渡す限り、ぼうぼうたる荒れ野原です。なんにもない泥ぬまのぶくぶくした地球であっただろうということです。その時分に、はじめてこの土地の上へぽっつりと生まれて、目にも見えない小さい虫、それが我々の大ご先祖とおかなければならんことになります。その虫は、単細胞動物といいまして、顕微鏡で一、○○○倍くらいに見ないと正体がわかりません。それも丸い中に、ちょっと、しんが黒く見える。その妙な一つの細胞を一千倍に見て、ようよう米粒くらいにみえますが、これが我々の大ご先祖でありまして、おすも、めすもないのです。それが二つに分れてふえていくのです。これが一番最初の生き物。この生き物にどうですか、我というものがあろうはずがないのです。おすもなければ、めすもない、子もなければ、兄弟もない。ただ二つにわれていくものであって、ものに欲があろうはずがない。それが次第と発達しまして、細胞がたくさんふえて、一つの体をつくる。 すなわち、もとは単細胞動物である。たくさんな細胞がふえて、一つの体をつくる。そうなってきますと、つぎは枝が二つにわれて、からだがふえていくようなぐあいにはいきません。細胞がたくさんでございますから、手もあり足もあり、耳もあり、鼻もありというものが分裂したのでは、しんでしまいます。それで繁殖のし方が違ってきたのです。このふえ方が、すなわち、おすめすのはじまりなのです。そうなりますと大変な欲ができてきますから、その欲が積み重なって、わし、わし、一つにわし、二つにもわしなにもかも、わががうまいこといくようにということが、もとになりまして、そうしてありもせんところの、我がというものがあるように考えてくるのが、これが初まりなのです。すなわち、われというものの正体をみましたならば、「欲だ」ということがわかるのです。
一番最初のご先祖には欲ありません。あろうはずがない。単細胞動物ですから、こういうわけで欲ができてから、我がという性根をつかいだした。そうした性根を大昔から積み重ねてきたので、今日、欲そのものが「我」という自分をつくったことになってしまったのです。これは、お互いに考えてみますと、我がというのがあるように思うのですけれども、さがしてみたらありません。ほんとうに我がというのは、わるいくせがしみこんだのが我がということであることがおわかりになると思います。
それから、こういうことがあります。子供が生まれます。生まれた時には、誠にかわいらしい、お地蔵さんみたような顔しています。それが次第、次第と年とって、ひねてくると、鬼に近よってくるのです。だれでも小さい時はかわいらしい。しかし我がという性根をつよく使い出す。よく使うほど、顔がむずかしい顔になって、ついに鬼みたような顔になるという。ですから、我というものの正体は、欲ということがよくわかるのです。もし欲がなかったら、 年がよっても、しわこそよれ、子供みたようなあずない顔でおれるはずです。それが、えらいことむずかしいしわがよって、見てもおそろしいような人相になるということが、すなわち、我がというものに、しわがよった訳です。
それで百七十条は「我という化物みたか、米と金」とこういうことになる訳でございます。
(昭和三十五年八月三十一日講話)
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