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第一五二条へ 第一五三条へ 第一五四条へ 第一五五条へ 第一五六条へ 第一五七条へ 第一五八条へ 第一五九条へ 第一六〇条へ第一五一条 「すべての物は神よりの預かり物であるから、神の御心に従って使わねばならぬ。」
これは、不生の原理でございますから、すべて生物だと、いうことになりますと我々も、竹も、木も、これ兄弟分になる訳です。身内でございます。石も土も、これ皆、身内でございます。そこで宗教というものは、ほとんど生き物として念じております。
ご覧なさい。土地でも地神さんと言うでしょう。水でも、水神さんと言うでしょう。三宝荒神さん。こういう風にすべてを生き物として扱うております。又、それに違いないのです。不生で有りますからして、元、先祖が一ツであるということならば、我々の身内なのです。何一ツも死んで居る物はない。そうして我々、人間は、お世話になっているばかりです。それですから、すべての八万四千の、神・仏ということを念じているのはこのことなのです。
そういうことから考えますと、我々のこの体というものも、宇宙の神様の預り物です。 ビルシャナ仏の預り物です。新宅です。ですから、これを使うのに、人間根性の欲で使うたならば滅びてしまいます。 今日あんた方がご覧になればわかるのでございまして、地獄、餓鬼畜生から、仏までの間の十階というものを区別してみますと、はっきりとそれがわかります。この百五十一条には、神の心に従うて五体を使わないかないと、こういうことを書いております。言い換えましたなれば、教えの通りにこの体を使うたならば、体は強いし、出世はするし、人はたすかるし、もうこの上ない極楽世界が出来るということになる訳です。そこでこの百五十一条等は大変意味が広いのでありまして、ただ今申しますように、人間根性と仏性を、二ツ持っているのでございますから、いかなる悪い人でも、いかに物事を知らぬ人でも、仏性は同じなのです。なぜならば、生まれたのでない。不生でございますから、先祖は皆一緒です。その一緒の先祖から力を引いておる我々です。
偉い人と、偉うない人と、何がそれでは違うかと言いますと、仏性は同じであるけれども、人間の力が違うということになる訳です。で、ございますから、人間というものをみがいたならば、仏性は同じでございますから、みがけば、みがいただけ同じこと光って来る。
こういうことになるので、簡単に神の心に従って、使わねばならぬと書いてありますけれども、それをよくよくせんさくしてみますと、大変な真理が含まれているのでありまして、仏性を大事にしろ、神様からの預り物だから大事にしろ。これは天地に通うとる所の力、それを仏性と言うんだからして、その仏性から言うなれば、いかなる悪い事する人でも我々も同じ先祖です。ここで拝み合いの生活というのが始まったので、一燈園の西田天香さん、あの方の教えぶりもそうなんでして、拝み合いの生活をしろと言っております。弘法大師もそうおっしゃっております。
あなた方、お四国へお参りにおいでた方、だんだんとおありだろうと思いますが、ほんとうにお四国まいりしている人同士は、互いに拝み合いしております。これは、私折々見ますが、何を拝みよるのかと言いますと、これはお大師様の化身かもわからぬ、というように考えてもおるし、又たとえ人間が悪うても、その人の心の奥には仏性という神・仏の位の力を持って居る。であるから、その仏性を拝み合って通るのが、ほんとうだ。こういう解釈している人もあります。いずれにしましても、この仏性さえ、みがき出すならば、世の中は極楽になってしまう訳なんです。
つまりこの人間は不生だ。生まれておらんのだ。これが元になる訳なのです。
それで話が後へ帰ります けれども、国替えをする時が押し迫って来ますと、仏性が光るんです。これは あんた方だんだんそういうことを、聞いたりご覧になったことがあると思いますが、実に人間の考えから言いますと不思議な力が、現われております。その不思議な力が、ほんとうの人間の仏性なんです。人間の力はまことにほとんど何もないのでありまして、物を造り出すとかいう力は有りません。出来ている物を人間が使うということしかようしないのです。
たとえてみますと、あなた方お百姓の方が多いと思いますが、あなた方が、お麦をお作りなさっても、あるいは、お米をお作りなさっても、これは土地へ種を落として、そうして芽を出して、花を咲かして実を結ばすお世話をなさっておりますけれども、あなたが麦一粒もようふやしておりません。お米一粒も製造なしておりません。つまり土地の力によって、そうしてその種が発育して、それから花を咲かし、実をふやしていく、人間は何をしたかと言うと、何も製造しておりません。ただ、お世話をしたというだけのことです。その元の力は、どこに有るかというと、宇宙にある。すなわち、神様、仏様の力なのです。こういうことを考えますと、人間がわしは偉いということだけはやめて、すべて神・仏のお世話になって居る神・仏の力をのぞけば、人間は生きられないのだとけんきょにかまえるのがよろしい。
今日は非常にむつかしい議論をしたようですけれども、泉先生は学問なさっていませんが、こういう深い真理を、お悟りになっていたのでございます。誠にお偉いお方と思います。
(昭和三十五年 五月十五日講話)
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第一五二条 『人が生きるのには「息をする。」「食う。」「働く。」の三ツは欠ぐことは出来ぬ。人が信仰するには、「祈る」「神の心を知る。」「行なう。」この三ツは大切なことである。』
人が信仰しますのには、まず第一に、神、この神さんのお姿、心というのは、どういうものであるかということを知るのが、一番大事なことです。これを知りそこないますと、大変間違った信仰になる訳です。つまり欲の神さんみたようになったり、あるいは悪魔の神さまみたようになったり、あるいは気の狭い人間になったりいたします。 正しい信仰でありましたなら、迷いません。それから次に、その神さんということがわかりましたならば、私はこういうことがしたいのでございます。「こういうことを望んでおります。」といえよう。願を掛ける、ということが、信仰には必要なんです。所が願いましても、それがどうしてかなわないかと言いますと、それには「行」というものが必要なんでございます。神さんの御心がわかりましたなら、その神さんの御心に従うような行をしなければかないません。弘法大師は「凡そ、生きとし生ける者に願なき者は有らじ、願有りといえども、行たらざる故に願かなわず。」とおっしゃって居ります。ちょうど、そのおことばのとおり、せっかく神さんに、こうしていただきたい。ああしていただきたいと願をかけても、その神様の御心を知って、そうして、その御心にかなうように、こちらが行をしなければ、お陰が無いということなのです。
この神様を知る。祈る。行をする。との三ツは、人間が生きて行くのに、息をする。息をしても腹が減っては、死んでしまうから食うということ、食うためには、働くという事が、なかったならば、長く続かん。それで息をする、食う、働くと、この三ツが必要なようなもので、信仰には、神さんを知る、祈る、行う。この三ツが必要だと、こう先生がたとえてお話をしてこられておりますが、誠に先生のお話の通りです。皆様、お考えになってご覧なさい。この頃、色々な新興宗教が出来ておりますが、その新興宗教にいっている所の神さんとは、お釈迦さんの教えている神、弘法大師が教えている神、あるいは泉先生が教えている神、そういう神さんと、まるっきり性質が違う様なことを言ってはおりませんか。
こういうふうに、どうぞ神様というのは、誠に全智全能この上もない、人間から言うなら、偉いお方に違いないんでございますから、ここを間違いないように。先生は、それを迷うたら、大変な根本が違うからというので、百五十二条を教えて下さった訳でございます。それでは祈るということはどんなことか次の条に書いてあります。
(昭和三十五年五月三十一日講話)
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第一五三条 「祈るということは、讃美。感謝。懺悔。懇求の四つである。」
祈るという事を分けますと讃美、感謝、ざんげ、懇求の四ツに分かれて来る訳なのです。泉先生は、中々よくお考えになっているのでございまして、まず「ほめる」ということはおわかりになるでしょう。たとえば弘法大師は、お偉いお方であった。 泉先生は、お偉いお方であった。これはほめること。すなわち讚美です。その讚美がないと人間が慕うて行けないことになる訳です。慕うて行くもとが讚美です。その次に感謝です。今まで知りませんでしたが、助けて下さっているということが今わかりました。これは感謝です。私はどうもこういう悪い事やりました。と懺悔いたしますから、どうぞ私の願いを聞いて下さいというのが願です。この四ツが必要だと、そういうことになっております。ただ拝んで居るというだけでは、祈るということにならないのです。
願いというのが無くてはいきません。これは、口でいちいちお願を掛けなくとも、心で願っていることは、神様にわかっているのです。ですから何々を聞いて下さいと言わなくても、神様の前でこの感謝をする。そして神様に慕い寄って行く。これでかなう訳なのです。四ツですけれども、この四ツの中で、願というのは、隠れている場合が有ります。ただ単に、神様のお世話を申し、慕い寄る。ほめる。これだけで神さんのお陰が受かります。場合によれば、ほめるということを通り越して、ありがたさで恐れ入っている場合は、ほめないでもよい訳です。心の中でほめとりますから、それで願を掛ける、行い、この二ツでかなう訳です。この願いを掛けなくても神さんにかなうという訳を 先生が見せて下さったのです。思っていたら、それがかなうと言うのです。
ある時、泉先生がお弟子にこの話をしたのです。「心で願っておれば、言葉に出さいでも、神にはわかる」ということを。
そうするとお弟子の一人が、「先生そうおっしゃいますが、一人いて頼む時は神様間違えないだろうけれども、お祭りの時のように百人も、二百人もが、一ぺんにこの願を掛けているのですが、そんな時には神さん、間違えやしませんか。」と言うと、先生が「ああそうかそんなに思うか。そんなら一ツ神さんは、間違いないんだということを神様に見せていただく、さあ皆ここへ寄ってこい。」とおっしゃると、お弟子や信者が先生とこへ十人位よりました。ずっーと並んだのです。そこで先生がおっしゃるのには、「今誰か私に尋ねたことを、皆知って居るだろう。常に一人で行って、お参りする時は、神さんお願いを知っておいでです。それは、わかりますけれども、お祭りの時のように大勢が、がやがやとしている所で皆が手をたたいて、お参りしとる時は、神さん間違えはしないかということを言う人が、有ったんじゃが、今ここで皆様に神さんは絶対に間違わないということを、見せていただくように、お願いするためここへ皆並んでもろたんじゃ。所が、前もって話をして置くが、今、紙切れを渡すから、それに鉛筆で、わがの願いを書いとけ、そうしないとこちらから、お前さんは何々を願うとったなと、こう言っても、忘れたりあるいは書いとらなんだら間違うから書いて、膝の下へ敷いときなさい。」そしてお弟子に紙切れを渡してくれた。
すると弟子たちは思い思いに鉛筆で書いて、膝の下へ敷いたんです。十人が皆できた。ちょうどそれは、心で願を掛けて口へ出さなくて、心で思っているのと同じことです。今神さんにお願いして、神様にわかっとるということを言うていただく。宜しいかと言うて先生が、神さんの方へ向いて帰命天等はと言い出したのです。そしてお唱えが済みまして「これから神さんがいちいち言うから、皆自分が書いたものを出してご覧なさいよ。一人一人言うぞ。」
「一番の人、お前さんは、これは食うものを欲しがっとるのか。みかんと書いてある。どうじゃ。」「先生恐れ入りました。私、神さんをためすようなことして、誠に相済まぬと思うたんですけれども、みかんがほしいと思うたのでみかんと書きましたが、恐れ入りました。」「その次は、お前は不都合だ。神さんだますつもりはないけれども、何も書かなんだら、神さんどない言うだろうと思って、何も書いとらんだろう。神さんが、怒っておいでるぞ。」
「恐れ入りました。悪うございました。おこらえなして下さい。」「それから三番目、お前はひざが痛いんじゃが、直していただきたい。どうじゃ。」「恐れ入りました。私ひざが痛いんです。直していただこうと思って書いたんでございますが、恐れ入りました。」こういう風にして、十人並んでおったのをいちいち先生がお話なさって、だれ一人として違いません。
そこで先生がおっしゃいました。「今私が、神さんにお伺いしたんであるが、私のような行の足らん者が、神さんにお尋ねしても、神さんは、そっくり知らして下さった。まして神さんは、そのままおきき下さっているのである。だから、今後お参りする時には神さんは聞いていただけるものであること知ってたのむのがよい。」とお弟子が十人ながら恐れ入りました。たたみヘ頭をすりつけたことが有りました。これがすなわち百五十三条に書いてある、祈るということの実際のことを先生が見せた訳なんです。これは心で願っておればかなうのです。
どうしてかなうかと言うならば、それは日頃教えの信仰の道によって生活すればよいのである。行うことが神様の好きなことでなかったならば、それが通らんと言うことが大事なことなのです。
(昭和三十五年五月三十一日講話)
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第一五四条 「日に少なくとも五度祈る。朝夕三食。」
日に日に何も神様に言わずと黙っておるということは、それはいけないと先生はおっしゃる。それは 人間でも、お付き合いの上で同じことだ。ながいこと手紙も出さず、会いもせず、知らん顔していたら次第と薄れて行く。日に日にお付き合いしよると濃くなるというようなもので、神さんでもさいさいお参りをするのがよろしい。
「わしが、今やっていることを話すと、日に何ぼ少なくても五へんは拝むわ。」こうおっしゃった。五へんというの は朝起きて「お早うございます。」夕方には「おしまいなさいませ。只今から休ませて頂きます。」このニツは必ず、それにご飯食べる度に「いただきます。」三べんある。何ぼ少うてもわしは五へんは、お神さんにあいさつしよるとおっしゃいました。なるほど、これは私等が考えますと、私等ご飯いただきます時にお辞儀はしますけれども、神さんに「いただきます。」と言うて、案内せんことが有ります。おなかがすいて、急いでよばれる時が有りますが、この三べんのいただきますと、いうことのあいさつをするのがほんとうだと思います。
もしここに病気であったら、どうです。いただきますといっても、いただけんでしょう。それをお陰で、達者にしてくれて、ご飯がおいしいによばれられる。有り難い。いただきます。こういうあいさつするのは当然のこと、泉先生は、わしは何ぼ少うても、五へん神さん拝むは、とおっしゃっておりました。違いないのです。人のこと拝む場合は別にしまして、先生ご自身のことです。日に五へん、どうですか。皆様、日に五へん拝みよりますか。これは、私良いことだと思います。ご飯の時分にはいただきます。言わなくても、黙ってお箸を手にしてお辞儀すること位のことは、するのが信仰にかなっておるのでございますから、朝夕と三べんはつまり五へんはしたいものだと思います。
(昭和三十五年五月三十一日講話)
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第一五五条 「信仰に施行がなかったら、ちょうど食って寝ているようなもので、長く続かぬ。」
この「行」については、今までによくお話し申し上げたように、種類が沢山ございます。六波羅密行といっております。その中で最も大事なのは施行といって、人に施すということが最も大事なのです。忍行と言うのも有ります。
辛抱するというのも、大きな行でございますけれども、これは自分が我慢するのでございましょう。しかし、施行という行は、人助けになるのでございますから、これは大きいのです。施行をのけました行は、個人主義みたようになります。お陰いただきたいから辛抱するんだと、あるいは戒を守るんだと、そういうようなことになりまして、何だか個人主義みたようになります。この施行というのが有るので、大変行がかないやすいのです。その施行には、あんた方が特別のことなさらいでも、日に日にございます。
たとえましたならば、朝あんた方が仕事においでになるその道で、バラの枝でも有ってみなさい。一寸それを片付けるでしょう。見付けた本人は、バラを踏みませんから、引っかかりはしませんけれども、他の人が足引っ掛けたら痛いだろうと思って、それを道端へ寄せてあげる。すなわち、それが施行なんです。人の身を思いやって、後の人が怪我せぬようにする。これが施行になる訳です。道の飛びこえなんかに、橋を掛けてある所がありますが、その橋に足が入るような穴があいとる。これは馬が、足を踏み込んでもかわいそうだ。又、目のうすい人が足踏み込んでけがしたら気の毒だというので、何かちょうどそこへ合うような木切れとか、石とかを持っていって、それを伏せる。 これも施行です。それから、道に迷ってこまっている人に出会うた時分には、その人にお尋ねして、丁寧に教えてあげる。これも施行。だからして施行と言っても、別に物をあげるのばかりが施行では有りません。もう日に日に朝から晩までの間には必ず、施行するという機会は有る訳でございます。
又他人にせいでも、ご自分の家に居ってでもできることです。家にお年寄りがある。あるいは目の不自由な、足の不自由な人があるという場合には、その人の手助けをしてあげる。これ施行です。そういうことを、あんた方がお考えになってごらんなさい。施行は沢山有ります。あんた方必ずやっております。もし、それを少しもなさらなかったら必ず家の中では、悪い、荒い風が吹きます。世の中からは、いつの間にやらのけ者のようになります。のけ者にされてもかまわん。又、家の中が堅苦しいになるのも、かまわんと言う人が、かりに有りましたとしても、天等はんからはのけものにされると不運がきます。必ず。そういう訳ですから、この施行というものを抜きにしてはならんのです。泉先生なんかは、この施行ということについては、とても日に日になさっとった訳です。
泉先生の施行というのはほとんど、朝から晩まで施行と見ても良い位です。先ず少しこれを大きく申しますと、施行その物が信仰と言うてもかまわん位のものです。施行ができよる人であらば、他のことせなくても神にとどくと言う位のものです。又、施行と言うのは欲、離さな出来んことです。人の為に手間がかかる。物が減る。などと言うのでは、施行はできません。施行一ツで大きなお陰を受けることも出来るのでございますから、泉先生は特にこの百五十五条で、施行と言うことを特にやかましくおっしゃったのです。
もし、信仰するのに、施行がなかったら、食うて、寝とるようなもんだ。自分だけが腹おこして寝とるのでございますから、長続きする訳有りません。自分は腹がおきて、それで良いんだけれども何もかもほかの人にもたれていきます。自分も健康を害します。それでは長続きはしない。それで泉先生は、いつも施行ということを一番大事に、おっしゃったのです。お弟子達が先生の所へお参りに行って、いろいろ先生のお話を聞いたり、行をしたりしている場合でも先生は施行が出来よるか、出来よらんかということをジッと御覧になっているのです。
あるお弟子が、こんなことがありました。先生が八幡様へお参りに朝おいでる。その時分には、お弟子は揃うて先生のお供をしていたものです。私が最初行った時分なんか、たくさんお弟子がおりましたが、先生が朝一わ線香に火をつけていく。後から皆付いて行っていたのです。ところが、ある一人のお弟子が、先生がおいでよるのにお供せずして沖へ飛び込んで、水行をしていたのです。そして水行が終り、うちにかえって来て、先生「お帰り」「先生お早ようございます。」「ええお早よう」と先生おっしゃったのです。別に先生は何もおっしゃりませんでしたが、朝のあいさつを、なさった後で、先生のお話にこういう事をおっしゃっております。
「自分が行する為に水をかぶる。あるいは、滝にうたれる。それは自分の行である。その自分の行をしよる為に、人に迷惑を掛けたら、それは施行にならん。」とおっしゃった。その人頭が上がりません。「先生恐れ入りました」と言っていました。外の人待たしたんでしょう、あるいはまだ、だれそれさん、きとらんと言うようなこと思わしたでしょう。ご自分は行しよる為に、良いことしよると思うとったんです。行するのは良いことじゃ有りません。
水かぶるのは我がのことです。水かぶったからって、人が助かるのでは有りません。自分の行なんです。自分の行をする為に人に迷惑掛けたということになるから、施行どころか、かえって水かぶって行にならんということを先生がおっしゃりましたが、ちょうど私がそれを聞いていかにもそうだ。施行だけは、人にする行です。他の行は、わが身にする行、わが身の位を上げる為に行するのと、人の為に、人を喜ばしてあげるのとは、行の値うちが違う。
まず泉先生は、施行ということが、一番大事であるぞ。施行を抜くと、他の行が出来てもだ目だとおっしゃったのは、ここにあるのです。どうぞ皆様も、この施行ということを好きになって下さらんといかん訳です。
(昭和三十五年五月三十一日講話)
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第一五六条 「煙草のみが煙草を欲しがるように、どこででも、神を思ったら直ちに神に逢える。」
いつも施行は出来ているかな。施行は出来よるかいな。無意識的に施行が出来るようにならねばいかんと、先生はおっしゃった。それを煙草のみにたとえますと、煙草のみが一寸体が動くのをやめたら、もう早煙草引っ張り出しているという風に、いつも目が覚めると、施行、施行、施行、施行に固まったなら、知らぬ間に大きなお陰がいただけるから、どうぞ施行だけは他の行と違うから力を入れてやってくれよ。他の行が少々出来なくとも、神さんから見れば施行が出来たら、これは一番大きな行が出来よるとご覧になるから、これを忘れんようにしてくれよ。こういうことを先生は、おっしゃいました。どうぞ皆様も、この百五十六条に書いてあることは大事なことだと、施行は捨ててはならぬ、ということをお願いします。
(昭和三十五年五月三十一日講話)
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第一五七条 「心に秘密を置くのは、むほん人に味方をしたようなもので、あぶない。」
これは先生が、ご自分で、ご自分のご一生のうちに、こういうことが有ったということを私にお話しをしてくれたのでございますが、この秘密というのは、これを分解してみますと、秘密ということは自分、我です。我を助ける。
我を殺さない。こういうことであって信仰の正反対です。信仰は、自分というものを薄くして、次第次第と我をなくするというのが信仰なのです。この秘密というのは人に知られたら困る。すなわち我でございます。その我を、いつまでも、無事に置こうとする所の性質でございますから、ちょうど神様の方から言うなれば、むほん人に味方をしているようなものだ。いつかそのむほんが爆発して、あぶない目に合うということを、先生がおっしゃっているのでございますが、なるほど自分の秘密というものを暴露して、世の中へそれを突き出しますと、ざんげになるのです。
それをいつまでも、秘密を秘密として置こうとすると、ざんげの反対でございますから、いつまでたっても、まっすぐな道へ仏の道へ出るということが出来にくいのです。
このことに付きましても色々、社会の生きた例がございます。あの犯罪人でございます。人を殺したとかいう犯罪、あの犯罪を隠して、世の中で潜んでいるのが有ります。たとえば、この間の幼稚園の子供を誘かいしていて、どこそこまで二百万円持って来てくれ。子供を返してやると、こういうようなこと言うて、ついにそれが警察沙汰になりまして、身元に警察の勢力が及んでいたので、これはあぶないというので、とうとう子供を殺して逃げたのが、有りましょう。そうして逃げましても、心に秘密が有るのでございますから、いつまでたってもこれはもう夜も昼も、責められておって、苦しくて苦しくて仕方がないんじゃそうです。それが捕えられまして、監獄の中へ入ったら心がすうっとするそうです。これは、どの犯罪人でもそういうことを言うております。
あの大阪の九条で、銀行員を後から刺して、その金を取ったのがあります。そうして、その自分が刺した刀を自分の家の天井の上へほうり込んで、金をあっち、こっちで飲み食いに使うとったらしいんです。所が、何時も殺した人につけられている。飲み屋へ行くと、その人が付いて来ている。血まみれになっている。その人の顔が映る。寝ても襲うて来る。と、その悪逆な罪をおかした気持を新聞にかいてありました。そこで犯人は自白して、警察につかまえてもらったそうです。監房の中へ入れられた時分も、その心境を白状しとりました。「わし、もうこれでくつろいだ。この方が楽だ。」「もうこわいのと、苦しいのとで自白せな居れんようになりました。」といっています。
それを泉先生が、はっきりと教えられたのがこれなのです。これは人を殺したなんて重罪犯なんですが、仮りに重罪犯でなくても、犯罪というものを、隠している間は苦しい。苦しいのは神・仏に、責められとるからです。それを先生は、むほん人に味方しとるようなものだ。隠して居るのは、いつくるしい目に会わされるかもわからぬと、実に違いないことだ。むしろ、それは大勢の前で自分のことが、言えるようになりましたら、もうそれは、罪は許された訳です。ここがおかしいので、人間の方の法律は、白状しても罪は許されないのです。やはり法律で、負うだけの罪は負わします。ところが、信仰の方は、そうでないのであって、自白して悪うございました。と言うて神・仏に従えば、もうその日から許されるというのです。大分法律の方がきついようでございます。
ところが、犯罪という名が付くのは信仰の方がきついのです。この法律の方は、悪いことしても証拠があがるまでは、犯罪と認めないんで、証拠不十分に付き釈放するというのが新聞によく有るでしょう。つみをおかしているのに違いないと思うけれども、証拠があがらない。それで本人は、それをしとらんと言うのです。しとるに違いないと思うても、本人はしとらんと言うし、証拠があがらない。そうなりますと、許されるのです。神・仏の方は、証拠がなくても、有っても、自分がそういうことはしたと言おうが、せんと言おうが、そんな事には無とんちゃくで犯罪が成立するのです。信仰の方は、すぐ罰が当たる。それどころでありません。行為に表わさなくても、思っただけで、早犯罪になっているのです。信仰の方は、非常にこれが厳重です。思うただけで犯罪行為になるのです。その代わり、悪かったと自白して悔悟すれば、ざんげすれば、その日から許されるというのが、これ又、法律よりよほど恵み深いことになっている。面白い対象でしょう。だから、自白さえすれば、良いのであるけれども、秘密を守るということになると、犯罪人に味方したと同じじゃと、先生はおっしゃっているのです。これは中々面白い言い方じゃと私は思います。
(昭和三十五年六月十五日講話)
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第一五八条 「衣、食、住に熱中しすぎると、むほんにんに親しむようなもので誘惑にかかりやすい。」
衣、食、住というのはご承知の通り生活です。着たり、食べたり、住んだりというのですから、人間が生活するすべてを言いますが、その衣、食、住に熱中して、儲けなならん、働かなならんというので、それに熱中しすぎると、いけないというのです。ちょうど、謀友人、悪いことする者に交際しとるようなもので、誘惑にかかりやすい。
なぜかと言いますと、これは一寸勘違いするといけませんからお話しておきますが、人間には衣・食・住の他に大事な務めがあるのでありまして、衣食住は人間が本務を果たす為に、任務を履行する為に必要なものです。動物は、衣・食・住だけで良いのですけれども、人間は、衣・食・住の外に、大きな任務を持って生まれて来ているのです。それをお互いに知らずして、衣・食・住が、本当の目的だと思うて、衣・食・住に力を根限り入れるから、気の毒ながらその家が三代も続かないということになるのです。
それでは、その人間の本務とは何かと言いますと、それはお祭りの日などに、仲須様が読んで下さっている宣誓文中に書いてある内容です。この宣誓文は、泉先生がおっしゃったことを、私が文章に直したのでございますが、あの宣誓文をかいつまんで短く言いますと、この世の中を極楽世界にする任務のことです。生きの世を極楽世界にする為には体が無くてはできません。神・仏は、からだを持っていませんからして、人間のからだを借りて、なさるのです。人間は本務を履行する為に、衣・食・住が必要なのであって、衣・食・住そのものが目的ではない。それであるのに衣・食・住にあまり精を入れ過ぎると、我が出て来て本当の本務を忘れるようになる。本務を知らんから衣・食・住に熱中することになる。
たとえば、金が多くたまる。おまはん金がようけもうかるから、こっちへ行かんか、と、こういう風に誘われたら、ああそうかと悪い方へでも入って行きます。すなわち、誘惑にかかりやすい。誘惑にかかるということは、本務を忘れとるからかかるんです。つまり衣・食・住というものに迷うからかかるのです。この世の中を極楽にしようと言う本務を覚えているならば誘惑にかかる訳がないのです。誘惑なんていうものは、すべて、衣・食・住に精をいれすぎることによってかかるのであると泉先生がおっしゃっていますが、もっともなことです。衣・食・住に精を入れるということは、良いことですけれども、人間としての本務を知らぬ場合には、信仰は成り立ちません。どうぞ、皆様もご承知の通りあの宣誓文に書いてあります通りでありまして、人間の本務と言うのは、自分でに生まれた時は知らない。知らないけれども、無いのではないのです。
たとえてみますと、花が咲きます。実がのる。かぼちゃであろうが、すいかであろうが、稲であろうが、麦であろうが、すべて花が咲いて実をむすんでおりますが、そのわけを、かぼちゃに尋ねても、かぼちゃは知りません。すいかだって知りますまいけれども、花を咲かしていると、はいとか、あぶとかが飛んで来るのです。あの花の中へ入って、混ぜ返す。つまりその花の中には、はえや、あぶなどのすきなみつが有るのです。それを吸おうと思って、花の中を混ぜ返す。そうすると、しぜん花粉が散って、交配が出来て実るのです。すなわち、花を咲かすのは実をのらす為だ。そして子孫繁栄を図っとるんだ。子孫のために、めでたい世界ができるようにというようなことが、植物を見てもわかるでしょう。
しかしながら人間に、お前何が本務でここへ生まれて来たのかというと、一寸考えなわかりません。三宝会の方は 知っておい出るけれども、あまり世間では知られとらんようでございます。自分が知らないと言うことと、無いと言うのと違います。それは自分が知らなくても無いのではないのです。すなわち、衣・食・住の目的は一番大事な本務を果たす為の必要なものであるから、衣・食・住に力を入れるのでありまして、それに入れ過ぎて本務を忘れたような事があると、家が長続きしなくて気の毒な、かわいそうな身分になるというので、先生が、こういう教えをなさってあるのです。
(昭和三十五年六月十五日講話)
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第一五九条 「同じへやの内でも、壁や天井よりもガラスのよごれが一番目に付きやすい。これはガラスが透明なからである。このように少しの罪でもわかるように、心をみがきたいものである。心をみがくには、学問でも理屈でもいかぬ。神の道に限る。」
昔の偉い人がよんだ句に、こういうのが有るのです。「世の中に、雪ほど黒いものはない。」どうですか。これは 百五十九条を面白うよんだ句です。雪というのは白いのです。雪は黒いものではありません。雪が降りますと、もう一面に真っ白になります。ところが、雪が積んでおらん所は皆黒く見えるのです。常には目に付かんものが、黒く見えるのです。それで雪が降ったら、他の物が皆黒うなってしまうという歌でございますが、それと同じように、この百五十九条に書いて有りますことは、たとえば家の中でも、障子だとか、ふすまだとか、天井、壁、こういうものは新しくこしらえた時から考えますと、よごれやすいのです。だれでもご覧なさい。子供がある家では、なおそうですが、壁などもよくよごします。けれども、そのよごれているのがガラスに比べると、さほどに目に付かないのです。
ガラスをよごしてご覧なさい。向こうが見えんようになる。非常に目に付く。それはどうしてガラスが、そんなに目に付くのかといいますと、ただ今お話しした雪のようなもので、ガラスは透き通っとるのですから、清浄潔白なものです。ですから一寸汚してもすぐ目に付く。ガラスよりも鏡です。鏡を見てご覧なさい。なおよくわかります。ご婦人の方がよくお知りになっとるだろうと思いますが、よいに硝子をふいてあっても、あくる日鏡の前へ行った時分には、何かその上に薄曇りが出来ている。それをふきますと、はっきりと自分の姿が向こうへ写る。これは今申し上げたように、きれいなものですから、一寸きたない物が付いてもすぐわかります。昔から、これを、鏡を心にたとえまして心の鏡をみがく、こんなこと言いましょう。心には鏡ないのですけれども、写ることがはっきり写るということを 心の鏡をみがくと昔からたとえ話に言って居ります。 このはっきりという意味は、どういうことかと言いますと、悪いことと良いこととが、はっきりと写るけれども、修養せずして常に欲なことを考える、あるいは理屈ばかり考える人も有ります。欲なことを考える人も、よく間違いますが、理屈ばかり考える人も、理屈は正しいのだけれども、理屈言う為に自分が一生踏み外すことが有るのです。 理屈は間違っておらんにいたしましても、言うべき理屈でない。こらえるべき場所でこらえんと、理屈を言うたら人が許しません。あの人どんならん。堅すぎてどんならん。と、こうなってきて、世の中から離れるようなことになって来る。それで、そのわるいくせが自分にわかるために、心をみがくのです。するとわしはどうも、これは衣・食 住の他に、大事な任務が有るということを忘れていた。ものを取り違えていた。自分の欲をみがいて、きれいな欲にしなければならぬということがわかってくるのです。不思議に理屈言わずして、こらえて、そうして人の話を聞く。
自分の考えを後で考える。こういうような修業をいたしますと、理屈をいっていた時に比べますと、世の中がはっきりとわかるのです。それで皆様も、私もそうですが、自分の言うことは間違っていないという癖が有るのです。ところが、まず自分の情を離れるんです。我が損じゃ、得じゃいうことを離れてみるのです。一ツの問題考えるのでも、 自分でなしに、よその人になる。第三者になって考えてみると割合ようわかるのです。
私が、こういうことを言いますと、おわかりになりにくい方も有るかも知りませんが、わき目、正目ということを言います。将棋でも、碁でも、している人でなしに、側から見ている人が、あしこはこういった方が良いとか、あるいは、こういった方が悪いとかいうことがよくわかるのです。大分、何枚方も上の力が出るのです。自分がやってみるとわからん。打つ手がわからんのです。昔から、わき目、井目と言います。このわき目ということは、どういうことかと言いますと、自分が勝負に関係がなく横にいるのですから、欲も得もない。理屈もないのです。無邪気に横で見とるからして、大分力が上で打つ手がこう行ったら良いのになあと思うのが、ほんとの手なんです。ようわかる。
わき目、井目ということを昔から言うの聞いたこと有りましょう。このわき目、井目ということを、自分の一生の中へ織り込むのです。将棋や、碁をする時に、わき目、井目というて、横から見た方が強いと言います。その道理を自分の一生の内の生活へ織り込むのです。
今こういう問題ができて、わしゃ考えとるんじゃが、これ人の問題として考えたらどうだろうかと思うて、自分の我というものを除いて考えると正確にわかるのです。泉先生はこれをおっしゃる為に百五十九条のお話をなしとる。
どうもそのガラスや、鏡は、よごれがよく見えるというのは、我が無いからです。これは簡単なようですけれどもよく考えてご覧なさい。
ここに子供が喧嘩するのです。そうすると両方の親が、それを見よるのです。やがて両方の親どうしが、けんかが始まることがある。それをよその子がけんかしとるんだと思って、両方の親がそれを見て分けてやりますと、両方の親どうしけんかになりません。子供が助かるのです。ところが、甲と乙との二人の子供がけんかしよる。その親が、それを見て居ると、甲の親は我が内の子が良いように思う。乙の親もその通り思っている。わが子かわいさのあまり親同士のけんかになる。天等さんから見ると、どっちかが悪いでしょう。こういう風に、わき目、井目ということを常の格言にしておきますと間違わんのです。これは沢山のことに応用ができますから、よくお考えを願いたい。
自分の考えはこれで良いか。大事なことを、考える時分には、第三者のわき目になって考える。そうすると、かわいい子のことを考えましても、かわいさいっぱいに、子煩悩という煩悩が出て来るのです。そうして怒らなくともよいことを怒る場合があります。
ある人が、わき目、井目という額を掛けてあるのを見たことがあるのです。面白い額でしょう。額はたいてい立派なこと書いてあるが。わき目、井目と書いてある。ご主人に聞いてみると、「私はどうも、ものに凝り過ぎていきません。我が出過ぎていきません。だから、わき目、井目と書いといたら、性根が直ると思うて書いてある。」
私感心したんです。
それからこういうことがありました。私の問題ですが、撫養線の鉄道が、初めて鍛冶屋原の方へ線が延びた時のことです。いつ頃ですか、もう大分になりますが、今年は大麻参りに汽車で行けると言うて沢山乗りました。私も大麻参りにでかけました。子供連れて小森の方へ上って行っていたのです。すると立道のあの一軒屋、一軒南側にある、今二軒ですが、あの付近まで行った時分に、向こうから自転車が、走って来てそして、私とこの子供に突き当てて、子供を跳ね返したんです。それで、子供はひっくり返って泣き出しました。その若い衆が、子供はね返しておいて、すぐ撫養の方へ乗って走ろうとしたから、私が「一寸兄さん待ちなさい。おまはん、どこの子やら知らんが」、実は私の子なんですが、「おまはん、どんなけがしとるやらわからんのに、それを見んと走るのは良くない。おまはんは、どんな急ぐ用事を持っとるんか知らんけれども、自転車ではね返したら起こしてなあ、子供がけがしとるか、しとらんか見て、怪我していなければ、のって走っても、そんでよろしい。そうせんと余り良くないと私は思うぞ。」というと、その人が子供を起こして、土ふるうて唇から、血が出よったのです。「おっさん、あまり打っとらんような。唇から血が出よるが。口だけらしいで。」と言うから、「ほんなら、まあよかろう。そんなら撫養の方へ急いどる用があるなら行きなさい。このたびは、どちらが悪いか知らんけれども、こうした時分は、おまはんが 起こしてな、よう見てから、それから用事しなはれよ。」「ええそうします。」といって自転車で走り去りました。 その青年は、よその子じゃと思うたんでしょう。私の子じゃと知らなかったと思います。つまり私は、わき目、井目、わが子であったらすぐ怒ります。そういうことのないように、注意を加えたのです。そんなできごとがおこったために時間とり、汽車に乗りおくれたのです。汽車が出てしもうた。ああ、しまった。あんな話ししているうちに、汽車が出てしまった。仕方ない、次の汽車に乗ろうと思って家へかえったのですが、その汽車が転覆して六人死んだのです。もし私等が乗っていたら、その死んだ中へはいっていたかも知りません。こういうもので、このわき目井目ということは、そういう場合にでもええんですから、どうぞ皆さん、我という心を使わないよう、第三者になって物事を判断なさることが宜しい。これは泉さんの教えです。
(昭和三十五年六月十五日講話)
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第一六〇条 「神は万物の主宰者、人は司宰者である。神人合一して天地経倫の実をあげている。」
神さんは、この世界中のすべてのものを動かす主宰者である。主人公である。そうして人間は、それをおあずかりしてあつかうところの役目である。こういうわけです。たとえてみますと、農家の方がこの間田植をなさった。これはもみが芽をだしたものを苗代で育成して、それをまた二、三本ずつ本田の方へ移したというお世話をしたのです。
ところが、それが分けつして花が咲き、穂ができるのでございますが、それは人間業でできないのです。米をこしらえることは、主宰者ですから、神様がなさる仕事です。ところが神さんがなさるのであるけれども、苗代でほっておいては、それでは穂はでるでしょうけれども、まことにわずかな収穫しかできないということになります。人間はその主宰者の仕事のお手伝いをする。お世話をする。すなわち司宰者で、それをあつかう人間でございます。
こういうわけでございますから、そのつもりでいつも主宰者の神さんに心をよせて、そうして少しでもそのお心にあうように世話させてもらいたいというのが、これが農業上の信仰なのです。
泉先生は生きておいでた時に、いつもこういうような話ぶりでした。人は決して米を作ったり、麦を作ったり等のことはできないのです。そのもとの働きは神さんの力です。それで神さんのご意志にそうて、人間がそれをあつかわしていただくんだと、こういうわけでございますから、泉先生は何をなさるのでも、その意味でこうさせていただきます、こうさせていただきますと、こういうようなことをおっしゃっとる方であったのです。ですから人間はいつも主宰者、その主人公がなさるそのお心にしたがってお世話をさせてもらう。こういう訳なんでございますから、どうぞ百六十条に書いてあることは、人間が米を作るんじゃない、麦作るんじゃない、作るのはすべて神さんであって、人間はそのお世話をさせてもらうんだということです。この主宰者ということは、人間の力で及ばないということをあなた方よくおわかりだろうと思います。
人がごはんたべます。ごはんたべて、それがこなれて肉になるという作用は、これは人間の力じゃないのです。
神さんのお仕事なのです。人間は血の一滴もよう製造しません。今日いかに科学が進みましても、月の世界でもとどくようなことを、今日しておりますけれども、わずかに人間の血の一滴もこしらえることはようしないのです。
血は生きております。そういうような仕事をなさる方が神さんで、その血を多くふやすお世話をする。すなわち、 それは人間を健康にし、長生きさせ、病気もなおせるというようなことのお世話を、人間がするのでございますからここをおまちがいなさらんように、命を長くのばすなんていうことは、神さんがなさっておることでありますから、人間は、これは、お願いはできるけれども、人間はようのばさんのです。ここをまちがうと人間が神様みたようになってしまったら、何にもありがたみがないのですから、いつもすべてのことを神様にお願いするというのは、ここにあるのです。
あなた方が、苗代から本田へ稲を植えます。その場合、灌水口におふだをたててあるお家がありますが、私はあれを拝見すると、ああ、なるほどようできとる、立てても立てんでもよろしいけれども、あれはお願いした後が残とるんですが、ああ、こうして本田へ移しました。どうぞよろしくたのみます。こういうことをあの段関の斎藤賢太郎さんなんかは、いつも声高らかにいっておりました。これ、すなわち主宰者に、司宰者がおたのみするということなのです。そのもとをあつかう人と、お世話させてもらう人とを二つにきれいにわけて、混同してはならんと書いたのがこの百六十条でございます。
(昭和三十五年六月三十日講話)
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